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エンパシーという共感を向けてもらうと何が起きるのか






いつでも窓を開けておいて
繋がっていたい人が
私には居る






存在の肯定を伝えたい






しかし同意では悲しみや辛さは増幅してしまう






辛いと訴える人に大丈夫だよって伝えるのは
その人の辛さを否定している






相手を否定せず自分も辛くならない為に
私はどう在りたいのか






この私を押しつけたくなる衝動は何なのか











葛藤の吐き出しを兼ねて
Twitterを始めてから程なく

あるツイート主が気になった。

共感には
シンパシーとエンパシーの
2種類あるよっていう発信。

エンパシーとは相手に
マイクを渡すという共感方法。

同意ではない肯定。

渦巻いていた空気に光がさした。





私がやりたい事はこれだ






エンパシー協会の方の
ツイートが目につくようになった。

彼らの言葉は私に多くの気づきをもたらした。

しかしそれでも掴めていない感覚。

そしてどうしても
私を表明したくなる時がある。






“人は在るものしか感じられない”







協会の方がツイートされていた
言葉が再び背中を押した。

エンパシーという共感を
私自身に向けてもらい
体験として在るものにすれば
何か掴めるのではないか

かくしてこの度エンパシー協会の
初級編エンパシー講座第1回目を
受講する機会に恵まれたのである。











講座の中で私の悲しかった実話に
エンパシーを向けてもらうという体験をした。

私の中で何度も
自己共感をし結論が出ていた話だ。

しかし1人では
辿り着かなかったものに
この時触れた。




感情の根っこには大事にしていた願いがあったがそれを守れなかったことに自責があった。

その自責の念に蓋をしていて

悲しかった出来事とは別の
もうひとつの傷に
私は気づいていなかったのだ。





印象に残ったのは

心の傷に痛みという感覚が在る

という前提で
言葉を投げて下さったこと。

心と身体は繋がっていると
わかっていたはずなのに

私は傷を悲しみという
名前でしかみていなかった。




感覚という問いは私の感情を
よりリアルに味わう材料となり

その感覚を確かめる問いは
受け取りやすく吟味しやすい。





そうかそうなんだと
より立体的に全体図がみえた時

初めて痛みを自覚し
気づけば涙が落ちた。


私の中で結論が出ていたはずの出来事に
波紋が起きたのだ。












実は私の人生で
ぽんぽんぽんと残っている
ピリオドがある。

それは何か関連したものに触れると
ちくんとしたり
沸々するのを知っていた。

拭いきれない底知れない感情を
まだ相手に向けるのかと
自分に呆れていたけれど

在ったのは私の中で生まれた
自責の念の痛み。



そこを感じないようにしていたのは
自分を責めることを
禁止しているからではないか。

自分を責める心に蓋をする
感じないようにするやり方は
私の心の守り方だ。






過去の自分は石になりたかった。

感じないよう息を止めて
やり過ごして生きてきたところがある。






何が私にそうさせたのか







まだまだ深く探っていけそうだけれど
これはとても疲れる。

芋づるのように引きあがる生き方。

私が窓を開けていたい由縁にも
繋がっているような気がする。

ゆっくりいこう。

ピリオドは終わりじゃなく保留だった。

これも疲れやすい私の
生きのびるコツだったのかもしれない。





エンパシー講座、あと2回。

人に向けたつもりの学びが
私に返ってきたのは本当に面白い。

知りたいカタチが変わってきている。


ハリラスープ


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