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混沌の世界のその先へ


私はほとんどリクエストをしない。
それが平穏だと思っていた。


“リクエストをしないという選択はできるけど
あなたの感情を相手に伝えることができません”


私の感情…
それを前にして凍りつく自分がいた。

感じゆくと涙ばかり流れる
やわらかすぎる
染まりやすい自分が嫌だったのを思い出す。
動じないことが
暴力をかざす父に対抗する手段で
否定的な母に受け入れてもらえる自分だった。
兄と弟も含めて
5人の家族が大好きだった。
だけどぐちゃぐちゃで
ばらばらに千切れゆく家族に願うのは


各々がそれぞれの人生で
幸せでありますように


大好きな人達の前にひっそりとそれしか
願えなかった自分が
悔しくて悲しくて無力だと
自分に失望していた。
何かできることがあったんじゃないかという
自分への期待。
幸せを願い続ける事で
他者の道を背負っていた自分。

そこが苦しかった。




エンパシー協会コミュニティ限定講座にて
NVCの4つの耳というものを知った。

人にはジャッカル語とキリン語があり
ジャッカルはいわゆる愚痴や文句。
キリンは自己や他者に対する共感だ。

これにより私のコミュニケーションの
傾向を知ることになる。

私のジャッカルは
世界をうるさがっていた。
私にむかう言葉の多くが雑音で痛かった。
侵されたくないし侵したくない。
何にも囚われず自由でありたかった。
抑圧に身を置く中で編み出したのが


意志をもって選択することが
自由だと信じること


そこに感情はなく
幼少からの世界の生き方が
秩序として私に課せられていた。
そうまでして
自由になりたがっているのに
縛られていた。


“感情を価値観を出すことが悪いこと”


だから意思と勇気をもって
自分をだしても傷ついていた。
傷つきにいっていた。

侵したくないし、侵されたくない
だけど
侵すこともあるし、侵されることもある


そう少しだけ緩めることができたのは
優しい風がこっちだよって
おしえてくれたから。

自分を出していいんだ。
傷つかなくていいんだ。





そのままの自分を出していいと知ると
雑音だったモノが
個々のそれぞれに向かっているようにみえた。

コーヒーにミルク落としたみたい。
分離していて絡み合い衝突する。
みてるとやがて溶け合うこともある。


各々がそれぞれの人生に向かう世界は
願わなくてもいつだって目の前にあった。

じゃあ、どうしたいの?

好奇心の赴くまま
ぼんやりしていたい。

だけど
大好きな人達が争うのをみると
可能性を探している自分と
悲しみに打ちひしがれる自分を自覚する。
そこを伝えてもいい。
放棄していい。

さよならの時は願わなくていい。
背負わなくていい。
その人の道をお祝いして見送ろう。

ああ、こんなにたくさん選択肢がある
優しいなぁ

人は私の中に鏡をうつす
私は人の中に私をうつす。






出来事の背景は感情に濃度をつける。
講師の方がエンパシーをむける中での
内側の様子を語っていただき実感した。

どんなものがみえて
何を頼りに価値観に辿り着くのか。

疑問の前に感情がある事に気づいてから
立ち止まれるようになっていたが
さらに深く寄り添える事を知った。

心内に広がる思いやる世界は
人の心を癒す
そのままをまるっと包まれたような
喜びに

愛を感じた。
そうか
私は愛と感じるのか。
とても不思議だった。





日々の中で
洗濯物を干す私が車にうつる。
…人って緩むと勝手に
笑ってるんだなって思った。


ぼーっとするのが好きな本来の自分を
生きてもいいのかなって思えてから
世界が優しい
優しすぎてあったかすぎて
涙ばっかり出るけど
それでいい気がする

ずっと誰かの本質が気になっていた
見なきゃいけない
上辺じゃわからないって思うのは
自分自身へのメッセージ

人は鏡となって苦しむ私を
写していたんだね。

人への好奇心は残ってる。
知りたくてわくわくするとき。
それは違いに感動している
純粋なわたし。

本質とか関係なく今を認める事が
存在を認める事だよって
内側から言われているようだ。

エンパシーを誰かにむけなくても
私にむけることで
私の世界が変わってゆく。

触れたい気持ち。触れて欲しい気持ち。
外に向かうそれは優しい世界の粒となって
異世界と混ざりたがっている。

ハリラスープ


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