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石原なんでも通信 No.11 (稲岡工業文書 ①) 

「稲岡工業」って どこの、何を作っていた会社? 
 
兵庫県加古川市の実家の目の前にある風雪に耐えた30mの煙突、2012年の
同社廃業以降は稼働しておらず、工場群も廃墟同然です。
全盛期は海外にもその名前を知られた錨(イカリ)ブランドのタオルを生産 していた「稲岡工業」本社工場の跡地です。

実家からみる稲岡工業の煙突、筆者撮影


 
生まれてから小学3年生まで本社敷地内にある社宅兼管理人住居で成長、 祖父、父は「稲岡工業」に勤務していた私にとって、この地はいまでも  心の故郷です。
 
「稲岡工業株式会社」(当時は「稲岡商店」)。 その創業は1891年(明治24年)です。地域産業であった「木綿栽培」が開国により壊滅し、苦境に あった志方郷(現在は加古川市志方町)で輸入綿糸をつかったタオル製造業が産声を上げました。
その後、中国向けを中心としたタオル輸出で業績を伸ばした「稲岡工業」は一社だけで日本からの輸出量の20%を占めるにあたり、日本の殖産興業を 支える新規産業の一角を担った時期がありました。
 
それから一世紀あまり、中国など安価な輸入タオルに市場を侵食され、2008年に民事再生法を申請、その後も経営は悪化の一途、そして残念ながら2012年に事業継続は断念されることになりました。
 
1979年に東京に出て以降、この稲岡工業には関わりはありませんでしたが、1990年に亡くなった父の日記を改めて見る機会があり、当時、「稲岡工業」の100年史の発刊に父自身が深く関与していたことがわかりました。
そして、「稲岡工業文書保存会」というボランティア団体の活動が定期的に実施されていることを知り、6月2日に稲岡工業の廃業後の跡地を引き継いだ「稲岡鉄工」の事務所で実施されている「定期保存会」に参加して   きました。
 
今回の「保存会」には私以外に 大学の教員(日本経済史の研究者)も3名参加されていました。
「稲岡工業」は、元々、姫路藩の綿花問屋であった(稲岡)九兵衛が明治に入りタオル製造を起業。 2012年まで事業が存続しましたが、事業に
関わる文書がそのまま手つかず残っているということで、その歴史的な価値にめざめた地方のボランティアの方が10年前に「保存会」を発足させ、 文書の整理と分類を行っています。大学の先生方も「文書目録づくり」を 対象に「科研費」を取り、この事業を共に進められています。
 
人口減少が続く地方においては、「地方創生」、「地方再生」の切り札の一つとして、長い歴史を 持つ「地方の伝統産業」の歴史を学び先人の知恵を借りながら、産業の復活、新たな産業の 育成を目指すやり方があります。
自身の故郷 「志方郷」での「タオル産業」の復活はありませんが、なぜ、あのような田舎の村で、当時は日本でほとんど馴染がなかった「タオル」産業が産声をあげたのか?、 そして輸出を中心に成長を遂げたのか? は 非常に興味深い話題にて、もう少し掘り下げてみることにしました。
 
1.  姫路藩の木綿栽培、河合家老
 
地元「志方郷」、現在は加古川市に属していますが、江戸時代は「姫路藩」の支配下にありました。 
「姫路藩」、国宝「姫路城」で知られるあの「姫路」ですが、関ケ原後の はじめての藩主は家康の天下統一にも貢献した外様の池田家。 その後  いくつかの譜代大名が治めたあと、江戸時代後半の1749年からは譜代の名門酒井氏が明治まで治めました。
 
江戸時代後半、全国の多くの藩が財政難に陥りました、姫路藩も例外では ありません。
財政難の克服の為に大きく貢献したのが家老 河合道臣(1767-1841)で あり、強力に進めたのが「三白行政」です。 どこかで聞いたような話ですね。「讃岐三白」は塩、綿と砂糖。一方、姫路藩は塩、綿までは同じですが、三つ目は広大な播州平野を背景とした米です。
河合家老は従来大阪の商人経由販売されていた「姫路木綿」を直売と   しました。
色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博し、藩の財政再建に大きく貢献することになります。
 
ちなみに河合家老は茶人でもあり、和菓子にも造詣が深かったようです。 城下の伊勢屋本店を推挙して京や江戸で菓子を学ばせ、現在でも姫路を代表する和菓子「玉椿」を開発させ、その名付け親にもなったとのことです。
 
2. 「志方郷」になぜ、「タオル産業」が誕生?
 
明治になると綿作を取り巻く環境も大きく変わります。姫路藩の後ろ盾も なくなり、安い輸入綿花を原料とした綿糸が国内綿糸業界を席捲するようになります。
木綿の生産地であった志方郷の農民も転業を余儀なくされ、米作に戻る人もいれば、一方では、新たな織機を利用した「くつした」の製造なども盛んになりました。
そんな中、登場したのが「稲岡工業」です。 我が国の近代殖産興業を  リードした「タオル製造」の草分け的な存在です。
 
なぜ、山に囲まれる田舎の村、「志方郷」に「くつした」 「タオル」と いった当時の最先端をいくおしゃれグッズの生産が産声を上げ、成長したのか? 同じ疑問を持つ方が先生方も含め多くおられます。 色々要因はあると思いますが、地元産業の復興策として新製品「タオル」を取り上げた、「稲岡家」 の将来のneedsを先取りする「センス」 「気概」があった ことは見落とせません。
 
3. タオル産業といえば 愛媛県 「今治」
 
四国の人間にとってタオルといえば、「今治」ですね。日本産のタオルといえば、現在では、愛媛県今治市と大阪府泉州の二大産地ということに   なります。国内で生産されるタオルの5割以上を今治が生産しています。
 
日本で初めてタオルが試作されたのが泉州で1887年(明治20年)、その技術を学んだ「稲岡商店」が1891年(明治24年)、「志方郷」で製造販売を開始します。それから3年後の1894年(明治27年)に今治でタオル生産が始まります。 

「稲岡工業」は時代の荒波に耐えることができず2012年に廃業しましたが、「今治タオル」は設備の 近代化やデザインの向上、アパレル製品への活用などの努力により、現在では世界最高の品質を誇るタオルの一大産地として知られています。今治市郊外には「タオル美術館」があります。あらゆる   タオル製品が並んでおり、その名の「美術館」通り、タオルが藝術作品として展示されています。


タオル美術館 筆者撮影


 
今回は「稲岡工業文書」第一弾です。 香川にも伝統産業が多いですね。 そちらも興味はあるのですが、まずは自身の故郷の「稲岡工業」で勉強開始です。

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