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「死んで花実が咲くものか」であり死者にムチ打つことはできないが,東電福島第1原発事故を発生させた東電元最高幹部勝俣恒久の「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という人生の決算はどうなっていたか?

 ※-1 東電原発事故関連の書物3著

 1) 河合弘之・海渡雄一・木村 結:共著共編『東電役員に13兆円の支払いを命ず! -東電株主代表訴訟判決』旬報社,2022年10月。以下にはそれぞれ,アマゾン通販を介して本の雰囲気を伝えておきたい。

 本書の宣伝文句はこう謳われている。

 福島第1原発事故は防ぐことが可能であった! 原発事業者としての義務を怠った東電役員を断罪した歴史的判決は,どのようにして勝ちとることができたのか。弁護団による迫真のドキュメント。

 「被告らの判断及び対応は,当時の東京電力の内部では,いわば当たりまえで合理的ともいいうるような行動であったのかもしれないが,原子力事業者およびその取締役として,本件事故の前後で変わることなく求められている安全意識や責任感が,根本的に欠如していたものといわざるをえない。」(判決文より)

 2) 島崎邦彦『3・11 大津波の対策を邪魔した男たち』青志社,2023年3月。

 本書の宣伝文句はこう謳われている。

 3・11の大津波から12年,渾身のノンフィクション。国の地震対策本部責任者で地震学者が内部から告発!

きちんと対策すれば,大津波地震による福島原発の事故は防げ多くの人たちが助かった。しかし東京電力と国は,対策をとらなかった。

 いったい,なにがあったのか? なぜ,そうなったのか? そして,いまも状況は変わっていない。(後略)

3) 後藤政志・他5名『原発は日本を滅ぼす』緑風出版,2020年2月。

 本書の宣伝文句はこう謳われている。

 この本では,福島原発事故とはどのような事故だったのか,原発とはどのようなものなのか,放射能汚染とはなんなのか,放射性廃棄物をどうするのか,などをできる限りやさしくコンパクトにまとめてみました。

 文部科学省による原発推進のための『原発副読本』,原発の電気は安い,原発は環境に優しい,放射線は危険ではないといった巧妙なウソに反論しています。

 執筆者は複数の原発メーカーの技術者と,高等学校の現・元教員です。本書がとくに若い世代の皆さんに,あらためて考えていただくきっかけになればと願っています。

 以上で(著書の紹介終わり)。

 --2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災は,大津波も起こした。その自然災害が発生した過程において,東電福島第1原発事故が惹起された。そして,東日本のそれもとくに,東北地方を甚大な自然災害が襲うことになった。

 しかし,人間の生きている生活空間・地域社会を破壊する作用をもたらす自然災害は,人間側がふだんから講じる「自然災害発生に備えた準備・対策のありよう」によって,その被害の質的・量的な影響・範囲を大きく異ならせる結果を生む。この事実は常識的にも理解されている重要な関心事であった。

 

 ※-2 元東電社長・会長勝俣恒久の訃報「記事〈評伝〉」を読む-『日本経済新聞』2024年11月1日朝刊

 この記事の見出しは「〈評伝〉電力ムラのカミソリ 勝俣東電元会長 死去」と付けられていた。

 本文記事を紹介する前に,この記事に添えられた勝俣恒久の画像をかかげておくが,ついでに併せて,本ブログ筆者の手元にあった勝俣の画像もかかげておく。後者の画像は,勝俣の評伝を書いたこの「日経の記事」の内容じたいから受ける印象というか,その調子(論調)にかなり合致した雰囲気を濃厚に漂わせていた。

以下の本文記述にもこの冒頭の段落は活字で引用される
1940年3月29日東京府生まれ2024年10月21日82歳で死去
この写真のときは72歳

東電福島第1原発事故発生に対処していたころの勝俣恒久は
胆が座り自信に満ちた表情が特徴的であった

 「あなたにとって,原発とはなんですか」。勝俣恒久氏が東京電力(現東京電力ホールディングス)の会長を辞める前,ストレートな質問をぶつけてみた。答えは「必要悪」だった。時に負のエネルギーを放つ存在であるとは分かっていた。それなのに,あの3・11の事故を防げなかった。(1面参照。その記事はこれ〔 ↓ 〕である。これは電子版の紙面)

電気事業連合会の最大の構成組織が東電であった

 東電の福島第1原子力発電所が地震と津波に襲われたとき,中国に出張中だった。帰国すると,混乱と批判が待っていた。東電も福島も1日で大事なものを失った。

 事故後に初めて公の場に現われたのは,2011年3月30日。清水正孝社長(当時)が体調不良で倒れ,代わって記者会見の壇上に立った。

【参考画像資料】-清水正孝「社長」時の東電的な履歴-

ややアンサイクロペディア的な解説の項目もあり


 安全性の問題について質問されると,「大惨事を引き起こし,対策が十分でなかったと思う。これまでの対応がどうだったのか。着実にチェックし,今後の対策に生かしたい」とつとめて冷静に説明した。淡々とした受け答えはむしろ,いいわけにしか聞こえなかった。

 補注)この勝俣恒久のいいぶんは,その大惨事を引き起こす基本的な原因を作った当事者の1人が,しかも,その「対策を十分でなかった」などと,まるで他人事みたいに語っていた。

 だが,東電という〈超の字〉が付いていた大会社の,それこそ辣腕社長の評判が高かった勝俣が,実際には「3・11」に東日本大震災」が発生した直後,東電福島第1原発に襲来した大津波の「被害予想に関する事前評価」の重大性=危険性を,まったく「予測しえないという事情」(検討や対応のあり方としてだが)に置かれていたのではなかった。

 東日本大震災のときに当然に誘発された「大津波の発生,襲来」については,日本における大昔からの震災の発生史に関した古文書の研究から,すでに既知の知識・情報でありえたのだから,こちらの方面で事前の調査・研究に怠りがあったとすれば,問題にならざるをえなかった。

 にもかかわらず,しかも「地域独占・総括原価方式」という電力会社・大企業として非常に恵まれた経営管理条件を所与にしていながら,原子力発電所が太平洋沿岸部に立地している。

 そうした現実の条件になっていれば必然的に,つまり,確率論的にも危険性が高かった「東電福島第1原発の津波対策」が必要不可避であった点が軽くあつわれたのは,当初から事故発生の問題を抱えていたことになる。

 ところが,なにかにつけてはその基本的な対策を忌避してきた経営姿勢が,結局,原発事故が起きた当日,2011年3月11日夜にはすでに,原発の溶融という大惨事を招来させたことになる。

 経済産業省の原子力安全・保安院(当時)は,東電福島第1原発の1号機がすでに,その3月11日午後8時ごろに「炉心溶融(メルトダウン)となっており,圧力容器が破損した」とする「独自の解析結果」を発表していた。

 しかも,その後における東電の苦難・苦闘は,2024年11月2日の今日になってもまだつづいている。ギリシア神話に登場するシジフォスという人物は,ゼウスの怒りを買ってしまい,山の麓から頂きまで重い岩を運びあげるという作業を延々とおこなうハメになっていた。

 東電福島第1原発事故の場合も,前段の比喩を真似て日本風のたとえで表現するとしたら,いままで「賽の河原の石積み」と形容するほかなかった「事故現場の後始末」に,これまでの長期間,取り組まざるをえないできている。

 ともかく,原発事故が発生してから13年と8カ月近くが経った現在になっても,さらに延々とその種の「石積み的な後始末(にはなれないような)取組みつづけるといった「苦難の状況」は,つぎの記事が仮に示唆できる点があればの話となるが,はたして少しでも緩和される展望がもてるのか?

読売新聞社は原発推進派

〔記事に戻る→〕 それでも,勝俣氏が東電本店で陣頭指揮をとるようになると,社内はようやく落ち着きを取り戻した。当時の東電幹部は「近寄りがたい雰囲気があるが,はっきりとした指示を出してくれる。組織がキリッと締まった」と話していた。

 そもそも,迷いを見せない人である。社長に就任した当時は,社内が原発トラブル隠しの不祥事で混乱していた。前の経営陣が決めた方針は「それどころではない」と判断するやいなや,ためらわずに覆した。

 補注)つぎの段落に進む前に断わっておくが,東日本大震災⇒三陸沖から大津波が襲来したとき,東北電力の女川原発は防潮壁をすでに建造してあって,東電福島第1原発のように過酷事故を起こすハメにはならなかった。もっとも,女川原発まで殺られていたら「3・11」はまさに,日本を壊滅させるに近い損害を与えたかもしれない。

 それはともかく,女川原発ほうは東日本大震災の震源にもっとも近くに立地する原発であった。けれども,最大約13メートルの津波が襲来したさい,ここの2号機は定期検査で原子炉を起動した直後であり,原子炉建屋の地下が浸水してポンプが壊れるなどの被害が出たものの,敷地が海抜14. 8メートル(当時)の高台にあったこともあり,過酷事故からは免れえた。

 一方の東電福島第1原発は当初の工事では,その海岸線の敷地が海抜35メートルあったところを,25メートルを削ることにしたために,敷地の海抜が10メートルの低い水準に定めて工事がなされた。

 それでいながら防潮壁の必要性については,社内で担当部門が議論をおこない,最高経営陣には報告・伝達していなかったわけではないのに,そのための工事は順延というか,ともかく先延ばしの精神で,彼らは対応してきた。そのうち,とうとう「3・11」が襲来した。

〔記事に戻る→〕 たとえば,電力に次ぐ経営の柱に育てようとしていた通信事業。NTTに対抗するために業界再編のプランを進めていた,すぐさま「待った」をかけた。

 鶴の一声で東電の経営を右に左に動かし,霞が関や永田町は一目置いた。社内では「カミソリ勝俣」と呼ばれた。しかし,事故後に見聞きしたのは,組織を守ろうとする村長(むらおさ)のような振るまいだった。

 「こちらにも五分の魂があります。それなら潰してください」。

 東電国有化の議論をめぐり,当時の民主党政権の重鎮,仙谷由人氏から経営陣の刷新を求められると,人事介入に反論したという。政府に渡す議決権の比率をめぐっても異議を唱え,「抵抗勢力」と評された。

 会社を大事にするあまり,社会からどうみられているか思いが至っていないのではないか。そう考えられても仕方がないようにみえた。経営者には,冷徹な第三者の視点が必要なのに,内向き思考にとらわれていた。

 補注)「カミソリ」と畏怖されもした勝俣恒久であったが,また東電福島第1原発事故発生時はすでに会長となっていて,それなり企業次元での外交業務に励んでいたらしい彼が,女婿に当たる清水正孝は,事故が発生してからというもの,すっかり腰が抜けた状態も同然になっていた。そうした事情を目前でみせつけられた勝俣は,一躍「社長時代」の俊敏・辣腕ぶりを再起動して復活させた。

 しかし,最高経営者論の見地から観察するとしたら,あまりにも超大企業になりすぎていた東電という会社(公益事業を展開するが利潤追求そのものも大いに励む巨大企業)は,社会制度的な存在でもある「自社の有すべき全体社会的な意義」をないがしろにした。

 それだけでなく,その「営利経済的な行動特性(本性)」のためであれば,自分たちの意識界から放逐しえたのが,「原発を所有する電力会社」の最高経営陣の立場としてで対面させられていたはずの,いわば「技術経済面における〈善管義務〉」のようなその内実であった。

〔記事に戻る→〕 事故後も東電は「経済の血液」である電力の供給責任を果たしてきた。半面,巨額の賠償金を背負いつづけ,国の支援額は膨らむ一方だ。多くの被災者は故郷に戻れないでいる。事故の責任を問う裁判が続き,勝俣氏自身は証言台に立った。

 葛藤はあったのだろう。取材で原発のあり方を聞くと,「エネルギー源の多様化を考えると,主力の一つはやっぱり原発です。ただ,営業現場で社員に聞かれたときは『原発は必要悪だ』と答えています。社員は『納得しました』『分かりました』といってくれていました」と語った。

 補注)この勝俣恒久の発言は,非常に恐ろしいものであった,と解釈する。「エネルギー源の多様化を考えると,主力の一つはやっぱり原発です」という場合,現時点からする評言をいうにしても,原発はもともと不要であったし,エネルギーの多様化から観てもそう断定してよかった。

 原発が主力のひとつのエネルギー電源だといったさい,勝俣恒久はこれを「必要悪」だと答えたというが,この発言の意味が,いまひとつ分かりにくい側面を残した。

 また昔,東京電力の社長を務めた木川田一隆が,原発の導入を判断するに当たって苦悩した立場に比較すれば,勝俣恒久のその「必要悪」だといった発言は,どう受けとるにしても軽いものにしか聞こえない。

 ここで,ブルームバーグ・ニュース取材班「『悪魔と手を結び』原発を故郷に,木川田東電元社長-LNGも先鞭」『Bloomberg』2011年10月21日 15:07 JST,https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2011-10-21/LTCUMT0YHQ0X01 から,つぎの段落を引用する。

 勝俣恒久はもしかすると,この木川田一隆の苦悩を記憶していたのかしれない。だが,しかし,東電福島第1原発事故は現に,勝俣がまだ最高経営陣の1人であった時期に発生した点にも注視し,以下の引用を読んでみたい。

 ★-1 最初は原発に反対

 1961年2月に東電社長に就任した木川田氏は同8月に,福島県大熊町と双葉町にまたがる用地を取得する方針を決定した。八巻さんが木川田氏を訪ねたのは,東電が福島第1原発の建設に向け大きくかじを切った時期だった。八巻さんは「木川田さんは最初は原発に反対だったと聞いている」と話す。
 
 『ドキュメント東京電力』〔文春文庫版で2011年再刊〕」を書いたジャーナリストの田原総一朗氏も,木川田氏が当初は原発反対の立場だったと指摘する1人だ。

 田原氏はブルームバーグ・ニュースとのインタビューで,「初めのころ,木川田氏は原子力を悪魔だといった。悪魔と手を結ぶんだといった」と語る。田原氏はその木川田氏が原発を自分の故郷にもってきた背景には,なにか問題が起きたときに最終的に民間に付けを回すような官僚や政治家には任 せられないという信念があったとみている。

 田原氏は「戦前,戦争中は電力は国有だった。国が仕切っていた。 国対民間の戦いがあった」と指摘。「木川田さんがもし東電で原発を導入しないとすると,政府が導入していた。そうすればまた国営になる。どちらが主導権を取るかという戦いだった」との見方を示した。

 田原氏は,福島第1原発事故で,今後10-20年の間,原発の新設はむずかしくなると予測した。

 原発立地地域は従来,原発周辺の半径3キロ, 4キロを指していたが,今回の事故で20キロの警戒区域内だけでなくそれより外の地域でも人が住めなくなる可能性が出ており,原発立地地域 の概念が根本から覆されたためだ。

 「今後は半径20キロや30キロの地域の人々からの賛成を取り付けなくてはならなくなってしまった。しかし,それは不可能だ」と話した。

 電力会社,プラントメーカー,監督官庁,大学教授,マスコミなど,原発推進者らのコミュニティである「原子力村」について,立教大学のアンドリュー・デウィット教授(政治学・財政学)はインタビューで, 「議論の中心は原発が競争力のある経済に低コストで信頼できるエネル ギーを供給できるというものだった」と指摘した。

 デウィット教授は,「福島第1原発事故でコストが膨れ上がったため,その議論は急速に説得力を失っている。原子力村は解体しつつあ る」と語った。

 ★-2 代替はLNG (以下は後略)

田原総一朗の原発議論

〔日経〈評伝〉記事に戻る→〕 東電になにが欠けていたのか。最後にインタビューしたとき,「米国並みの安全対策があれば……」と繰り返した。「そういう発想はまったく抜けていた」とも口にした。

 自責の念を向けたのは,想像力の欠如である。

 その時々にあって,リーダーの判断がもたらす結末に思いをはせていたら,あの日は来なかったのではないか。3・11が残した教訓はあまりにも痛々しい。勝俣氏にとって悔やまれる。

 (以上で日経〈評伝〉からの引用と本ブログ筆者の批評を終える)

 なお,この勝俣恒久に関した解説記事を書いたのは,日経の「ビジネス報道ユニット長 武類雅典」ということだが,最後の段落で「自責の念を向けたのは,想像力の欠如である」から,「その時々にあって,リーダーの判断がもたらす結末に思いをはせていたら,あの日は来なかったのではないか」という指摘は,なにを指して語りたかった文句なのか,その理解はなかなか困難であった。

 要は韜晦が過ぎて筆致であった。もっとも簡明に自身の考えや分析,評論を伝える努力が必要ではないか。周囲を気にしたかのように,論旨を不鮮明する工夫をくわえたのでは,肝心の論旨は伝達しにくくなる。

その後さらに加齢した勝俣恒久の姿

 上にかかげたが,この『朝日新聞』がポストした『X』の伝える意思のほうが,関連した民事裁判の結果にも関連づけてみるに,より分かりやすい中身になっていた。

 しょせん,財界御用達の経済新聞のことでもあってか,また,原発推進派の日経による筆の運び方ゆえだったか,勝俣恒久「会長・問題」そのものに対する突っこみはが不必要に甘く,不等にヌルかった。

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