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社会科学方法論-高島善哉の学問(5)

 本日も,日本の社会科学全体領域において学問はどのような基本の姿勢や一定の思想を抱いて,いわばその一般理論の形成に各自が努力するかについて,この国における社会科学者として真剣に問い,自分なりの創見を披露し,その立論を意欲的に試みた高島善哉の業績をとりあげ議論する。

 なお,「本稿(5)」の初出は2014年11月19日,改訂が2020年2月23日であったものを,本日2023年6月14日に3訂することになった。
 付記)冒頭の画像は,高島善哉『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』日本評論社,1941年3月の函を撮したものである。

 「本稿(5)」の要点はつぎの2点に集約できる。

  要点:1 高島善哉の社会科学論における風土の概念

  要点:2 現代の社会科学方法論は,高島善哉を超えられないのか?

※-1 社会科学における「風土の概念」

 1) 風土概念の必要性

 本日の記述は,「社会科学方法論-高島善哉の学問(5)」という題名をかかげているが,以下の論及をすでにおこなってきた本ブログは,社会科学論にとって非常な重要な研究課題である「風土の概念」を,まだ序説的な議論ではあっても,高島善哉の議論をくわしく紹介し,その思考方法を考究してきた。

 ◆-1「社会科学方法論-高島善哉の学問(1)」
  高島善哉の著作からとくに,『実践としての学問-日本的知性批判のために-』 第三出版,1973年に注目し,社会科学の原点は人間である-風土概念の登場- という問題提起をとくに重く受けとめる議論をした。

 ◆-2「社会科学方法論-高島善哉の学問(2)」
  社会科学の思想と立場に関しては,高島善哉『現代日本の考察』1966年 をとりあげ,とくに風土問題を高島がどのように詮議していたか検討した。

 ◆-3「社会科学方法論-高島善哉の学問(3)」
 「風土に関する八つのノート」1965年~1966年のための予備的考察となっていたが,高島善哉が「封建体制,資本主義体制,社会主義体制」および「階級,民族の問題」として考察した対象を吟味した。

 ◆-4「社会科学方法論-高島善哉の学問(4)」
 「風土に関する八つのノート」1965年~1966年における本格的議論の続きとして,高島が登場させた「民族の問題の具体的性格」に分析をくわえたのち, 風土の概念を日本の倫理学者:和辻哲郎が公刊した『風土』昭和10〔1935〕年に注目し,議論した。

 本日のこの「本稿(5)」は,高島善哉が以前,「階級と民族のあいだに風土というカテゴリーを挿入して,現代社会科学の基礎理論を」「深めてみたい」という問題意識を具体的に披露した著作,高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』(竹内書店,1966年)に焦点を合わせ,議論をおこないたい。同書は,本ブログがすでに記述した前段の◆-4の記述を,基本の前提に置いた議論をすることになる。

 高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』1966年は,

 「日本人とはなにか」「日本民族とはなにか」
 「日本国民とはなにか」「日本国家となにか」

などと問うたうえでさらに,「誰が,いかにして,ありあまる民衆のエネルギーをひとつの国民的・国家的統一にまで高揚させることができるか」と問おうともする著作であった。そのために「風土概念の再検討が要請され,新しい風土理論の再建が必要だと考え」るに至ったというのである(302頁)。

 2) 高島善哉の研究史における風土概念

 高島はこういっていた。「生きた現実のナショナリズム運動においては,実は」「政治的なナショナリズムに対して文化的なナショナリズム」は「密接不可分のものである」。「それを切り離してしまうところに文化主義的な偏向が生まれる」。「この立場においては民族がなによりも文化の担い手として,また文化の創造者として登場する傾きが強い」。「これはややもすると民族の形而上に陥る危険を孕んでいる」(301頁)。

 その危険を回避するだけでなく,「ナショナルなものとは国民的=国家的なものとして無批判に受けとっているというところ」(301頁)を,真正面より問題要因として客観的・客体的に契機化するためにも,〈社会科学の本質・方法論〉の省察が要請されている。

 そういった問題意識を明確にして論究した高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』に関する議論に入るまえに,過去に彼が公表してきた論著にも,若干聞いておきたい。

 戦時体制期も大東亜〔太平洋〕戦争の開戦を約9カ月後に控えていた昭和16〔1941〕年3月中旬,高島善哉『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』(日本評論社)が公刊されていた。

 本書は主に,第1部に「アダム・スミスと市民社会の問題,第2部に「フリードリッヒ・リストと国民生産力の問題」を編成し,補論に「ドイツ国民経済学の成立と性格」を足していた書物であった。

 a)「吉田和夫『ゴットル-生活としての経済』2004年 --その『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』昭和16年3月は,当時まですでに日本の社会科学界を風靡するかのように浸透していったフリードリヒ・フォン・ゴットル=オットリリエンフェルト「生活経済学」に対する批判的な見地を明示していた。

 経営学者である吉田和夫の著作『ゴットル 生活としての経済』(同文舘,2004年)に言及したあるブログの記事は,こういう解釈を提示していた。

 「岸 信介がナチスドイツの『経営生物学(Betriebsbiologie)』の理論的なバックボーンとなったゴットルの影響を受けていた」。

 「岸 信介じたい北 一輝の影響下にあり,国家社会主義というか白色社会主義というか,統制経済による富の再分配を志向していた “理想主義者” 的な側面もあり」,「ゴットルその人もあまりにも『ナチスのゴットル』というイメージが強すぎて」いる。と同時にゴットルは「企業活動を生活者に合わせて規制する」立場,つまり「生活としての経済」を強く主張していたという面を忘れてはなら」ない。

 註記)「清和会研究『ゴットル 生活としての経済』吉田和夫、同文舘出版」『pata 本と酒とサッカーの日々』October 14, 2005,http://pata.air-nifty.com/pata/2005/10/post_46f7.html

 補注)以上の記述に出てきた『経営生物学(Betriebsbiologie)』に関しては,敗戦後において著名な経営学者となっていき確固たる名声をえた藻利重隆(もうり・しげたか,一橋大学商学部)が,戦争中にあって「自分の学問の立場」に選んでいたドイツ・ナチス流の Betriebswirtschaftslehre(経営経済学)の立場・イデオロギーを選択していた事実を付記しておく。

藻利重隆・画像

 増地庸治郎編『戦時経営学』(巖松堂書店,昭和20年2月)に藻利重隆が寄せた論稿「経営の共同体理論」は,「経営共同体の問題即ち経営の共同体理論は」「生活を即事的具体的に反省することによって全体的個体性の理論に,従って民族的乃至国家的経営の理論に想到することによってのみはじめてこれを解明し得るものなることを信ずるものである」(372頁)と結論していた。

 というのは,戦争の時代における「『経営学』は『経営経済学』としてではなくして『経営生物学』として確立せらるべきことを要求する」(350頁)からであった。
 
 この藻利重隆流の経営理論的な発想源泉は,敗戦後における彼の理論展開になかにも密やかに移入して応用され,それも換骨奪胎的に再生利用されていった。

 経営学界のなかには,藻利重隆をあたかも「始祖のように仰ぐ」経営学徒が少なからず存在していた。以上に指摘したごとき「戦時事情」には気づく者は,誰1人いなかった。前段のごとき「経営生物学」の思想・イデオロギーを戦時体制期に採用した藻利の学問姿勢を,そのありのままに指摘した弟子もみつからない。

 b)「ナチス・ドイツ統制経済論とゴットル経済学」  --しかし,ナチス・ドイツの統制経済論が尊重した「生活としての経済」,ならびにこの経済論の主柱となっていた「経営生物学の立場」は,ヒトラーが『我が闘争』のなかで示した「東方生存圏:レーベンスラウム(Lebensraum)」にまで拡延,転用された時点で,もはやもとから学問の名に値しないその根柢:本性を,ありのままに暴露した。

 ところが,1933〔昭和8〕年3月,ヒトラーが率いる「国家社会主義ドイツ労働者党」(略称NSDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)が政権を掌握した以降,昭和10年代の帝国日本おいては〈ドイツ第三帝国〉を強く意識する世相となり,ナチス・ドイツを礼賛する社会科学者の書物が幅を利かせる時代となっていた。

福井孝治・画像

 具体例を挙げれば,福井孝治『生としての経済』(理想社,昭和11年5月)は,昭和19年8月まで10刷を重ねてきた書物であった。同書〈序〉はこう,いいきっていた。「無意味ではない」と語られた「意味」は,敗戦後になると,逃げ場を失った状態でより鮮明になっていたが……。

 「ゴットル教授は,従来の経済学理論に対する反対者として終始し,特異な学者として著名であるが,我国ではまだ余り知られてゐない。あらゆるものゝ書き換へが要求される今日に於いて,彼の学説を紹介することも無意味ではあるまい」。

福井孝治『生としての経済』序

 ゴットル経済学流の生活性重視の理論的発想は,ナチス・ドイツのために重宝される結果を生んだ。それが記録した経済学史的・経済史的ならびに経営学史的・経営史的な事実は厳然たる歴史として記録されており,学問研究の視点からすれば,みのがしえない研究対象を提供した。

 1940〔昭和15〕年9月27日,「日本-ドイツ-イタリア」が締結した「日独伊三國間條約」が結ばれ,日独伊三国の同盟関係を指す「日独伊三国同盟」が,これら枢軸国のあいだに生まれていた。
 

※-2 高島善哉『高島善哉『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』昭和16年3月のゴットル批判の見地

 1) 戦時体制期におけるゴットル批判

 「ゴットルの研究等において」,福井孝治「君は日本での代表的な学者の1人ではないか」「あたかもそのことのために君のマルクス学者たる資格が傷けられるもののように噂する向もあるかにきくのはまことに迷惑の次第であろう」註記)といわれていた。

 だが,福井自身がその後において,敗戦時までのドイツ・ナチスに癒着した学問を,みなおすとか再考した様子はみられなかった。

 註記)福井孝治教授還暦記念事業委員会編『社会経済学の展開(福井孝治教授還暦記念論文集)』日本評論新社,昭和35年,藤田省三「論集によせて」363頁。

 高島善哉『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』昭和16年3月は,戦時体制期の学問形態として,ゴットル経済学を明確につぎのように批判していた。

 「経済の領域においては国民的なものが同時に人類的なものであり,人類的なものが同時に国民的なものでなければならない」。その「2つのものの結びつきは時間的前後ではなくして内面的同時的でなければならない」。

 「人はヘーゲルの法哲学が経済理論としては一切の欠陥を含むにも拘らず,歴史の媒介といふことにおいていかに優れた教訓を我々に与へてゐるか理解する」。

 「ドイツ歴史学派が全体としてなほ且つこの問題の解決に成功しなかった後を受けて,一方においてはシュパン他方においてはゴットルがやはりこれに最後の解決を与へようとした」「けれども」,「この両者の何れにおいてもまだ真の歴史性は把握せられてゐない」(323頁)。
 
 2) 自然というものの特殊性

 高島善哉の議論はこう続いていた。--自然の特殊性に国民経済的意味を与え,空間性原則に具体的効力を付与するものが社会であり,時間性原則であるとすれば,空間性原則または自然の特殊性は,そのものとしては社会科学的意義を有しえない。人間の歴史的・社会的文化から抽象され絶縁された自然の宝庫が,それじたいとしていかに無意味な埋蔵物であるかを考えてみればよい。

 自然の死蔵物に活を入れてこれを国民経済的統一への一契機たらしめるものが,すなわち人間の社会であり,その歴史的存在様式である。クニースのばあいと同様に,ゴットルやシュパンにおいてもそのように深い歴史意識が欠けている点に,高島は根本的な不満を抱いた(350-351頁)。

 ゴットルの経済学において核心となる「存在論的価値判断」は歴史的に形成され,実践的に模索されるべき立場であって,観想的に思弁されるべきものではない。全体的・直感的なるものは部分的・合理的なるものを通して実現されるのでなければならない。ここに〈媒介の論理〉が要求されるのは(370頁),「経済社会学はたゞ1個の経験科学である」からである(367頁)。

 戦争の時代において高島善哉が公表できた,この『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』(昭和16年3月)は「自然の特殊性」という表現をもって指摘していた〈なんらかの概念〉は,戦後の共著,高島善哉・水田 洋・平田清明『社会思想史概論』(岩波書店,昭和37年)の終章「現代社会思想史の課題」において,本格的にとりあげられ議論の対象とされることになった。

 その論点は,本ブログ「本稿(4)」において,和辻哲郎『風土』昭和10年をとりあげるなかで検討していた。しかし,そこでとりあげた高島善哉『社会科学論』(岩波書店,昭和29年)は「体制-階級-民族」を議論することが主題であって,まだ「風土の概念」にまで到達していなかった。

 高島善哉は共著『社会思想史概論』(岩波書店,昭和37年)終章「現代社会思想史の課題」のなかで,民族が〈風土という基盤〉と密着した社会科学的な概念であると書きはじめてから,初めて,この風土の概念を本格的に議論しだしたのである。

 そのときの議論を反復する。
 
 高島は,「血と土」(Blut und Boden)をいきなり無媒介に〈第3帝国〉と結びつけたナチズムの政治思想を,反合理的であり反人間的であると批判した。ヒトラーはその非合理的な契機に触れ,大衆政治的に煽動し,国民的感情に訴ええたとも批判した。問題は「血と土」そのものにではなく,その国民の歴史的・社会的な人間関係を離れて独走する危険にあった。

 歴史からの教訓ではないが,社会科学論の視座は,民族における自然的契機と歴史的・社会的契機との相互媒介的な関係を,まずもって正しく認識しなければならない。ここに「風土」といわれる概念がその媒介項として引き合いにだされてよいのである。和辻哲郎『風土』(1935年)はその意味において先駆的な業績であった(370頁)と。

 3) 高島善哉『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』「解題」1998年3月

 a)「復刻版:著作集版」 本書『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』昭和16年3月は,1998年3月にこぶし書房が企画・制作した『高島善哉著作集 第2巻』に収録されていた。本書についてはこれよりもさき1991年11月,日本評論社が復刻版を発行していた。1998年3月版の同書「解題」に関連しては,こういう簡潔な解説も付されていた。

 ☆-1「言論統制の戦時下の荒野に燃えた抵抗の書。スミスとリストを究めて,資本主義社会の克服を展望した若き高島善哉の処女作」
 註記)『紀伊國屋書店』ホームページ,http://www.kobushi-shobo.co.jp/search/s2785.html

 ☆-2「経済学の社会学化,社会学の経済学化。言論統制の戦時下の荒野に燃えた抵抗の書。スミスとリストを究めて,資本主義社会の克服を展望した若き高島善哉の処女作」
 註記)同上,http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4875591128.html  

『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト-』昭和16年3月「解説」

 高島善哉著作集の第2巻の「解題」はまず,水田 洋がこう指摘している。

 「大学では福田徳三のもとに学び,その高弟としての大塚金之助を影響を受けた」。「しかし」「卒業論文にシュンペーターを論じた著者が,しだいにマルクス主義に傾斜しつつあった」。

 高島『経済社会学の根本問題』は「ドイツ歴史主義・ロマン主義思想の吸収が,著者のなかのスミス像をふくらませ,それがさらにマルクス像に反作用して,マルクスがふくらむというようにして,経済社会学が成立したとみることができる」(「解題」1頁上・下段)。 

 昭和16年3月の時点である。帝国臣民のあいだでは,大東亜戦争への突入も不可避かもしれないと覚悟する向きが強くなっていく,そういう時代の流れがあった。「当時の読者たちは,著者の真意を読みとって,この本はよく売れた」。

 「左右の批判者たちは,これはマルクスだ(杉村広蔵)とか,なぜわざわざ経済社会学なの(戸田武雄)とか」いいあて,高島の意図の「核心を見誤らなかった」。「戸田武雄を,マルクスでいいではないかといいたかったのだが,そういう表現は不可能だった」のである(「解題」2頁上・下段)。

 b)「戦争との対決」 戦時体制期における雰囲気の変容をしかと回顧しておく必要がある。昭和16:1941年以降は,学術書であっても戦争体制に迎合する専門書でなければ,著作の公表は非常に困難になっていった。時代がそうして進むなかで,高島『経済社会学の根本問題』は危うくも,ぎりぎりのところでなんとか公刊できていた。当時の出版事情をこのように説明しておきたい。

 高島自身はこう説明していた。スミスとリストの研究は,当時の私にとっては押し寄せるファシズムへの批判と抵抗の意味がこめられており,そこには一貫したあるひとつの観方・立場があった。

 「経済社会学というあいまいなことば」を処女作に付けた,いいかえれば〈自己に忠実〉ではなかった点を反省しながら,それでも「当時としては私なりの理由もあり,若干の意義もないわけではなかった」と弁明していた。

 当時の経済学界には「ふたつの大きな潮流」が対立していた。ひとつは〈純粋経済学〉といわれる学問の流れであり,もうひとつは〈政治経済学〉といわれるものであった。

 経済学の体系化・理論家という観点からいえば,もちろん政治経済学は純粋経済学の敵ではなかった。しかし,政治経済学には時局のうしろ楯があり,純粋経済学にはどうしても風当たりが強まらざるををえなかった。

 当時の政治経済学がたかだか時局向きの政策理論でしかないことは,心ある人にはすぐ判ることであった。といって,純粋経済学がファシズム批判の経済学でありえいようはずがない。そこから私をも含めて,当時の青年学徒は,これらのいずれでもない第3の学を求めざるをえない立場に置かれていた(「解題」3頁下段)。

 ※-3 高島善哉「戦後の経済及び社会観」昭和21年9月3日(これは脱稿日の日付)

 1) マルクス解禁と高島善哉の社会科学論

 ここにとりあげる高島の論稿「戦後の経済及び社会観」は,高島善哉・永田 清・大河内一男『戦後経済学の課題〔1〕』(経済学選書,有斐閣,昭和22年9月)という共著の巻頭に置かれた論文であった。有斐閣は昭和22年4月29日(なぜか昭和天皇の誕生日)の日付けで「『経済学選書』刊行について」を,つぎのように記していた。

 戦時中の学問的空虚を補填すると共に,広い世界的視野と深い理論的根拠の上に日本経済復興の構想を樹立し,以て平和国家・文化国家の建設に強力に寄与せねばならぬとの機運が,最近頓に胎動しています。

 本選書はこの時代的要請を充すため,斯学の権威に依拠して,良書を刊行し,弊肆創業70周年記念出版の一たらしめんとするものであります。

高島・永田・大河内『戦後経済学の課題〔1〕』昭和22年9月について

 本文に入り,高島自身の論及に聞こう。「社会科学的ヒューマニズムは単に行為の理論ではなくて,その前に歴史の理論を求める。歴史の理論は資本主義社会の発展に即してこれを分析する経済学によって与へられる 。これは資本主義に内在する立場である。しかし,単に資本主義に内在するだけでそれに超越することをしらない者は,資本主義体制の全体的把握をなすことはできない」。

 「空想的社会主義者の非空想性は今日これを高く評価しなければなるまい」。「しかし社会科学的ヒューマニズムの科学性と実践性を歴史の科学として統一し綜合することに成功した最初の人は,弁証法的唯物論の主唱者マルクスであった」。

「社会科学的ヒューマニズムは科学的社会主義から最も多くのものを学び得るし,また学ばねばならない。今日それはあらゆる種類の誤解や歪曲や俗流化から護られることが特に重要である」(高島「戦後の経済及び社会観」74頁)。

 2) マルクス過信-高島善哉の場合-

 日本帝国は敗北したのち,新しく日本国と称した。敗戦後の日本経済社会は混乱のきわみを体験した。そういう時代状況でもあったからこそ,高島のみならず多くの知識人が,つぎのように考えたのである。

 日本における社会主義実現の問題が,客体的にも主体的にも相対的にも有利な条件に恵まれながらも,しかもなほ極めて容易ならざる大事業である・・・。しかしいかにそれが困難であっても,歴史の教訓として正しき理論によって忍耐強く導かれたならば,この道によって日本再建の可能性があることは,社会科学的ヒューマニズムの立場から見て認められる・・・。

 我々は遠く且つ広く見てゆかねばならぬが,しかし現実の足下を見失ってはならない。かくて問題はすでに単なる経済的領域を超えて,政治の問題に入り,さらに道徳,芸術,宗教等文化一般の革新の問題に入ってきてゐる。しかし日本の民主主義革命の根本問題はこの辺に潜んでいることはもはや動かし難いところであらう(高島「戦後の経済及び社会観」94-95頁)。

 高島によるこの見解の表明は,マルクス主義者の口吻とほとんど異なるところがない。マルクスの思想・理論・実践の見地すべてが,完全に『正しき理論』であったかどうかについていえば,いまわれわれが生きている21世紀の時点では,容易に判断できる。

 いうまでもなく,敗戦直後における高島のこの見解は,そうたやすく支持できるものではない。すなわち,その『正しき理論』という前提にまで到達できていたらしい「高島の学問上の観念」が問題にされねばならない。

 高島いわく「20世紀の民主主義は文字通り大衆の支配を指すものであ」り,この「大衆は歴史的概念としては今や単なる量ではなくて質的意味を持ってきてゐる」。「現代の大衆はたゞ人民の多数といふことではなく,新たなる歴史の創造主体といふ最も歴史的な意味を獲得しつつある」。

 それゆえ「日本の大衆が荷なわされてゐる歴史的使命は大である」。「この意味で労働組合の健全なる発達は,日本民主主義の徹底と実質化のために無条件に必要である」。「これと並んで健全なる農民の自治祖域が確立されることも無条件に望ましい」。

 「それはインフレの昂進に伴って襲来する資本の攻勢に対処するためにも,ファシズムの隠れた温床を清掃するためにも絶対に必要な措置であるが,それよりもまづ壊滅した生産力を再び戻し,日本経済を健全なる軌道の上に動き出させるために」「先決問題なのである」。「外資の輸入も,機械技術の高度化も」「実質的デモクラシーの基礎の上においてのみ初めてその真価を発揮することができる」。

 「かくて形式的デモクラシーから実質的デモクラシーへ進展は,正しき階級観の上に築かれ」「日本民族共同体乃至は国民共同体の真実の基礎を固めるための地ならしをする」。「こゝに日本民主主義革命の二重性がある」(以上,前掲稿,101頁)。

 3) 敗戦後事情と逆コース

 高島善哉の敗戦直後に関するそうした日本経済社会観は,当時の世相を正直に反映した見解である。しかし,戦後日本がその後にたどっていった〈逆コース〉の進路は,いうところの「生産力」の回復を達成させてはいくものの,労働者側陣営がよって立つべき「正しき理論:階級観」の実現を妨げた。

 いうなれば「人民の多数」が「歴史の創造主体」になっていくべき「日本資本主義の実相」は,占領軍の介在・圧迫もあって出現しえなかった。高島が理論的に予測した進路は開けなかった。

 あるいはまた,敗戦直後における日本経済・社会が方向転換をおこなうために「日本民族共同体乃至は国民共同体の真実の基礎を固めるための地ならし」をすることが,はたして「日本民主主義革命の二重性」的な課題を実現する方途でありえたのか問われねばならない。

 1947〔昭和22年〕3月,アメリカ政府はトルーマン・ドクトリンとよばれる新しい外交政策を表明した。すでに,ソ連とアメリカを中心とする自由主義国の勢力圏分割競争(冷戦)が激化しはじめていたのである。

 アメリカのトルーマン大統領は,従来の孤立主義を放棄し,共産主義の侵略を受けるギリシア・トルコへの経済・軍事援助を宣言した。このトルーマン宣言(トルーマン・ドクトリン)は,対ソ “封じこめ” の布告であり,冷たい戦争の始まりでもあった。

 さらに同年6月,マーシャル国務長官は,西ヨーロッパ経済の援助を打ち出す,マーシャル・プランを発表した。

 註記)「1947年 〈トルーマン宣言〉★★★」『ベック式! 難単語暗記法ブログ』2012-10-31,https://blog.goo.ne.jp/daimajin-b/e/4b1c6bef261c5268b3b2bcc061550f08

 本ブログに記述「社会科学方法論-高島善哉の学問(3)」は,「風土に関する八つのノート」1965年~1966年の本格的議論〔その1:民族の問題の基本的性格〕」,「小熊英二『単一民族神話の起源』1995年の問題提起」に関した論及のなかで指摘したように,社会科学的な議論としては「〈重大な視野の崩落〉=方法の不備・理論の不全」を伏在させていた。

 要は,高島の論稿「戦後の経済及び社会観」は昭和21年9月3日に脱稿されており,敗戦後からちょうど1年後に活字化となって公表されていた。この論稿が予見したように,日本の経済社会はその後の進路に向かうさい,「正しき軌道に乗ってゆくことができ」なかった。

 その事実は「新しき世界史劇の2大主役として登場しつゝある」「アメリカ資本主義とソヴェート社会主義との相即関係如何といふことに帰着する」ものであった。それゆえ,この最後の指摘にかぎっては,それほど具体的なものではなかったものの,高島が「正しき展望」と述べ,それもかなり間接的な修辞を採って予見してたところがあった。

 21世紀の現在になっても日本という国はいまだに,「対米服属国家体制」にどっぷり浸かったままに国家の運営をしている。実質,その正式名称は存在しないものの「日本総督府」ということばさえ,浮かぶ。

 第2次大戦において日本と同じに敗戦国になったイタリアやドイツも,国内に米軍基地をおかざるえない敗戦後史を経てきたが,それでも日本のようにまるで属国そのものであるかのようにして,つまり「日米安保関連法体制」のくつわを嵌められたまま,今日まで来ていない。

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