ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(9)
※-1 論争の紹介
筆者は,前稿までのような把握を介して,山本安次郎学説の基本的な問題性を考察してきた。これに対して山本が筆者に返した応答では,当初自説に関心を示した筆者の存在を歓迎する様子が明確に表示された。しかし,しだいに批判的立場を明確にする筆者を,自説をまったく「理解〔開眼!〕できない反対者」という範疇に閉じこめることで,山本は筆者を完全に排除しようとした。
付記)冒頭の画像は満洲国にあった官立「建国大学」の正門付近。ウィキペディアから。
山本安次郎は「これまで西田哲学的思考方法が経営学の研究方法として有効であること,西田哲学の経営哲学的性格をあまり強調しすぎたきらいがあるかも知れない。そこから種々の誤解が生ずることともなる。著者の狙いは,あくまで経営を経営の現実に即して研究することである。このような西田哲学依存への誤解」が生じていたと,反論する立場からそれなりに解釈を下していた。註記1)
そういった山本であったが,論稿「経営学と西田哲学」(『彦根論叢』第164・165号,人文科学特集第30号合併,昭和48年11月,陵水五十年記念論文集)では,こう主張していた。
西田哲学への強い共感と信頼を抱いた山本は,「経営を経営的世界において行為的主体的に考察するとき,……経営の現実に即して……経営の論理に従い『行為的直観』的に考察すれば,必然的に経営の経営的考察が可能となり,本格的な経営学への大道が展開されることとなる」。
「ドイツ経営学とアメリカ経営学との統一を可能にし,本格的な経営学の確立を約束する道はここにしかないのである。1人でも多くの人がこの道に開眼されることを期待したい」とまで,自説の卓越性・秀抜性を誇ることになった。註記3)
山本はさらに,「真理は自らの道を開くからである」ゆえ,「われわれは西田哲学を経営哲学として無理強いする積りはない」が,「ドラッカーの要求する『新しい哲学』を『西田哲学』に認めることが出来るのである。また認めなければならない」と結論した。結局,「西田哲学を経営哲学として読みとらねばならない」註記4)とまでいってのけたのである。
ここまで自信を横溢させえた山本流「経営ならびに経営学のための西田哲学」論を聞かされ,どうしたら「西田哲学的性格をあまり強調しすぎたきらいがあったかも知れない」と応えた山本の弁解が,すんなり耳に入り,なおかつ納得までできるというのか,不思議なまでに不可解な説明であった。
山本経営学説はその基本的思考を西田哲学に強く依存してきた。筆者はだから,西田哲学の摂取のしかたまで含める方法で,山本の主張に対してはその根源の発想にまで批判的考察をくわえてきた。ところが,山本は筆者に対する反発を強めるあまりか,うっかりつぎのような「根拠のない反論」を放ったこともある。
先述に紹介した山本稿「経営学と西田哲学」の記述からも伝わってきたごとく,「西田哲学,西田哲学といい」つのり,自分とまったく同じように西田哲学を読み,開眼せよと他者に迫っていたのは,実は山本安次郎自身であった。山本は,自分の西田哲学理解のみが正しい経営学的な咀嚼と考えており,それ以外の「開眼」をけっして認めなかった。
山本流の西田哲学理解をのぞけば,ほかはみな「勝手に解釈したり,見当違いの引用」「批評」になる,と断定されていた。山本はみずからの主張と異なり,各自が西田哲学を「直接読めば味わいも異なるであろう」ことを認めない。げに恐ろしいまでの自己過信であった。
山本は,筆者など「が『西田全集を読まない』」とも断定していたが,どのような具体的な証拠(ないしは推察しうるそのような論拠)があって,おの点を確認できていたのか,それはもうびっくり仰天するような決めつけ,独断になっていた。当時,筆者の研究生活を四六時中監視していたわけでもあるまいに,冗談にもならない話であった。
筆者は,すでに挙げた山本関係の諸論著もふくめて,山本学説に関していくつもの論考を公表してきた。その途中においては研究者としての基本的な作法として,山本が注意してくれた点であったが,〔山本の〕「拙著,拙論」をめぐっては,「慌てないで,もっとじっくり落ちついて,謙虚に読んで理解して」いくように努力してきたつもりである。
しかし残念ながら,山本学説の理解者にはならず,その反対者でしかなかった〔が,それでも最大の理解者であった(と思いたいのだが)〕筆者の批判を,かといって,山本のほうからは,いっさい理解できないままに終わっていた
筆者が,戦争の時代にかかわって山本の学問が生んでいた「戦争責任の自覚や加害者意識の問題らしい」対象を指摘した点を,山本は「いくら忌憚なき批評とはいえ,何をいうのか理解に苦しむ」註記6)といって,猛反発するだけに留まっていた。
筆者との論争を経ても,単に「問題らしい」対象としてしか,山本安次郎が理解できなかった論点は,以下の論及をもって説明してみたい。
山本が教員だった満州国の建国大学で学んでいた,とくに中国人や朝鮮人の学生は,この大学とその教員たちを冷徹に観察していた。そして実際に,ひそかに反発し,表面化しないように抵抗運動もした。そうした抵抗が発覚し,囚われの身になって,命を落とした建国大学の中国人学生もいた。
昭和17〔1942〕年3月2日,建国大学の中国人学生たちに対する逮捕・取調がはじまった。この事件は,昭和16〔1941〕年12月30日,満州国主要都市の進歩的知識青年・学生,さらに青年公務員らが極秘裏に組織した反満抗日運動に対して,日本当局側が始めた弾圧の一環であった。
その運動は,けっして過激なものではなく,むしろ読書会の啓蒙的な活動であった。これをでっちあげたのは関東軍であり,日本当局であった。昭和17年6月6日,その事件に対する責任をとった作田荘一副総長の辞職が発表された。註記7)
「日本人の獄吏は,中国人の被疑者を人間と思っていなかった」 註記8)とも指摘されているが,満州国における日本人のそうした態度は,その人口の大多数を構成する中国人全体に対するものでもあった。満州国を構成する各民族間に生じていたそのような葛藤・対立が,まさに,建国大学内においては上記の事件となって発生していた。
この大学の教員だった山本安次郎は,前段に言及した中国人学生の逮捕・取調にはじまる事件を,当然しっていたはずである。山本はその事件になにも感じなかったのか。自分の地位とこれを囲む環境に安住するだけだったのか。筆者の分かる範囲での指摘になるが,その種の発言を山本からは聞くことがなかった。
湯治万蔵編『建國大學年表』(建国大学同窓会 建大史編纂委員会 代表坂東勇太郎,昭和56年)は,日本人が編纂した文献である。建国大学において,日本人以外のアジア諸民族の学生たちは,どのような教育をほどこされていたのか。また,その学生たちは,この官立大学からどのように巣立っていったのか。
そのような論点はついては,関連の文献を挙げておきたい。
以上8著はいずれも,山本安次郎没後に公刊された著作である。筆者が山本と論争した時期は,1970年代後期であった。それから早くも半世紀近くもの時が経過した。
1995年以後刊行の,満州国「植民地教育」問題をあつかった,たとえば「8著による分析視点」は,経営学者山本安次郎による満州国産業経営論に対して筆者が突きつけた「批判的視点」の顧慮必要性を,満州国官立大学で山本が教鞭をとっていた関係面からも,間違いなく支持したものである。
具体的に想像してみればよかったのである。建国大学の中国人・朝鮮人学生は,教員の1人としての山本安次郎を,どのようにみていたか。そのことに山本は少しも考えがおよばなかった。山本が教えを授けようとしていた相手:中国人や朝鮮人学生は,そのほとんどが山本という日本人教員の国家的背景,その思想的な支柱を否定していた。この付近の肝心な問題性に気づくことはなかったのか?
経営学者山本安次郎は,そうした教室内における間柄ではあったけれども,満州国という「カイライ国家の立場」に立つ1人の日本帝国臣民として,経営学を彼らに向かって講じていた。当然,建国大学という舞台においてとなれば,彼我においては必然的とも形容してよかった,思考の方式および思想の保持に関して重大な齟齬が厳存した。
もしかすると,山本はそのキメラ国における官立大学の教員の立場にあって,直接に中国人や朝鮮人,ロシア人などの学生たちも相手に教鞭をとっていながら,その種の問題:障壁・隔絶に気づくことがなかったのか。結局,多分そうだったと推測するほかない。
※-2 満洲国の実態・内情
山口淑子『「李香蘭」を生きて』(日本経済新聞社,2004年12月)は,それでも,戦前・戦中の中国事情を的確にしっていた日本人は「中国人は本当はみんな抗日なんだ」と,認識していたことを語っている。
「中国人は日本人の言うことに従っているように見えるけど,誰も軍部の言うことなんて信じてはいないし,威張り散らす日本人がどんなに嫌われているか日本人は知らないんだ」。日本人自身にすら「おれは日本人が嫌いになっていた」といわせたくらいである。註記9)
経営学者山本安次郎が満州国の建国大学教官だった時期,中国人や朝鮮人に対面するときの彼が,日本人として「威張り散らす」範疇の人間だったかどうか,いまでは皆目わかりえない点であり,ここではとくに関心をもつ必要も感じない。
だが,満州国に生きていた山本安次郎という個人が,中国人や朝鮮人にとって「いい人」であったか否かというような「日常生活的な関心事」とは別に,もっと考えておかねばならないことがあった。
それは,山本安次郎が個人の次元を超越した地平で,つまり,国家や体制の次元において否応なしで必然的に背負わざるをえなかった〈重荷〉を,山本自身がどのくらい意識できていたかの問題である。
とりわけ,「社会科学としての経営学」を専攻する研究者の山本においては,その種の問題を感知するのに必要だった「特定の意識の希薄さ」が指摘されてよいのである。
ところで,セゾン文化財団理事長を務めてもいた堤 清二は,作家としてのペンネーム辻井 喬をもっていた。
2004年9月,堤 清二は『父の肖像』(新潮社)を公表した。この著作はフィクションの体裁をとってはいるが,実質は,西武グループ創設者だった父堤康次郎の生涯そのものを描いていた。本書はフィクションとはいえ,同書のなかには満州国における日本人の位置が,正確に記述されている。
青山秀夫『近代国民経済の構造』(白日書院,昭和23年1月)は,戦時体制期における超国家主義者の〈経済的な思考方式〉を,こう批判した。
やはり当時,「国家の立場」に立脚して学問を営為したいた山本の「経営行為的主体存在論」は,如上のような超国家主義者の提唱と軌を一にする経営学「論」であった事実は,誰1人として否定しえない。実際,敗戦前における山本の論著においてはその事実が明快に,しかも積極的に表明されていた。
ところが,その点は,戦後の論著のなかででも,つまり1945年8月以降の日本産業経営に対しても,あいかわらず妥当しうる「学論」:「経営学の本質論・方法論」だと主張されることになった。これは,まことに尋常ならざる学問・理論の立場・方途であった。
山本安次郎のような「日本人学者」:「日本民族」の立場は,中国人や朝鮮人がわの批判的視点=「日本帝国主義による満州・満州国支配統治に対する反対・抵抗」が,ほとんど理解できていなかった。彼らの大部分はまた,被統治者の立場に追いこまれていた,東アジアの若者たちの真情を理解しようともしなかった。
そうした「事実の記録」は,当時における時代状況のなかではある意味,あまりにも当然ななりゆきであった。
「満洲国」の誕生以前から,その地に生来固有だった国家的な性格:「帝国主義的侵略性」を,山本は,認知も理解もまったくできていなかったし,そもそもが理解しようとする知的な感性をもちあわせていなかった。いかにも歴史理性的に不感症であって,かつ歴史的な感覚も鈍かった。もとより,社会科学としての経営学の研究に従事する「人間の1人としての感性」が,基本精神から疑われてよかった。
なかんずく筆者は,斯学界の権威と尊敬された大学者山本安次郎が,「自説を批判した」若手研究者〔「当時の筆者」のこと〕に対して非常に狭量な態度しかとれず,返してきた反論の内容もその学術性に不備・欠損を示唆するような筆致であったことに接し,非常に驚愕すると同時に落胆した。
わけても,筆者のごとき「批判者」に対する山本の応対で興味があったのは,自説への賛同者・支持者を「理解者」,自説の批判者・反対者を「無理解者」と,単純にむすびつけ,二分割しておく思考方式であった。
筆者のしるかぎり,斯学界内には「山本経営学」の賛同者・追随者が一定数,存在する。しかしそれでいて,山本学説の基本的理論を,本稿が追究しているごとき歴史的淵源までさかのぼり,その本質的性格を〈理解〉したうえで,賛同・追随してきた後進の経営学者がいたかというと,残念なことに1人もいなかった。
筆者は山本理論をまっこうから批判した。そのさい理論面だけでなく,思想・哲学面からも,歴史的観点〔「戦争の時代と関連する問題」〕を忘れずに批判してきた。山本経営学に魅惑された賛同者・追随者は,その抽象理論面にかぎって習作・理解するにとどまり,思想史・哲学史の底面より,とりわけ西田哲学や戦争と関連する問題を歴史的な観点においてとりあげ,山本の主張を分析・再考することは,いっさいなかったと観てよいくらい,関心がなかった。
結局,そうした理解の水準やその質量を計慮していうならば,自分にとって「不十分な理解しかない賛同者」が理解者とされ,それに対して,「ある程度理解のある批判者」が非理解者とされるというぐあいに,珍妙かつ恣意的な腑分けを,山本からはほどこされる顛末になっていた。
もっとも,そうした分別の適用問題は,第3者の審判に任せたほうがよかったかもしれないものであった。筆者はそのように考えている。
※-3 研究者の類型的な小考
山岡栄市『人脈社会学-戦後日本社会学史-』(御茶の水書房,1983年)は,「学問研究ないし師弟関係における包容性」という項目で,こういう論及をしていた。註記12)
研究者・教育者のなかには2つのタイプがある。
後者 2) においては大きい人脈の形成が期待されるが,前者 1) においては,手堅いかもしれないが小さい人脈しか形成されないのが一般である。
師資相承関係が緩和され自由化した今日では,みずから後者 2) のタイプが支配的であるが,それでもなお独善的態度を保持し,自説に対する批判者や非同調者を暗黙のうちに疎外する事例もある。このばあい,巨大な人脈は形成されない。
また,市倉宏祐『和辻哲郎の視圏-古寺巡礼・倫理学・桂離宮-』(春秋社,2005年)は,西田幾多郎の学問展開における対人関係を,こう解説していた。註記13)。
以上 1) 2) に指摘された点は,山本安次郎をかこむ研究者の「圏域:サークル」にもそのまま妥当した。かといって,山本学説の信奉者となった後進たちが,方法と実質の両面においてその理論をまとも理解していたことはない。
彼らはその意味で,きわめて素朴な,山本に対する理論的追随者に過ぎず,祖述することすらままならない学的水準に跼蹐していた。だからましてや,山本学説の肩の上に乗っかり,これを超克する方途へと前進できた追随者は,登場しなかった。
したがって,山本理論に「心酔」し「魅惑」されるばかりの〈盲従者〉の一群は,その主唱に「疑問を提起する」など,思いも寄らないことであって,その理論を一歩前進させたとみなせる成果を残していない。
ましてや,山本学説を理論的に突きはなしたかたちで,客体的に分析したり思想的に批判したりして,さらにより高見にまで少しでも歩を進ませた後進は皆無である。
それでは,山本理論の単なる〈追随者〉は居たことになっても,その経営学的な思考基盤であった「経営行為的主体存在論」を,賛同者なりに深めえた後進となると,完全に皆無だったという以前に,その「存在論」の経営学的な含意じたいにとりくんだ〈追随者〉からして,そもそも「存在しなかった」。
前段で触れた点であったが,山本安次郎はつぎのようにたいそうな自信を抱いてであったが,経営学者の戦前的な立場から「西田哲学への強い共感と信頼」を,つぎのように語っていた。もっとも,これは1970年代後期にあらためてその信念を語っていたものである。
すなわち,「経営を経営的世界において行為的主体的に考察する」ことで,「経営の現実に即して」「経営の論理に従い『行為的直観』的に考察すれば,必然的に経営の経営的考察が可能となり,本格的な経営学への大道が展開されることとなる」。
そして「ドイツ経営学とアメリカ経営学との統一を可能にし,本格的な経営学の確立を約束する道はここにしかないのである。1人でも多くの人がこの道に開眼されることを期待したい」とまで,自説の卓越性・秀抜性を誇りつつ,後学の経営学者たちにその信念のほどを披瀝していた。
もっとも,その「ドイツ経営学とアメリカ経営学との統一」,つまり「本格的な経営学の確立を約束する道」という学的目標は,敗戦前における満洲国・建国大学時代の山本安次郎は,触れていなかったそれであった。
戦中はあくまで,国家主義的な全体主義体制のなかで「経営行為的主体存在論」を発想したうえで,しかも社会科学としての経営学研究が向かうべき方途がこれだと,大いに昂揚していた。
ドイツの有名な経営経済学者,エーリッヒ・グーテンベルクは経営学の理論に関して「体制関連的と体制無関連的」という用語をもちだし議論していたが,この,空間的には「同時的に並立・関連させて観察されるべき体制のありよう」をめぐる論点を観察するさい,
山本流の「空間的にではなく時間的な流れ」のなかに,いわば横倒し的にのみ前後させるかたちでもって,しかも,体制無関連的な哲学思考=西田哲学の基盤の上においてであったが,敗戦という契機をはさんでいたとしてもなお,自説の立場の一貫性を,
つまり歴史通貫的に(体制無関連的に),戦中のファシズム的な経営学の立場であっても,戦後の民主主義的な経営学の立場であっても,通時的に主張しえた「経営行為的主体存在論」になりえたという主唱だとしたら,この存在論に固有だったともみなせる「哲学論的な抽象議論としての〈高度な怪しさ〉」は,それこそ正々堂々と言明された事情でもあったゆえ,これには当然,基本から深甚なる疑問抱かれて当然であった。
いずれにせよ,学問の営為が「惚れた・腫れた」と同次元の感性的な範囲でなされるようでは,いいかえれば,それが「毛繕い」集団内のうごめきのように映るようでは,「前向きで生産的な議論」「創造的な相互批判の交流」は,当初から望めなかった。
ある意味,論争に誤解はつきものかもしれず,完全に回避するのは困難である。それでもともかく,西田哲学によってこそ「本格的な経営学に開眼した」と豪語できた経営学者が,山本安次郎であった。山本はその「開眼」に絶大な確信を抱き,他者にも「その感覚」を共有すべきことを勧奨した。
社会科学の学問世界のなかにそのような宗教用語を,譬えだとしても直接もちこんでいいものか,疑問のひとつももたれて当然である。というのも,山本学説のばあい,「西田哲学と経営学」の相互関係は,単なる修辞方法に終わる問題ではなかったからである。
思うに誰でもそうなのだが,自説に賛同し,唱和する後進の研究者はとてもかわいい。だが,逆に,反対,批判し,挑戦してくる若手の挑戦者は,すごく憎たらしいのである。このことは,学者とて人間であるから,ごくふつうに抱く感情である。
しかし,問題は,学問の世界,理論の闘争,本質の追究,歴史の解明,事実の理解などに関するものであった。山本安次郎は1994年,90歳になるまで生涯現役だった経営学者である。だが,いかんせん加齢にしたがい,研究者としての柔軟性を確実に減損させていった。
要は,山本安次郎流「本格的な経営学」:「経営行為的主体存在論」は,西田哲学に一方的に依拠するだけであった。個別科学の立場から逆方向に「哲学する」経営学者として,哲学の世界における思索の領域に向けて,実質的に貢献する方途=場面をもてなかった。
山本はさらに,社会科学者として実際に対面してきたはずの「戦争と平和」の問題を,哲学的にはもちろん,経営学者の立場からも意識的に議論することができなかった。
哲学論的に経営学を飛翔させることが可能であったにせよ,経営理論的な現実分析論としては「満洲国・建国大学」の消滅とともに,とくにその地においてはぜひとも必要だとして,創造的に考案されたはずの「公社企業論」の「戦時体制期中なりの有意義さ」も,瞬時に雲散霧消させられた。
戦時体制期において,日本経営学会が開催した全国大会の「共通論題」,それもたとえば,
第11回「統制経済と企業経営」昭和11年10月,
第13回「戦時体制下に於ける企業経営」昭和13年10月,
第14回「価格統制」昭和14年10月,
第15回「利潤統制」昭和15年10月,
第16回「生産力拡充に関する諸問題」昭和16年10~11月
などと変遷していったが,この経緯を想起すればわかるように,戦争事態に対して抜きさしならぬ関係をもちつつ,経営学という学問も営為されていたことは,歴史上,明白な事実であった。
既述のとおり山本も,昭和15年に開催された日本経営学会第15回全国大会がかかげた共通論題「利潤統制」では,「公社問題と経営学」を発表報告した。この研究は,満州国統制経済体制をとりかこむ戦争状況にどっぷり漬かっていた経営学の立場より,国家全体主義的な公社企業「理論の構想と展開」を披露していた。
山本は戦前,戦争体制期の満州帝国〔および大日本帝国〕という「国家の立場:危機」に対処すべき「経営政策論:公社企業概念」を,しきりに強調していた。
だから筆者は,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)などの文献のなかに論述されたその政策論的な提唱をとらえて,1970年代後期になってからとなったが,批判的な考察を試みた。そこに伏在していた問題点は,筆者が山本と論争を通して,より明確に浮上することになった。
山本自身の表現を借りて,もう一度,その問題点を指摘しておく。つぎのように,語っていた。
だが,山本は筆者の問題指摘を全然理解できなかった。そのうえでのこのように批判を繰り出していた。彼はまた,当方の議論をそもそも理解するための触覚さえもちあわせていなかった。
筆者の度重ねてのきびしい批判・指摘をうけたのちでも,山本は曖昧にしか理解しかできず,ただ自分に向けられたのは「戦争責任の自覚や加害者意識の問題らしい」と,それも猛反発しながら答えたにすぎない。
要するに,山本安次郎は自説のうちのなにが,戦時企業体制論としての「公社企業論」として,どこの・なにが問題とならざるをえなかったのか,皆目理解できていなかった。概略的にいうと,「戦争と学問とが社会科学的に交叉した場所に生じた論点」を,自分なりに客体化して特定の思考枠組のなかに取り入れ,その位置を定めることをしなかった,というか,できなかった。
基本的にいって,山本が戦時期にとなえていた「世界史的使命」と,そして,戦後にもとなえた同じことば:「世界史的使命」という用語の思想史的・時代史的な意味は,決定的に異質であったはずである。
この程度の問題さえ歴史学的に弁別できず,くわえて,そのための哲学史的な議論にさえ無縁だった経営学者〔?〕が,戦争の時代と平和な時代の断絶を簡単に無視して,そのことば「世界史的使命」だけは「非連続の連続」的に継承できていた,というわけになっていた。
山本はなにゆえ,戦時体制期への自身の深い関与を置きざりにしたかのような,というよりも逆に,当時の戦争翼賛的経営理論を誇れたかのような「戦後における理論展開」を継続してきたのか。その姿は,『社会科学者として具備すべき最低限の職業倫理的な感性』すらもちあわせていなかったこと,換言すると,研究者として必要不可欠な初歩的なその意識水準にも到達していなかった。
山下恒男『日本人の「心」と心理学の問題』(現代書館,2004年10月)は「心理学(者)の戦争責任」という論題さえもちえなかった日本の心理学者の実例を,田中寛一にみてとっている。
山下は,戦前・戦中期において「智能検査」法を独自に開発した日本の心理学者田中寛一に言及する。田中は敗戦直後,それまでにおける自身の “思想と業績” を隠すかのような「戦争認識」を無責任に放っていた。この点をとらえた山下は,田中をこう批判していた。
筆者が〔本文中で〕山本安次郎に問い,そのうえで批判もした問題性は,なにも経営学者だけに関連するものではなかった。そのように,他の専門領野における研究者の「戦責問題」としても共通する課題なのであった。
要は,戦争の時代において彼らが科学者として理論的に展開してきた自説の「過去⇔歴史状況的な再認識・再評価」は,感性よりはるか以前,そしてあるいは,モラルとまったく無縁のものでしかなかったのである。
山下『日本人の「心」と心理学の問題』からさらに,以下の引用をしておく。
「科学の科学である哲学」と「社会科学の1部門である経営学」だからといって,そのあいだに主従の関係があるのではない。分担・分業の関係はあるが,学問的な関係としては対等であり,ただそれぞれの思考の方法や志向性,対象の規定や守備範囲が異なるだけであって,基本的に序列を付けるべき間柄にはない。それゆえ「哲学と経営学」の関係では,相互に有機的に啓発しあえ,ともに発展が期待できる立場が要求される。
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