ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(11)
※-1 経営哲学と経営生活との関連で経営理論を構築した社会科学的な意義
1) 経営哲学と経営生活
21世紀初頭に公表された小笠原英司の著作,『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文眞堂,2004年)は,こういう主旨を提示した。前後する行論上,ここであらためて,その論点を整理しておきたい。
a)「事業の使命」 「現代経営とりわけ日本経営の原理的課題を明らかにしてい」くために,「事業戦略を物的富裕の視角から計画する企業経営と組織経営の論理に代えて,事業使命を人間生活の全体化と『社会的厚生』の倫理のなかで再構成する事業経営の本然の論理を展開する」。
b)「経営の本然」 「経営の本然的原理は単純明快である」。「それは『事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答すること』に尽きる」。それゆえ,「経営の公共性について語るとき,また問題とすべきは事業経営の問題である」。
c)「事業経営の正道」 「事業経営とは経営体じたいの『生活』を充実したものにする営為であれば,その使命ないし社会的アイデンティティは,国民生活の充実に対して支援的に寄与することにおいて見出される」。註記1)
ところで,20世紀中葉〔1940年代前半(昭和15年~16年ごろ)〕からの経営学者:山本安次郎の見解は,こういうものとして開陳されていた。
a)「事業経営」 「経営が本来的に『事業経営』であることを忘れ,単に経営一般として問題とし,『事業』を忘れてしまうのが従来の経営学であった。われわれは経営学の対象たる経営がまず『事業経営』であることを高調せねばならない」。
b)「本格的な経営学」 「経営は事業経営と企業経営との統一であって,経済や管理や組織と関連しない経営は存在しない」。「主体的行為的な経営存在として統一的全体的に研究するのが対象の性質にふさわしい『本格的な経営学』の道である」。
c)「経営行為的主体存在論」 「経営は経営の身体としての経営組織,事業組織によって現実に商品を作り事業を営み,その作られたもの(商品)によって初めて経営となるのである。主体的とはこの意味で,行為的であり,生産的である」。註記2)
小笠原も,『経営哲学研究序説』第Ⅲ「経営実践」第12章「経営戦略と事業-事業使命論の原理-」第3節「事業経営と〈社会〉主義経営」で,「現代経営は『企業経営』から『事業経営』へと新たに転回すべきである」といった主張は,「かつて山本安次郎が『企業経営から事業経営へ』と述べ,さらに『会社から公社へ』と主張した」その「内容とほぼ軌を一にするベクトル上にあったと理解できる」と,自説を位置づけた。
戦時体制期だからこそ,その発想源泉を獲得しえた山本の「経営行為的主体存在論」的な「事業経営=公社企業」論は,戦争の時代における国家全体の価値観や目的を大前提にし,その立場や論理を基本点に据える学問であった。そして,21世紀に入った現段階において,小笠原英司「事業経営の正道」論は,「国民生活=経営生活の充実」をめざす「事業経営」論を提唱していた。
山本の衣鉢を継ぐといった小笠原の立論のことでもあり,彼らのあいだに生じた「理論の継承関係における,歴史必然的な同質性」をみのがすわけにいかない。小笠原の経営学論の試みは,経営哲学論と経営生活論から構成されるが,「経営生活」はまた「国民生活」を意味しうる。
いいかえると,現代における人間生活は「前者と後者の生活」関係は唇歯輔車,あるいは卵の黄身と白身の相互関係にあるとも形容してよい。政府はその殻を意味するとでも形容したらよい。
戦時期の山本説にあっては,「国民生活」のありかたに「経営生活」が規制されていた。対して平時期の小笠原説は,「経営生活」をもって「国民生活」を規定することになった。両者の思考回路は,表相的には逆向きにみえながらも,学問目標を共有していた。それでも,両名の見解に特徴的な相違点をもたらしたものがあり,それは「時代の差」(半世紀以上のそれ)であった
ここではとくに,戦時体制期の昭和15〔1940〕年に発せられた「事業」に関するつぎの見解を,小笠原に向けて紹介しておく。
この「『全体主義の経済』に外ならぬ」と説明された〈事業の意義〉や〈金儲けの否定〉などは,形式論理面で突きつめて観察するに,小笠原『経営哲学研究序説』で議論・提唱された論点とかくべつ異なるところがない。しかもその間,敗戦後,64年もの星霜を重ねてから公刊された書物のなかでの見解であった。
「戦時体制下の公社企業論」を発想した山本の経営行為的主体存在論=事業経営論は,「全体主義の経済」体制を具体的に構成する経営論であった。その山本学説のベクトルと思考の方向をほぼ同じにした小笠原の「経営哲学理論」=事業「経営生活」論も,「全体主義の経済」的な思考に貢献する「立論」だと批判されたとしたら,これを完全に排除できると,自信をもって反論できるのか。
その後,小笠原が以上の指摘に応えられる議論(反証的な考察)を返した形跡はなかった。それよりも,以上のように批判されて論点をしまいこむ顛末とあいなっていたゆえ,いまの時点(ここでは2024年夏としておく)となっては,格別に討議する余地はなくなっており,いうなれば「経営生活論⇒国民生活論」は敵前逃亡したと指摘しておくほかなくなっていた。
いいかえれば,社会科学の立場でいつも問題となる「歴史的と論理的の双方の意味」において,その種の批判に十分に反論することができていないまま,小笠原英司はそのように,わかりやすくいうとしたら「証拠隠滅行為」を試みたことになる。
その行為の一環について本稿は,かなり以前の段落で,経営哲学学会が設営した研究発表の舞台--同会が2005年7月9日,東北・関東・関西合同部会を開催し,小笠原が「自著「『経営哲学研究序説』ついて」という題目で研究報告をした--で,小笠原が記録した行為が
すなわち,ゴットル流「経済生活論」を応用して構想したつもりであったはずの,「経営生活論」部分(構成要素:理論部分)の撤回・収納・隠蔽によって,より明確になるほかない事実を説明してあった。
そうだったとなればこのさい余計に,その後の今日において日本が置かれた政治経済的な諸情勢,社会文化的な諸環境,歴史伝統的な諸関連を,より冷静に観察しておく必要があった。
たとえば,高橋哲哉『教育と国家』(講談社,2004年10月)は,最近における日本の学校教育をこう批評した。
ここに書かれている内容は,有事体制論を論じてい政治学者も指摘した「昨今(当時はもはや20年前になったが)の日本政治経済の情勢」を,教育現場の問題点から分析・説明したものである。
※-2 20世紀の戦時体制から21世紀の戦時体制へ-財界の意向は奈辺に?-
イ) 鹿野政直『兵士であること-動員と従軍の精神史-』(朝日新聞社,2005年1月)は,前段の高橋哲哉『教育と国家』と同じような危惧を語っていた。
ところで,小笠原『経営哲学研究序説』は,経営の本然的原理を,「利潤追求(私益)や企業存続(共益)」よりも「事業による社会厚生への寄与(公益)」に求め,「これが経営目的のアルファでありオメガ」だと規定していた。
「公益」に関するこうした規定が,鹿野政直の心配する「国家奉仕」観に誘引されやすく,また「踏絵の時代の再来」を招来しがちであることは,否定できない。歴史は繰り返されるというまでもなく,現にそうなりつつあるのが,昨今における「こんどは〈対米服属国家〉としての日本国」の現況である。
ロ) 筆者は経営学の研究者であるから,日本経団連が2005年1月18日正式に承認した報告書に関して報道された,つぎの新聞記事が気になった(『朝日新聞』:asahi. com, 2005年1月13日報道)。
=「集団的自衛権」明確化提言へ
経団連の憲法改正概要=
憲法改正問題を検討している日本経団連(会長・奥田 碩トヨタ自動車会長)の「国の基本問題検討委員会」(委員長=三木繁光・東京三菱銀行会長)の報告書の概要が〔2005年1月〕12日,明らかになった。
憲法9条を改正して,自衛権確保のための自衛隊保持,集団的自衛権を明確にすることを求める。憲法改正手続きを定めた96条については手続きを容易にし,改正のための国民投票法を早期に成立させることが必要としている。
この報告書案は〔2005年1月〕11日に正副会長会議ですでに了承。18日の理事会で正式承認したあと,政府や国会に働きかける。
経済界では,経済同友会や日本商工会議所がすでに憲法改正で自衛隊の保持を明確にするように求めているが,「集団的自衛権の明確化,行使に関する規定の整備」まで踏みこんで提言するのは経団連が初めて。財界の主要団体が改憲論で足並みをそろえる形となり,自民,民主両党や国会での憲法改正論議にも影響を与えるとみられる。
経団連の基本問題委は昨〔2004〕年7月に発足。冷戦終結と同時多発テロ後の国際情勢の激変の中での日本の新たな安全保障・外交のあり方を検討してきた。自衛隊については,海外派遣が現実には進みながらも憲法や国内制度のなかではっきりと位置付けられていないとの意見が出ていた。
報告書では,目指すべき国家目標に
(1)国際的に信頼・尊敬される,
(2)経済社会の繁栄と精神の豊かさを実現する,
(3)公平・公正で安心・安全,
をかかげた。
このため改正案では自衛隊が国際平和活動に貢献し,協力することも明文化するように求める。そのための法律の整備や緊急事態への対処,情報の一元化の必要性も指摘する。
なおここでは,「憲法改正で自衛隊の保持を明確にするように求めている」経済同友会の提言・報告書『平和と繁栄の21世紀を目指して-新時代にふさわしい積極的な外交と安全保障政策の展開を-』(2001年4月25日)。註記6),
および「日本経団連・国の基本問題検討委員会,第1回会合開く-奥田会長『検討の好機』を強調」(2004年7月22日)を挙げておく。ここまで以上は,註記7)
さらに,日本・東京商工会議所の意見書『憲法改正についての意見=中間取りまとめ=』(2004年12月17日)もあった。これは,註記8)としてその資料のありか指示しておくことにした。
ハ) 時代を前後させる話をする。昭和13〔1938〕年6月に刊行されたある著作は,当時において「国際情勢の緊迫は,先づ軍備拡充が必要である。狭義国防が実際の問題として,必要なのである。現在の機構を最も賢明巧妙に利用することが,現在の最大の課題である」と主張した。註記9)
この種の論及は,今日的な視点でうけとめるとなれば,上掲「日本経団連の憲法改正概要」などに表現された財界の意図も理解しやすくなる。その背景には,日本の企業経営も大いに多国籍化し,その活動範囲が地球規模で活発化してきた国際政治‐経済的な事情が控えていた。
財界にとって改憲要求とは,つまるところ現実への追随と,「武器輸出自由化」や「ミサイル防衛計画」参入による先端技術取得を実現するための口実ないしいいかえにほかならない。註記10)。
ニ) 吉田三千夫・藤田 実編著『日本産業の構造変換と企業』(新日本出版社,2005年3月)は,日本資本主義の今後はどこへ向かうかと問うた著作である。こう述べていた。
軍需物資の生産・販売は,企業経営にとって,たいそう「美味しい商売」の種である。このことは,近現代における産業経営史研究に俟つまでもなく,きわめて明白かつ直裁に指摘できる普遍的な事象であった。
販路=需要先としての国家からの発注を確保さえできれば,兵器・武器の製造活動ほどうまい,重工業の生産・販売という営業目的・達成は,ほかにはない。なぜなら,国家の買入保証という裏づけをもって,「その利幅の確実さ⇒利益額の絶対的な有利性がえられる」からである。
ホ) 吉田健正『戦争はペテンだ』(七つ星書館,2005年4月)は,「日本が世界的にみてももっとも近代的で大規模な軍隊を保持していることが〈事実化〉している」にもかかわらず,経済界がそのように異例の憲法改正を提言する背景には明らかに,防衛産業活性化への期待があるという。
つまり,「戦争が金融業界や軍需産業に奉仕するためのものであった」という事実に関して,具体的な例を挙げて論じていた。
武器輸出については,2004年末に日本政府と与党〔自民党と公明党〕は,いわゆる武器輸出3原則を緩和する方針を決めた。武器輸出3原則とは,1967年に佐藤栄作首相が衆議院予算委員会で表明したものである。
それは,
(1) 共産圏諸国,
(2) 国連決議により武器輸出が禁止されている国,
(3) 国際紛争の当事国〔または当事国になる虞れのある国〕への武器輸出は認めない,
という政策であった。
1976年日本政府は「平和国家としての我国の立場から,それによって国際紛争等を助長することを回避するため」,上記の地域への武器輸出を認めない,それ以外の地域については「憲法および外国為替および外国貿易管理法の精神」により武器輸出を慎む,また武器製造関連設備の輸出は「武器に準じてとりあつかう」ことを確認した。註記12)。
ヘ) 前段にも言及したとおり,武器の生産・販売にたずさわる商売ほど,素敵なものはない。「死の商人」とはよくいったものである。
なぜならば,軍需産業,すなわち「兵器」:軍艦・軍用航空機・戦車・大砲・銃・弾薬などの武器を供給する各種会社は,なによりも儲かる品物を,国家に提供する業種だからである。
国家の財政が準備・提供する軍事費は,気前よくか,あるいはしかたなしに支出されるかを問わず,当初より各種兵器を製造する会社に対して,莫大な利潤=利益を確実に保証する。その意味で,なかなかうま味のある業種なのである。この事実は歴史が証明してきた点でもある。
武器〔各種兵器や弾薬〕は,経済性や生産性よりも,軍事的性能を絶対的に重視する基準によって製造されるものであり,いわば金:予算に糸目を付けずに「そのための経費も計上・支出される」ことなる。
ト) 政治学者で国際未来科学研究所を主宰する浜田和幸は,『イラク戦争日本の分け前-ビジネスとしての自衛隊派兵-』(光文社,2004年2月)を公表していた。この著作の題名は意味深長である。浜田は,こういっていた。
前段に名称が出ていた「日本経団連の憲法改正概要」の意味あいも,これで多少は納得がいく。日本経団連(会長・奥田 碩トヨタ自動車会長)は憲法改正問題を検討し,憲法9条を改正して,自衛権確保のための自衛隊保持,集団的自衛権を明確にすることを求めている。
経済団体の幹部たちのいうことであるから,金儲けを念頭におかないわけがなく,むしろ主眼はこちらにあった。彼ら財界人いう「国防」だかと「国家安全保障」だとかいった,いわば美辞麗句的な口舌の真意がどこに向けられていたかは,説明のようもないほど明々白々であった。
「自衛権確保のための自衛隊保持,集団的自衛権を明確にすることを求める」というのは,浜田和幸の表現を借りていえば,「有事のビジネス」あるいは「ビジネスの有事」に対処するときは日本も,「正当な分けまえを主張する」ことができるよう,「日本の軍隊〔自衛隊〕を整備せよ」ということである。
財界を代表する日本経団連が「自民,民主両党や国会での憲法改正論議にも影響を与える」ような報告書を提出したのである。
チ) ジョン・K・ガルブレス『悪意なき欺瞞-誰も語らなかった経済の真相-』(ダイヤモンド社,2004年9月)は,リベラル派経済学者の立場から戦争体制への「批判」を語っていた。
ガルブレスのこの論調は,まさに反戦論である。前出の,浜田和幸『イラク戦争日本の分け前-ビジネスとしての自衛隊派兵-』が語ったごとき「21世紀戦争ビジネスの現実」を,率直に批判している。
社会科学者は,どの学問領域に属し,なにを専攻するのであれ,戦争と企業:ビジネスとの関係問題から目をそむけることが,絶対にできない「立場」にいる。
リ) ここで,ピーター・W・シンガー,山崎 淳訳『戦争請負会社』 (日本放送出版協会 ,2004年12月) を紹介しておく。原著は,Peter W. Singer, Corporate Warriors : The Rise of the Privatized Military Industry,:Cornell Univ Press,2003/08.
つぎの一文は,出版元の宣伝用「解説」からの引用となる。
辻井 喬(作家・詩人,本名 堤 清二)は,戦前の日本は軍事力を背景にした外交で敗戦にいたり,戦後は経済力を背景にしてきたけれども,「商品が売れないから武器輸出への道を開こう」といった,最近の経済界や日本政府のモラル低下をみると,「経済オンリーで,倫理や文化への尊敬を欠く国になってしまったのでは」との懸念がぬぐえない,と警告していた。註記15)
ヌ) 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』(岩波書店,2004年12月)は,大衆に差し向けられる洗脳技術:「戦争プロパガンダ10の法則」に言及している。註記16)
さきに断わっておくことにしたいのは,さきほど「ロシアのプーチン」によるウクライナ侵略戦争に言及してみたが,この宇露戦争は2024年8月下旬の時点で,すでに2年半になる。
プーチンのいいぶんは,「特別軍事作戦」と偽称したこの戦争を続行してきたなかで,以下にかかげる「10箇条の法則」を,ロシアの立場からなりに(馬鹿正直と受けとめてよいくらい率直に)告白する「戦争」の具体例になっていた
2003年3月イラク戦争をしかけたアメリカの大統領「米ブッシュ(子)大統領」もやはり,上掲の「10の法則」の過半を駆使しつつ,その戦争を盛んに煽りたてていた。同時に,テロ対策管理を名目とする国内外における政治外交的な締めつけを,よりいっそう強化した。
2001年10月に戻った話をするが,米英軍がはじめたアフガニスタン報復攻撃作戦は「不朽の自由」と名づけられ,つぎのイラク戦争は「自由を守るための正義の戦い」だと意味づけされた。
そのいわんとする核心は,アフガニスタンやイラクを「アメリカなどの自由:勝手にするための作戦」であると理解すれば,十分納得がいく標語:屁理屈である。
さて,既出の論者,吉田敏浩の『ルポ 戦争協力拒否』(岩波書店,2005年1月)は,「自由や正義のための戦い」だという大義名分=詭弁を弄しながら,イラク石油資源の独占化をもくろむ『アメリカの指導者集団=産軍複合体)』は,自国兵士の生命でさえ〈やむをえない必要:necessary cost〉とみなしている事実に触れて,さらにこう論及した。以下しばらくは註記17)。
a) バクバッドでイラク民間人の犠牲を〈やむをえない必要:necessary cost〉発言したのは,アメリカ軍兵士であったが,実は彼らも〈同じような存在〉でしかない。
2003年3月に開戦したイラク戦争で以来2年間,すでに1500名以上のアメリカ軍兵士が生命を落としている。その死者の人数はもちろん,イラク人を中心とする地元の武装勢力に攻撃〔反撃〕され,死んだ兵士たちのそれである。
アメリカのブッシュ大統領は,イラク戦争開戦2年に当たる2005年3月19日,週末恒例のラジオ演説で同戦争の意義を強調し,イラクでの「自由の勝利」が中東各地に民主化をもたらしたと自賛した。
b) イラクに派兵されているアメリカ軍兵士は,戦死も負傷もせずに国に帰れただろうか。彼らの死傷者は今後も増えつづける。
アメリカ政府・軍の高官の視点からみれば,死傷した兵士もまた戦争遂行の〈necessary cost:やむをえない必要〉として位置づけられている。
兵士は軍隊組織の歯車,軍事作戦の駒,戦争の消耗品としてあつかわれるのが,古今東西の戦争の現実である。国家によって兵士は人的資源として動員され,コストとして使い捨てられる。
c) そして,necessary cost 視される兵士が,同じよう にnecessary cost 視される他国の民衆の生命を奪っているという構図がある。
一方で,イラク民間人の犠牲者は,アメリカ軍兵士より1桁多いと思われる。その数は,あるNGOの計算によれば,戦争開始から2年間で1万7千人に上ると推算されている。もっとも,報道管制が敷かれているためその正確な数値はつかめない。
d) 結局,背後でイラク戦争に関する命令をくだす政治家たちは野望を満たし,将軍らは勲章を手にし,高級官僚は出世し,軍の仕事を請け負う企業〔戦争請負会社〕や財界人は利益をえている。
アメリカ軍の兵站支援とイラク復興事業を請け負うケロッグ社やハリバートン社と関係の深い,チェイニー副大統領のような「1人2役」の例もある。これが戦争の醜い構造‐からくりである。
e) しかし,為政者にとって,自軍の兵士の死が戦争のコストだとあからさまに口にするわけにはいかない。それでは軍人とその家族・遺族の納得,国民の戦争支持はえられないからだ。
戦争の醜い構造:からくりを覆い隠す必要がある。では,どうするのか。兵士の死は「国のために生命を捧げた尊い犠牲」と置きかえるのである。英語でいえば sacrifice である。
それは論理のすり替え,1種のシンボル操作である。遺族を招いて厳粛な軍葬や国葬がおこなわれる。戦死者は「英霊」として称えられ,葬られ,祀られる。
慰霊碑がつくられ,追悼式典も催される。愛国心が喚起される。これが戦争のもうひとつのからくりだ。そのため,兵士が自らも necessary cost 視される存在だ,ということの本質をみぬくのは,容易ではない。
f) そうしたからくりなしには戦争はおこなえない。日本の場合,靖国神社の役割を想起してみるといい。
小泉元首相が靖国参拝に固執したのも,自衛隊海外派兵の時代を迎えて新たなる戦死者を想定し,新たなる「英霊と遺族」づくりに備えようとしていたからではなかったのか。
しかし,いきなり靖国神社ではむずかしい面もある。そこで,2003年9月,防衛庁敷地内に殉職隊員の慰霊碑を中心とする「メモリアルゾーン(慰霊碑築)」が約6億円を投じて整備されたとも考えられる。
イ) 吉田『ルポ 戦争協力拒否』はまた,自民党の防衛族議員の「国民兵士:コスト観」を紹介していた。こういっていた。
♠「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむをえない」♠
この発言者は,1940年12月生まれの自民党衆議院議員の久間章生である。
これはまさに,necessary cost の論理である。要するに,国民の9割が助かるためには,1割が犠牲を強いられてもやむをえないということである。その1割は,つまり戦争のコストとみなされている。
筆者は思う。恐ろしいことをいうものである。大東亜(太平洋)戦争の犠牲者は,日本帝国臣民関係だけで3百万人以上にも上った。だが,当時の日本の人口は7千数百万人台だった。
すなわち,あの悲惨な戦争での被害者の死亡率は,日本人:民族に限れば,全人口に対して4~5分〔%〕であった。おおよそ20人に1人が戦争で命を落としたことになる。
ところが,久間章生議員は,21世紀における「今後の有事」発生のさいしては,その〈2倍の犠牲率〉を「いまから覚悟せよ」と,同胞に向かって発言した。
繰り返そう,こういった。「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむをえない」。有事が起こり戦時体制になったら,10人に1人の死者は覚悟しておけというセリフであった。もちろん,そういった当人は除外しての発言である。
〔本文に戻る ↓ 〕
ロ) さて,現在〔ここでは2004年当時〕における日本の人口の1割を計算したら,約1270万人である(2024年だったら約1240万人)。おびただしい犠牲者の数,流血の大惨事がいとも当然のごとく想定されている。
久間章生議員は自分が末恐ろしいことを述べていると自覚しているのか。
このような発言・発想を平然と,そして当然にできる人物:「防衛族」議員が推進する有事法制とは,いったいなんでありうるのか? 多分などというまでもなく,彼(ら)は,あの戦争の時代に生きていた「東條英機や天皇裕仁の発想や立場と50歩100歩」であった。
21世紀に入った現在の日本は,どこかの〈強大帝国〉によって起されて巻きこまれるかもしれない「本格的な有事」の発生を,覚悟しておく必要性が高まっている。
いまの自衛隊,死者(犠牲者)は訓練中には発生していないけれども,下手をすると訓練中に命を落とす兵士たちがほんの少数派になりかねない軍隊に変身したがっている。というよりも,アメリカ側の強請によって,そのような「従来あった自衛隊〈像〉」から,いよいよ「本格的な軍隊〈像〉」へと変質を強いられつつある。
しかも,自民党系の防衛族議員たちは,そのような戦争「観」を常識次元の軍隊認識として共有している。ならば,自分たちの息子(娘),孫たちもその「10分の1」の確率で有事には死に追いやられることを,まえもって十分に覚悟しているものと理解しておくべき……。
彼らはなんといっても,被害:犠牲者数を,20世紀半ばにおけるあの悲惨な戦争にくらべて,その4倍もの数値になる「約1270万人」=「率:1割」を覚悟しておけ(!)と,平然と公言したのである。
しかも,その数値は「仮装敵国:交戦国」の被害:犠牲者の大きさは,まだ計算に入れていなかったものでもある。
ハ) ともかく,人数の多少にかかわらず「犠牲はやむをえない」などと,簡単に片づけさせてはならない。
「犠牲はやむをえない」との論理を容認したら,為政者の戦争に対する抑制意識をゆるませることになる。政府が誤った判断で戦争をおこない,多くの犠牲者が出ても「やむをえない」といういいわけで許される逃げ道を,あらかじめ用意しておくことになる。
それは,戦争・武力行使に対する抵抗感を弱め,歯止めをなくすことにつながる。軍事が優先され「犠牲を生まないために戦争をしない,してはいけない」という政治の重大な責任,平和外交努力などが二の次にされてしまう。
ここで注意しなければならないのは,為政者がわ,つまり政府高官や国会議員,高級官僚,自衛隊高官(軍高官),財界人,そしてその関係者や一族など地位と権力をもつ者たちは,けっして「1割の犠牲」に含まれないことは,先刻織りこみずみ,しっかり計算ずみという点であった。
彼らはいつもそのように,じぶんたちだけは安全圏に身をおきながら命令を下す。かつてのアジア・太平洋戦争でもそうだったことは,説明の要もなかった。
なかんずく,その有事法制・国民保護法制も「安保・防衛懇報告書」も,その根底には,非情な necessary cost の論理があることをみぬかねばならない。
※-4「自国民の命も他国民の命も戦争のコストとみなすその論理」を容認するなら,そのつけはいつか必らず市民1人ひとりにまわってくる。
筆者は思う。まったくそのとおりである。アジア・太平洋戦争の結末は,前段に描かれた顛末,甚大な犠牲をもたらした。その歴史的な事実を,よもや忘れたわけではあるまいに,それ以上:4倍もの被害・犠牲者を当然のことのように語る政治家〔否,政治屋・戦争ゴッコ屋〕の気持がしれない。
前段に参照した,吉田『ルポ 戦争協力拒否』はさらに,戦前に日本帝国の犯した侵略戦争の前歴・失敗も指摘している。
a) 日本にはかつて「満蒙は日本の生命線」「自存自衛のため」など美名のもと,侵略戦争を起こした前歴がある。その15年にわたるアジア‐太平洋戦争は,アジア諸国の2千万人以上の命を奪った。
前述のように,その戦争のため3百万人以上もの日本人も命を落とした。「自衛」や「邦人保護」を理由にした海外派兵が破局にゆきついた歴史を,いまこそ振りかえらねばならない
b) 日本という国は,日本国民は,アジアの人びとの生命を大日本帝国膨脹のため当然の, necessary cost =「当然の犠牲」とみなしていった。別言するなら,アジアの人びととその生命を食い物にして,国威を発揚し,優越感と大国意識にひたり,侵略と植民地支配の果実も味わった。
しかしまた,日本国家によって多くの日本国民が人的資源として動員され,戦場で,銃後の守りで,あたかも消耗品のようにあつかわれ,使い捨てられた。そのはてに,1945〔昭和20〕年8月の無残な末路にゆきついた。
c) 戦後の日本は,加害者になることでその報いとして被害者にもなるという歴史を,2度と繰りかえさない道を歩むはずではなかったか。しかし,このままではかつてと同じ轍にはまりかねない,かまわないという発想・考えかたが頭をもたげ,大手を振って歩きだそうとしている。
だからその反面では,日本国憲法第9条の存在意義が,東西冷戦構造の崩壊以後,急速に棄損されつつある。
なぜなら,一国帝国主義的な世界制覇をめざすアメリカは,今後も都合よく日本を属国的な地位にとどめておき,大いに利用したいのであり,その意味でもいまや第9条は邪魔ものになったのである。
日帝はかつて,アジアを侵略するための軍隊を保有していたが,こんどはなにゆえ,アメリカ経済帝国主義路線のために自国の軍事力〔自衛隊〕をいいなりに提供しなければばならないのか。
この国は,東アジア圏に対するアメリカの野望・利害に対して,ひたすら協力する政治的立場しかとれない。この国は,独自の外交的理念をもってアメリカに対抗する政治力がなく,みずから未来を展望し主体的に創造する気概もない。
※-5「世界の警察官」としてのアメリカ
「世界の警察官」としてのアメリカの独善主義は,多くの国々の人々の反撥をかっている。
モンロー主義の継承をとなえたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトでさえ,やむをえない場合にはアメリカは,世界の警察官の役をはたさざるをえないという演説をおこなっている。
「戦争をなくすための,あるいは回避するための戦争」,「人権擁護のための人権抑圧」。これはまるで,ジョージ・オーウェル『1984年』の世界である。
アメリカ的資本主義の原理による世界国家の実現というブラックユーモアをどう考えるか。これはもはや,経済ファシズム,経済全体主義世界国家にほかならない。註記18)
なお,ジョージ・オーウェル『1984年』(原作1949年)の描いた世界とは,「強大な国家権力が生んだ悪夢の新世界! 現代にひそむ危機」であった。註記19)
オーウェルはフィクションの形式でその悪夢を語っていたが,われわれはいまそれを「正夢」として,まさに対面させられてきたのである。
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【参考資料集の紹介】 つぎに紹介する資料「集」は,本稿の考察にとって勉強になる収集をしているので,ここで書きとめておくことにした。
そのリンク先住所も下に書かれているので,こちらをクリックして入ってほしい。ただし,分量が膨大なので覚悟して接してほしいところである。
★ 鳥越恵治郎 「第37話:USA第51州の実態」『日本という怪しいシステムに関する一見解』初稿1999年10月29日,平成15〔2003〕年5月16日改定,平成26〔2014年〕年4月17日一部改定),http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html
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