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関東大震災「問題」を再考する(2)

 この記述「関東大震災問題を再考する(2)」では主に,当時,関東大震災で殺された朝鮮人:東京府で起きていた話題をとりあげて議論する。なお「本稿(2)」の初出は2009年9月6日,2021年8月30日に更新し,本日2023年8月30日,改訂した。
 付記)冒頭の画像資料は,行論中に登場する著書の表紙カバーであり,これを借りた。
 

 ※-1 前 論

 「本稿(1)」を書き出したのは昨日の8月29日であったが,その日の『毎日新聞』夕刊2面「オピニオン」には,「私の9月1日=小国綾子〔稿〕」という題名で,関東大震災発生直後に起こされた「朝鮮人大量虐殺」に関連させて,その「本稿(1)」でも触れた話題に関係するつぎの一文が掲載されていた。

  ★ 映画「福田村事件」より(©「福田村事件」プロジェクト2023)★
      =『毎日新聞』2023年8月29日夕刊「オピニオン」=

 9月1日に全国公開される劇映画「福田村事件」(森 達也監督)を試写で観た。

 関東大震災後,「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマを信じた群衆が,各地で朝鮮人を虐殺するなか,千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)では震災5日後に事件が起きた。

 香川県の被差別部落から来ていた薬の行商人15人が,朝鮮人と誤認され,村の自警団に襲われ,幼児や妊婦を含む9人が惨殺されたのだ。映画は,長い間闇に葬り去られていたこの事件を取り上げている。

 自警団一人一人は善良な村人たちだ。「朝鮮人が襲ってくる」というデマを信じ,家族の命,そして村を守るため,猟銃や竹やりをもって駆けつける。行商人の男を殺し,駆け寄る妻を殺し,「母ちゃん!」と泣いてすがる子どもたちをも殺す。「落ち着け」と自警団をなだめていた村長はつぶやく。「こうなるともう止めらんね」

 渦中の村人が一瞬ちゅうちょする場面がある。「日本人だったらどうする?」 裏返せば「朝鮮人なら殺していい」ということか,と私は息苦しくなった。行商人たちの命を救おうと割って入る村人たちもいる。彼らはこう叫ぶ。「この人たちは日本人です!」 日本人だから殺すな,であって,誰も殺すな,ではないことが,ただ胸に刺さった。

 森監督は記者会見で「加害者を単なるモンスターにしたくなかった。人間は善良なままでも残虐になれる」と語った。〈集団〉で,しかも〈不安や恐怖〉>をあおられた時,人は暴走する。善良なまま人を殺す。自分がもし村人の1人だったら,殺りくを止められたか,絶対に加担しないといえるか,と自問せずにいられなかった。

 もうひとつ,自問したことがある。

 映画を観たあと,私は初めて関東大震災の翌々日3日の東京日日新聞(毎日新聞の前身)の紙面を調べた。デジタルアーカイブとして残された紙面の写真には,〈鮮人いたる所めつたぎりを働く〉〈各所に放火〉などの見出し。警察の発表による記事なのか,経緯は分からない。ただ混乱のなかで,大勢の被災者がこれを読んだのだ。

 100年前,新聞がなにを書きなにを書けなかったか。自分が当時の記者ならば,なにができたのか。それを考えることから始まる私の9月1日だ。  (オピニオン編集部)

福田村事件

 この3ヵ月ほどだが,『週刊文春』が10週間連続で書きつづけている「岸田文雄政権の官房副長官木原誠二」の醜聞を,どういう事情があるのか,いままで大手紙の1社も言及しない,報道しようとしていない。

 ただ地方紙の『信濃毎日』が2023年8月27日,「火消し役の木原氏,自らが火種に 不審死巡り,妻聴取の報道 〈政界探見〉」というかたちで,コラムの記事をもって言及していた程度であった。安倍晋三の第2次政権以来,この国の新聞社は大手紙を見本にして完全に無力化状態に転落している。

 そこには,文春の取材力にかなわないとか,その裏事情まで読みとれないとか,あるいはとくに最近は大手紙の経営事情(販売部数の低下傾向)が背景にあって,優秀な記者であればあるほどどんどん退社してしまう傾向が生じていた新聞業界ゆえか,「朝日新聞社・毎日新聞社・読売新聞社」など大手紙の非力さかげん(読売新聞社だとくわえて反動的な体制擁護の立場が顕著であるが)にはほとほとうんざりさせられるし,ともかく呆れかえるほかなかった。

 新聞社としての「社会の公器」性など,いまの時期には皆無どころか,有害である新聞社まで実在するのだから,いい迷惑どころか,日本の政治社会を劣化・腐朽させる役目まで発露していて恥じない。

 かつては,日本の新聞業界も「第4の権力」とみなせるだけの実力:取材力・報道力があったはずである。ところが,今は昔,すっかり落ちぼれている。新聞紙としての「社会の公器」性は,期待しようにもすでにゼロに近い惨状だとみなすほかないくらい〈腰抜けの体質〉も悪化した。

 要は,政権に対する忖度体質が骨の髄まで染みわたり,まともな報道が全然できない。つまり「体制に対する忖度」の度合は「病膏肓に入ってしまって」から,すでにだいぶ時間が経過してきた。ゆえに,いまどきとくに大手紙に対してその本来の任務に精励せよと叱咤激励したくとも,その期待をする以前に失望させられる業界の風景が目の前に広がっていた。なにをいってもいまさら良くはなるまい,という正直な印象さえある。

 昨日(2023年8月29日「本稿(1)」)の記述,その冒頭付近の記述でもすでに触れていたが,東京都知事小池百合子は,関東大震災で罹災し被災者となって死亡した日本人たちとその直後に大量に虐殺された朝鮮人たちを区別したあげく,後者に対しては石原慎太郎が都知事の時代には黙って送っていた追悼文を,自分の代になってからそれも2017年からは急に出さないといいだした。

「朝鮮人は生きていても死んでいても嫌いな小池百合子」

 その理由がふるっていて大震災の事故関連で死んだのは同じだから,両者を特別に識別してそれも後者の「日本人たちに殺された朝鮮人たち」を別枠で追悼する必要はない,といっていた。

 そういうリクツが通せるのであれば,関東大震災の直後,香川県から千葉県の野田市(現在の地名)に行商に寄っていた一行15人が「朝鮮人と誤認され,村の自警団に襲われ,幼児や妊婦を含む9人が惨殺された」事件も,地震のせいで命を落とした日本人たちともなんら差はない,という解釈ができるに違いあるまい。

 いいかえると,関東大震災直後に起こされた朝鮮人などの大量虐殺事件は,日本人であっても朝鮮人であってもその自然災害が自然かつ必然にして惹起させた集団的な殺人事件であったゆえ,地震そのもの被災者となって死亡した日本人たちとのあいだに,格別の差はみいだせないという「リクツ以前の支離滅裂なる考え」が披瀝されていた。

 すなわち,関東大震災の被災者は,つぎのように分類することができる。

  ▲-1 日本人で地震:自然災害によって死亡した者たち
  ▲-2 日本人で日本人の手によって殺害された死亡者
  ▲-3 朝鮮人で日本人の手によって殺害された死亡者

 以前,小池百合子都知事は▲-1と▲-3の識別(大地震で死んだ日本人とその直後に日本人に殺された朝鮮人)の必要などないといいはっていた。しかし,こんどはそれに▲-1と▲-2(日本人に殺された日本人)の区別は,必要が「あるのか,ないのか」とまで訊いてみたくなる。この設問は理の必然である。

 そのような設問を立てたところで,小池百合子に対してわれわれがその種の質問を直接提示できるわけではない。けれども,「日本人と朝鮮人」という枠組に重なって「日本人に殺された『日本人』と『朝鮮人』」という枠組が対置されるとなれば,

 とりわけ▲-2の「殺された日本人」に対する追悼の仕方は,▲-1と同じでいいのか,つまりいっしょの範疇に入れてよいのか,という疑問が当然湧いてくる。

 もしも,▲-2をやはり日本人なのだから,この殺された人たちは特別:別個に追悼する余地があるなどといったら(小池百合子がそこまで考え答えるわけはありえない?),小池の精神は完全に分裂した心理に嵌っていると解釈してよい。

前段の画像資料に紹介した記事で,「小池知事は『犠牲となったすべての方々に哀悼の意を表しており,個々の行事への送付は控える』として同式典に追悼文を送らなくなった」と語っていた。

 より一般的な話題に引き下ろして表現すると,老衰で寿命が尽きた98歳の老人も自動車事故で撥ねられ死んだ91歳の老人も同じに死んだにすぎず,その死因に差などないといっているに等しい。

 前段,交通事故の比喩が適当かどうか疑問がないわけではないが,ともかく,98歳の老人の死は「よく往生してくれた死」であるの対して,交通事故死した91歳の老人の死は,その死に関した「個々の事情」にはいっさい顧慮する必要などないと断じたら,なんと分からず屋の冷酷な者かと非難されるはずである。まだ,その老人にはまだまだ長生きしてほしかったのに,という同情があってしかるべきなのである。

 しかし問題は,関東大震災直後に発生した朝鮮人犠牲者は,いまだに発掘されていない犠牲者数もないとはいえず,朝鮮人側が調査した数字では再考で6661名も殺されていたと積算されている。

 その殺された朝鮮人たちの霊を慰めるための式典が毎年,東京都の場合だと,東京都慰霊堂がある横網町公園(墨田区)で開催される追悼行事に,2017年以前は都知事の立場から送っていた追悼文を,その後は送付の必要なしと決めていたのが,小池百合子都知事であった。

 ある意味でというまでもなく,冷酷無比な政治屋の1人がこの女性都知事であった。敗戦した旧大日本帝国時代における出来事のひとつとして,関東大震災直後に起きた朝鮮人大量虐殺事件を,「嫌韓・反韓意識のためか認めたがらない」小池百合子のような偏執的な態度は,おまけに,その虐殺された朝鮮人の統計が多すぎるとかなんとかいって難癖をつけては,その事件そのものの全体まで否定したがる性向まであった。

 21世紀の今後においてこの日本は,東アジア地域において孤児になりそうな気配があり,なにかと心配である。アジア軽視の基本姿勢を裏づけるこの国の土台が「対米従属国家体制」にあるとしたら,これほどみじめな国柄はない。「美しい国へ」進みたかったこのジャポンであったが,関東大震災時の朝鮮人逆説事件をともかくすなおに認めたがらない根本精神は,韓国(や北朝鮮)だけが注視しているのではない点で,従軍慰安婦問題に類似している。

 世界文化遺産の『軍艦島』において実際に記録されてたい朝鮮人(人民)と中国人(兵士)の強制連行・労働という「歴史の事実」を,一般庶民まで束になって否定しまくる日本側の基本姿勢は,海外からはけっして評価されず,そもそも尊敬されず,蔑視されている。

 軍艦島の事例の場合,その強制連行・労働の事実を案内すると事前に約束していながら,実際のところは完全に握りつぶしている。しかも,日本という一国の立場をもって事後,そのようにひたすら,ごまかしの対応をしつづけている。

 

 ※-2 戦前,朝鮮で生まれた日本人女性が,関東大震災直後に虐殺されて犠牲者になった朝鮮人の遺体を探すために,掘り起こそうとした「過去の歴史」の解明作業は,一方で,朝鮮人を虐殺してきた日本国・民たち側における周到な隠蔽工作の努力とその痕跡をみいだしていた


  要点・1 絹田幸恵の著作『新版 荒川放水路物語』新草出版,1992年はなにを語りかけるのか

  要点・2 1923年9月の関東大震災直後,虐殺した朝鮮人の遺体を荒川の河川敷に埋めて隠したが,その後さらに掘り返してどこかへ移動し,始末した。戦前の当時における「その虐殺事件」に関した「東京下町史の記憶」は,帝国政府側の終始一貫していた隠蔽工作のために翻弄させられてきた

  要点・3 もっとも,地元住民なども1945年になると,米軍B29の執拗なる大空襲:都民無差別じゅうたん爆撃によって,多数の犠牲者を出すに至った。ともかく「自国・民の被害」は大声で海外に向けてまで叫ぶが,しかし「他民族に対する加害の責任」は,まさに『沈黙が金』である要領で徹底して隠蔽してきたその「歴史の闇」を探る

 ◆-1「荒川放水路物語」2013-08-16

 荒川放水路の工事は,明治の終わりから大正をはさんで昭和のはじめまでの,世界と日本の歴史を背景に,掘削機が出現したり,不景気に見舞われたり,関東大震災に直撃されたりしながら進められていくのだった。

 歴史というものは,どこか遠い所での出来事で編まれていくような感覚をもっていた私にとって,歴史を刻むものはそこにあり,足元から学ぶんだ,と教えられたような気がした。 

 註記)絹田幸恵『荒川放水路物語』新草出版,1992年,〔まえがき〕8頁。

 通水〔の〕前年〔1923年〕の関東大震災時には,河底になる予定の空き地が避難所として大きな役割を果たしました。一方で,筆者〔絹田〕が聞き取り調査のなかではじめてしって衝撃を受けているように,震災時の朝鮮人虐殺の舞台となるという悲劇も発生しています。筆者の聞き取りに応じた墨田区のとある住民は語ります。

 〔1923年9月〕3日に,習志野から騎兵隊が来ました。兵隊は荒川駅の南,旧四つ木橋の下手の土手に,あちこちから連れて来た朝鮮人を,川のほうに向けて並ばせ,機関銃で撃ちました。撃たれると土手を外野の方へ転がり落ちるんです。でも転がり落ちない人もいました。

 何人殺したのでしょう。ずいぶん殺したですよ。私は穴を掘る手伝いをさせられました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。ほかから集めてきたのも一緒に埋めたんです。いやでした。

関東大震災直後に朝鮮人を殺してきた軍隊は荒川土手・河川敷で
その犯行におよんだという証言

 1924年6月20日,13年の工期を経て全放水路における通水が実現します。のちにおこなわれた通水式には,昭和天皇(当時は摂政宮)や都知事も出席し,ここに東京東部における治水事業の一大プロジェクトは完遂されます。総工費3144万6千円,延べ310万人が従事し,掘削された土砂の量は1億2700万立方メートルにのぼりました。

 註記)絹田『荒川放水路物語』200-202頁参照。

 総註記)以上の記述は主に,「荒川放水路物語」『Nagazu-monologue』2013-08-16,https://kosuke64.hatenadiary.org/entry/20130816/1376663103 に依った。

 関連する図解(計画図面など)を以下に紹介しておく,このうち絹田幸恵が注目した荒川放水路完成後の場所は,四ツ木橋付近であった。つぎの地図では,上方のほぼ真ん中(の右寄り)付近に「四木橋」が位置する。京成電車の鉄橋が左手に平行して渡されている。

荒川放水路解説図

 補注)上掲の資料は東京付近だけの工事関係計画図であるが,つぎの図面は上流においても治水工事がなされていた点を説明している。

荒川放水路計画案

 ◆-2「小池知事,5年連続で関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼文送らず 式典実行委が都に抗議声明」『東京新聞』2021年8月24日 06時40分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/126373

 〔2021年〕9月1日に墨田区・横網町公園で催される,関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典の実行委員会は〔8月〕23日,小池百合子知事が今年も式典に追悼文を送らないことが分かったとして,都に抗議声明を出した。知事の追悼文取りやめは5年連続となる。

 追悼式典は1974年に始まり,毎年,歴代の都知事が追悼文を送ってきた。小池知事は就任2年目の2017年から「都慰霊協会が営む大法要ですべての震災犠牲者を追悼している」として,個々の式典への送付を取りやめている。実行委は追悼文を送るよう知事側に要請したが,「送らない」との返答があったという。

 この日,都庁で会見した実行委の宮川泰彦委員長(80歳)は「民族的な差別意識などで虐殺された人は自然災害の犠牲者とひとくくりにせず,二度と同じ過ちを繰り返さない姿勢を示してほしい」と訴えた。実行委から抗議声明を受け取った都の担当者は「知事に速やかに伝えるが,都の方針は変わらない」としている。

 追悼式典は〔9月1日〕午前11時に開会。新型コロナウイルス対策のため,昨〔2020〕年と同様に行事をオンライン配信する。(引用終わり)

『東京新聞』2021年8月24日

 小池百合子都知事の「政治家としての行動を観察している」と,はたして確たる政治思想に相当する信条なり理念なりの「なにか」が,いくらかでも控えていたようには,とてもみえなかった。しかし,この東京都における関東大震災の朝鮮人犠牲者に対する彼女の「価値判断」は,都知事になってから “途中で急に” みせはじめた “反動形成としての具体的な面相” であったことだけは,明瞭に読みとれる。

 つまり,歴史修正主義および極右反動の立場,そして嫌韓・反韓の感情をムキだしにした彼女の〈ある種の姿勢〉は,はたして,自分自身の確たる政治的な行動原理にもとづくものであったのか,疑問があった。

 いいかえれば,彼女が2016年2月に都知事になってから,それも突如その翌年になって,ともかくまっとうには周囲に説明できないまま,ドタバタと偏向して採ったそれであった。

 機会主義・現象追随・状況ベッタリズムでの行動様式しか採らない都知事小池百合子の立場だったゆえ,関東大震災の朝鮮人犠牲者に対する彼女の言動は,複雑であるかのように映っていて,正直なところまた,なおかつ単純明快でもあった。だから,彼女は自身ではけっして自分に行動については語らない。語れば,ただそのお粗末な思考回路の粗雑性が衆目にさらされるだけ……。

 もっとも彼女はもともと,まともに合理的に前後して説明しうるリクツそのものを,寸毫ももちあわせていなかった。要は,もともとレイシストとしてのご都合主義的な差別意識ならば,その体内にたっぷり湛えていたに過ぎない。
 

 ※-3「関東大震災から97年,墨田区で法要 小池知事,朝鮮人虐殺に触れず」『東京新聞』2020年9月2日 05時50分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/52547

 1923年の関東大震災から97年となった〔2020年9月〕1日,犠牲者の慰霊法要が,東京都墨田区の横網町公園の都慰霊堂で営まれ,遺族ら約30人が追悼の祈りを捧げた。新型コロナウイルスの感染拡大を受け,参列者は例年の1割以下に。

 式典では,小池百合子都知事の追悼の辞を,武市敬副知事が代読。「東京は震災と戦災で二度焦土と化したが,その度に先人たちは困難を乗り越え,平和と繁栄を築いてきた。被災の記憶を決して風化させず,つぎの世代に語り継ぐ」と述べた。震災時に起きた朝鮮人虐殺については言及しなかった。

 参列した中央区月島の小久保富美子さん(76歳)は,震災で夫の親族らが亡くなった。「災害はいつ起きるか分からない。大きな犠牲を払ってえた教訓を,子や孫たちに伝えつづけたい」と話した。

 関東大震災では,相模湾を震源とするマグニチュード 7.9 の地震で,約10万5000人が犠牲になった。横網町公園は当時,旧陸軍の被服廠跡地で,避難した約3万8000人が火災に巻きこまれ命を落とした。

  ♠ 虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式も 都知事,今年も追悼文送らず ♠

 関東大震災のさいに虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典も〔9月〕1日,横網町公園で開かれた。新型コロナ感染予防のため一般の参加を中止。小池都知事は今年も追悼文を送らなかった。

 日朝協会東京都連合会などでつくる実行委員会主催の式典に,実行委関係者ら約60人が参加し,インターネットで生中継された。宮川泰彦委員長は「朝鮮人虐殺を否定する流れがあるが,同じ過ちを繰り返さないためにも過去の事実から目をそむけてはいけない」とあいさつした。

 追悼の辞を述べた日本平和委員会の千坂純事務局長は「小池都知事は追悼文を拒否しつづけ,事実上,大虐殺を否定する潮流に手を貸している」と批判した。

 式典会場の近くでは,保守系団体「そよ風」などによる集会もあった。昨〔2019〕年は「犯人は不逞朝鮮人」などの発言があり,都は今〔2020〕年8月,これらの発言をヘイトスピーチに認定した。
 

 ※-4「歴史修正主義を正す… 第2回人権セミナー『黙過できぬ虐殺否定』」『民団新聞』2020-12-11 11:38:00,https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=1&page=1&number=26599&keyfield=&keyfield1=&key=

 a) ネット言論に警戒必要

 民団中央本部人権擁護委員会(李 根茁委員長)は〔2020年12月〕4日,東京港区の韓国中央会館で在日韓国人法曹フォーラム(李 宇海会長)と共催で「第2回人権セミナー」を開催した。

 昨〔2019〕年に続き,関東大震災の朝鮮人大虐殺とヘイトスピーチをテーマに歴史修正主義を検証した。昨年の第1回は200人規模。今年は新型コロナウイルス感染拡大を踏まえ,定員を60人程度に設定したが,民団や日本の市民運動関係者ら80人余りが参加した。

  (中 略)

 開会式で呂 健二団長は「3年後は関東大震災から100年を迎える。その時にはぜひ日本政府からなんらかの追悼メッセージが出されることを望みたい」と述べた。李会長は「虐殺否定論を被害者の末裔でもある私達が黙過してはならない。在日同胞と日本市民が人知を合わせていく場にしたい」と呼びかけた。

 b)『トリック「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち」の著者の加藤直樹さんは,「朝鮮人犠牲者追悼式典をめぐる2020年の攻防」と題して講演。

 小池都知事の4年連続追悼文見送りや朝鮮人虐殺を疑問視する団体「日本女性の会 そよ風」が,昨〔201〕年9月に東京都内の横網公園内で開いた集会での発言が「ヘイトスピーチ」と認定されたこと,今〔2020〕年9月の追悼集会に対する都の「誓約書」要請が若手中堅の弁護士の反発によって事実上撤回されたことなどを取り上げ,

 工藤美代子,加藤康夫夫妻による虐殺否定論を記述した著書など,ここ数年,台頭している「虐殺否定論」の経緯と小池都知事の歴史認識など背景を解説しながら,史実を消し去ろうする企みを許してはならないと警鐘を鳴らした。

 c)『ヘイトスピーチ』『ルポ差別と貧困の外国人労働者』などの著者でジャーナリストの安田浩一さんは「なにが(誰が)日本社会のヘイトを加速させたのか」と題し,差別の質の変化を説明し,ヘイトを「育てる」ネット言論,SNS,大手メディア,常態化する「嫌韓報道」にあわせて各地にある「朝鮮人慰霊碑」の撤去や碑文の修正など,排外主義集団に歴史の書きかえを指摘しながら,「これら差別と偏見を煽っているのは,社会,メディア,国であり,日本の国家といっても過言ではない」と力説した

 さらに「差別のない社会にむけてなにを闘うのか,誰が闘うのか,なんのために闘うのかをしっかり意識しながら,訴えて続けていきたい。皆さんと力を合わせていきたい」と呼びかけた。

 d) 続いて,「関東大震災に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と「グループほうせんか」の慎 民子さんは,会の歩み,2009年に荒川土手に建立した「追悼碑」とミニ資料館「ほうせんかの家」にまつわる約30年間のエピソードを語った。

 最後は民団中央本部の徐 元喆事務総長が「潜在し続けるもの」と題して,関東大震災の朝鮮人虐殺と2012年以後のヘイトデモなどの心理的虐殺や1923年の自警団と現在の「自警団」への拡散,いまに至る「征韓論」などを解説した。

 参加者との意見交換の後,大震災犠牲者の冥福を祈り,参加者全員が黙祷を捧げた。閉会のあいさつで李委員長は「歴史の事実を改ざんさせないためにも,このセミナーを続けていく」と強調した。(引用終わり)

 以上の記述に関しては,つぎの専門的な論考を紹介しておきたい。

 田中正敬「【特集】関東大震災90年-朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(2) 関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」『大原社会問題研究所雑誌』第669号,2014年7月,http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/669-02.pdf,26-27頁 から。

 2009年には東京の荒川河川敷脇の私有地に「悼 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」が,「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と「グループほうせんか」の両者により,市民の基金をえて建立された。

 当初はこの碑を朝鮮人虐殺の地である東京墨田区の荒川河川敷に建立しようとしたが,行政に拒否され,河川敷脇の私有地を購入して建てられたものである。この地で調査を続けてきた西崎雅夫氏は,さまざまな虐殺関連の記述が載った資料を収集し,

『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京下町フィールドワーク資料』2011年

『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』2012年

『関東大震災時・朝鮮人関連「流言蜚語」・東京証言集』2012年

を作成した。

 以上三冊とも私家版であったが,のちにつぎの2著となって公刊されている。

 『九月,東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』ころから,2014年。

 『 TRICK トリック 『朝鮮人虐殺』をなかったことにしたい人たち』ころから,2019年。
 

 ※-5 関東大震災で殺された東京府の朝鮮人-植民地だった朝鮮で生まれた日本人絹田幸恵の著作『新版 荒川放水路物語』新草出版,1992年は,関東大震災犠牲者掘り起こしに貢献する業績

 a) 関東大震災時,東京で起きた朝鮮人虐殺については,在日韓国人が組織する団体である「在日本大韓民国民団」中央本部発行の機関紙『民団新聞』2009年9月2日号,https://editor.note.com/notes/nb406df047e22/edit/ にも,『「追悼の碑」建立 関東大震災で虐殺された同胞しのぶ-四ツ木橋たもと私有地 市民団体が20年がかり-」という記事が掲載されていた。

 1923 年9月1日に発生した関東大震災時の混乱のさなか,荒川にかかる東京・墨田区の旧四ツ木橋付近で軍隊に機関銃で撃たれたり,民間人の手で虐殺された多くの同胞を悼む碑(つぎの写真)が,橋のたもとにある私有地に完成した。

関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

 1982年から荒川河川敷で同胞犠牲者を追悼してきた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と「グループ ほうせんか」2団体が1991年に追悼碑基金を発足させ,募金に取り組んできた。

 石碑の表面には「悼」の一文字。希少とされる天然の根府川石だけがもつ少し赤みがかった肌を通し,手彫りのもつ温かみが伝わってくる。「グループほうせんか」の西崎雅夫代表は,「シンプルに,素直に私たちの心を表した」と語った。

 淡いグリーンの裏面には,「多くの韓国・朝鮮人」が「日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって殺害された」ときっちりと書かれていた。地域住民に配慮して加害者をぼかさざるをえなかったこれまでの碑とは様相を異にしている。

追悼碑・建立辞

 石碑の左側に設置されたステンレスプレートには,建立の経緯や当時の時代背景を書いた。最後の文章は「犠牲者を悼み,歴史を省み,民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う」と締めくくられていた。

 b) 建立地は墨田区八広の12坪の私有地で,両団体が購入。石碑は高さ約 1.5㍍,幅 1.2㍍。回りには飛び石を置き,周囲をフェンスで囲った。来〔2010〕年にはこれまで荒川河川敷に植樹してきた無窮花を移し替える。

 過去30年間近くにわたり,荒川河川敷での追悼式に欠かさず出席してきた亀戸浄心寺の野村盛彦住職が石碑の前に立ち,魂入れの儀式を執りおこなった。つづいて,近隣の住民らがつぎつぎに献花した。

 民団東京葛飾支部からも申 正意支団長が出席した。あるお年寄りは,「追悼碑建立によって私たちの気持ちもようやく落ち着いた。毎日,ここを通るから,これからはいつでもお参りできる」と話していた

 これまでコツコツと呼びかけてきた建立募金は約700万円に達した。固定資産税など,維持管理に必要な資金はこれからも募金でまかなう。郵便振替口座は口座名「韓国・朝鮮人追悼碑基金」,口座番号00160‐8‐0603476。問い合わせは(℡03・3614・8372)西崎雅夫方。

 c)〔当初は〕惨殺した遺体を旧荒川河川敷に埋葬〔しておき,ネコババにした〕つもりであった。

 関東大震災のとき,墨田区では本所地域を中心に大火災となり,荒川土手は避難民であふれた。そこに「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」といった流言飛語が飛び交い,旧四ツ木橋では軍隊が避難してきた朝鮮人を機関銃で撃ち,民衆も殺害にくわわった。震災直後には,憲兵警察が警戒するなか,河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも2度にわたって掘り起こされどこかに運び去られたという。

  1975年ごろ,荒川放水路開削工事の聞き書きをしていた小学校教員の絹田幸恵さんが,お年寄りから虐殺の事実を聞き,1982年に「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」準備会を発足させ,住民延べ150人から証言を集めた。〔19〕91年からは追悼碑建立に向けて自治体や国と交渉を重ねてきた。

【参考記事】-『現代ビジネス』から-


 ※-6 絹田幸恵の貢献

 以上の記事を読んで,「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」というブログに,絹田幸恵の言及があることに気づいた。そこから抜き書きするかたちで引用・紹介する。

 絹田幸恵(きぬた・ゆきえ,旧姓 井上幸恵,1930年~2008年)は,1930年11月7日,当時日本統治下にあった朝鮮・咸鏡南道に,5人兄弟の第2子(長女)として生まれる。父は経理畑を歩んだ軍人だった。母は読書好きで,「どこからともなく」本を手に入れてきては読ませてくれたという。一家は,幸恵が2歳のとき,岡山県英田(あいだ)郡に帰郷。

 a) 1945年4月,岡山師範学校女子部(旧・岡山県女子師範学校)に入学。戦時下であったため,ほとんど授業はおこなわれず農作業に狩り出される毎日だった。同年6月29日,岡山空襲で男子部・女子部とも校舎の大半を焼失,絹田も住んでいた学生寮から焼け出された。8月終戦〔敗戦〕。

 1950年,岡山大学教育学部を卒業。その前年の1949年,岡山師範学校は新制大学に移行していた。師範学校は3年で修了するはずだったが戦中・戦後の混乱のため5年かかっての卒業となった。帰郷して英田郡で小学校教員となる。

 1957年,退職後,上京。夫となるべき人がそれより先に上京していた。8月,東京で教員採用試験を受験・合格。9月から足立区で小学校教員となる。

  b) 1972年ごろ,4年生の社会科で足立区の人びとの「くらしと水」の学習をしようとしたときだった。学校の近くを流れる荒川放水路(現・荒川)が人工の川であると教えた時に,そのなり立ちを尋ねる子どもたちの質問に絹田は十分答えることができなかった。

 絹田は子どもたちの質問を聞き捨てにしておくことはできなかった。放水路についての詳細な資料は探したけれどみつからなかった。絹田は,それではと,自力で放水路の歴史を調べ始めた。

 夏休みごとに放水路の近くの旧家を訪ね,話を聞き,また,荒川や利根川の工事事務所に行き,多数の聞き書きと写真と資料を集めた。それらはスライドや台本のかたちにまとめられ教材となって授業で使われた。

 c) 1977年ごろ,放水路の調査・聞き書きをしているときに,絹田は1人の古老から,関東大震災時に荒川放水路・旧四ツ木橋下手で多くの朝鮮人が虐殺されたこと,その骨は埋もれたままになっていることを聞かされ,そして,「お経でもあげてくれれば供養になるのだが」という言葉を聞いた。

 絹田はこれを聞き流しておくことができなかった。「たいへんなことを聞いてしまった」と絹田は感じた。絹田はそれまでに聞き書きのために訪ねていた墨田区の多聞寺,万福寺,正覚寺,江東区の浄心寺などの寺に相談した。しかし,どんなかたちで供養すればいいのか,そのときの絹田はまったく途方に暮れていた。

 d) 1982年,この年,事態は大きく動いた。

 当時,旧中川の河川対策が大きな問題となっていて,NHKも報道番組でそれをとりあげていた。絹田は荒川放水路調査の一つとして川に詳しい人を教えてもらうためにディレクターの平塚千尋をNHKに訪ね,高野秀夫を紹介された。

 NHKは,旧中川の改修問題に詳しい高野秀夫を特集番組の司会者に頼むべきかどうか検討していたころだった。高野は元・江戸川区議会議員,数々の市民運動において指導的役割を果たしていた。

 絹田は高野についてどんな人がまったくしらないまま,江戸川区内の自宅に高野を訪ねた。高野は川について絹田に教えてくれただけでなく,虐殺された朝鮮人を供養するにはどうしたらいいかという絹田の思いに真剣に耳を傾けた。高野は大切な問題だから遺骨の調査をしてみようではないかといった。「高野さんと出会わなければどうなっていたでしょう」と絹田は高野への感謝を隠さない。

 e) 同〔1982〕年6月13日,高野の呼びかけに応えて「絹田先生を囲む会」が開かれ,同7月18日には「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」準備会が80余名で発足した。仮代表は山田昭次(日本近代史研究者,元立教大学教授)。

 同年9月2日,3日,7日,建設省との交渉・許可のもと旧四ツ木橋の下手河川敷で埋もれたままになっていると思われる遺骨の大規模な試掘をおこなったが,遺骨を発見することはできなかった。

この記事の執筆者は西崎雅夫

 同〔1982〕年12月,「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会(のちに「~を追悼する会」)は正式に発足,代表には絹田を選んだ。絹田は「こんな大きな荷物を背負うことはできません」と泣いた。

 会は,その後,毎年9月に京成線・八広駅近くの旧・四ツ木橋,現・木根川橋下手の荒川河川敷で「朝鮮人殉難者追悼式」を開くとともに,その歴史を刻んだ追悼碑を建立するために苦難の道を歩み始めた。それはいまも続いている。

 註記)http://furukawa.exblog.jp/i11/ 


 ※-7 2009年9月4日の新聞報道「朝鮮人虐殺追悼の碑完成」

 『読売新聞』2009年9月4日〔地域版:東京23区〕は「朝鮮人虐殺追悼の碑完成 墨田区で-大震災の混乱で犠牲」http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20090904-OYT8T00109.htm という記事を報道していた。全文を引用する。

 関東大震災後の混乱に紛れて大勢の朝鮮人が殺害されたとして,毎年追悼行事を開いている市民団体が計画を進めてきた追悼碑が,現場となった墨田区の荒川河川敷近くに完成した。市民団体の代表者らは「悲劇を繰り返さないためにも,事件を後世に伝えていきたい」と話しており,5日に追悼碑の披露を兼ねた追悼式をおこなう。

 この団体は,朝鮮人の生存者や目撃者から聞き取り調査をしてきた市民団体「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」と,社会教育団体「グループほうせんか」。

  1923年(大正12年)9月1日の大震災直後,「朝鮮人が暴動を起こす」などのうわさが流れ,多くの朝鮮人が殺害されたと伝えられている。グループほうせんか代表で,針きゅう師の西崎雅夫さん(49歳)(墨田区)によると,当時,「津波が来る」とうわさが広まり,荒川土手には数万人の避難民が集まった。

 朝鮮人の殺害は,避難ルートの一つだった旧四ツ木橋付近(現在の木根川橋―京成押上線鉄橋間)で,軍隊や自警団の手で起きたという。周辺には,荒川放水路の工事現場や近くの工場で働く朝鮮人労働者が大勢住んでいた。

 追悼する会の調査では,旧四ツ木橋周辺で,100人以上の犠牲者が出たという。当時の新聞報道によると,朝鮮人の遺体は,日本人の労働運動家が殺害された「亀戸事件」の犠牲者とともに,同橋付近の土手にいったん埋められたのち,警察に掘り起こされ,運び出されたとされている。

 同会では1982年以降,現場付近で追悼式を開く一方,土手の発掘調査も検討したが,土手がコンクリートで舗装されていることなどから断念。追悼碑の建立をめざし,チャリティー演奏会を開催するなど,募金活動を続けてきた。

 追悼碑〔前掲の写真〕は,同会関係者が資金を捻出して購入した墨田区八広6の約35平方メートルの私有地に建てられた。京成押上線八広駅からほど近く,目の前に荒川の堤防がある。建立資金の約400万円を募金でまかなった高さ約1メートルの石碑の表には,「悼」の字が彫られ,裏には事件の経緯と,「犠牲者を追悼し,人権の回復と両民族の和解を願って」という碑文が書かれている。

碑そのものをより近くから撮影した画像は
前段にかかげてあった 

 先〔8〕月29日,在日本大韓民国民団(韓国民団)や在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の代表者ら約20人が参列して,除幕式が行われた。5日の追悼式は午後3時から,荒川河川敷の木根川橋のたもとで。問い合わせは,グループほうせんか(電)03・3614・8372へ。(引用終わり)

 こうした報道に接した者は,なにを感じるか? 関東大震災のとき虐殺された朝鮮人が2番目に多かったのが東京府(当時)である。6千数百名の犠牲者のうち,東京府は1347名であった。関東大震災のときその殺戮の現場を目撃していた古老も,やはり「お経でもあげてくれれば供養になるのだが」と語っていたという。

 補注)この被虐殺者数に関する吟味は現在までだいぶ進んでいて,この6千数百名という数字(より正確には6661名)は,4千数百名ほどに修正される余地がある,と主張されてもいる。これ以外の数字としては,より少ないものがいくつも示されているが,なるべく過少に見積もりたい意向が前面に出すぎていて,信頼性に欠く。

 参考にまでいえば,北朝鮮による日本人拉致被害者数は,これを日本側に数えさせると,とたんに増え出す傾向があった。参考にまでこういう話題を出しておく。

 日本政府が認定した北朝鮮による拉致事案は12件であり,拉致被害者は17人とされている。だが,一方で,北朝鮮による拉致の可能性を排除できない行方不明者が873人いると説明する官庁筋もある。

 しかし,韓国側の北朝鮮による拉致被害者が500人ほどである事実に比較するに,日本はあまりにも過大にその該当者を膨らませたがる算法をもちだす傾向があった。これには疑問ありとみなさざるをえない。なぜ,こういう話題を関連させてもちだすかについては,説明の必要はあるまい。

〔前段の本文に戻る→〕 震災直後,憲兵や警察が警戒するなかで,河川敷の犠牲者の「遺体が少なくとも2度にわたって掘り起こされどこかに運び去られた」という事実は,なにを物語るのか?

 それは,政府・軍隊・警察・地元の人たちなどすべてが思いだしたくない「歴史的な事件」,つまり,自分たちの「集団共同殺人行為」を,抹消・隠蔽するための「証拠隠滅」行為にほかならなかった。

 旧・四ツ木橋河川敷でどのくらいの朝鮮人が大衆の面前で平然と殺されたのか? この事実を日本人の立場からまともに語りついできた人は,1人もいなかったことになる。前段に登場していたその古老も尋ねられたから,そう答えたのであって,問われねば沈黙したままに自分の人生を終わっていたはずである。

 「この事件にかぎっては加害者とともに生きた時代の証人が,閉ざしていた重い口を開いて思い思いの真相を語りはじめたのは〔19〕70年代以降である」(後掲,姜 徳相『関東大震災・虐殺の記憶』青丘文化社,2003年参照)。
 

 ※-8 人を殺すということの意味

 a)「人が〈人を殺す〉」ということの意味については,本ブログの筆者はすでに触れたことがある(なお,この話題は旧ブログのことであったので,関係する記述はそのうち復活させたい)。

 人びとが戦争にいかされ戦わねばならなくなったとき,戦争だから敵を殺しても,法的になんら問題なしとされるわけであるが,いざ目の前に現われた敵を射撃して殺す行為には,非常に大きなためらいを感じてしまい,実は空に向けて小銃を撃ったという話が実際にいくらでもあった。

 それにもかかわらず,関東大震災のときは「桃太郎の鬼征伐」〔桃太郎=日本帝国政府と,サル・イヌ・キジを臣民たち〕に譬えればよかったのか?

 一般大衆が「一杯ひっかたうえで」,「流言蜚語」にもとづく証拠(?)しかありえなかった朝鮮人たち,それもふつうに暮らしていた家族もいたから,子どもや女たちまで含む無辜の集団を平気で殺してしまい,凱歌を挙げていたのである。

 大震災直後,異様に興奮した最中での出来事とはいえ,このように尋常ならざる行動を理解するのは,非常に困難である。しかし,日韓・日朝国際関係史を少しでも勉強すれば,「関東大震災直後における朝鮮人大量虐殺」という事件が,なぜ発生したかについて理解することは困難ではない。

 いいかえれば,日本帝国が「日韓併合」で朝鮮を植民地にして以来〔当時「朝鮮・韓国」側の正式国家名は〈大韓帝国〉〕,朝鮮人・朝鮮民族に日本・日本人がひどく恨まれてきたという《歴史的な因縁》は,日本の庶民の次元においてもたしかに認識されていたのである。

 日本が朝鮮を支配下に置いたのは1910年であり,その4年後の1919年3月1日に朝鮮でいう「3・1独立運動」,日本では「万歳騒擾事件」といわれた抵抗運動が朝鮮全国に波及した。

 b) 和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』岩波書店,2002年は「3・1独立運動」に対する「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡,4万6000人が検挙された」と解説している(106頁)。

 朝鮮総督府側は警察官と憲兵8名が死亡し,152名が負傷(他に陸軍4名が負傷)したと公表している。朝鮮人側の死者は仮に,総督府が公式に発表した人数である357名を認めるにしても,その何十倍もの大勢の犠牲者を運動側は出していた。

 朝鮮側の独立運動を日本側が「万歳騒擾事件」と矮小化するための呼称を与えたのは,この運動がガンジーの無抵抗:非暴力主義を踏襲して,朝鮮民族が独立を訴えた事実をも認めたくなかったからである。

 朝鮮でこの「3・1独立運動」が起こされてから日本側は,朝鮮総督府の統治方式を武断から,文化的な統治面も考慮・重視した「警察制度の強化・同化政策に推進」による支配と実行に重点を移すことになった。

  1919年とは大正8年である。第1次世界大戦が終わったつぎのこの年を境に,日本の経済は反動不況の時期に移っていった。それ以降,日本における経済的・社会的・政治的な状況が低迷していったままぱっとせず,庶民の側で抱く「なにかと不安で不満なる気持」が,いつまでもモヤモヤとして晴れなかった。

 c) 専門的な論述をすれば,さらにつぎのような時代であった。

 第1次世界大戦がもたらした日本経済未曾有の好景気は長続きしなかった。戦後,ヨーロッパ諸国の経済活動が復活するにつれ,その製品がアジア市場に再度進出してきた。日本の貿易は輸入超過に転じ,株式市場の暴落を景気に戦後恐慌が発生した。

 そこへ関東大震災が発生したため大きな打撃を受けた。銀行の取付け騒ぎが起き,銀行の休業が続出する金融恐慌が発生した。さらに昭和恐慌へと日本の経済は進まざるをえなくなった。日本帝国はそして,「満州事変」,日中戦争,太平洋〔大東亜〕戦争にまで突きすすむ。

 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は,当時におけるそうした世界的な経済社会の事情推移も配慮しつつも,基本的には,日本帝国臣民それもとくに日本の支配層が朝鮮人・朝鮮民族に対して抱いていた恐怖心,つまり,日本が朝鮮を植民地化したのちに起きた「独立運動との〈歴史的な前後関係〉」をよく考えたうえで,受けとめるべきものである。

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