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「2・8独立宣言(東京)」から「3・1独立運動(ソウル)」へ,「プーチンのロシア」のウクライナ侵略戦争と併せて考える日韓歴史問題

 ※-1) 旧大日本帝国支配下の1919年,朝鮮において起こされた「独立運動の系譜」は,「2・8独立宣言(東京)」から「3・1独立運動(ソウル)」へとつながり,さらには,同年の中国における「5・4運動」を誘発させる要因にまでなっていた。

 付記) 冒頭画像資料は「【三・一独立運動とは】わかりやすく解説!! 運動の原因や結果・背景について」『日本史事典.com』2018年6月13日,更新,2019年3月5日,https://nihonsi-jiten.com/3-1dokuritu-undou/

 #大日本帝国  #朝鮮独立運動  #3・1独立運動  #2・8独立宣言  #姜徳相  #5・4運動  #ウクライナ侵攻 

 1919〔大正8〕年,旧大日本帝国支配下の被植民地朝鮮において「3・1・独立運動(ソウル)」が決起された。そして,その前哨に位置し先行する動きになっていたのが,日本において朝鮮人留学生たちが公表した「2・8独立宣言(東京)」であった。

 同年中の2月と3月におけるこの2つの出来事:事件を軸にして,本日のこの記述は展開されることになる。

 2023年2月8日はすでに過ぎた今月の日付である。この日付から104年前に,大日本帝国の植民地となっていた朝鮮で起きた1919年「3・1」非暴力主義独立運動の記憶は,韓国では大事で重要な「歴史の記念日」である。もちろん,日本側ではなるべく思いだしたくないその「日付」である。

三・一独立宣言
三・一独立宣言 冒頭上部

 ところが,この「3・1独立運動」に対してわずか3週間でしか先駆けていなかった時点であったが,また別に重要な「歴史の事件」が,当時,日本に留学していた朝鮮人の学生たちが作成・公表した「2・8独立宣言」によって準備・決行されていた。

 現在,在日本韓国YMCAアジア青少年センターが,東京都千代田区神田猿楽町(かんださるがくちょう)2-5-5にある。この韓国系のYMCAは当時,東京朝鮮基督教青年会会館という名称をもっていた。この在日本韓国YMCAは,ソウルYMCAに続いて2番目の韓国(朝鮮)YMCAとして1906年,東京に誕生していた。

 その4年後,1910年8月22日,旧大日本帝国が朝鮮を完全に植民地にし,「韓国併合ニ関スル条約」が調印された(公布は29日)。いわば朝鮮が-当時の正式名は大韓帝国であったから韓国という国名が使用されていた-,名実ともに日本の植民地となった。そして,それからほぼ9年後の1919年3月1日,非暴力主義抵抗にもとづく独立運動が,朝鮮(韓国)で起こされていた。

 その3月1日の3週間前にその東京朝鮮YMCA会館に集まった朝鮮人留学生たちが,日本の官憲たちが警戒の目を光らせるなか,その「2・8独立宣言」を用意・公表した。しかし,当時であったから,秘密裏に文書を作成したうえで,さらに1人の学生がひそかに自分の帽子のなかに隠してソウルまで運んだのである。

二・八独立宣言

 朝鮮にいた宗教指導者たちは、日本に留学していた学生たちが,宗主国日本の首都において公然と「朝鮮独立」を叫んだ勇気と決意を,いったいどのような思いで受け止めたかは,想像するまでもあるまい。

 「2・8独立宣言」から「3・1独立運動」へと連続していた「歴史の事実」は,ここでとくに強調されておくべき出来事・事件であった。

「2・8独立宣言」記念碑

 ※-2 さて,本日から4年ほど前になるが,『朝日新聞』2019年2月27日朝刊17面に「特集」の記事として組まれていたのが,

 以下に画像資料としても紹介する「〈年表〉岐路 1919  東アジア 100年の影」であった。

 ここには,その紙面全体を紹介できないが,以下に「紙面の左側縦に上下」に組まれたその「半分⇒〈年表〉部分」については,つぎのように画像資料として切り出し,かかげておく。

 この画像に出ていない右側の紙面には「国内ではデモクラシー 外には帝国主義」「日本」という大きな見出し文字が出ていた。

 この新聞紙面の紹介は,あくまで「2・8独立宣言」から「3・1独立運動」へという「歴史の流れ」を眺望するために提供している。

岐路の1919・上部
岐路の1919・下部

 この3・1運動の記憶は「韓国では大事な『歴史の記念日』」である。しかし,「日本ではけっして思いだしたくない今日の『100年前の日付』,1919年『3月1日』」である。この点をめぐって残る「日韓間の歴史認識の隔絶」は,最近になっての両国関係を観ても,残念ながらまだまだ解消できるみこみがない。 

 当時の帝国日本にとっては大事件であったのが,この「韓国・朝鮮の独立運動」である。19世紀半ばから今日まで通観する展望のなかで,その歴史的な位置づけと意味は,どのようなものであったか,あらためて考えねばならない。

 昨年:2022年の2月24日に「プーチンのロシア」がウクライナ侵攻戦争を開始していた。この戦争騒ぎのせいか,2022年3月1日当時は,日本の報道機関関係において「3・1独立運動」に関連するニュースが取りあげられるなりゆきにはなっていなかった。

 今年:2023年3月1日になったところで,『朝日新聞』の場合にかぎった話だが,この「3・1独立運動」に関する記事(解説)が,あらためて編集され報道されるかどうかまだ分からない。多少は触れる記事があるかもしれないとだけ予想しておく。
 

 ※-3 「利益線と生命線」-山縣有朋の軍事思想-

 関連させてここで,多少脇道にそれるかもしれないが,「プーチンの話題」に触れておきたい。

 ロシアのプーチンは2023年2月21日,連邦議会で内政・外交の基本方針を示す年次教書演説をおこなったなかで,ウクライナへの軍事侵攻をめぐり,欧米諸国への批判を繰り返し,つぎのような詭弁を弄し,「こんなロシアにしたオマエたちがともかく悪い」といったヘリクツを披露していた。

 そのさいプーチンは「ウクライナ侵攻に以外に選択肢はなかった」「欧米諸国がウクライナをロシア攻撃の拠点とする準備を進めていたため,先制攻撃の必要があった」と強弁した。この弁舌でいったら,地球上は戦争だらけの宇宙船になるが……。

 しかも,「ウクライナが核兵器の供与までを求めていた」という根拠のない主張を繰り返し,ともかく自衛目的の先制攻撃だったと強調した。「戦争を始めたのは欧米諸国だ。われわれはそれを止めるために武力を行使したし,これからも行使する」と述べた。

たとえ,現状において「ウクライナが99%は侵略された犠牲国であり」,「ロシアは99%侵略国家そのものである」と,それぞれに1%だけの留保を残したしたうえの話だとしても,プーチンのいいぐさは専制強権国家ロシアの傲慢きわまりない,旧大ロシア帝国時代のオカルト的な本性をあますところなく,自白している。

 プーチンの戦争のやり方は,自分以外の人間の生命・財産を護るという国家最高指導者の大原則など「屁のカッパ」という風情である。現在,人海戦術でもってなんとかウクライナ軍を撃破しようともがいているが,軍事専門家の評価では,もうすぐその攻撃も限界点に達するほかない,というみたてになっている。

「ロシアのプーチン」の戦争流儀

 1988年~ 1991年にかけてソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)が内部分裂を起こし,単一の主権国家としての存続を終了していた。だが,プーチンはそのソ連邦をできれば復活させたいと欲望していた。

 その第1歩がウクライナ侵略戦争であった。当初は数週間もあれば,ウクライナ全土を掌握できるともくろんだプーチンであったが,その丸1年が経ったけれでも,負け戦の様相のほうが強く現われている。

 ところで話は,旧大日本帝国時代,軍部の権威者として長期間健在だった山縣有朋のことになる。この山縣が東アジア地域を日帝の支配下に起きつづけるための理屈(政治構想)をひねり出していた。それは,つぎのように説明できる。

 山縣有朋は明治21-22〔1988-1989〕年ヨーロッパを視察し,1989年にはベルリンで,ルドルフ・フォン・グナイストとローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けている。とくにシュタインは,伊藤博文が日本帝国憲法起案のさいに講義を受けた人物であった。

 山縣有朋は,シュタインの講義から「国家には国境にあたる主権線とその外部にある利益線があるという概念」を学び,外国勢力が利益線に進出してきたとき毅然とした措置を取ってこそ,その国は外国の尊敬を受け他国に勢力を伸ばすことができるという理論を習った。

 そして山縣有朋は 明治23(1990)年第1次山県内閣を組閣し,帝国議会において施政方針演説をおこない,この主権線と利益線の考えを発表していた。ここに日本の利益線に朝鮮半島があたるとの帝国主義的侵略論を展開したのである。

 のちには,軍人の永田鉄山や石原莞爾も,この利益線という概念:考え方に沿って,日本陸軍の大陸進出の根拠を求めていた。その延長線上に「満蒙は大日本帝国の生命線」という政治家・松岡洋右の言葉もみいだせる。
 
 自国の利益のために他国の領土を侵略することになんの躊躇もない1点に関しては,以上のごとき戦前日本の政治家政治家や軍人,そして,現在の「ロシアのプーチン」の場合にも共通する「他国侵略思想の具体的な戦略方針」が確実に控えていた。

 つまり,2022年2月24日にウクライナ侵略戦争を始めたプーチンはごく自然に,ウクライナが利益線であることを理由にして,今回の軍事行動を起こしていた。

 もしも今回,ウクライナをソ連解体以前と同じにロシアの圏内に戻せれば,さらには旧ソ連邦を構成していたが,現在は独立国になっている以下の国々

 アゼルバイジャン・アルメニア・ウクライナ・ウズベキスタン・エストニア・カザフスタン・キルギス・グルジア(ジョージア )・タジキスタン・トルクメニスタン・ベラルーシ・モルドバ・ラトビア・リトアニアも

 再び,1989~1981年に崩壊したソ連邦時代に戻すための大きな契機になると「盲信」していたのである。だが,プーチンはその盲信を正気そのものと錯覚できる人間であったゆえ,ウクライナに対する侵略戦争のかたちで,彼なりの狂気を表現しだした。

 かつて,満州・朝鮮は日本の生命線であり,大日本帝国が生き残っていくためには「満州・韓国」を抑えておかねばならないという「ヘリクツ」が,成立していた。プーチンにせよ日本の軍人たちにせよ,まことに自分勝手な「考え方:侵略思想」が,ごく当たりまえに「彼らの頭のなか」を全面的に占領していた。
 

 ※-4 以上のウクライナ侵略戦争がらみの問題はさておき,今日の話題は最初に,1919年の「2月8日独立宣言」という日付をひとまず前提に置いたうえで,そのつぎの「3・1独立運動」を考える。

 また,104年前のこの3月1日という日付に記憶されている「旧日帝的な歴史の事実」は,現状のごとき日本の政治社会的な雰囲気のなかでは,なかでも「嫌韓・反日」の立場にある者たちからは,好まれるわけなどまったくない。周知の事実であったとはいえ,事前に断わっておく。

 もっとも,ちまたの韓流ブームは21世紀になりはじまっていたが,ペ・ヨンジュン(裴 勇俊)という映画スターに代表されて以来,日本社会になかに生まれてきた固定層のファンが,厚い社会層となって形成されている。

 とりわけ最近の若者層は,高齢者層に観念のなかに取りのこされている隣国蔑視観はない。彼らは,ネトウヨ的な「反韓・嫌韓意識」とも無縁であり,ただこの隣国に興味があり,好きになれるモノがあるからスキだという感覚で接している。

 ともかく,「日本人のしりたくない朝鮮独立運動」としての「隣国における前世紀歴史の事実」は,韓国・朝鮮側の描く「3・1独立運動」であれ,あるいはまた,日本側においては「1945年以前の植民地におけるひとつの騒擾事件」だったといわれようと,「敗戦後」もだいぶ時間が経過してからだったが,その全容に関連する知識・情報が自然に入手できるようになった。

 もっとも,日本国民自身は,15年戦争の過程全般に関していえば,その歴史のなかでどのような事実・出来事・事件があったかについて,より詳しい知識がより正確にえられるようになったのは,敗戦後になってからであって,戦争中は目隠しをされたも同然の状態に置かれていた。

 また,『朝日新聞』2019年2月23日朝刊の「コラム〈いちからわかる〉朝鮮半島で起きた3・1独立運動って?」と題した簡約な解説もあったので,これも画像資料にし,併せて紹介しておく。

3・1独立運動解説記事
 

 ※-5「岐路の1919  東アジア100年の影 日本  読み間違った新潮流」『朝日新聞』2019年2月27日朝刊17面「特集」の紹介

 100〔104〕年前,1919年の東アジアは歴史の岐路にあった。第1次世界大戦の戦勝国となった日本は,列強と肩を並べる「一等国」として,大陸進出を加速させようとしていた。だが,日本統治下の朝鮮では独立を求める声が全土に広がり,中国でも日本の利権要求に愛国運動が燃えあがる。日本はこの年,アジアのナショナリズムとの衝突の道をたどり始める。

 1)日本,読み間違った新潮流
 1919(大正8)年1月18日。欧州を主戦場に,4年間にわたって続いた第1次世界大戦が終結して2カ月余り。敗戦国ドイツの責任を追及し,戦後秩序を話しあう会議がパリで始まった。結ばれた条約は,調印式がおこなわれた宮殿の名にちなんでベルサイユ条約と呼ばれる。

 日英同盟を理由に1914年に参戦した日本は,中国山東省におけるドイツの権益を接収し,ドイツ領南洋諸島の一部を占領した。大戦を「天佑(てんゆう)」(元老の井上 馨)と考えた日本は,中国に21カ条の要求を突きつけ,大陸進出の足場を築いた。

 欧米列強に追いつこうとしてきた日本にとって,会議は初のひのき舞台であった。だが,「一等国」となった日本は,肝心の会議ではほとんど発言できず,存在感が薄かった。ウィルソン米大統領が提案した国際連盟などさまざまな課題を議論する準備が欠落していたのだ。

 随員として会議に参加したのちの首相近衛文麿は,「日本人の眼界がいまなおはなはだ狭小にして,極東の一部に限られ」「平常の調査足らず,予備知識なきの結果」(『戦後欧米見聞録』)などときびしく振り返っている。

 第1次世界大戦の結果,欧州諸国は多大な犠牲者を出した。恒久平和を可能にする組織を作ろうという国際世論が大きなうねりとなっていた。だが,遠くから欧州の戦争をみていた日本にとって,国際連盟は理想主義的な絵空事にみえたのだった。

 「日本は大戦からあまり多くのものを学んでいない。ドイツ権益を継承し,戦争はうまい汁がすえるという感じをもった。これが後に悪い影響を残した」(NHKドキュメント昭和取材班編「ベルサイユの日章旗」)と外交史家の細谷千博は分析する。

 そこには歴史のタイムラグがあった。第1次世界大戦後の国際社会は,民族自決の原則が高くかかげられ,不戦条約により戦争の違法化が試みられる。しかし日本はそういう新潮流を読み間違った。そのずれが,東アジアできしみを生んでいく。

 2)独立宣言,非暴力かかげ対抗  朝鮮
 1919年3月1日午後2時ごろのことだ。現在のソウルの中心部,パゴダ(現タプコル)公園に詰めかけた群衆のなかから,1人の学生が壇上に駆け上がり,独立宣言書の朗読を始めた。  

 「われらはここに,わが朝鮮国が独立国であること,および朝鮮人が自由の民であることを宣言する」。8年半前に日本に併合されて以来,朝鮮の民衆は言論,出版,集会の自由を奪われ,憲兵の監視下,沈黙を強いられてきた。その民衆が叫びをあげた。

 「独立万歳(トンニプマンセー)!」 数十万人が街路を埋めた。

 夜8時,朝鮮からの来訪者が東京駅に降り立った。独立運動に共鳴する林 圭(イム・ギュ)。自分で日本語に訳した独立宣言書を携えていた。林は,めいが働く新宿の菓子店,中村屋を訪ねた。当主,相馬愛蔵の自宅離れに滞在を許された林は,宣言書約200通を謄写版印刷し,数日のうちに郵便で発送した。

 逮捕後の林に対する尋問調書によると,宛先は首相の原 敬(たかし)や尾崎行雄,犬養毅ら政治家約90人。吉野作造,安部磯雄ら学者約20人。主な新聞社,中央公論,太陽などの雑誌社,大学にも送られた。

 『朝日新聞』2019年2月26日朝刊17面の「〈特集〉3・1運動独立宣言文 宣言書」は,その内容について説明している。

 --「われわれが朝鮮独立をはかる」のは朝鮮人のためであると同時に,日本を「邪悪なる路(みち)」から救い出し,東洋を支える重責をまっとうさせるためだと述べていた。朝鮮だけでなく,道を誤った日本をも救う。そのために立ったのだと。宣言書はまた,アジアの行く末をみすえていた。

 朝鮮2千万の民を力で縛っても,東洋の平和を保障することはできない。4億の中国人民は日本が侵略してくることへの猜疑(さいぎ)を強め,やがて東洋全体が滅びるだろう。

 しかし,宣言書は公表されず,「威力の時代はすでに去って,道義の時代がきた」という朝鮮の呼びかけが日本社会に広がることはなかった。ただし,響き合う声が皆無だったのではない。朝鮮の美を日本に紹介した思想家,柳 宗悦(やなぎ・むねよし)はこう書いた。

 「軍国主義を早く放棄しよう。……自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若(も)しも此(この)人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。そうなるなら亡(ほろ)びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか」(『朝鮮とその芸術』)。

 独立運動は朝鮮全土に拡大した。民衆は非暴力の精神をかかげて日本軍警に立ち向かった。夜中に山上でのろしをあげて「独立万歳」を叫び,警官が来れば別の山に移った。これに対する日本軍警の弾圧は苛烈(かれつ)を極めた。「射撃時間約三分……即死シタルモノ五十一名」といった記述が軍の報告書にみえる(姜 徳相〈カン・ドクサン〉編『現代史資料 朝鮮2』)。

 弾圧の犠牲者は,5月末までの3カ月間に死者7509人,負傷者1万5961人に上った(朴 殷植:パク・ウンシク『朝鮮独立運動の血史』)。

 独立運動から26年後の1945年8月,朝鮮は日本の敗戦で解放の日を迎える。雑誌『歴史評論』が独立宣言書を掲載して日本の読者に伝えたのは,敗戦から3年後の1948年6月号だった。

 3)「近代化の模範」怒りへ転化 中国
 晴天の北京の天安門前は,殺気立った3千人の学生で埋めつくされていた。「山東を返せ」「不平等条約を廃棄せよ」。集団はスローガンを叫びながら大通りを移動し,親日派とされる要人らの家を襲い,火を放った。1919年5月4日,後に「五・四運動」と呼ばれる抗日運動の始まりだった。

 学生らの怒りは,パリ講和会議に向けられていた。中国のドイツ権益の日本への継承が認められたと伝わると,抗日運動が全土に広まった。中国の知識人や学生にとって,先に近代化を進めていた日本は,模範だった。1912年に誕生した中華民国では日本留学経験者が要職を占め,日本に倣った国づくりを進めた。

 だが大戦前後の日本の振るまいは,その期待を裏切った。1915年,日本は21カ条で,ドイツが握っていた山東省の権益を引き渡すことなどを北京に要求。日本への称賛の念は,日本が「欧米列強とまったく同様に傲岸な振るまいをしていることをしると,大いに色あせた」(ラナ・ミッター『五四運動の残響』)。

 抗議運動を指導したのは,日本の事情に通じる留学生たちであり,そのなかには,後の首相となる周 恩来もいた。日本は当時,大正デモクラシーの時代だった。朝鮮で独立の声があがった3月1日には,普通選挙法制定を求めるデモが,東京で繰り広げられていた。しかし,国内でデモクラシーを求める世論は,国外では帝国主義を是認し,アジアのナショナリズムには無理解だった。

 五・四運動について朝日新聞は「第一因は支那人が排外思想強烈の国民なる事」(5月9日)と断じ,学生らの怒りの本質に目を向けようとしなかった。それが当時のメディアの主流だった。そのなかで,日本の対外進出に警告を発した日本人もいた。

 政治学者の吉野作造は,五・四運動について「国民の自発的運動なることを見逃してはならない」と理解を示し,ジャーナリストの石橋湛山は,経済的合理性の観点から植民地を放棄すべきだとする「小日本主義」を唱えた。しかし,彼らの声は少数派であり,昭和になって軍部が台頭すると,かき消されていく。

 東アジアの亀裂は結局,全面戦争へと発展,1945年に帝国日本は崩壊した。歴史の長い影はいまも地域を覆っている。(引用終わり)

 以上のごとき「3・1朝鮮独立運動」に関する解説記事を読むと,とくに中国の「五・四運動」へのつながりを,「世界史・アジア史」全体を踏まえた眺望のなかで勉強しなおすことが必須であることを教えられる。

 アジア「某国の首相」が「戦後レジームからの脱却」を唱えてからというもの,この日本というこの国家(政権中枢)は,日本の人びと(国民たち)を1世紀も前の時代に引き連れていきたいかのように,それも必死の形相(本気?  狂気!)をみせながら,この国の民主主義を破壊してきている。

 それも,「在日米軍基地の島々」になった日本の「国際関係的な米日軍事同盟関係(実質は上下の服属関係)のもとでの現実」の真っただなかで,そうしてきている。この事態は,悲劇的かつ喜劇的という意味でも, “諧謔のひとつすら通用しえない” 対米従属国家「JAPAN」体制の完成を予想させていた。
 

 ※-6 ところで,2023年のこの2月を迎えた時点になって,この国:「日本」はどのような中身の国家になっていたか?

 昨今の日本国,政治はあいかわらず4流(以下?),経済はもはや発展途上どころか「衰退途上国」だとまで,自嘲気味に形容されるまで低迷してきた。社会不安もあちこちに滞留するばかりである。運頼みをするにせよ,サイコロをどう振ろうが,いい目が出ない印象がある。つぎの表をみたい。

日本とドイツのGDP比較表

 日本のGDPがそろそろドイツに追い抜かれそうになってきた。基本,ドル換算での計算になっているが,2022年ではまだ6%ほどの差があるものの,停滞気味である日本の経済ゆえ,2023年にはドイツに追い越される見通しが強くなっている。日本のGDPは,いままで世界第3位であったところが第4位に下がる見通しとなっている。

 上に参照した『産経新聞』の記事は,つぎの点にも触れていた。

 「国力の源泉である人口は,日本のおよそ1億2千万人に対しドイツは8千万人にとどまる。14億人を超える中国に抜かれたのは仕方ないとしても,なぜドイツに追い付かれたのだろうか。……大きく影響したのは円安の進行と,名目GDPを引き上げる物価上昇率の格差だ」。

 日本国内の政治問題に目を向けみる。2022年7月8日に安倍晋三が狙撃され死ぬと,統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党の抜き差しならぬ腐れ縁が一挙に暴露され,その結果,この国の為政の中枢にまで浸潤していた退廃・堕落ぶりが,もはや救いがたい事実:症状まで明るみで出てきた。

 その後,自民党流の政治構造から統一教会の悪影響を摘出できている様子は,まったくうかがえない。統一教会から秘密裏に手配されていた国会議員の公設秘書が2人とも,この統一教会から差しまわされた人間のままであるというようでは,腐ったリンゴを取りのぞく意志じたいが,自民党には皆無のまま現在まで至っている。

 「ロシアのプーチン」によるウクライナへの侵略戦争開始以来,エネルギー価格が急速に高騰したために,この影響が日本でも諸物価にいちじるしい値上がりをもたらした。すでに,アベノミクスとアベノポリティックスのおかげで疲弊してきた庶民の日常生活は,いまでは,弱り目に祟り目状態である。

 3年前,2020年初頭から日本にも襲来した新型コロナウイルス感染症問題では,いつも後手後手というよりは焦点ボケの対策に終始してきた。

 とりわけ,現在に至っては予防のためのワクチン接種によってだが,かえって因果関係がろくに判明できない状態のまま,死者が大量に出ていると指摘されている。ところがその真相を解明することも事後の救済をすることも,現在の岸田文雄政権は果たすつもりがない。

 〔以上,本日の本論の筋書きとはいくらかずれた記述であったが,ここからは,本筋に戻るが 〕〔ただ,こういうことを付言しておきたい〕
 
 「歴史から学ぶべきなのは,人びとが歴史から学ばないという事実」があるとはいえ,他方でまた「人間はなにひとつ歴史から学ばないという主張は,誰の目にも明らかな事実によって反駁されてもいる」からである。

E・H・カー

 

 ※-7 「『東方のともしび』」2・8独立宣言100周年〈上〉」『民団新聞』2019年1月30日

 https://mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=0&page=1&number=25074&keyfield=title&keyfield1=body&key=東方のともしび

 この ※-7 の記事は,「3・1独立運動」の前哨となった出来事が,実は当時,日本に留学にしていた朝鮮人学生たちによってになわれていた,という「歴史の事実」を,この内容なりに教えていた。

 この記事を参照する前に,冒頭でなんども言及しておいた事実を,ここでも再言しておくのは,当時(1910年代)における東アジア史の事件として,こういう動向が連続して生まれていた点を忘れてはならない。

 まず,朝鮮(植民地)国内で,1919年の「2・8独立宣言」が,その「3・1独立運動」に先行する運動として存在していた。そして,東アジア全体史の1919年の次元において,「日本での2・8」⇒「朝鮮での3・1」⇒「中国での5・4」という時系列的な関連性が,歴史内在的に連続して発展していく出来事として形成され,それらが逐次的に連動していったところに「特定の歴史的な含意」が読みとれた。

 中国における「五・四運動(ごしうんどう)」が,1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生していた。これは,中華民国の北京から全国に広がった抗日,反帝国主義をかかげる学生運動,大衆運動であり,5月4日に発生したのでこの名で呼ばれている。五四愛国運動,5・4運動とも表記される。抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあったと説明される。

 1919年のこの5・4運動が巻き起こる直前に起こされていたのが,朝鮮における「3・1独立運動」であった。この独立運動に対して,中国の人びとが大きな刺激を受けていた事実は,日本側の歴史学者が通常はあまり認めたくない「歴史の事実」となっていた。そしてさらに,この「3・1独立運動」の前提のごとき出来事が「2・8独立宣言」であった。

 ここから以下に『民団新聞』の記事「東方のともしび 2・8独立宣言100周年」を引用する。 

          ★ 3・1運動をリード ★
 東京に留学していた被植民地出身の若き学生たちが1919年2月8日,神田区西小川町(当時)の朝鮮基督教青年会(YMCA)会館で独立を宣言してから100周年を迎える。

 同宣言は3・1独立運動の「導火線」の役割を果たした。アジアの弱小民族の独立闘争にも大きな影響を及ぼし,インドの詩聖,タゴールが「大きな力になった」と韓国に感謝した1929年の献詩「東方の灯」ともいうべき運動だった。

 2月8日,東京には午前11時ごろから粉雪が降り出していた。やがて,30年ぶりの大雪に見舞われることになる。この日,東京朝鮮基督教青年会会館1階講堂(現在の在日本韓国YMCA)で午後2時から朝鮮留学生学友会の総会が開かれることになっていた。

 会場周辺では当局〔日本の警察〕が午前中から40~50人を繰り出し,厳戒体制をとっていた。当局にとって当時の学友会は留学生というよりも「潜在的犯罪容疑者」。その思想をマークし,行動を常時監視すべき存在だった。

 土曜日ということもあって午後いちばんから会場に詰めかけていた中心的な学生たちは,会場周囲の制服,私服の警官を目にして息をのんだ。胸のなかでは不安と決意が交差した。「きょうの計画は無事実行されるだろうか」「いや,是が非でもやりとげねばならない。独立宣言書,決議文だけはどんなことがあっても読み上げねば……」。

 会場は定刻前から立すいの余地もないほどだった。当時の新聞報道などによれば,結集したのは400人ないしは600人ともいわれている。

 1910年から19年までの年平均留学生数は636人というから,東京にいる留学生の大半が一堂に会したといっても過言ではない。

 学友会会長の白 南奎が総会の開会を宣言。開会祈祷が終わると同時に前から2列目に座っていた崔 八鏞が席を立って「緊急動議!」と叫びながら壇上に駆け上がり,上ずった声で「朝鮮青年独立団を発足させよう」と呼びかける。

 すぐに声討が始まった。徐 椿,李 琮根,さらに女子学生の金瑪利亜も壇上で演説。「いまや独立の機は熟している。われわれは祖国と民族のために最後まで闘うぞー」。演説というよりも叫びだった。場内は「オルソー」「オルソー」(そうだ)の大合唱だった。

 間髪を入れず白 寛洙が独立宣言書を朗読した。白 寛洙の背後の壁には,いつのまにか絹布に墨黒々と書かれた独立宣言がさがっていた。

 「朝鮮独立青年団は,わが2000万民族を代表して,正義と自由の勝利を得た世界万邦の前に独立を期成せんことを宣言する」。

 場内は波を打ったかのように静かだった。暗唱しているかのように朗々とした白 寛洙の声だけが会場の隅々まで響き渡った。留学生たちからは嗚咽がせきを切ったかのように流れ出た。

 たたみかけるように金 度演が決議文を読みあげた。「要求が失敗した時には,わが民族は日本に対し,永遠なる血戦を宣布する。これによって発生する惨禍はわが民族がその責を負うものではない」。

 この最後の句節には留学生たちの亡国の悲哀,愛国愛族の情,祖国独立・再建への気概がすべて叩きこまれていた。

 この後,参加者全員による示威行進で大日本帝国議会と日本政府への請願を計画していたが,警察の解散命令を受け,実現しなかった。宣言署名当時者を中心とする27人が靴を履かせてもらえず,裸足のまま雪の降る凍てつく夜道を西神田署に連行された。

 朝鮮近現代史を専門に研究している姜 徳相さん(在日韓人歴史資料館初代館長)は著書で「3・1宣言とは文脈の構成において相似性をもちながらも,2・8宣言のほうが独立宣言としての思想性や説得性ははるかに高いものがある。単なる学生運動の宣言ではなく,3・1運動を誘発し,リードした宣言である」と高く評価している。(引用終わり)

 1919年,大日本帝国の植民地下「朝鮮」で「3・1独立運動」が発生してから早1世紀が経過した。ところで,21世紀のこのごろは,北朝鮮という存在はさておいても(別格的〔?〕な,お国柄なので……),韓国に関してはたとえば,つぎのような記事が徐々に目立ってきている。ここでもGDPの話題となっている。

 小黒一正〔法政〕教授の「半歩先を読む経済教室」「韓国,すでに日本を一人当たり購買力平価GDPで追い抜き… 数年内に名目でも逆転か」『Business Journal』2021.12.14 05:50,https://biz-journal.jp/2021/12/post_268287.html

 明治以来「米欧に追いつけ・追い越せの基本理念:目標」を据えて近代化路線を邁進してきた日本であった。だが,バブル経済が破綻して以来,すでに30年以上の歳月が経過してきたなかで,なんといっても『日本,一番!』, “ジャパン・アズ・ナンバー1” の面影は “いまいずこ” という態になりはてている。

 韓国(朝鮮)を植民地にしていた時代がなつかしいと郷愁する世代は,もうこの世には存在していない。しかしながら,1世紀も以前の(正確には78年前までの)「旧・日帝政治思想の残滓」がどうしても払拭できず,いまだに隣国に対する蔑視観(「偏見と差別」の根強い感情)を精算できない,「日本人としてのごく一部の人びと」がいないわけではない。

 ネトユヨ的なヘイト発言は,そのごく一部の人間がSNSを介して集中的に発信する事実だとはいえ,隣国の事情などろくにしらない者たちに限って,時代の流れのなかで変化していく潮流を正視したくない(し,もとよりできないでいる)。

 盛者必衰はこの世のつねであり,いいかえれば,歴史の必然ともいえる事象の変遷を意味する。「われわれが歴史から学ぶことは,人間はけっして歴史から学ばないということであった」という前述の文言を,この期に及んででないと,実感できないようでは,なんとも情けない。

 最近の話題でいえば,2022年2月24日,ウクライナに侵攻したロシアの大統領ウラジーミル・プーチンの「隣国侵略正当化・史観」を聴いていると,この現代風に専制・権威主義的であるロシア帝国風の独裁者は,「自分がもっともロシア史に通暁している人間だ」といったふうに,完璧に錯覚した自己認識を保持している。

 ここ2~3日の報道を聞いてると,プーチンは妄想で頭のなかがふん詰まっているという論評まで飛び出している。大ロシア帝国時代のロシア正教的にオカルト風な信心が,彼の脳細胞を完全に冒している。

 やはり「われわれが歴史から学ぶことは,人間はけっして歴史から学ばないことだ」という格言の真理性が,ロシアの独裁者プーチンの演技:隣国侵攻劇によってまたもや,われわれの目前で演じられている。

 2023年の「この2月24日」(侵略戦争を始めて1年が経った)になってもプーチンはウクライナへの侵略を止めないどころか,ウクライナ側の抵抗の激しさに苦しんだ彼がこんどは,ロシアの被害者意識だけを強調しだしたのだから,これには呆れる。半ば狂気にひとしい妄言が彼の口からは,最近多く吐かれている。

 日本という国の指導者たちの場合も,かつての帝国日本の時代,海外に植民地や支配地域を保有し,運営していたこの国の営為そのものが,結果的にことごとくが失敗した事実を,「自国の歴史に記載された負の資産」として認識しようとしない。それでいてまだ,東アジアの盟主になれる可能性があるなどと,はなはだしい勘違いを犯してもいる。

 とりわけ,2010年代に登場した自民党政権の首相たちには,残念なことにろくでもない「世襲3代目の政治屋」が多かった。この伝統はいまの首相岸田文雄にも遺憾なく,疎漏なく確実に継承されている。

 戦前において日本が韓国:朝鮮(旧大韓帝国)を植民化していくまでの政治・外交の過程では,伊藤博文が日帝側のいうことを聴かない韓国側の閣僚に向かい,面前で「こいつは殺してしまえ!」とまでいってのけた。

 だが,このような政治の中身に実際に相当する暗殺行為は,「プーチンのロシア」においてもいくらかはかたちを変えてだが,いまもけっして珍しい出来事ではなく,現代史の舞台における実話として形成されつづけている。

 大手新聞紙にはあまり報道されないが,ネットの記事であれば「ロシアでは今日,誰々が死んだ・自殺した,本当は殺されたらしい」という報道がかなりの件数出てくる。プーチンのやり方はロシア風なりに陰険で暗鬱である。

 かといって,日本の政治のなかでも不審な死は数多く発生してきた。それらはむろん,政治・経済的な利害が絡んだ事件の関係で生じてきた。安倍晋三の関連でみれば,森友学園事件問題にかかわって公文書改竄問題に巻きこまれたすえ,自死を余儀なくされた近畿財務局職員赤木俊夫の事例は,この事件の核心に居座っていた人物たちにとってみれば,これ以上ない好都合:後始末の展開になっていた。

 しかし,赤木俊夫のごとき事例は,氷山の一角を示唆する一件でしかありえない。政治家や経済人のからんだ背任・汚職事件の分野では,「自殺を装われた殺人事件」がいくつも発生していたと観察されている。その筋の専門家であれば当然の見方となる。安倍晋三自身が銃殺された事件に関しても,その死因については不審な出来事がいくつか残されたままである。

 「悪いやつほどよく眠る」といわれるとおりであって,正直者がバカをみ,割を食うだけになる場合が多く,その意味では汚濁ばかりにまみれ,いどくただれた日本の政治・経済・社会になっている。この国のそうして特徴が,このごろはさらに露骨かつより深刻になりつつある。

 しかも,そうした時代の風潮をなんとも思わない人間が増殖しつづけている。そしてまた,自分自身があれこれの事件に平然と加担していても,なんとも思わない感覚でいられる人間が増えている。

 しかも,そうした社会状況に対して疑問を感じなくなっている世相が広がっている。こうした様子がまともに,真面目に反省される様子すらうかがえない世の中なのだとなれば,日本の政治社会は軌道修正が不可能になっているとしかいいようがない。

 安倍晋三による第2次政権の時期「7年と8カ月」〔とその後の菅 義偉政権から岸田文雄政権のいままで〕にあっては,以上のように捕捉してみるべき日本の政治社会の特徴が,さらにいっそう悪化させられてきただけでなく,しかもその毒素性も強度を増しつつあるから,すくいがたい。

 現状のままだとこの国の未来は,ますますドンヨリしたままの状態がつづくほかなく,今後においても,国勢そのものの全体的な地盤沈下を不可避とみるほかない展望しか抱かせていない。

 かつての隣国における「2・8独立宣言」「3・1独立運動」に相当する日本・日本人側からの政治努力が自国の問題として,それも意識的に展開されないことには,21世紀黄昏ゆくこの社会を打破することが,ますます困難になっていく。

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