松本健一の心情的な昭和天皇論が,著書『畏るべき昭和天皇』2007年に告白されていた話題(2)
さきに「本稿(1)」の冒頭で書いた段落のみだが,ここでも再掲しておきたい。
※-4 松本健一「畏るべき昭和天皇」論〔その2:外なる天皇問題〕
筆者にとって,本書研究の出発点に据えられるべき昭和天皇の研究課題は,つぎのように松本が記述するところにもみいだせる。
註記)以下は,松本健一『畏るべき昭和天皇』毎日新聞社,2007年,289-290頁参照。
「昭和天皇はキリスト教を押し返したように,長い時間をかけて,連合軍最高司令官のマッカーサーも押し返したのである」
1975年10月31日,訪米から日本に帰った昭和天皇は,日米記者クラブで初の公式記者会見をしたさい「戦争責任についてどのようにお考えておられるか」と問われて,こう答えた。
松本は,裕仁天皇のこの答えを的確に「木で鼻を括るたぐい」と形容した。
昭和天皇は,過去にマッカーサーから発せられたものなら別として,しかもこの占領軍司令官とのあいだで「敗戦直後に済ませていたつもりのその問題」について,いまさら「政治責任をもたない新聞記者」の質問には答える余地もないと,反発したのである。
ところが,松本健一による文学史・文化史的な昭和天皇論は,ここまでで終論していた。もっぱら文学史・文化的な修辞を繰りだしてみたた松本の論旨は,裕仁天皇に関して “つぎのように記述し,心底より驚嘆する気持に逢着した” 。
ここまで,松本健一による文学史・文化史的な発想・議論による独創的かつ心情的な昭和天皇「論」を聞き,ただちに筆者が感得した素朴な疑問に関して,つぎの論及をおこないたい。
松本の立論はいかんせん,日本国内の視野に閉塞している。そして,松本という知識人の営為も内向しており,狭窄化をきたしていた。
とりわけ,前段で触れたところの「テロリスト」の定義とは,〈日本人〉関連に限定された意味しかもたない。裕仁天皇はそもそも,日本帝国に対する日本人・民族以外のテロリストをも「包容する」「大いなる愛」をもちあわせていたのか?
こうした疑問の提起が的を射ているとすれば,アジア諸国出身のテロリストたちの気持において応えるとしたら,「畏るべき」なのが「昭和天皇」でであったという思いなど,少しも入りこめるような,わずかな隙間さえありえなかった。
さて,日本帝国の視線からみてまちがいなく「テロリスト」であった,たとえば,以下のごとき朝鮮人たちがいた。
隣国の日本にとってみれば極悪人のテロリストたちが,こちらのお国では英雄列伝に名を連ねていた。こうした逆相的・逆さまの関係は,被害においてどうして生じていたのか?
本ブログ筆者は以前の記述,1936年のベルリンオリンピック「マラソン競技」で,日本選手として優勝した孫 基禎の話題をとりあげたことがある。そしてこの孫が死亡したさい,日本のJOCとこの組織関係者からは弔電の1本すらも送られなかった事実にも触れてみた。
そこまでJOCの関係者はお尻の穴が,もうほとんどみえないくらい小さいのかと呆れたものだが,かつての朝鮮人テロリストたちがどのような政治意識や人間としての感情をもって,日本側要人を襲撃し,殺害したのかについては,単にテロだ殺人だとだけ罵って片せるわけはない。
要は,以上の「テロリスト」3名は事後,裁判を受け,処刑された。彼らの死後,遺体を埋葬された場所をわからなくされた者もいる。なにゆえそこまでして,遺体を隠すかたちで日本帝国に対する朝鮮人〈テロリスト〉の存在に関する記憶を抹殺しようとしたのか。
補注)この種になる「死体(遺体)」隠しの目的が,どのような意図・含意があるかについては,わざわざ説明するまでもあるまい。一般論としても説明がつく話題であった。
〔記述本文に戻る→〕 ここでは松本健一に対して,とくにこう断わっておきたい。
「ということ」だから,なんと「畏るべき天皇であるか」という意味あいに関していうと,この意味を受ける立場によって,どのようにでも解釈できた。場合によっては,と断わるまでもなく,げに「〈おそろしき〉死刑執行人」であったのが,ほかならぬ裕仁自身であったことになる。
昭和天皇は,1931〔昭和6〕年に起きた2・26事件が発生したとき,
「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ,真綿ニテ,朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行為ナリ」「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス,此ノ如キ凶暴ノ将校等,其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
と憤激した。
ところが,上記の朝鮮人テロリストたちは,時代についてはさかのぼる事件も含めてであったが,「朕の股肱のその老臣たち」に重傷を負わせ,死亡させるだけでなく,裕仁天皇自身を狙ったテロ事件も起こしていた。
しかもそれら事件は,その目的が最終的に天皇という標的に絞られていたからには,彼の立場にしてみればとうてい許しがたい「不逞鮮人たち」のテロ行為が,なんども重ねて起こされていたことになる。
となればここではあらためて,松本健一に対しては,以下のように,とりあげている問題の根源から問わねばならない。
それでも,自分自身がテロの標的にされた「日本帝国の大元帥:昭和天皇」は,「被植民地元国家・地域出身」のその「テロリストさえも」,「その大いなる愛」をもって「包容する」ことができていた,それゆえ「畏るべき天皇」であったと定義しえたのか?
とんでもない,そのような彼の対応がなされた形跡は,ほんのわずかもなかった。なにせ,自分と「この朕の股肱の老臣」を死傷させた,しかも被植民地の下等臣民に位置づけられた者どものテロ行為であった。
当然のごとく劣等民族とみなされていた者たち:彼らが,「朕の股肱の老臣」たちを殺害した犯罪行為に,情状酌量の余地が与えられる余地などまったくありえなかった。この点は,あまりに当然のなりゆきであった。
昭和天皇は,2・26事件を起こした将兵たちでさえ,自身に対する「テロリスト」の配下集団とみなし,事後においてはきびしく措置した。それゆえ,彼らに対して裕仁が「大いなる愛」で「包容する」場面は生まれようもなかった。
この2・26事件においては,上官(尉官たちだったが)から下された命令関係によってだから,嫌も応もなしに一兵卒としてその革命にくわわることを強いられた兵隊たちは,その後,懲罰として部隊まるごと,「満洲」(中国東北地域)に配置替えさせられた。
この2・26事件に敷衍させていえば,日本帝国の植民地出身者が「天皇の股肱」,ましてや「裕仁自身」の生命を狙った行動を,昭和天皇の立場が許すわけなど,ほんのカケラすらありえなかった。
結局,彼からその愛を差し向けられる〈テロリスト〉とは恐らく,せいぜい「日本人・大和民族」内部に限定されていたのである。
※-5 こここで話題はいくらか移動する
敗戦後における米日政治関係史のなかで昭和天皇が発信した「沖縄メッセージ(天皇メッセージ)」は,彼の「その大いなる愛」を送られるべき対象から外された「明治以来における日本固有の領土〔=オキナワ〕」もあったことを実証した。
松本健一の議論は,どこまでも日本国内向けであって,国外〔植民地・支配地域〕まで妥当しえない。ところが,実際におけるその天皇「論」の対象範囲は,日本の国内だけでなく外国にも向かわざるをえない。
本ブログ筆者は,天皇を「畏るべき人物」だと観察・形容する〈学問の基本姿勢:嗜好〉を明示し,この方途に即するかたちで,松本のように議論することを否定しない。ある意味,個人的な嗜好の問題であり,かつまた問題設定のあり方として,いちいち否定する事由もない。
しかし,その姿勢は同時に,まだよく説明のできない「感性=〈日本人的心情のぬくもり〉」にどっぷり漬かっており,そこから一歩も抜けだせない限界を露わにしていた。
松本健一は,本記述がとりあげて議論している『畏るべき昭和天皇』2007年の続編に当たる,つぎの著書も公刊していた。松本は2014年に死去したから,晩年の公刊物になる。
筆者にいわせれば結局,昭和天皇に関する松本の文学史・文化史「論」は「始まりのところで終わっていた」。それゆえ,この「終わりからさらに討究を始める」必要がある。
なぜか無条件的に,しかも大枠として嵌められていた「日本人・大和民族としての集団心理」に圧倒されており,これに抗うことを諦めたがごとき議論をもって,政治を文学史・文化史「論」的に展開したかぎりでは,とうてい政治思想史的な天皇制の考究にまで高まりえない。まさにこれからという段階で,松本の議論はともかく終着した。
こういうことである。
旧日本帝国主義の時代において頂点にそびえ立った支配者=天皇に立ちむかい,あえて「テロリスト」になった被圧迫諸民族の人びとは,昭和天皇〔など明治と大正の天皇も含めて〕が「果たそうとした」「愛」=「いつくしむ役(パフォーマンス)を」拒絶しただけでなく,そうした「関係」性じたいを当初から峻拒してきた。
この歴史の実相をまさか松本健一がしらないわけがない。明治以来の3代天皇は,アジア諸国にとってどのような役まわりを果たしてきたのか。この史実を彼がしらないわけがない。彼ほどの教養人がそれほどウツケであるはずはないから,あえてそのように一方的になるが,つまり勝手に確認させてもらうことにしておく。
日本帝国臣民を,歴代天皇が「いつくしむ役(パフォーマンス)」を演じてきたという「上下の間柄:忠義の関係」というものは,日本民族以外のアジアの人びとの立場に対して成立するといった世界史的な経過は,どこにも実在しえなかった。もちろん,この種の想定は,明治以来に限定されるべき話題であったが……。
「日本帝国に対するテロリスト」を登場させるほかなくなった時代の大きな枠組,19世紀も第4四半世紀からの「宗主国日本帝国とその植民地諸国・諸地域との支配⇔従属関係」は,そうした背逆関係を不可避に必至化させていた。この事実史のことに,まさか松本健一が理解できていなかったとは思えない。
さきに,日本帝国の植民地となった国家・地域出身の「テロリスト」を3名挙げておいた。森川哲郎『朝鮮独立運動暗殺史』三一書房,1976年は,「朝鮮における日本の犯罪を見直そう」という項目で,こう語っている。
日本帝国主義がおこなった凶悪な犯罪の爪痕に,支配層も庶民もふくめて,現代の日本人が目を背けることは許されない。しらぬ顔をして頬かむりするのは,なおさら許してはならない。
日本帝国が朝鮮を植民地した時代における「苦痛と悲劇の深い傷あとは,まだ,朝鮮民族の魂の中に,骨がらみとなって残されている。いまやその五肢に,民族の苦痛となって,いまだに深く刻みこまれているのだ」
もちろん,朝鮮でおこなってきた犯罪と同質のものは,当時の日本の支配権力がアジア各国でおこなってきたものである。アジアも世界も,その日本の凶悪犯罪と悪質な支配ぶり・搾取・弾圧・迫害を忘れてはいない。
昭和天皇がヨーロッパ訪問〔1971年9月27日から10月14日〕で歓迎されなかったり,またあるいは,戦犯とみなさして白眼視されたりするのも,彼が自国の最高指揮者であり,開戦決定者であって,つねに天皇の名で虐殺と迫害,弾圧がおこなわれてきたからである。
「広島市民の大量虐殺は,ああいう戦争だからやむえなかったことと思います」と彼が発言したことは,思想的にも心情的にも,敵国による日本民族および異民族の大虐殺を正当化しており,真の意味で戦争責任者であることを裏書きした。
「個人としての天皇は」「一方で立憲君主としての立場を超えて軍部に対して自己主張を試みた」ゆえ,「個人としての天皇に軍部の政策の責任を帰属させることは困難であ」る。
「しかし」「軍部の政策がすべて国軍の大元帥たる天皇の名において決定され,実行された」。「もし軍部の政策に責任があるとすれば,それは個人としての天皇ではなく,制度としての天皇(ないし機関としての天皇)であ」る。
「しかも制度の責任を担いうるものは,結局,個人以外にはない」「それが敗戦後の人間天皇に問われたもっとも深刻な道義的問題であった」
註記) 以上,森川哲郎『朝鮮独立運動暗殺史』三一書房,1976年,304-305頁引照。
旧大日本帝国の大元帥だった昭和天皇は,アジア・太平洋戦争〔15年戦争〕をとおしてアジア諸国を戦地と化し,2千万人以上もの人間を死に至らしめた名実ともに,最高の責任者である。
日本帝国内関係だけでも,〈一般臣民:熱誠の赤子〉に3百万人以上もの死者を出した。
侵略戦争をそのように推進させ,大失敗をした軍国主義:日本帝国の最高責任者が,敗戦後30年経過した段階で新聞記者に問われた戦争責任を,ヒロシマ・長崎への原爆投下という問題もあわせて,単に「言葉のアヤ」といいかえし,退けた。
というよりも,彼は正直なところ,自身の戦責問題に対する問いかけに対してはそのように「問答無用の態度」しか採りえなかった。みかたによっては,これほど「朕の国家への責任の果たしかた」において無責任だった人物もいなかった。ところが,彼は「自分=天皇家の存続」という我利私欲次元の未来戦略だけは,確実に完遂したのである。
原 彬久『吉田 茂-尊皇の政治家-』岩波書店,2005年に聞こう。
天皇が退位し,戦争への道義的責任をしめしたなら,軍部暴走と戦争にかかわった政治家・軍人・言論人などは,指導者としての出処進退をきびしく問われたはずである。アジア諸国への賠償・補償もすべてはこの地点から始まっていた。
日本が国家として,占領軍による受身の懲罰ではなく,自身の意思にもとづいて戦争責任に明確かつ早期の決着を付ける必要ができたなら,「天皇退位」は,ひとつの重大な選択肢であったに違いない。
天皇股肱の「臣吉田 茂」(当時の首相)が,敗戦日本をとらえて離さなかったこの「天皇退位」という戦後史最大の難問を抱えて,歴史の岐路にあった。しかも,この吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという,このうえなく深大な決断を下していた。
註記)原 彬久『吉田 茂-尊皇の政治家-』岩波書店,2005年,154-155頁。
そのために裕仁は以後,それでなくともうかつに発言できる性質の問題ではなくなっていた「自身の戦争責任」に関しては,厳重に鍵をかけておき,密封状態にするほかなくなった。
そもそも,敗戦直後にマッカーサーとはじめて会見した昭和天皇は,「戦争中の国家的決定と国民の犯した行為について全責任を負う者」である告白したと間接的に解釈されていたものの,東京裁判が進行するころには「東條英機に戦争責任を押しつけ」「国体の護持」を図り,その責任を回避できていた事実に注目しておきたい。
註記)木下道雄『側近日誌』文藝春秋,1990年〔高橋 紘「解説・昭和天皇と『側近日誌』の時代」〕,385頁,387頁。
補注)昭和天皇が「戦争中の国家的決定と国民の犯した行為について全責任を負う者」であると告白したとマッカーサーが唱えた主張は,ほぼ百%作り話であった。
マッカーサーはGHQの最高司令官としてなによりも,裕仁をどのように利用できるかという利害損得の立場から,この日本の天皇を「生かせる」ように「敗戦後日本史」の形成に強力に関与してきた人物である。
ともかくも,昭和天皇にとって不幸中の幸いだったのは,東京裁判の法廷に引き出されず,無罪放免になったことである。当時,日本国民のあいだに裕仁天皇がその裁判に登場しない事情に不審の念を抱く者がいなかったのではない。
しかし,昭和天皇の旧日帝大元帥として最高の戦争責任が不問されるともに,一般庶民のあいだにも広く深く滲透していたはずの,もろもろのこまごました戦争責任も,同じく免罪あつかいされた。
日中戦争に駆り出された日本軍将兵のうち,実際に前線で戦闘経験のある者たちならば,「三光作戦」的な軍事関連の遂行に全然関与しなかったと自信をもっていえる者は,ごく少数派の存在でしかありえなかった。
GHQの支配統治に置かれた敗戦後日本においては,東條英機らA級戦犯に戦争責任すべてを転嫁しえたかのような政治状況・社会的雰囲気が醸成されるなかで,東京裁判が展開されていった。
そして,1946~1954年にわたる昭和天皇の全国津々浦々へ「行幸」行事は,日本国民にも重く課せられていたはずの「戦争責任」を,つまりその歴史的な意味あいをあいまい化させるだけでなく,なるべく忘却させるためにも活用された。
昭和天皇は《ご聖断》でもって,A級戦犯の生首と引き換えに国体護持と一身の安全を勝ちえた。昭和天皇自身にはそれがよくわかっており,A級戦犯の記憶は,昭和天皇にとってはいまさら触れられなくない苦いものであった。
註記)岩井忠熊『「靖国」と日本の戦争』新日本出版社,2008年,155頁参照。
そればかりか,敗戦後における日本の政治過程において貫徹・成就させてきた「天皇という個人の利害」に関係する問題は,かつての臣民たち,そしていまの国民たちには,けっしてしられたくない秘話にされておく必要があった。
昭和20年代における裕仁天皇をめぐる歴史は,「天皇は神聖にして侵すべからず」と明治憲法において神話裁定的に規定された〈昭和天皇〉の罪科を裁くことなく済ませてきた,日本人・大和民族の致命的な過誤を記録している。
「天皇は神聖にして侵すべからず」(明治憲法:大日本帝国憲法)と「天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である」(日本国憲法)との字義の違いは,一見大きいようにみえても,実はたいした径庭がない。
松本健一は,昭和天皇自身の想定する国家論は「天皇の国家」に尽きる,戦後もこれはかわっていないと論断した。裕仁天皇は,北 一輝と同じに天皇機関説に立ちながら,北が「国民の国家」であると考える立場を許さなかった。
「国民の国家」であるとすれば,天皇もその「国民国家の機関」に過ぎなくなる。そうであれば,天皇に統帥権があるにせよこの国軍は「国民の軍隊」であるべきである。ところがこの考えは,「天皇=国家の軍隊」すなわち皇軍という考えとするどく対峙する。
北 一輝が強い影響を与えて起きた軍事クーデタ:「2・26事件」は,「天皇の軍隊」を奪い,「国民の軍隊」にしてしまおうとした事件であった。天皇は,一時は「国民の軍隊(公民国家)」へと動くかもしれなかった情勢を「天皇の軍隊」へと,とりもどした。
註記)松本『畏るべき昭和天皇』214-217頁。
筆者は,「生物学的原理」で皇位が継承されると規定した現行の日本国憲法は,天皇家の血筋を「神聖にして侵すべからず」ものと観念した立場と大同小異であると解釈する。
松本健一も,民主主義の原義には特権階級を廃すという意味があり,日本の天皇制は民主主義に反すると断定していた。それでも,「畏るべきもの」として存在しつづける「日本における天皇・天皇制」に,松本はただひたすら感嘆するばかりであった。
松本のそうした,昭和天皇に関する「個人史的な文学史・文化史」論は,さらに政治・経済・法律・社会・心理史的な諸視座を有機的に束ねての考察にまで仕上げる余地があった。
筆者が本記述で論及したのち,彼の立場に関して感得した固有な難点は,人生の最終段階に至り,ただ「天皇陛下,万歳!」に相当する精神状態を,他者に示唆しておきたかったがごとき基本姿勢を,著作のなかで明示したところにみいだせる。
ここで,むすびとして論定する。
松本健一(1946-2014年)は,他界する数年前,他者に向けて明確に提示した自身の天皇観は,まさか戦争中ではあるまいに「天皇陛下,万々歳」に通底するだけだった心情論的な天皇議論を開陳した。
以上をもって,この記述はおしまいとなるが,最後にウィキペディアに解説されている「松本健一」をのぞいてみたところ,本文の最終段落にこう書いてあった。
松本健一は1995年度から麗澤大学の教員に就いていたが,この大学の国粋的な偏狭性となれば,大いに共鳴しえたかのような自己説明がなされるように変幻しえていた。
しかし,「歴史学会をリードしたのが唯物史観の人たちなので,無味乾燥な年号と人名を覚えさせるものになってしまい」という解説は,独断と偏見の代表見本みたいな〈説明になりえない説明〉であった。
なぜならば,文部科学省推奨路線としての歴史教育こそが,むしろその無味乾燥性の独壇場的な好例見本でもあったのだから,「顧みて他をいう」発言を老齢期になってきたせいでもあったのか,わざわざ一方的に断定するだけの調子で語ることになっていた。
それでは歴史を語る,解釈する,未来を展望するというための学問から,わざわざ撤退させたがごとき個人的な心境を,つまり,いわずもがなであった「自身の信条変質(の退化現象)」を,あえて披瀝したことにしかなりえない。
結局だから,天皇陛下万々歳「論」に逢着したかのような著書を公刊するようにまで,松本健一は大きく変身しえていたと推察する。
ところで,麗澤大学の教育理念は『「モラロジー」に基づく知徳一体の教育』だと説明されていた。
それは「麗澤教育は,創立者・廣池千九郎が提唱した道徳科学『モラロジー』」に基づく知徳一体の教育を基本理念とし,学生生徒の心に仁愛の精神を培い,その上に現代の科学,技術,知識を修得させ,国家,社会の発展と人類の安心,平和,幸福の実現に寄与できる人物を育成する」ところに,狙いがあると説明している。
道徳科学とは,戦前戦中の文部省が大正後期から昭和初期にかけて,それまですでにマルクス主義の思想・科学が風靡してきた「時代の風潮」に,歯止めをかけるために用意した「国民道徳」と隣りあわせである「可能性=危険性」がみのがせなかった。
アダム・スミスの「道徳感情論」とも,むろん縁遠い発想であった。
本ブログ筆者の手元には,すでに処分した書物が多かったので,内容面で該当する文献がみつけにかったが,宇田 尚『国民道徳新講』昭和16年1月という本があったので,これから若干参照してみたい。
この本の最後の頁がこういう段落で締められていた。
麗澤大学の道徳科学のモラロジーとは,戦前の国家神道体制が完全に犯していた「神道は道徳・倫理」であり,政教一致の原則には反しないと強弁したリクツとは,陸続きの疑似宗教的な発想に近親し密接していた。
本記述で批判した松本健一の「昭和天皇論=恐るべき人物」という位置づけと,麗澤大学の道徳科学のモラロジーとは,なんらに親密な関係性を有していた。
松本健一の「昭和天皇論」をめぐっては,ずいぶんと平凡な結論的な言及となったが,そのように断わっておくほかない必要があった。
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