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小池百合子都知事「カイロ大学卒業の実体なしの疑義」に関した話題,嘘だと断定されつづけ何年が経ったか? 問題はディプロマ・ミル(学位工場)という話題にも関係していた

 ※-1「小池百合子知事,元側近がメール暴露した学歴詐称疑惑をまた否定 カイロ大の声明『私自身が関知してない』」『東京新聞』2024年4月19日 16時16分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/322283

 この『東京新聞』2024年4月19日の報道は,この都知事の学歴詐称疑惑問題をめぐる諸事情にくわしい関係者が,すでに「小池がはまっていて身動きできなくなっている」そのカイロ大学卒業,それも首席の成績で修了していたという「信じられないような虚偽・疑惑」問題について,つぎのように伝えていた。

 --東京都の小池百合子知事のカイロ大卒業を認める同大学長名の2020年の声明文をめぐり,知事の元側近の小島敏郎氏が,声明文は知事側で作成した可能性があると主張している問題で,小池知事は〔4月〕19日の定例会見で「私自身が関知しているものではない」と述べ,声明文はカイロ大の判断で発出したものであるとの見解を改めて示した。

いまもなお事実そのものの認否には絶対に応じない
この人のしたたかさは
結局のところ反転させられて自分自身に跳ね返っており
引くに引けない苦境にはまっている

 小島氏の説明によると,小池氏の学歴詐称疑惑が取り沙汰された2020年当時,小島氏は小池知事から相談を受け「カイロ大から声明文を出してもらえばいい」と提案。

 知事から依頼を受けた元ジャーナリスト〔これまでA氏と誇称されている〕が,小池氏の卒業を証明するとの文案を作成し,同年6月,これとほぼ同じ内容の声明が,エジプト大使館のフェイスブックに掲載された,としている。小池氏は同月に卒業証書などを公開した。

  ◆「宛先は大使宛て? 私宛? 内容は?」◆

 小島氏は〔2024年4月〕17日に外国特派員協会で開かれた会見で,小島氏が小池知事に声明文について提案したことを受けて交わしたとする小池知事とのメールの写しとする文書を公開。

 小池知事のものとされるメールには「カイロ学長や関係政府当局から,どのような書類が必要か,確認お願いします。宛先はどうしますか? 宛先は大使宛て? 私宛? 内容は? ご教示下さい」と記されていた。

 小池知事は,声明文について小島氏から提案を受けたかどうかについて「いろんな発案が多くの方々からいただいている」と直接の言及を避けた。そのうえで,「カイロ大を正式に卒業しており,大学が発行している卒業証書を公にしている」とこれまでの立場をあらためて主張した。

 【関連記事】小池百合子都知事の学歴詐称疑惑 元側近が「カイロ大から声明文を出してもらえば」と提案したと主張

 【関連記事】小池百合子知事の「答弁拒否」巡り都議会で激論 「耳障りな質問は排除か」立民発言の撤回求める動議可決

引用した記事の「関連記事」紹介

  以上のような最近,日本社会をさわがせている小池百合子都知事の「学歴詐称疑惑問題」は,本ブログ筆者がいまから17年も前にとりあげていた問題の「ディプロマ・ミル」(学位工場)に通じる質を有していた。

 本日の記述はこの「ディプロマ・ミル」にまで立ち返って,小池百合子都知事のその「学歴詐称疑惑問題」を,いくらか異なった角度から討議してみることになる。


 ※-2「文科省,『ニセ学位」実態調査に乗り出す』」 『教育zine-明日の教育を創る人へのウェブマガジン』2007年7月29日,https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/kaigi/?id=20070169

 〔2007年7月〕23日の読売新聞の記事によると,大学としての実態がないにもかかわらず,博士号などの学位を授与する海外の団体が増え,問題になっているようです。

 このような団体の多くは,経歴などを記入した申し込み用紙を送り,数十万~数百万円を指定口座に振り込むと,ほぼ自動的に学位を授与してくれるのだとか。

 このような団体は以前から存在していて,「ニセ学位」も数多く出まわっていました。ただ以前は,学会ではなくビジネスの世界での利用(悪用?)が中心だったようです。

 たとえば健康食品会社の社長が商品に説得力をつけるために取得したり,新興宗教の教祖が教義の「権威付け」のために取得したり,と。

 しかし今回の記事を読むと,どうも「ニセ学位」の取得者が大学内にもいて,この学位を理由に採用されたり,昇進したりしているというケースも想定されているようで,そのため文部科学省も調査に本腰を入れるようになったと思われます。

 これは,日本だけの問題ではないようで,韓国の中央日報では,韓国の「ニセ学位」問題を社説で論じています。また,アメリカでは政府の上級職員に「ニセ学位」保持者がいて問題になりました。

 「博士」と聞くと無条件に「すごい!」と思ってしまいがちですが,今後は,「どこの大学で博士号を取得したか」に注意する必要がありそうです。


 ※-3「学歴汚染(Diploma Mill・Degree Mill=学位称号販売機関による被害,弊害):ニューポート大学」『notebook』2012年5月3日, http://oopseydaisyx.blogspot.com/2012/05/diploma-milldegree-mill.html

 「上記の題名」になる「以下の記述」は,小島 茂(学歴ネット編集長)「学歴ネット (253) 金沢大学の詭弁と自己矛盾」として,論及されていた。

 --本誌でも取り上げたが,朝日新聞の金沢大学医学部と非認定校のニューポート大学の学位報道に関連して,メルマガ「学歴ネット」で連続して取り上げたので,以下,紹介する。 

 ブログ「学歴汚染」(2008. 1. 26) で伝えたが,朝日新聞 (2008. 1. 26) によると,金沢大学医学部で米国非認定校のニューポート大学の学位使用教官が2人いることが発覚し,金沢大学当局は,該当教授と准教授は業績があるのでとくに処分はしないと発表した。

 ここでいくつかの疑問が生じる。

 第1は,なぜ他国立大学ではなく金沢大学の教官にニューポート大学の学位取得者が多いのか(?) という点である。

 第2はなぜ医学部にも不正規学位の使用教官がいるのかという点である。

 第3は,東大,京大など日本の主要大学でニューポート大学の学位は受け入れられるのかという点である。

 第4に,米国のハーバード,スタンフォード,バークレイ,ミシガンなどの主要大学で,ニューポート大学の学位を使用した教授がいた場合どうなるのかという点である。

 第5に,金沢大学の今回の対応が適切なものであるかどうかという問題である。

 まず,ニューポート大学はカリフォルニア州で認可されていることを盾に法的問題はないと主張しているが,オレゴン州やミシガン州(CHEA)の非認定校リストに掲載されている。

 補注)ニューポート大学のHPは,つぎのものである。


 ニューポート大学はメイン州では,ディグリーミルと記載されている。

 当然,オレゴン州,ミシガン州,メイン州等ではその学位使用は違法となる。したがって,米国のしっかりした認定大学でもその使用は認められておらず,オレゴン州学位公認局によれば,もし使用した場合,教授は究極的には辞職(*解雇)に追いこまれる。

 通常,そうした非認定学位は日本の主要大学でも通用しないはずである。たとえば,東大で,海外の学位取得者が過半数以上を占める経済学部のケースをみると,教員はほとんどがトップクラスの大学院の博士号を持っている。そういう人たちにとって非認定学位は問題外である。

 したがって,東大経済学部では,米国の認定大学同様,ニューポート大学をふくめ非認定校の学位が入ってくることはありえない。

(*非認定校の前に何千もある認定大学を考慮するはずだが,実際は,その認定大学もほとんど考慮されず,考慮される=対象となるのはその分野で優れたトップ20校程度である)

 非認定の学位が万一入ってきたら,学部のブランドイメージと信用性を(*著しく)損傷することが明白なので,当然,教員はクレームをつけ,学部は排除するはずである。

 朝日新聞の記事では,金沢大学医学部では,「ニューポート大学とはなんだ」と話題になったが,昇進を認めたとある。

 ということは問題であることを認識しながら受け入れた,あるいは反対の意見を押さえて受け入れさせるパワーが内部で働いたものと解釈することができる。そのパワーによって他のニューポート大学の学位も入りこんできたきたことが,推論としてならばなりたつ。

 東大や京大をはじめ他の主要国立大学医学部にニューポート大学の学位が入っていないのに,金沢大学医学部だけにあるのはなぜか? やはりニューポート大学とつながりのある人脈が入りこんだということだろう。そして他学部にも波及したということだろう。

 通常,理系は博士号が必須とされ,文系では従来はそうではなく(最近は必須になりつつあるところが増えている),DM〔「ディプロマ・ミル」のこと〕を含む非認定学位はそうした真空地帯の文系教員に入りこんでいる。

 医学部にも入りこんでいるという背景には,医学教育の周辺や境界領域である看護,保健,心理,療法(セラピー),漢方,代替医療,検査といった分野にDMや非認定学位が大量に入りこんでいるからである。

 金沢大学医学部のケースもプロパーの医学ではなく,保健学科の理学療法および看護関連の非認定学位である。

 日米のトップグループの大学で非認定学位が認められないのは,ランクが高い大学であればあるほど非認定学位の使用は許されない,教員も業績があればあるほど非認定学位の使用は許されないというのが,常識であり,国際的な見方だからである。

 さらに,学位授与権によって他の教育機関と峻別している大学自身が学位の重みを否定するのも自己矛盾である。

 したがって,金沢大学の業績があるから非認定学位は許すというのはまさしく論理が逆さまで詭弁と居直りに過ぎず,大学の信用性を損ねることはあっても尊敬を高めることはないだろう。

 他方,金沢大学教育開発センターは,そのニュースレター(2007. 1)で,「エジプト考古学者の吉村作治氏の『偽学位騒動』とディプロマミル問題」と題して同氏を批判的に取り上げている。そして「DM学位にはくれぐれも気をつけましょう」と締めくくっている。


 ※-4 2010年11月27日が初出だった「大学教授の資格とは?」という旧ブログ記述を補訂する議論

 1)  教授の採用基準・資格,研究と教育など-バラバラに各論をいいあう不毛の議論:博士号の価値を考える-

 a) 大学教授になるための資格とは?

 本日〔ここでは2010年11月27日〕『朝日新聞』朝刊に掲載された「オピニオン:耕論」には,大学「教授の資格」をめぐって,千葉大学の松野 弘,明治大学の蟹瀬誠一,関西国際大学の濱名 篤がそれぞれ持論を披露していた。

 新聞の特集記事として掲載された各氏の意見であり,なるべく幅広く主張を聞こうとする体裁をとっている。本ブログ筆者の関心に即して論点を拾いながら検討をくわえる。そのまえに各氏の経歴を尋ねておこう。

 ☆ 松野 弘(まつの ひろし,1947 年生まれ) 現職は千葉大学大学院教授。博士(人間科学・早稲田大学)。早稲田大学第一文学部卒業,電通に入社,パイオニア(国際マーケティング担当)・日本総合研究所主任研究員などを経て,信州大学・放送大学講師,山梨学院大学助教授。

 以後,早稲田大学商学部講師・明治学院大学社会学部講師などを歴任。早稲田大学理工学術院総合研究所客員教授・東京農業大学総合研究所客員教授・千葉商科大学大学院政策情報学研究科客員教授,日本学術会議特任連携会員・日本青年会議所政策アドバイザーなども兼務。

 ☆ 蟹瀬誠一(かにせ せいいち,1950 年生まれ) ジャーナリスト出身で,現職は明治大学国際日本学部長。日本大学文理学部体育学科中退,上智大学文学部新聞学科卒業,AP通信社記者・フランスAFP通信社,1988年TIME紙東京特派員などを経て,フリージャーナリストとして独立。主にTBSやテレビ朝日でのキャスターを歴任。2003年3月31日から2006年3月31日まで『蟹瀬誠一 ネクスト!』(文化放送)のパーソナリティー。

 2002年明治大学文学部教授,2008年に明治大学が新設した国際日本学部の学部長に就任。NPO(構想日本)の主催するJIフォーラムの司会も務める。ランバート大学客員教授でもある。2000年にランバート大学から名誉博士号を授与されたが,これはディプロマミルにあたると報道された(『週刊現代』2008年1月26日号)。

 ☆ 濱名 篤(はまな あつし,1956 年生まれ) 学校法人濱名学院理事長,関西国際大学学長教育学部教授。1987年上智大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期修了。

 主な兼職として,中央教育審議会専門委員(大学分科会)・独立行政法人大学入試センター運営審議会委員・日本私立大学協会附置私学高等教育研究所研究員・大学コンソーシアムひょうご神戸副理事長・兵庫県県民生活審議会委員。

 b) この3氏3様の経歴にもとづく意見を「オピニオン:耕論」は収録している。以下に紹介したい。

 「松野 弘」
 松野は,大学教員の「採用基準を厳格化すべきだ」と主張する。国が定めている大学設置基準における教授の資格は,「大学設置基準」「第14条」「一」において「教授となることのできる者は,次の各号のいずれかに該当し,かつ,大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする」と規定している。

 だが,同時に「第14条」「六」が「専攻分野について,特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」(1985年一部改正)と規定していて,大学教員になるための資格に博士号取得を義務づけていない。

 松野は,欧米各国では博士号がなければ大学教員にほとんど採用されない現状を踏まえて,日本の「社会人教員の多くは大学院での学問的訓練を受けておらず,学術論文を書いた経験もほとんどない。

 授業は単なる体験談になりがちで,年間数十回の講義を充実させるのはむずかしい。卒業論文の指導もむずかしい。むしろ社会人教員を減らし,大学院での教育や研究の訓練を受けた若手研究者を積極的に採用すべきだ」と提唱する。

 松野が危惧することは,それではなにか。

 「優れた大学教員のいない大学は衰退する」ほかなく,「国は留学生30万人計画を提唱している」が「教員の質を高めないと海外から優秀な学生は来てくれない」

 松野のこの議論は,「社会人教員」〔2007年において国公私立大学で社会人教員の占める比率は37%まで増えている〕の学者・研究者としての資質を問題にし,さらに大学院で大学教員になるための基礎訓練を受けてきた若手研究者を積極に採用せよと唱えている。

 途中だがひとまず,本ブログ筆者の講釈をくわえておきたい。

 --4年制大学における教員数は,1970年の7万6千人から2010年の17万4千人まで増えている。前段の比率:社会人の大学教員〔2007年は37%〕を,ここでは「2008年」における大学教員数17万人弱にかけてみると,社会人教員の実数は約6万3千人にもなる。

 つまり,その間〔1970年から2008年まで〕に増えた大学教員〔17万人マイナス7万6千人=〕9万4千人のうち,約6万3千人が社会人教員であったと計算しておけば〔なお,その間における統計を動態的に分析はしていないから,かなりおおざっぱな話となるが,大約では妥当する理解である〕,新しく大学教員になった者のうち「3人に2人は社会人教員であった」ことになる。

 その間,社会人教員がこのように大量に大学に進出・参入してきた現実は,大学院博士後期課程まで学んで大学教員を志望した20代後半から30代前半の若手研究者に対して進路妨害をする事態を意味したといえる。

 もちろん,この解釈は社会人が大学教員になることを否定的に考えるものではなく,日本の高等教育界に対する一般論としての判断である。その意味でも社会人教員の採否いかんは,個別に観察されるべき問題であると同時に,大学教育制度全体にかかわって吟味されるべき問題でもある。

 「蟹瀬誠一」
 蟹瀬は「見識と能力があれば資格不要」と主張する。2008年度から明治大学国際日本学部長に就任した蟹瀬は,「かつての『象牙の塔』といわれたような,狭いかぎられた専門分野をかたくなに守る時代は,とうの昔に終わっている。社会や時代の変化に合わせ,大学教育もかえていかねばなりません」と主張する。

 松野 弘の主張が,研究者として基礎鍛練を欠いた社会人教員を問題にしているの対して,こちらの蟹瀬は「象牙の塔」的な大学教員像の〈時代遅れ〉を指摘している。

 「現場での実体験のある社会人教員は見識も広く,講義に説得力がある。学生とのコミュニケーションにも優れていることが多い(本ブログ筆者の注記:全員が漏れなくとはいっていないところがミソか?) 学生の評判も上々のようです」

 蟹瀬いわく「私立大学は経営も考えねばなりません」ので,「私も仕事の半分は広告塔として新設学部の営業をやっているつもりです」

 しかし「大学内で教員の教育能力研修もやれば,学生による教員評価もある。教育者としての能力がなければ,タレント教員でも淘汰されます」 

 さらにいわく「語弊があるかもしれませんが,私は日本の大学は就職予備校だと位置づけをもっとやったほうがいいと思う」

それも「就活重視という意味ではなく,大学生活はみずからの目的を定め,将来の人生の準備機関だと考える」「大学側はそのために役に立つ授業を用意する。研究や一般教養を教えることも大事だが,実務的な教育も必要」であって,「現場での経験を積んだ社会人教員が大学に新しい風を吹きこんでいる」

 以上の引用のあいだに意見をはさむが,大学内での「教員の教育能力研修」(FD:ファカルティ・ディベロップメント)も「学生による教員評価」も,日本の大学では有効に展開・利用されているわけではなく,問題点のほうが多いことを断わっておく。

 したがって,蟹瀬のように宣伝文句の材料に使うならともかく,それほど大きな声で強調すべき「研修制度」でも「教員評価制度」でもない事実を想起してもらわねば困る。

 蟹瀬の主張は,昨今における日本の大学「問題全般」に基本のところから言及していながらも,実は〈論点の混濁〉を来している。

 まず,大学に就職予備校の役割をもたせるといっているが,それならばその役割は「専門学校のほうがよく果たしている」はずである。となるとさらには,そもそも「将来の人生の準備機関だと考える」大学の「存在論的な意味」が分からなくなる。

 昨今における日本の大学=学部教育のなかに「実務的な教育」を制度的にもちこむ意図が,実際にどのような事態をもたらすか考えての主張とは思えない。

 「濱名 篤」
 濱名は「研究よりも教育が大切」と主張する。ここではその考えかたをくわしくは参照しない。ただ「研究者としての大学教員」も「実務家教員としての大学教員」もともに研鑽を積んで,「教員としての高いレベルにしてい」く必要性が強調されている。

 そして,いまの日本の大学において大学生を相手にする高等教育従事者の立場=役目が強調されている。そのうえで,学生の教育にも工夫をおこない,大学に貢献することを要求している。

 

 ※-5 いまどきの日本の大学-その一端を表現する現象としての大学教授の資格問題-

 1) 大学の教育現場にいても,その実際がみえていない大学教員たち

 本日〔2010年11月27日〕の『朝日新聞』「投書」欄には,22歳の大学生が「就活,疑問あるが悩む暇ない」という題名で,こう語っていた。

 就職活動が最優先になり,セミナーやインターンシップの参加して企業研究をする。学生の本文である学業に十分は時間を費やせない。3年生になって授業が専門的になり,やっと面白くなってきたにもかかわらず,休まねばならない。将来やりたいことのために,いまやりたいことを犠牲にする。3年前あんなにがんばって大学に入ったのは就活をするためだったのか?

大学生の声

 こういう学生側の悩みを率直に聞いて,蟹瀬のいう「日本の大学は就職予備校だと位置づけ」と強説する点については,疑問が大きく,首をひねらざるをえない。

 「現場での経験を積んだ社会人教員が大学に新しい風を吹きこんでいる」といっても,学生たちはこの風にあたる暇もなく,3年生になるや就活に出ていかざるをえない。

 前段に登場した松野 弘の議論とて,蟹瀬のような主張の対しては,ただいたずらに空中戦を挑むかのような立場でしかなかった。

 2) 学位(名誉博士号)問題-ディプロマ・ミルの関連-

 蟹瀬は大学教員としてふさわしい「見識と能力があれば資格不要」といい,松野は「博士号」の取得要件を,大学教員の「採用基準」として「厳格化すべきだ」=指摘していた。

 蟹瀬が学位(博士)が欲しかったか(?)どうかは,他者にはまったく分からない点であるけれども,ともかく,2000年にランバート大学から名誉博士号を授与されていた。

 ところが,これがディプロマ・ミルにあたると,週刊誌が報道した(『週刊現代』2008年1月26日号)。ウィキペディアにもそう書かれてしまっている。名誉博士号は,論文などの提出に対して授与される学位ではない。これについては,この記述の末尾で関説している。

 そうした脈絡に即して読めば,蟹瀬のいう「見識と能力があれば資格不要」と強調した点は,どうしても説得力を半減させるほかない。このことは,彼が「博士号を授与されていた」にもかかわらず,

 しかも自身の保有する学位である「ランバート大学の名誉博士」を名乗らないかたちで,そのように「見識と能力があれば資格不要」と主張していることからみても,蟹瀬の姿勢にはなにかチグハグ感が残る。

 『講演依頼.com』というホームページなど(なお前後して触れる以下のHPは現在,すべて削除状態にある)に掲載されていた蟹瀬誠一の記経歴,ならびに,明治大学国際日本学部のホームページに記載されていた教員紹介「欄」にも「ランバート大学の名誉博士」は付記されていなかった。

 さらに,明大ホームページ「教員プロフィール」で蟹瀬誠一を検索してみても,「名誉教授授与大学名」に関する「公開情報はありません」,「学位 取得学位名 授与機関名 取得年月日」に関する「公開情報はありません」と書かれていた。

 蟹江は「ランバート大学の名誉博士」がディプロマ・ミルではなく,事実の「名誉博士号」の学位であるとすれば,なにゆえこれを正式には名乗らなくなったのか? 

 3) ディプロマ・ミルの問題

 ウィキペディアに聞いてみる。

 ディプロマ・ミルとは,実際に就学せずとも金銭と引き換えに高等教育の「学位」を授与する〔と称する〕機関・組織・団体・非認定大学のことである。この学位商法とも呼ばれる活動は転じて,アメリカのスラングでは「入学卒業が非常に容易な大学を皮肉をこめて」「ディプロマ・ミル」と呼ぶ。

 もっとも,そのような転用がなされるのは,アメリカの大学が「入学は容易でも卒業認定は厳格である」ためである。イギリスではさらに,いわゆる「楽勝科目」を Mickey Mouse course (degree) とも呼んでいる。

 ディプロマ・ミルは最近,社会問題になるほど認知され,その機関・組織・団体の社会的影響と大学とのありかたが,教育学者や社会学者による研究対象となっている。

 ディプロマミルから「学位」を授与される人物は,肩書きに箔を付けようとする新興宗教の教祖,「天才」を自称する “街の発明家” など,疑似科学者・商取引において権威があるようにみせたいビジネス関係者などが多い。

 だが,ときには正当な経歴・実績をもつ学術研究者や大学教授なども存在する。ディプロマ・ミルの「学位」は本人が金銭で買ったものであると自覚している者もあれば,本当に正規の学位を授与されたと信じている者もあり,悪意をもって学位を詐称しているのかそうでないのか,その見分けがむずかしい事例もある。

 注記)以上は,http://ja.wikipedia.org/wiki/ディプロマミル を参照して記述。

 『週刊現代』2008年1月26日号が,蟹瀬誠一は「2000年にランバート大学から名誉博士号を授与されたが,これはディプロマ・ミルにあたると報道した」さい,その記事においてとりあげられた大学教員の1人に,本ブログのし知りあいの先生もいて,びっくりさせられた。

 その彼の場合,ニューポート大学「通信制の大学院」で2年間をかけて勉強し,博士号を正式に取得したという。ところが,『週刊現代』のそのお騒がせ記事のために危うく「職場でイジメを受けそうな立場」に立たされたと憤慨していた。

 4) 日本の大学は平均的にいって「ディプロマ・ミル」である

 本ブログの執筆方針に照らしていえば,つぎの論及が参考になる。

 『Archives 書くことは考えること』というブログが「2008/ 10/ 13 Title ディプロマ・ミルを笑えない事態」を記述していた。まず『ダイヤモンド・オンラインの記事』より引用があって,末尾にそのブロガーによる〈若干の寸評〉が添えられていた。

   ☆ 学力不問の青田買い競争 私大推薦入学の呆れた実態 ☆
          -2008年10月10日(金)09:15-

 「一部の大学が推薦・AO(アドミッションズ・オフィス)入試に名を借り,学力不問で多数の学生を受け入れている現状は妥当か」

 「昨年度の私立大学入学者数48万人のうち,推薦入学が20万人,志望者の個性や適性を総合的に評価するAO入試が4万人。私立大学生の半数は,驚いたことに入学試験を受けていないのだ」

 「しかもこの数字は,私大全体の数字である。問題になった『一部の大学』ではどうなっているのか。『定員割れが深刻な底辺校ともなると,入学意思だけ示せば即合格。やりたい放題だ』と呆れた内実を解説するのは,ある大学関係者」

人気のない大学は,一般入試では受験者すら集められないので,早くから青田買いに走る。一般入試は2月からしか実施できないが,推薦入試は11月から,AO入試に至っては1年中選考可能だ。いまや夏から秋にかけてが入試のピークなのだという。

 受験勉強の通過儀礼を経験しない「青田買い学生」は,とかく学力が低い。

 それゆえ,「英文科の授業で和訳されたシェークスピアを教材に使う」「物理や数学を学んでいないのに入学できる工学部で,大量の中退者が生まれている」などという事態があちこちで生じている。

 ある底辺校の学長は正直にこういう。「うちの法学部は,司法試験に合格させるのではなく,新聞を理解できるようになるのが目標」

私大推薦入学の呆れた実態

 冗談のような現実である。「教育再生」の道のりは果てしなく遠い(以上,『週刊ダイヤモンド』から)。

 こうした引用をした『Archives 書くことは考えること』のブロガーは,こういうふうな寸評を添えていた。

 「新聞を理解できるレベルで法学部卒と認定するというのは,どう考えても無理がありすぎる。文部科学省は,大学設置のほうではきちんと基準を作ってディプロマ・ミルの排除に成功したけれど,そのかわり,できた大学の単位認定のレベルの方がディプロマ・ミルと大差ない状態になったというオチか」と。

 こうなると,明治大学あたりに入学している学生の学力がいかほどの水準であるにせよ,「日本の大学は就職予備校だと位置づけをもっとやったほうがいい」という教育理念・運営方針を念頭に置く蟹瀬誠一が,2008年度から文科省の認可を受けて開設された国際日本学部長「職」を遂行しているのであれば,

 前段のブログに指摘・批判されたように,この明大国際日本学部も,日本の底辺に数多くうごめく非一流大学=「ディプロマ・ミル〔的な大学〕と大差ない状態になった」のか(!?)といわれても,抗弁の余地がなくなる。

 さきほど,アメリカのスラングで「ディプロマ・ミル」と呼ばれる大学の場合であっても,その「入学は容易でも卒業認定は厳格である」と断わられていた。

 ところが,日本の大学は名実ともに,それも非一流大学になればなるほど「入学許可も卒業認定もともに容易である」。だから,日本の大学は平均的にみて「ディプロマ・ミル」の大学であると「呼ぶ」のが適格であるということになる。

 

 ※-6 蟹瀬誠一の博士号

 1) 批判の方向

 インターネット上には興味を惹く関連する意見がある。たとえば『Cross-border JAPAN 国境を越えた教育,学術研究を考える』ブログ(2008/1/21)は,「明らかな事実誤認のディプロマ・ミル議論」という題名のもとに,つぎのような論旨を披露している。この記述中には「通信制の大学院」の〈ニューポート大学〉が登場する。

 以下にその記述をしばらく参照して記述する。

 ディプロマ・ミルをめぐる議論は,この20年ほどのあいだ世界的な問題であって,とりわけ近年は,米国における Religious Exemption の悪用や,GAO(連邦会計検査院)による調査などもあって,より活発におこなわれている。

 しかし,日本においては「学位」に関する認識が希薄であって,「偽学位」を発行する業者が早くから活動していたにもかかわらず,あまり論議されることはなかった。

 さて,昨今のディプロマ・ミルをめぐる論議において「真正ディプロマ・ミル」が批判されるのは当然である。だが,批判の刀が鈍くなることによる異常な事態が起こっていることは看過できない。

 それは,ほかでもないニューポート大学をめぐる議論で,噂の噂に根拠を置いた単なる噂話が実しやかに流布されていた。

 2) ニューポート大学

 「日向清人のビジネス英語雑記帳」の記事は,明らかにニューポート大学とニューポート・アジア・パシフィック大学(現・アナハイム大学)を混同していた。

 両校はカリフォルニア州教育法に基づく学位授与権をえた法内存在であり,所在地も経営者も運営内容も異なっている。

 ただし,アナハイム大学は DETC(Distance Education and Training Council)に対して,すでに基準認定の申請をおこなっている。この申請じたいはなにも保証するものではない。

 とはいっても,同大学の発行する学位は「偽学位」ではなく,法内学位である。またその教育内容は「評価の問題」ともなる。

 そのニューポート大学から名誉学位を受けたといわれる蟹瀬誠一氏の「名誉学位」は,国内で印刷されたものでないかぎり,おそらく真正なものである。しかし,それは学術的な意味をもつものではなく,あくまでも「呼称」に近いものである。

 『週刊現代』2008年1月26日号の記事は,その雑誌を発行する出版社の経営幹部が「同様の学位」(カリフォルニア州教育法が定めた教育機関の発行する名誉学位)を授与されていないかを調査したうえで,記事にすべきではなかったか。

 補注) この段落での話は「ニューポート大学から名誉学位を受けたといわれる蟹瀬誠一」となっていたが,前段では「『週刊現代』2008年1月26日号が,蟹瀬誠一は『2000年にランバート大学から名誉博士号を授与された』」と書いてあった。

 この大きなズレを承知のうえで残したまま,この箇所の記述をおこなっている。さらには,「ニューポート・アジア・パシフィック大学から・・・」と記述しているホームページもあった。ここでは行論上,この「混同の点」もついでに,清濁(?)併せる要領で飲みこんでおくことにする。

〔記事に戻る→〕 こういう説明もあった。--「ランバート大学」と「ニューポート・アジア・パシフィック大学(NAPU)」は「アナハイム大学」に吸収され,この3つは「一体」である。

 注記)http://www.news.janjan.jp/world/0801/0801169009/1.php 参照。この住所も相当する記述はみつからない。その間,だいぶ年月が経過していたゆえ,削除状態。

 ここまで相互の関係が分かれば,あとはニューポート大学とニューポート・アジア・パシフィック大学との混同に,あらためて留意しておきたい。蟹瀬は,名誉博士号を授与されたときの大学の名称を一貫して使用しているのか,という疑問が出てくる。

 『週刊現代』に掲載されたニューポート大学の「日本における代表者」のコメントに対する,つぎのごとき〈いちゃもん〉も登場していた。

 その意見は,「今〔2008〕年前半には認定団体に申請準備をしている」というコメントに対して,米国本校か海外学習センターのいずれの基準認定申請なのかわからず,「数々の問題点があり,きわめて疑問であり,申請準備をしていると主張することによって論点をそらし,世間を欺こうとしているとしか思えない発言である」と批判したものであった。

 いったい,大学として設置されていない組織が,基準認定申請をおこなうことなどあったのか。この場合,本件の文脈に照らして,アメリカ本校のことを指している点は歴然としていた。

 しかも,週刊誌に掲載されたコメントはわずか一行であって,実際のコメントは電話および文書で詳細におこなわれたものであったのに,一行に単純化したのは媒体側である。それをもって「世間を欺こうとしている」と考える,この匿名投稿者の脳は腐乱している。

 遠隔教育では,各地に学習センターを配置し,ローカルの学習者の支援をする。この方法は,日本の放送大学の例やアメリカのフェニックス大学でも明らかである。教材や教科書はすべて同一のものが用いられ,教員はすべて本校において審査され,認証された有資格者である。すなわち,その大学組織はひとつであり,日本に大学が存在するわけではない。

 その基準認定申請も,法にもとづいて設置認可(approval)を受けた大学で,しかも一定の運営実績にもとづいておこなわれる。WASCの基準認定を受けた「あの」Soka University America でさえ,その年数はきわめて長い。

 ニューポート大学においても,基準認定に関する議論と準備には多くの歳月が費やされている。いったい,誰が・なんのために「世間を欺く」発言をしているというのか。

 『週刊現代』2008年1月26日号が公表した「実名リスト」に,ニューポート大学の卒業生が6名掲載されたことから「最多」であるという指摘がおこなわれていた。それはいったい,なにを意味しているのか。

 ニューポート大学は,もっとも大量の「偽学位」をばら撒いているとでもいいたいのか。よく記事を読み,実名が挙げられている人々の経歴や実績を調べてみるがよい。

 ある人物は,一橋大学・東京外国語大学大学院・エール大学大学院・東京大学大学院を経て,東京大学で博士号を授与されたのち,ニューポート大学で5年間学んだ人物である。

 このような人物が「偽学位」を必要とする理由がどこにあるのか。東京大学で博士号を授与された者が,わざわざ英文シラバスや英文テキストで,大量のレポート,研究計画書,論文,そして数次にわたる補正要求に,なぜ耐える必要があるのか?

 大学教師のなかにニューポート大学の卒業生が多いのは,彼らが「偽学位」にものをいわせたからではなく,彼らが真に研究と教育の力を身につけているからである。そして,彼らが授与された学位は「偽学位」ではなく,前記のような法にもとづく「正規の」かつ「真正の」学位である。

 これをそうでないかのように喧伝する者がいるとするならば,それは刑法 233条〔嘘である噂をそうとしりながら,いいふらしたり,もしくはなんらかの策略によって,人の信用を落としたばあいに成立する違法行為〕である。

 注記)http://green.ap.teacup.com/cross-border/5.html 参照。この住所も相当する記述はみつからない。削除状態となっている。

 3) ま と め

 以上のような論旨に間違いがないとすれば,蟹江誠一はなにゆえ,明治大学の国際日本学部長の職に就いていながら,いまは「ランバート大学から名誉博士号」を名乗っていないのか?

 蟹瀬誠一は『週刊現代』2008年1月26日号の該当記事がなければ,いまもその博士号を肩書として公表しつづけていたかもしれない。

 ところで,特定の分野で功績を挙げた個人に対して,大学など学術機関から贈呈される称号が名誉博士号である。これは,学術称号のうち学術能力の証明ではなく,社会的な功績に対する顕彰を目的とした名誉学術称号の一種といえる。

 本ブログのしりあいの大学教員のばあいは「ニューポート大学の博士号」であった。『週刊現代』の報道後,所属する大学のなかで意地の悪い同僚たちが,その点をイジメの材料に使おうとする動きをみせたというから,勘違いを犯したうえで他人を攻撃しようとしたその根性の悪さは言語道断であった。

 ちなみ,教育学を専攻し,教育制度の問題にくわしいある大学教員に対して,ニューポート大学の博士号は「本物」なのかどうかを,本ブログの筆者は問いあわせたことがある。彼の回答は「然り」であった。

 この応答あたりから生じていた実例の1校,「ニューポート大学の博士号」の問題性は,さらに詰めた議論を残したままだと受けとめておくことにしたらよいのか?

 本日の議論は,2024年4月時点で再浮上していた小池百合子都知事の「カイロ大学卒業」に関した「学歴詐称疑惑」から始まっていたが,その真義にまつわる問題の性質は,事後におけるその利用のされ方にあった。

 分かりやすく割り切って表現すると「ディプロマ・ミル」の問題は,あとづけになっていたような,つまり,その形式的効果を装飾的に狙っていた「問題性」であったことにもなる。

 だが,小池百合子都知事のカイロ大学卒業「学歴詐称疑惑」の問題は,当初から意図されたかたちで,しかもそれを終始一貫悪用してきた「負の実績」を記録してきた,その意味ではきわめてタチの悪い「問題性」であったと判定されてよい。

【参考動画】-「小池百合子の父子」を昔,手厚く面倒みたことがある朝堂院大覚のサイト-

 つぎのユーチューブ動画サイトも紹介しておく。


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