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「戊辰戦争:会津藩の怨念」と「日帝植民地時代:韓民族の恨(ハン)」

 ※-1 本稿の問題意識

 「戊辰戦争」(1868年1月27日-1869年6月27日)によって結果した悲惨な「会津藩の怨念」と「日帝植民地時代」(1910年8月29日-1945年8月15日)に鬱積した「韓民族の恨(ハン)」は,これらをあえて比較史の台座に乗せて考えてみる場合,

 両国におけるその「怨み・恨みの意識」のありように「国境の有無」を読みとることは可能であるか,そしてまた,その異同についてこまかく立ち入って詮議することは,有意義たりうるか。

 いいかえると,日本の「戊辰戦争において生じた国内的な対立の図式」に対比させる素材として,隣国における「日韓関係史という国際的な支配の構図」をもちだし,関連づけて討究することが,はたして歴史を観察する論点としてなんらかの価値を発揮しうるか。
 付記)冒頭の画像は文中にその出典が指示されている。

 以上のごとき,日本史と韓国史の問題なのであるが,それぞれを,あえて無理やりに同じ机(テーブル)の上に並べて議論する試みじたいは,けっしてむげにあつかうことのできない,それなりの意味があるはずだと考え,以下の記述に進む。
 

 ※-2 星 亮一『偽りの明治維新-会津戊辰戦争の真実-』2008年-日本国内における戦争被害としての問題構図-

 星 亮一の本書は,大和書房(だいわ文庫)から2008年1月に公刊されていた。本ブログ筆者は,同年3月1日発行の第三刷をもっているが,この増刷版を適宜抜き書きしているサイトがあった。活字はここから借りて本書に関する以下の引用をおこなうことにした。

 a) NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」(2007年10月17日放送)に,初めて会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)が登場した。「義に死すとも不義に生きず」「会津戦争 松平容保 悲運の決断」である。この番組はその後3回,全国に放送された。

 「会津戦争,そのとき歴史はどう動きましたか」(?)という松平定知(さだとも)アナウンサーの質問に,この番組に出演した私は「会津(福島県)はみずからの正義を訴えるために,全員が死をかけて戦いに臨んだ。 そして 140年後の審判をあおぐ。 そのような気持ちだった」と解説した。

 註記)星『偽りの明治維新』〔はじめに〕3頁。

 会津の人びとは,長いあいだ朝敵の汚名に耐え,1世紀以上にわたり,その怨念(おんねん)を胸に秘めてきた。 若松を追われ,青森の下北半島や北海道に移住させられた人々の末裔には,とくにその思いが強かった。

 平成19年(2007年)会津と長州について新しい動きがいくつか出た。 山口県出身の安倍晋三が総理在任中に会津若松市を訪れ,会津戊辰(ぼしん)戦争に関して「長州の先輩が会津の人びとにご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった(4月14日)。このとき,会津若松の反応はさまざまだった。

 会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も,「遊説でちょっと喋っただけですからね,安倍さんは軽い,軽すぎますよ」と,この発言を肯定的に受け止めることはなかった。

 戦死者が眠る飯盛山(いいもりやま)や天寧寺(てんねいじ)にお参りし,焼香すれば別だったが,遊説のつけ足しでは許せないということだった。 青森県に移住させられた会津人の末裔は完全否定だった。

 註記)同書,〔はじめに〕4頁。

 会津人は屈折した思いで明治を生き,大正,昭和と引きずってきた。 平成の今日もなおこの問題は未解決なのである。

 それは東北人全般にいえることで,盛岡藩の家老の流れをくむ原 敬は「白河以北一山百文」という侮蔑の言葉を逆手にとって,あえて「一山」を自分の号として,薩長藩閥政府と戦い,ついにそれを打倒し,平民宰相の座を勝ちえた。

 岩手県人はこの問題に対しておおらかである。「われわれは勝利した」と胸を張る。 それは「この屈辱を自分が晴らしてやる」と宣言した原 敬が見事,それをなしとげたからである。

 原 敬に刺激されて岩手からは幾多の人材が輩出した。総理大臣は長州山口に次いで2番目に多い。 原に続いて斎藤 実(さいとう・まこと),米内光政(よない・みつまさ),鈴木善幸(すずき・ぜんこう)と合せて4人を出している。敗れた屈辱をバネにし,原敬はがんばった。

 註記)同書,〔第10章「屈折の明治」264頁。
 註記)以上,http://www.kkjin.co.jp/boso010_130119.htm ,[抜書き]『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』参照。本日(2023年7月11日)現在,この住所は検索してみたところ,削除されていた。

 b) 本ブログ筆者が大学院時代の話題である。ある先輩が福島大学経済学部に職をえた。この先輩,実は,鹿児島県の出身である。赴任後間もないころ,早速,こういう会話の口撃を受けたという。

 「あなたは薩摩だね……,……」。そのあとなにをいわれたかまではくわしく聞けなかったが,戊辰戦争の記憶を強くもちつづける福島県人(旧会津藩士関係)から,そういった歴史の話題にもとづく洗礼(福島県の職場に就くための通過儀礼?)を受けたということであった。

 当時は,戊辰戦争(1868~1869年〔慶応4:明治1年~明治2年〕後,1世紀近くが経ったころであった。さらに,今日は2023年になっているから,それからまた半世紀もの時間が経過した。しかしながら,前述のような〈歴史問題〉がいつか,会津若松市側からもちだされなくなる時が来るとは思えない。

 星 亮一は自著としてほかにもつぎの本を公表している。以下に3冊をアマゾン通販の広告を借りて紹介するが,これ以外にも星は関係する著作を公刊している。

 つぎは,以上の記述内容に関連する事情を,原田伊織『明治維新という過ち-日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト(改訂増補版)-』(毎日ワンズ,2015年1月)に説明させてみたい。こちらは戊辰戦争から120年が経った時点での話であった。

 昭和61〔1986〕年,長州・荻市が「もう百二十年経ったので」として議会決議をして会津若松市との友好都市関係の締結を申し入れたが,会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶した。当然であろう。「始末」は,まだ済んでいないのだ。「始末」とはどういうことか……(同書,262-263頁)。

120年そこらで消えるごとき会津藩の怨念にあらず
 

 ※-3 朴 槿恵が韓国の大統領であったとき「千年経っても変わらぬ」と発言した

 韓国の主要紙の1社『中央日報』が2013年3月2日にかかげた「〈社説〉加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない」から引用する。

 --朴 槿恵(パク・クネ)大統領は〔2013年3月1日,第94周年3・1記念日補注)の演説を通じて,「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」とし,日本の前向きな変化と責任ある行動を求めた。

 朴大統領は「日本が韓国のパートナー になるには,歴史を直視する姿勢をもたなければならず,そうするときに初めて両国の信頼と和解,協力も可能だ」と言及した。

         ▲「3・1独立運動」の解説 ▲

 日本の統治下にあった朝鮮各地で1919年3月1日に始まった全土的な抗日・独立運動である。民衆が太極旗を振りつつ「独立万歳」と叫びながらデモ行進をしたことから,万歳事件とも呼ばれる。

 宗教指導者らにより事前に準備され,ソウル・平壌などで同時に起きた。ソウルでは中心部タプコル公園(旧パゴダ公園)に集まった民衆の前で,独立宣言が読み上げられデモ行進が始まった。約3カ月の間,全国で展開されたが,日本軍の弾圧によって,住民を礼拝堂に閉じこめ火を放つなどして約30人を虐殺した堤岩里事件などが起きた。

 一連の運動をめぐり死者7509人,負傷者1万5961人のほか,4万6948人が投獄された(朴 殷植著『朝鮮独立運動の血史』)。朝鮮での労働運動,農民運動,女性運動などの原点にもなった。

 註記)『朝日新聞』2007年10月2日朝刊『東特集C』,https://kotobank.jp/word/3・1独立運動-880219 参照。

「3・1独立運動」の解説

 朴大統領は日本で「千年大統領」と記憶される可能性が高い。朴大統領の今回の発言が,日韓関係に肯定と否定のいずれの方向で影響を及ぼすかは分からない。日韓間には独島〔日本でいう竹島〕,従軍慰安婦,歴史教科書など地雷の畑が敷かれており,日本の指導者の妄言というミサイルがたびたび玄海灘を渡ってやって来る。今〔2013年3〕月末に日本で発表される歴史教科書検定が再び問題となるだろう。

 朴大統領は,日本に対して明確で原則的な立場を示した以上,言葉の重みを示さなければならない。大統領が直接出ることは今後はできるだけ自制し,専門家と参謀の意見を尊重して,国益と歴史を賢明に分離して対応することが重要だ。日韓問題は冷静な理性よりも「国民感情」に左右されることが多く,大統領はしばしばそれに便乗したい誘惑にかられる。その結果はいつも失敗に終わったことを教訓にしなければならない。

 註記)以上「社説」の住所は
  ⇒ http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013030250788

 この社説は朴 槿恵大統領に向けて,韓日関係に臨む韓国側の姿勢を慎重にするよう,忠告を与えている。韓国紙のある1社の意見ではあったけれども,その立場はこのように,朴大統領よりも,ヨリ冷静に日韓間の外交関係を観察している。日本と韓国の国際関係のさきゆきを懸念した社説を書いていた。
 

 ※-4「 한 오백년 恨五百年」『ターちゃんの韓国歌日記』2012年3月13日から

 このブログのなかに,つぎのような文章が記述されていた。

 「한 오백년 ハノベンニョン 恨 五百年」という曲は,韓国を代表する民謡のひとつだ。この曲は,江原道民謡のひとつで,江原アリラン,旌善アリランの系譜を引くものだという。李 成桂(イ・ソンゲ)がそれまでの高麗という国を滅ぼし,李氏朝鮮王朝を打ち立てたとき,江原道に逃れた高麗王朝の遺臣たちが李 成桂に恨をもって歌ったものに由来するという。

 補注)「恨 五百年」は,より正確には「ハン・オーベンニョン」と呼んだほうが,原語により近い。

 そして,この曲の題名は繰り返しの部分「한 오백년 살자는데・・・」の「한 오백년」からきたものとされている。曲の調子は,韓国の伝統的な音階のひとつである “메나리조 メナリ” 調(慶尚道,江原道の民謡によくみられるミ・ラ・ドの三音が中心音となる伝統的な五音階)からできている。

 ここで,この曲をとりあげたのは,1980年に現代韓国の歌手趙 容弼によって歌われたからである。彼は1978年にTBCの特集番組で老人の歌う「恨 五百年」を聞いて,感動したという。

 趙 容弼は,大麻草事件で謹慎処分を受けた1970年代後半,韓国の伝統音楽の一つのパンソリの練習に打ちこんだ。そこで,音楽活動を再開してから,1980年に伝統的な民謡「恨 五百年」を歌った。また,彼は「江原道アリラン」も歌っている。

 趙 容弼が音楽活動の全盛期を迎えたのは1980年代であるが,当時韓国は全 斗煥大統領の時代であった。経済は成長し,中間階層が出現しつつあった時代で,かつての朴 正熈軍事政権は崩壊したが,政治的な対立は続き,政権側による強権政治がおこなわれていた時期だ。

 「恨 五百年」について,あるインタビューに答えて,趙 容弼はつぎのようにいっている。

 「いまは恨という言葉はほとんどなくなっていますが,その当時,わが国民情緒の核心は恨でした。時代は1980年代となっていますが,大衆の熱望とは異なり,軍事政権続いていたでしょ。すべての人の心にいっそう恨が秘められていました。

 「恨 五百年」や「미워 미워 미워 ミウォミウォミウォ(憎い憎い憎い)」(*趙 容弼が歌った歌の題名)を通して,人々は息苦しく恐ろしい時代状況に対して,少しだけ「한풀이 ハンプリ」(*恨を解くこと)をしたのではないか。全 斗煥大統領時代だからこそ,反対に趙 容弼の声や叫びをいっそうリアルなものにしたのだといえるでしょう」

 註記)임 진모「우리대중음악의 큰별들」。⇒ 原語が韓国語の本で,イン・ジンモ『わが大衆音楽の巨星たち』2004年,109頁。
 補記)つぎにこの本の広告が出ている。韓国語の本である。

 日本の植民地支配の時期,朝鮮総督府に働く良心的な日本人青年の葛藤を描いた,梶山季之の小説を原作として韓国で映画『族譜』(林 権沢監督,1978年)が作られたが,その映画のなかでこの「恨 五百年」は非常に効果的に用いられている。このことは,韓国が日本の植民地支配を受けた時の韓国人の心情を,この歌によって象徴させている。

 日本では1988年のNHK紅白歌合戦に趙 容弼が出演し,「한 오백년 恨 五百年」を歌っているし,僕はみることができなかったが,2011年12月にテレビ朝日系列のドラマ「愛,命-新宿歌舞伎町駆け込み寺」では,在日韓国人役を演じた渡辺 謙が,劇中で「恨 五百年」を歌ったという。このことは,日本でもこの歌が韓国人を象徴する歌のひとつとしてしられるようになったということかもしれない。
 註記)http://kt46koreansongs.com/archives/347 この住所は現在,削除。

 趙 容弼が歌ってきた「한 오백년 恨 五百年」が,国内の歴史問題だけでなく,海外から出来した歴史問題にも当然応用されうる。この論点はそれなりに必然的な背景・経緯を有している。
 

 ※-5 日韓関係史の具体的な話題

 1)神功皇后

 a)「解説1」 古代,仲哀天皇の皇后とされる人である。名はオキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇の曾孫,母は新羅から但馬に来住したというアマノヒホコの玄孫タカヌカヒメ。いわゆる三韓征伐物語の中心人物である。

 「記・紀」によると仲哀天皇が熊襲を討つため九州におもむき筑紫の橿日(香椎) 宮で急死すると,同行の皇后は妊娠中にもかかわらず,武内宿禰とはかり新羅に遠征,新羅降伏後筑紫に帰ってホンダワケノミコト(応神天皇) を産んだという。

 註記)https://kotobank.jp/word/神功皇后-81528,『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典の解説。

 b)「解説2」 記紀所伝の仲哀天皇の皇后。気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号(しごう)。天皇の死後,新羅に出陣,凱旋ののち筑紫の地で応神天皇を出産,69年間摂政を務めたという。『播磨風土記』などでは大帯姫(おおたらしひめ)とも。

 註記)http://www.weblio.jp/content/神功皇后

 神功皇后の物語は,神話的な寓話の戦記でしかない。「三韓征伐」とはいっても,神功皇后の故国でもあるはずの韓半島南部に攻め入って,これを降伏・平定させた人物(女性)が神功皇后だということになる。

 「日鮮同祖論」(金沢庄三郎)流の思考に徹して受けとれば,それほど深刻に考えるほどの神話的な説話ではない。逆もまた真なりだからである。

 だが,ともかく日本は,朝鮮(韓国)よりも優越した国だったのだという自負心ばかりが突出するのが,この神功皇后にまつわる「古代史の戦記物語」である。

 おとぎ話,桃太郎の「鬼ヶ島の征伐」ではあるまいに,隣国を征伐したのだと誇らしくもいっていた。たいそう勇ましい女帝がいたものである。

 2) 秀吉の朝鮮侵略戦争

 a)「1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)」 日本の国内統一を終えた豊臣秀吉は,海外の国をも支配下に置こうと考えるようになった。その初めとなるのが,朝鮮であった。

 当時の朝鮮は,李氏朝鮮で第14代宣祖王のときである。豊臣秀吉は,朝鮮のほかにも,ポルトガル領インドのゴア,呂宋(ルソン。現在のフィリピン),高山国(現在の台湾)へも入貢をうながしている。

 朝鮮に入貢を求めて拒否されると,1592年3月12日,日本は約15万の大軍で朝鮮を攻めた(日本では「文禄の役」,朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ぶ)。朝鮮軍は鉄砲をもたず,防衛体制も整っていなかったため連戦連敗で,首都の漢城(現在のソウル)や平壌を落とし窮地に陥った。朝鮮は明に援軍を求め,平壌は一時奪還された。

 ただし,海上では亀甲船などを考案した朝鮮の李 舜臣が制海権を確保し,陸上でも在地両班や義兵による抵抗がおこなわれた。明と日本のあいだで和議交渉がおこなわれたが決裂し,秀吉は再度の遠征を指令した。

 註記)「1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)」『理解する世界史 & 世界を知りたい』更新 2023/1/22,http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm

 b)「1597年 豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)」 1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による一度目の朝鮮出兵(文禄の役)は,明国軍が朝鮮を援助して戦線が膠着し,飢饉のため兵糧が欠乏したため,講和交渉がおこなわれたが,小西行長はなんとしても講和を結ぼうと策謀を用い,秀吉の意図が明国王にそのまま伝えられず,それをしって激怒した秀吉は再度遠征の命令を下した。1596年(慶長元年)9月2日のことである。

 翌 1597年(慶長2年)に,日本は,再度,約14万の大軍で朝鮮へ攻めこんだ(朝鮮では「丁酉の再乱」,日本では「慶長の役」と呼ぶ)。

 今回は,朝鮮側の防備ができており,戦線は再び膠着し,1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去して日本は撤退した。この戦乱により,多くの人命が失われ,朝鮮の田畑が荒廃した。儒者や陶工・活字印刷などの技術者が日本に連れ去られ,一般の捕虜は奴隷として外国へ売り飛ばされた。

 註記)前掲・註記に同じ参照。

 c) この2度に渡る秀吉の,誇大妄想でもあった「大東亜新秩序」構想は,自身の死によって終焉を余儀なくされたが,日本国内においては,朝鮮へ2度も駆りだされた武士やその他集団の不在によって,各地域社会が相当に打撃を受けてしまい疲弊していった事実を忘れてはならない。

 2度もおこなった秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)は,16世紀における東アジアでの最大の戦いであった。日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に出兵され,朝鮮と明国の連合軍は,戦力25万の大軍であった。これは,天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても,東軍7万と西軍8万の激突であったから,いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが理解できる。

 その時代,世界全体を見渡せば,まさにスペイン国王が世界を制した時代であった。世界の8割は,スペインの植民地となっていた。

 スペインは,東亜地域では,ルソン(いまのフィリピン)に,東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていた。そして信長・秀吉の時代,スペインによってまだ征服されていなかったのが,東亜の明国と日本だけであった。

 註記)「豊臣秀吉の朝鮮出兵の真実を,日本人として知って置くべき!」『ナツミカンのブログ』2013年11月21日,http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11709598094.html

 以上の記述を踏まえていえば,神功皇后の朝鮮「征伐」によって現地の人びとがどのくらい〈戦争の被害〉を受けたかは,しょせん神話の世界とみなすほかない物語のなかでの主張ゆえ,皆目不詳である。だが,秀吉が朝鮮を侵略した2度の戦争行為のほうでは,残酷・酸鼻のきわみを朝鮮の人びとにもたらしていた。つぎに京都にある耳塚を説明しておく。
 
 3)耳塚の記憶

 「耳塚(鼻塚)」は,史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つである。その塚の上に立つ五輪の石塔は,その形状がすでに寛永2年(1643年)の古絵図に認められ,塚の築成から程ないころの創建と思われる。

 秀吉が引き起こしたこの戦争は,朝鮮半島における人びとの根強い抵抗によって敗退に終わったが,戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は,戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を,歴史の遺訓としていまに伝えている。

この案内をしたブログ主はこうも書いていた
いささか噴飯もののいいぶんだが
つぎの本文に紹介しておく

 昔,戦争では敵を殺してもち帰るとき,高級将校の場合は首(頭)を「みしるし」としたそうである。足軽などの身分が低い場合は耳や鼻をそいでかわりとし,それ以下のものは「打ち捨て」といって,検分がなされなかったという。首や耳で検分がなされると,その者たちの怨霊や災厄を恐れて,儀式にのっとって丁重に供養するというのが慣わしであった。耳塚もその供養塔として建てられたのである。

 註記)「京の不思議史跡『耳塚(鼻塚』」『隠れ京都案内耳塚(鼻塚)』 www.kanshundo.co.jp/museum/kyotokanko/higashiyama/05mimizuka/

 海外の他国へ侵略→殺戮→「怨霊・災厄を恐れて」「供養塔として」「耳塚」を建造するという一連の論理:行為は,いうまでもなく侵略者側の自己欺瞞,身勝手な理屈でしかない。それでもやらないよりはやったほうがましか? こういう意見がある。

 「しかし,これ〔=耳塚・鼻塚〕は日本のみならず,世界史においても歴史的汚点を物語るものなのです。江戸時代に,朝鮮からの使節が数回にわたり地元大名の案内でここを訪れたという記録があります」。「使節〔=朝鮮通信使のこと〕の人々は「供養塔」を前に,手を合わせなかったということです」。

 耳塚は「日本側がこれみよがしに『シッカリこうやって供養してます』というのをみせびらかし,それは『謝罪』ではないことが相手に伝わったからでしょうか?」 「秀吉の『みせびらかし趣味』がここにもあるのでしょうか?」

 註記)http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0202/mm.htm,「耳塚の巻」。

 敵兵(朝鮮侵略の場合は民衆が多く含まれていたが)の耳(左・右にある)や鼻(ひとつしかない)を斬りとるのは,戦利品というか,戦争の成果を証拠立てるためであった。塩漬けにして樽に詰め,もち帰って供養するのが,その目的ではけっしてなかった。

 ただし,その後始末としてただどこかに捨ててしまうには縁起が悪い。そこで供養塔の建立……,ということだったに違いあるまい。

 耳や鼻を削がれた朝鮮の人びとじたいを供養していたつもりか? そうしてあげたらまさか,それらの耳や鼻を削がれて「死んだ人びとの魂」が浮かばれる,だから慰霊になるのだ,というわけでもあるまい。

 あくまで「悪さをしたほうの立場」から配慮した,自分たち側の縁起の悪さを払拭するための供養であり,塚の建立であったに過ぎない。事実をいえば,朝鮮側の軍兵でなくとも,いたずたらに虐殺されたすえ,耳や鼻を削がれただけの人びとも大勢いたというのだから,その残忍さはきわまるところをしらない。

 --参考にまでこういう記述も併せて紹介しておく。

 イ) 前出,原田伊織『明治維新という過ち-日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト(改訂増補版)-』(毎日ワンズ,2015年1月)からの引用となる。

 戊辰戦争後,会津藩の死者(死骸)が路頭にそのまま放置させられ,埋葬を許されなかった事実を踏まえて,つぎの文章が書かれている。

 死体の処理がまたむごい。大きな穴を掘って,筵や風呂桶に死体をぎゅうぎゅう詰めにして,まるでごみのように穴に投げ入れたという。これを,徴用した「賤民」(約7百名強)にやらせた。そして,この穴を「罪人塚」と呼び,あくまで埋葬とは区別したのである。さらにむごいことに,この処理に敗れた会津藩士約20名を立ち会わせたのである。

 「会津に処女なし」という言葉がある。会津の女性は,ことごとく長州奇兵隊を中心として西軍のならず者に強姦されたということをいっている。……会津の女性がいかに残酷な被害を受けたかについて……。

 註記)原田,同書,264-265頁。 

 ロ) 1945年5月,とくにドイツが敗戦する前後,ドイツ東部において非常に多くの女性がソ連軍兵士から凌辱を受けていた事実は〈公然の秘密〉であるが,ドイツがこの事実にもとづいてソ連に賠償を請求したという話は聞かないし,公の場での話題にすらなりえなかった。

 4)ソ連軍によるドイツ人女性レイプ

 ベルリンの2つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は,9万5000人ないし13万人。ある医師の推定では,ベルリン〔だけで!〕でレイプされた10万の女性のうち,その結果死亡した人が1万人前後,その多くは自殺だった。

 東プロイセン,ポンメルン,シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は,ずっと高かったと考えられる。全体では少なくとも200万人のドイツ女性がレイプされたと推定され,くり返し被害を受けた人も,過半数とまではいかなくとも,かなりの数にのぼるようだ。

 2年間に,全体の半数をやや上回る死者が出た。生き残った者の半数近くがレイプされた。1947年4月にドイツのソ連占領ゾーンに送還されたとき,大多数が即刻入院しなければならなかった。結核や性病におかされていたからだ。

 註記)アントニー・ビーヴァー,川上 洸訳『ベルリン陥落1945』白水社,2004年,602頁,614頁。〔 〕内補足は筆者。

 だが,戦後登場した東ドイツは社会主義体制を採った結果,同国のドイツ人がナチス・ドイツとは無縁であるかのように公式見解として偽装するとともに,敗戦前後のソ連軍によるドイツに対する蛮行=史実を表沙汰にして非難することができなかった。それほどヒトラー政権の戦争犯罪は残酷であった。

 日本帝国が敗戦間近になったとき帝国臣民のあいだでは,日本が戦争に負けたら,鬼畜米英どもに「男は全員金玉を抜かれてしまい,女は全員があいつらの妾になる」と,ひどく恐怖した。サイパン島のバンザイ・クリフで身投げした日本人女性たちのフィルムが有名である。

 敗戦後のドイツでソ連が実際におこなった国家的規模でのレイプは,20世紀における戦争の随伴現象としてなんら問題にされてこなかった。この歴史的な事実は,どう受けとめられるべきかを深刻に考えねばならない。

 敗戦前に日本帝国のカイライ国家であった満洲国に移住していた日本人も,ソ連が参戦して以降,数多くの女性がソ連兵に強姦されていた。

 もっとも,前段のような戦争によって惹起される不幸を,それは戦争につきものみたいなものだからしかたない,文句をいう筋合はないといった日本の女流作家がいた。これは,女性からの発言としても,とうてい解せないものであった。

 つぎの 3) の記述は,朝鮮人女性が従軍慰安婦にされた時代と深く関係している。

 5)日帝植民地時代の朝鮮支配36年(1920~1945年の足かけ年数・期間)

 この時代を概観するには,たいそうな分量をかけてくわしい説明が必要である。しかしここでは,しごく簡略につぎのようにだけ述べておく。

 日本では主に,日韓併合または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。

 だが,現在の韓国では,日帝時代・日帝暗黒期・日帝植民統治時代・日本植民地時代・日本統治時代・日政時代・倭政時代・対日本戦争期・対日抗争期・国権被奪期など,さまざまな呼称を用いている。

 国立国語院が管理する大韓民国標準語は,「強制的に占領されていた時代」という意味で「日帝強占期」という表現を用いている。

  1910年,大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって日本に併合され(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置かれた。日本による統治期間は1919年の三・一独立運動までの武断統治期,それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期,および日中戦争→太平洋戦争(大東亜戦争)から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。

 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 参照。

 現代における日韓関係の問題を考えるさい,この20世紀前半に発生・経過・終焉した大日本帝国による朝鮮植民地化・統治支配の時期を念頭に置かねば,なにごとに関しても理解・認識がよくできないばかりでなく,共通の歴史観などお呼びにもつかないと思われる。

 6)ここで,話題を本日の記述の最初のほうに戻そう

 ☆-1 朴 槿恵大統領が「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」とし,「日本の前向きな変化と責任ある行動を求めた」ということと,これに対置させ重ねておくべきなのが,

 ☆-2 長州・荻市が「もう百二十年経ったので」として〔その機会に〕議会決議をして会津若松市との友好都市関係の締結を申し入れたが,会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶し,これを「当然であろう」と日本人自身(会津以外の者)が評価した,ということである。

 この点について会津側からは,その拒絶の理由を「帝国日本とアジア諸国の関係と同じだ!」といい放ったとも指摘されている。つぎの画像は少しみくいが,官軍の砲撃を受けて破壊されていた会津若松城の様子である。関連する当時の事情も説明してみた。

50門 × 50 発= 2500発
使用された砲は当時最新鋭のアームストロング砲であった

 以上に提示された〈問題の視角〉は,つまり『日本と韓国の間柄』にだけでなく,『日本〔ある地方〕と日本〔別のある地方〕の間柄』にも同じに向けられてよい論点を投じている。多分,誰もこの問題の提起(論点の指摘)を否定できないはずである。

 したがって,もしも,朴 槿恵大統領の前段のごとき発言を非難・批判したい日本側の人間は,会津の人びと(日本人)の「同様な姿勢」(反薩長意識)をも,必らずまったく同じに非難・批判しなければ筋が通らない。

 もっとも,相互間において,単なる非難・批判の応酬に終わらせないための「歴史認識の共有」が要請されている。この点にこそ,むしろ「問題の核心」があった。

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