見出し画像

経営学の歴史研究とその「方法の思想」-ある総括的な吟味-

 ※-1 社会科学論としての経営学のための本質論・方法論が不振・不在といったある意味不思議な斯学界の事態

 21世紀に入ったころには社会科学としての経営学という学問にあっては,いわゆる本質論とか方法論のあり方に関して,日本における独自のその関連史が過去においてはそれなりに実在してきたにもかかわらず,

 その蓄積されてきた成果を活かしてさらに発展・充実させつつ,くわえては新しい領野を切開するための手段:踏み台として有効に再生産するという意欲が,完全にぼやけたままの理論状況に留めおかれてきた。

 本日におけるこの記述は2014年7月8日が初出であったが,いまだに前段に触れたような,社会科学としての経営学の「課題」性は,意識して重点を置き,再考すべき論点として議論されてきたとはいえない。
 付記)冒頭の画像資料は片岡信之『日本経営学史序説』文眞堂,1990年の表紙カバーに借りた。

 その意味でも,経営学の歴史研究とその「方法の思想」について,総括的な吟味をだが,いまさらながらのようにおこなってみる作業には,それなりになんらかの重要な意味があると考えてよい。

 関連の業績として,もっとも最新の言及だとみなせるは,片岡信之編集『経営学の基礎』文眞堂,令和4〔2022〕年5月のなかにみいだせる。この本は,第1章「経営学に未来はあるか」と問うなかで,こう語っていた(16-17頁参照)。

 実証研究者の主な関心事は,企業経営を取りまく現実を観察・計測だけであり,それを長期的な視点で理論化するための射程を入れた研究はあまりない。この研究志向は,一定の価値を所与・前提したうえで,「うまくいく論理」やそのための方策を追求しているに過ぎない。

 実証研究の研究者の一部には,価値規範にかかわる事象は科学(サイエンス)にあらずとまでみなし,回避し排斥する傾向までる。つまるところ経営学研究者は「学史研究と実証研究」のあいだで,まさに経営学とはなんであり,どうあるべきかに関して「学問的・理論的な価値観」が対立している。

 社会科学の他部門や哲学・思想「論」の領域における研究に俟つまでもなく,経営学とはなんであり,どうあるべきかに関して「価値」観が対立したままでありながら,この相克する価値のあいだをとりもち,相互の対話を可能な状況に好転させるための,双方における「哲学や思想」の領野からの重要な仕事が懈怠されていた。

 つまり,経営学史研究と実証主義経営学研究とのあいだには,深い溝があって,現状では対話する困難な状況にすらある。この現実が学術研究としての経営学の総体的発展を困難にしてきた基本要因があった。(以上,参照終わり)

経営学研究が沈滞している現状


 

 ※-2 経営学史学会編『経営学の思想と方法』2012年5月について

 この上の見出しにかかげた著作,経営学史学会編『経営学の思想と方法』2012年5月は,経営学史研究の思想的立場とその研究方法を歴史的に回顧するために公刊されていた。

 同書は2012年5月,「経営学史学会」が第20回の学会大会を開催したおり,学会員に頒布した本であった。その前年,2011年5月の第19回大会の統一論題を「経営学の思想と方法」と定め,同大会を実施した成果をとりまとめ,報告集として刊行したものである。

 贅言するまでもないと考えるが,経営学史学会が「経営学の思想と方法」をもって問われるべき〈学問的な任務〉を有することは,あまりにも当然であって,なにも経営学研究にのみ課せられていた任務ではない。

 しかし「日本の経営学」発祥の由来からして,「経営史の研究」(会社や企業の歴史の研究)ではなく,「日本の斯学界内じたい」に関した「経営学史」=「経営の理論に関する歴史」研究は,不活発・不得意な状況に置かれてきた。総じていえばこれがまた,看過しがたいこの国の経営学界の実情でもあった。

 一方で,経営史(企業史:管理技術史)の研究は盛んに展開されてはいるものの,この研究領域を担当する経営史学会が創立当初,歴史学の研究部門として「経営史研究」について的確に保持していた問題意識は,長くつづくこともなく終息・霧散・消滅していた。

 ちなみに,この経営史学会第1回大会は昭和40〔1965〕年に東京大学で開催され,その「統一論題」は「経営史学の課題」であった。

 他方で,理論(学説・概念)の歴史を研究する経営学史の領域なのであれば,経営学の本質・方法論にかかわらしめての歴史的な研究が,過去における日本経営学の理論展開のなかでは,旺盛になされてきたはずであった。

 ところが,日本経営学の分野では「経営学史・経営学説史」だとか「経営思想史」だとか書名を付けた著作が,いくらかは公刊されてはいるものの,実際にその中身をのぞいてみるに,まるで羊頭狗肉が多かった。

 つまり,経営の思想だという問題の設定もろくになされないまま,ともかくこの思想だとかさらには哲学,理念,信条などといった漢字をもちだし,それもたいした概念の定義を準備することもないままに,常識論的なその議論に終始するものが多かった。

 事実史研究としての歴史研究であっても,その学問に必要とされる基本視点をどのように構築し,準備しておくか無関心でよいわけがない。このことは,いつも絶えず意識しておきたい研究の「史的な論題」でありつづける。

 それでは「歴史学の視座」というものは「経営学史の研究」にとって,どのように用意したかたちで「理論の歴史の研究」をおこなうものとなるのか。いままで,この肝心の論点については本格的に議論されるがほとんどなかった。

 社会科学の分野でも,経済学においては「経済学史・経済思想史の名称」を冠した研究領域が明確に確立していて,経済学説・理論・思想の歴史をどのような観点から研究すればよいのか,関連する議論が蓄積されてきている。

 ところが,経済学に対して時代的には後発の学問となった経営学では,経済学史・経済思想史,くわえて社会思想史・一般思想史の研究成果を十分に顧慮した「経営の理論の歴史」研究がなされてきたとはいえない。まさにその「後塵を拝してきた」のであり,かつまたその位置関係は後発の学問であったから当然の事情であったから,なにもこの修辞にこだわる余地などなかった。

 ただ,どちらかといえば,そうした「後塵を拝している」という問題意識そのものさえ欠いていたせいか,いつまで経ってもその「後塵の煙幕」から抜け出すことができない理論状況がつづいていた。

 ごく少数の経営学者が「経営学史の研究方法」に意識的にとりくんではきたものの(後掲に関連の業績を挙げる), これを集約させて相乗的に学習したり,たがいに批判も与えあうなかで,一定の方法的な枠組を提示しうるような「理論の状況」が,1学派とていまだに形成できていない。

 そのような経営学界における「理論の水準と状況」のなかで,経営学史学会が「経営学の思想と方法」を考察するのであれば,これを歴史学的な方法で検討する道筋は,当然とはいえ評価できる試図であった。

 ※-3 経営学史学会編『経営学の思想と方法』2012年5月が示した問題意識

  文眞堂から2012年5月に公刊されていた,この経営学史学会誌の第19輯『経営学の思想と方法』は,「経営の『学』の思想性」「を成立させるにふさわしい学的方法はなにか」「もまた問われなければならない」といい,しかも「その思想と方法を歴史的に問うものである」と宣言していた(第Ⅰ部「趣旨説明」)。

 さらに,「サブ・テーマⅠ:経営学が構築してきた経営の世界を問う」ことと「サブ・テーマⅡ:来たるべき経営学の学的方法を問う」ことも,課題に挙げていた。 いわば「歴史的な学説・理論研究」の必要性を,それも思想史的にも詮議する立場を鮮明にしたのである。

 経営学史学会編『経営学の思想と方法』の目次詳細は,こうなっていた。

第Ⅰ部 趣旨説明-経営学の思想と方法-

第Ⅱ部 経営学の思想と方法
 1 経営学の思想と方法
 2 経営学が構築してきた経営の世界                    -社会科学としての経営学とその危機-
 3 代経営学の思想的諸相-モダンとポストモダンの視点から-
 4 科学と哲学の綜合学としての経営学
 5 行為哲学としての経営学の方法

第Ⅲ部 論 攷
 6 日本における経営学の思想と方法
 7 組織の自律性と秩序形成の原理
 8 HRMにおける研究成果の有用性を巡る一考察              -プラグマティズムの真理観を手掛かりにして-
 9 起業を成功させるための起業環境分析-モデルの構築と事例研究-
 10 「実践の科学」としての経営学                     -バーナードとサイモンの対比を通じて-
 11 アクション・サイエンスの発展とその意義                -経営現象の予測・解釈・批判を超えて-
 12 マズローの思想と方法

第Ⅳ部 文 献
 1 経営学の思想と方法
 2 経営学が構築してきた経営の世界                    -社会科学としての経営学とその危機-
 3 現代経営学の思想的諸相-モダンとポストモダンの諸相から-
 4 科学と哲学の綜合学としての経営学に向けて               -理論理性と実践理性の学問;行為哲学としての経営学の方法-

第Ⅴ部 資料(経営学史学会第19回全国大会実行委員長挨拶;第19回大会をふりかえって)

『経営学の思想と方法』目次

 以上のなかから第Ⅰ部で議論をした各論稿に注目し,いくつかの見解をとりあげ,その内容を聞いてみたい。

 ★-1 経営学史にとっての「経営学の思想と方法」

 1)「経営学の思想と方法」(吉原正彦)

 この論稿は「経営学の歴史研究における方法」を求める。「経営学の歴史的研究においても,時間の流れとともに変化する通時的な歴史的,社会学的分析に注目しなければならない」(11頁,13頁)。

 とすればこの意見は,経営学にも「〈歴史社会学〉的な見地」が要請されることを意味している。「歴史的,社会学的分析」という具合に,いささかこなれのよくない表現が出ていたが,そのように理解しておく。

  つぎに,この論稿は「生活世界(Lebenswelt)が「科学の根源的基盤」であるからとして,この「生活世界」が「経営存在の基盤」であることに注意を喚起する。

 「この『生活世界』がどのようなものであるかを明らかにしない限り,科学としての経営学は真に基礎づけられない」。すなわち,その「存在論を問うこと」の基本的意味を強調するのであった。

 以上の思考は,後段の 2) 以下につづく研究〔者たち〕に対して,水先案内的な意味を有していた,と関係づけられる(14-17頁参照)。

 とりわけ,経営学のとりあつかう「経営の主体」問題が,最近においては「地方自治体,起業,非営利組織,民間団体などの複数の主体から構成され,それら複数の主体間の連携によって具体的な地域が支えられているのが現実である」(#1)。

 それゆえ,「地域経営の問題を考えるにあたっては,あらためて経営そのものを存在論的地平(#2)において捉えなおさなければならない」と主張する(18頁)。

  この論稿の論者は「生活世界」とか「存在論」とかを軽い筆致で表現に出しているけれども,日本の経営学者のなかには80年以上も以前から「存在論的究明」を提唱していた人物もいた。

 同業者が同じことば・用語を使用していたのであれば,一度は歴史を遡って調査・研究してみたうえで,それらの業績を認知・評定・位置づけておく価値もあるのではないか? つまり,関連する先行研究の実在・蓄積が,いまなお曖昧に放置されており,これを十全に配慮していなかった。

 経営学史研究に従事する論者が,自国におけるそうした「学史的な研究蓄積」に直接関心を向ける様子はみられなかった。これはずいぶん奇妙な学 界的風景といわざるをえない。外国もののほうにもっぱら関心があるとみうけるにしても,ある意味,違和感を抱かせる。

 参考にまでここでは,池内信行の著作,『経営経済学序説』森山書店,昭和15〔1940〕年がこう述べていた点を紹介しておく。

 「認識論を介して経営経済学を基礎づける意図をいちおう否定しながら,存在論的に経営経済学の純化を意図することが,私のとった根本的態度である」(序,1頁)。

 2) 経営学が構築してきた経営の世界-社会科学としての経営学とその危機-(上林憲雄)

 経営学を社会科学の1分科と捉えるのであれば,「なぜいま=歴史性,ここで=地域性(空間性?)」という問題構成を,つねに念頭に置いた対象への接近が必要である(23頁)。

 経営学の分析対象は企業がもっとも重要な対象であるが,これにくわえてあらゆる組織体にも拡張させて経営学の体系を構築してもよい(24頁。この主張は 1) の「前段 #1」と同旨である)。

 経営学の方法論は,経営主体の意思や目的志向性と絡ませる方途で組織現象を解明する。個々の経営現象にいかに経営者の意思が貫徹し,経営の理にかなっているか,その経営存在を合理的に解明する(25頁。この主張は 1) の「前段 #2)と同旨であるとみなせる)。

 「経営者の主体性を基礎に分析することが,組織の対外的な側面を分析するさいの経営学的な研究方法の基本視点となる」(30頁)。

  日本の企業との解明で比較した場合い,アメリカの企業は「経済性と社会性を」「単一軸で(一直線上)捕捉しようとする志向がある。これに対して日本の企業は両者を相互に異なる軸として認識するゆえ,この両軸の組合せ加減が運営管理上の「要点のひとつ」になっているのではないか。

 アメリカでも「人の管理」に ついて,「経済性と社会性を単なるトレードオフ関係として捕捉する考えかたに代え,経済性と社会性の双方を高めうる経営実践の可能性を志向」を「日本的経営から学んだのである」(28頁,29頁)。

 「社会科学としての経営学」において「現実の経営実践が,経済性と社会性の両立を模索し揺れつつも徐々に混交していく姿を,学術としての経営学は,現代では精確に照射しきれていない気がする」。

 というのも「つねに学問の全体構造を意識する研究スタンスが,とりわけ経営学のように研究対象とアプローチが多岐 にわたる学問においてはとくに重要ではないか」。「学問の全体構造を意識しない研究は,結局のところ意味不明で,学問の立場からは論評不能な結末に陥りやすいからである」(33頁,34頁)。

 この論者がいう「社会科学としの経営学」の基本点は「その全体構造と体系性に関する議論を深め,共通認識を探っていく必要がある」(34頁)という割りには,両軸的に把握すべきだとするその「経済性と社会性」の相互関連性が,まだ説明が不足していた。

 楕円形のごとく2つの中心点=「経済性と社会性」 をもつのが「経営の現実」であるからといって,そのように認識する学問手順にこだわったところで,営利原則=利潤追求という資本主義体制の「推進動機」を,そのなかにどのように位置づける点を棚上げしたかのような議論は疑問を残す。 

 3) 現代経営学の思想的諸相-モダンとポストモダンの諸相から-(稲村毅)

 この論者は,本ブログの筆者が「唯物史観にもとづく経営経済学」の「科学的と称する認識方法」に疑念を呈した瞬間,突如,意外な発言=「筆者に対する大いなる期待外れ」を表明したことがある。

 1990年前後まであれば正々堂々と前面に出して論及した伝統的な価値観:学問観:社会科学方法路論が,いまでは完全に塩抜きされたかのような容貌に変貌した。もう一度「塩味を着ける意向」が感じられなかった。

 この論者は,ポストモダニズムとしての根本挑戦が「実証主義と機能主義」に対してなされ,「経営学は新たな態様での複雑多様化を余儀なくされることになった」というのである。

 だが,機能主義者がみずからは唯物論に反対する立場を自認・自覚しているとしても,科学的認識を追求するつもりがあるかぎり,唯物論的見地から自由:無縁でありつづけこともまた,できない相談であった。

 以上のごとき立場に生起する曖昧さを払拭し,主観主義的・観念論的立場をみずから純化する姿勢において科学の立場を主張するために出現したのが,社会科学におけるモダニズムである。このモダニズムの研究は,現代における観念論の諸形態の解明にほかならないというのであった(37頁,41頁)。

 こうした「批判的な意見」の表明は,唯物論的な史観ならばこれに絶対的な優位を確信する「前世紀的な古層の思想」から発出していた。その料理のしかた・裁断の方向はいつものお決まり:紋切り型であって,なんら新味はない。

 それでも,それ(注目しうる論点)がまだありうるとすれば,時代の流れのなかで新しく登場した「観念論」側に位置・所属する諸思想を,そのいつものやりかたで一気に切り捨て,始末しておく方法に関して,であった。だからこう結論する。

 「ポストモダニズム思想は結局のところ経営学を科学から形而上学に堕する道を用意するものであること,これへの警鐘が本稿における最終的な含意である」(49頁)。

  百年一日のごとき繰りかえされるのが,このように倦むことをしらぬ異思想・他理論・諸学説の排斥であり,また無化させるがごときあつかいであった。半世紀以上も反復されてきた〈批判的見地〉という名の「科学的経営学」の「思想と科学」に対して,われわれが既視感として抱くほかない疑問に,この論者はなにをもって具体的に答えうるのか?

 4) 「科学と哲学の綜合学としての経営学」(菊澤研宗)

 この論者は,慶応義塾大学商学部においてドイツ経営学研究の一流派を構築した小島三郎,主著に『ドイツ経験主義経営経済学の研究-主観主義経営経済学の系譜-』(有斐閣,昭和40〔1965〕年),『戦後西ドイツ経営経済学の展開』(慶応通信, 昭和43〔1968〕年),『現代科学理論と経営経済学』(税務経理協会,昭和61〔1986〕年)などをもつ人物を指導教授にいただき,育てられてきた人物である。

 その学問系統は初めから経営学方法論に強くこだわる「学問の思想的な立場」を提示してきた。この論者は,当時まで公刊してきた 著作においては〈不条理〉ということばを付けたものが多かった。

 理論的研究を実践問題に応用し,相当に工夫をくわえた実業界向けの著作も公表している。昨年(2021年)の 経営学史学会において発表した論題は「科学と哲学の綜合学としての経営学」であったが,ここでも「学問の不条理」を避けるために「21世紀の経営学はどうあるべきか」考えるといっていた。

  「科学としての経営学」とはなにか。

 「学問の不条理」を回避するには,科学とともに哲学をも補完的に研究する総合学をめざす必要が,経営学にはあるといっている。

 しかし待てよ,本ブログの筆者は思った。いまではすっかり廃れてしまったマルクス主義経営学の陣営に属していた学者たちが,常套句のように強調するために使っていたのは,その「哲学と学問」〔「思想と科学」〕の密接な相互依存性ではなかった。それでもこの論者はともかく,批判的合理主義の科学哲学を「経営学の理論的基礎」に動員,投入し,展開する(51頁,52頁以下)。

  「科学としての経営学」の立論のなかに,さらには,「経験科学としての新制度派経済学」から「取引コスト理論」「エージェンシー理論」「所有権理論」なども 導入・応用しえたこの論者は,「不条理現象」(社会的不条理・個人的不条理)に歩を進め,くわえては「学問の不条理」を問題にしたのち,この「学問の不条理からの脱出」も語ることになった(57-62頁)。

 そのさい,P・F・ドラッカーの「人間主義的経営学」を引きあいに出して,「企業から未来の茂木の自律的な経営者が生まれてくる」という主張を紹介していた。
 
  ドラッカーの経営学は非経験科学的だといって否定するのではなく,むしろそのような哲学的側面もまた経営学には必要であることを理解せよと,この論者は「学問の不条理」に陥らないためにも強調していた。

 要は「この学問の不条理を克服するには,たとえばE・カントの二元論的な人間観に立って経営学は,経験科学としてだけでなく,ドラッカーのような経営哲学的な研究もまた必要であると主張する(62頁,63頁)。

  この論者の主唱は,小島三郎という指導教授の経験主義学派の路線から外れていったように映る。当時,ベストセラーになる本を出版したいと語ったことのあるこの論者とすれば,この希望へ架橋するためには,このところ日本の実業界では大もてにもてているドラッカーの経営哲学に学ぶこともまた,一利ある方向性なのかも しれない。

 5)「行為哲学としての経営学の方法」(庭本佳和:その1)

 この論者は最初に断わっている。経営学者に学説研究者は多い。だが「経営現象を説明できない」人から優れた学説研究は生まれない。「経営学における実践性とはなにか」。「来るべき経営学の実践性と方法を考えたい」と(65頁,66頁)。

 経営学はどういう学問であるのか? つぎの3本柱が想定できる(67頁)。 

 ☆-1「過去から反省的に学ぶ歴史の学(歴史的理性)」→歴史的反省。

 ☆-2「そこに〔☆-1〕に生成した視点から〈現前の経営〉を批判的に分析する経営批判の学(理論的理性)」→経営批判(理論的理性)。

 ☆-3「さらに〔☆-2の上に〕未来を構想する経営の哲学(哲学的実践理性)」→哲学(価値・道徳的)的想像,哲学的調整。

 また,経営を軸に経営学から観る人間の歴史は,以下の3層からなっている(67-68頁)。

 ★-1「歴史学」 人間の営みからなる文明や国家の興亡の大きな流れが,この研究の対象である。

 ★-2「経済史」 人間の生活(日常の営み)においては,対立や争い以上に調整と協働(経営活動)の産物(経済・産業活動)が大きな影響を与えている。 ここに焦点をあわせ,★-1の歴史層とともに,動的な経営環境の歴史を構成する産業・経済層が,この研究の対象である。

 ★-3「経営史」 経営体の経営(行為主体とその行為)が織りなす歴史(経営史)層がある。この層を掘削し,過去の経営実践の是非を反省的に問い,現在の経営に対する批判的視点に立った分析能力と経営(体)の未来を構想する力を養成する。

 この★-3は★-1を踏まえ,★-2のなかで経営行為主体の行動を研究の対象にするのである。

 この論者はとくに,以上の3層的な把握にしたがい,「歴史層の相貌を捉える歴史観(哲学や思想)をみずからの理論に組みこむことによって,それを学ぶ経営 (行為主体=組織)に」おいて,「経営体をとり巻く大きな歴史的流れを捉える眼を身に付けさせる」ことが「経営に不可欠な歴史的大局観である」と説明する(67頁)。

 この論者の「経営学史」の思想であり立場であるはずの,以上のような構想としての方法は,歴史学の基本的な思考を尊重する考えかたにほかならない。いわく「歴史学は経営学の実践性を支える学的基礎なのだ」(69頁)。

 しかし,このような修辞:「歴史学は○○学の実践性〔あるいは理論性かもしれない〕を支える学的基礎である」という発想は,なにも経営学に固有ではないはずである。たとえば,経済学や法学(法律学)や社会学の立場にとっても,まったく同じものを通有する。

  なぜ,経営学だと歴史学の基盤に立脚してそのように発言しなければならないのか? それなりに具体性あって,個別分野における議論として,的を射た説明が必要ではないか?

 「経営行為主体」である「経営者の行動」をその基礎から分析,批判し,意味づけることの,まさに《経営学史》としての学的に必然の理由が納得的に説明されていない。

 この論者は,経営の現象を理論的に把持した概念範疇として 「現前の経営」という哲学的な用法を駆使している。そして「経営学は『経営批判の学』であり,その実践性も批判性に担保されている」と確言する(69頁)。

 経営学研究が「現にある企業の姿」の一部を描くことに終わってしまい,「現前の経営批判」に到達できないでいる現状を指して,「それは依拠する方法論や科学観の問題もあろうが,批判的基準となる歴史学的基盤と,とりわけ哲学的基盤を欠いているいるからだ」とまで批判する場合,われわれはいま一度,過去から連綿とつづいている各国における哲学史の軌跡に思いを寄せる余地がある。

 ここまでとりあげてきた論者のなかには「唯物史観」に確固たる自信を傾けて,これをいまだに「経営学の思想と科学」に対する学問的な出発点にしつづけていた。

 またある論者は,反証可能性の発想を踏まえてその史的唯物論の観点を歯牙にもかけないで,新しい経営学の理論展開に励んでいた。

 くわえてまた,いまこの段落でとりあげている論者のように,経営行為主体として経営者の行動を認識したい立場より〈経営学の構想〉をとりまとめようと努力していた。

 6)「行為哲学としての経営学の方法」(庭本佳和:その2)

 この論者の見解だけは,この 6) も用意し,議論する。さて,吉武孝祐(よしたけ・たかすけ)という経営分析論の研究者がいた。吉武堯右『企業分析の指標-伝統的信用分析からの脱皮-』(同友館,1982〔昭和57〕年)は「経営分析論」について,こう語っていた。

 「経営分析論は,それが日本経済および企業の課題解決のために役立つべき実践(実務に非ず)の学であるとするならば,斯学は,本来的に,狭義の『学』的体系化を越えるものでなければならない」。

 「なんのために分析指標の創造に立ち向かうのか,経営分析の指標の『意味』・『価値』が問われねばならぬ」とすれば,「そこに経営分析は,いまや目的・手段の体系から,『問い』と『決断』の体系への転換が要求される理由がある」(まえがき,ⅰ頁,ⅱ頁)。

 こうした会計学者の発言も,経営学史研究者が狙うところとなんらかわらないのではないか。吉武堯右は,1957〔昭和32〕年に公刊した『経営能率分析』(ミネルヴァ書房)のなかで「経営分析論の歴史的限界が厳然として存在する」と断わったうえで,こうも主張していた。

 現段階における経営分析の課題は,会計上の数字や経営統計の数字の分列配置遊戯に憂身をやつすことではなくして,それらの数値を貫徹する個別資本の運動法則,経済法則の発展傾向を析出することでなければならぬのではなかろうか。またかくすることによってのみ,かえって個別企業の実態がリアルに浮彫され,真の経営合理化のための指針を摑むことができると思うのである(4頁)。

  「経営者の行動」というものは,こうした問題の領域が総体的,有機的に展開されていく舞台に立ち,その「本質から現象までにわたる主体的行為の場」を形成しつつ, その軌跡をも刻々と描いていくことになる。

 「経営者の主体的行為」が「個別資本の運動法則,経済法則の発展傾向」に拮抗しつつも,いうなれば,これらが相互に内外的・有機的に関連しつつも歴史的にも進展していくなかで,企業経営の発展構造が存在論的に前進していく。

 これを理論的に把握,分析し,批判するのが,経営学という学問の課題であった。さらにいえば,この学問の課題が理論として歴史的に発展していく論理的な認識を継起的に解明するのが「学問として 《経営学史》」の任務である。

 吉武堯右いわく,「今日のわが国の経営学を反省するとき,そこにみいだせる最大の弱点は」「経営学の経済学からの絶縁,および経営学における歴史性,実証性の欠如である。とくに経営学のなかでもっとも実証性が要求される分野は経営分析である」(2頁)。

 吉武の提唱する経営分析は単なる会計分析ではなく,広義における企業分析あるから,別の意味においては経営研究そのものである。

 吉武には,九州大学の馬場克三学説の影響がみられる。それはともかく,20世紀も終わりころになってようやく「経営学史会」という研究会が結成されたという のも,ずいぶん時宜を逸していた話ではあった。

 だが,ないよりはあったほうがマシであるから,これについて,あえて非難めいたことをいう余地はない。だが,この経営学史会が毎年度の大会で議論している論題を実際に追い,その内容を聞いてみるたびに,ある種の〈既視感〉が甦ってくるのはなぜか。
 

 ※-4 哲学と経営学

 1)「哲学としての経営学」の問題

 ※-3の 6) で言及した論者は,経営学は「未来の経営(体)のあるべき姿(価値)を措定する哲学として成立する」と定義していた(経営学史学会編『経営学の思想と方法』72頁)。

 その議論は,戦後世代の小笠原英司,戦前・戦中世代の山本安次郎や山城章などを,とりあえずとりあげていた。

 明治大学で「経営哲学の経営学的研究」を教育・研究課題に掲示していた小笠原英司についていえば,とくにゴットル研究の貧困さは許容限界をはるかに越えていた。

 経営哲学の研究者とは称するには息苦しさを感じさせるほどに「哲学的見地の不確実性」も感得させていた。しかしここでは,その種の基本的な疑問点にあえて触れないでおく。

 それよりも,とりあげている論者〔庭本佳和のほう〕が提示していた山本安次郎「観」について,若干の批判的論及をおこなってみたい。

 補注)あえて触れないといっておきながら,なお一言だけ述べておきたい。

 小笠原英司の主著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文眞堂,2004年)は, 公表直後ただちにゴットル経済学理解の不徹底を指摘されていた。

 そのため,ドイツ流生活経営学・構成体論的経済学に依拠した理論部分については,同書を公刊してから臨んだある研究発表の場において,そのいっさいがっさいに言及できない不如意に,小笠原は追いこまれていた。

 それは,小笠原自身が経営学史研究の基本手順を軽んじたがために生起させた,いいかえれば,先行研究の渉猟・調査の絶対的な不足のために結果せざるえなかった不可避の事情であった。

 参考にまで聞いておく。小笠原英司は,大学教育に関して,こういう意見の持ち主である。

 「博士学位をめざす院生については,専門外のことにも関心を持つ幅の広い研究者になってほしいと希望します。彼らは将来『先生』と呼ばれる立場に立つわけですから,学生が『この先生にめぐり会って,人生の重要な事柄を学ぶことができた」と思えるような,師として尊敬される資質を磨いてほしいと思います」。  

 そう聞かされた第3者の感想としては,小笠原英司自身が専門科目の学習・研究においては,なによりまず最初に,専念・究明しておく必要のあったものがそれであった,と申し述べるほかなかった。
 

 2) 山本安次郎理論はいかほど高尚な学説たりえたか

 また,※-3 の 6) で言及した論者は,山本安次郎の経営学について,こう分析していた。

 山本の場合,経営学に固有でかつ必然な課題的性格は〈実践理論科学性〉であるとされていた。これについては,単なる実践科学的な「規範的経営学は科学ではなく,経営哲学だとして」,概念規定されていた。そのうえで,それを「みずから主張する実践理論的経営学からは排除し,『それはむしろ経営理論や方策論を超える経営政策と主張すべき』と強調してい」た。

 しかし,経営学史学会に所属している研究者であれば,つまり,山本学説に対する学史的研究をまともにおこなっていた立場にあったのであれば,即座に判りうる〈ある史実〉があったにもかかわら ず,これに気づかずにただ黙過するだけに,その史実から不可避に明示された「経営学の歴史的責任」の問題は,棚上げしてきた。どういうことか?

 山本はかつて〔戦前の話となるある〕,実践科学的な規範経営学の立場をきびしく批判し,排斥することに熱心であった。関連させて念のためにいっておくが,山本は同時に,その後における自説の展開に不可避であった「歴史的な失敗」「理論の破綻」を悟性的に反省することとは無縁であった。これをくわしくいえば,つぎのように記録された物語が瞥見できた。

 a) 「戦時中の記録」 一度めの話はこういうものである。

 戦前の段階で山本は「実践科学」の「規範学説」性を痛烈に批判していた。ところが,昭和15〔1940〕年になると山本は,西田哲学の影響を大いに受け,独自の境地が開眼できたと壮語した。それまでの経営学の立場(自説)の学的思想は一躍反転させられ,「実践理論科学の立場:行為的主体存在論」に解脱できたと宣言された。

 それでは,こちらの実践理論科学において〈問題の規範性〉が完全に廃棄され払拭できたのか, あるいはその規範性をも包摂し超克できるような学理的な境地に到達できていたのかと問われたとき,それはあくまで山本が個人的な確信の次元においてのみ,学的な信念として返した答えでしかありえなかった。

 b) 「敗戦後の記録」 二度めの話はつぎのものである。

 戦前,「満洲国」産業経営体の発展を期待するために山本が創案した「公社企業」という経営政策的規範概念は,実は,経済外的強制作用によって瓦解されられるはめになった。

 すなわち,敗戦をきっかけに,満洲事業経営体のありかたとして政策理論的に構想し,「国家の立場」から「世界史的意義」をこめて提案した「公社企業」なる経営概念は突如,雲散霧消させられる顚末を迎えた。

 山本はところが,社会主義体制のなかにこそ,自身の構想した事業経営体が肥沃に育つ経済基盤がみいだせると,あと智恵的に聞こえた「付言」をした場面も演じていた。これは,敗戦後における断片的な発言として聞いておくべき言説であったが,21世紀になる以前において,早くからすでに放置することのできなかったそれであった。

  だが,いまでは,社会主義企業経営論は過去における学説史的な理論展開の一コマという位置づけしかえられない。それでも,山本「経営学説」の《構想的な形骸》に魅惑された後進の経営学者たちは,満洲国「公社企業」論の引きずってきた「歴史的に深刻な検討を要する問題」とは完全に無縁の立場から,山本理論に接してきた。

 そうした事態は,経営学史的研究の基本的な姿勢において踏まえられるべき〈歴史的な問題関心〉に疎い経営学者たち側の〈理論上の不備〉を逆証していた。そもそも「歴史学に,そして,経営学史に学ぶ」ことの意味は,どこにあったのか? 歴史の上の刻まれた理論はただ単に観賞用の芸術品ではない。

 c)「敗戦後の記録」 の体験は実際のところ,前段のごとき a)「戦前の記録」の基盤を踏まえ,受けてこそ継承されていた〈学史的な事実〉でもあった。それゆえ,この歴史的な順序=時系列の関係に関心を向けないで,山本理論の学説史的な価値を独立独歩的にしかも無条件に認めるがごとき評価は,学問研究従事者の採るべき基本姿勢ではなかった。神でもないかぎり「完璧・ 無謬の理論」など構想・構成できるはずがない。

 ※-3の 6) の論者は,「科学としての経営学」は「歴史学」から「経済史」が生まれたように「経営史」も要求する。なぜなら「経営体の経営=行為主体とその行為」が織りなす歴史層が,そこに蓄積されるからだと説明していた(経営学史学会編『経営学の思想と方法』68頁参照)。

 これにつづけてだが,「経営批判学としての経営学」を発想したその論者は,「哲学としての経営学」をこうも解説していた。

 一方の端(極)には「哲学が浸透し」 た「哲学的色彩が濃い経営理論」があり,他方の端(極)には「経営理論の厚みを増す」関係がある。そして「その間〔において〕はグラデーション的に変化する全一体の経営学が構想」される(73頁)。

 3) 経営学史と経営思想史-先行し,無視される研究-

  経済学史においては「経済思想史」が一定の構想を示し,理論を実体的にも展開させてきた。だが,どういうわけがあるのか分からないけれども,経営学史においては「経営思想史」を構想しようとする問題意識は明確ではなかった。かといって,その方途をめざして明確に見解を披露した経営学者たちがいなかったのではない。

  裴 富吉『経営思想史序説』(マルジュ社,1985年),海道ノブチカ『西ドイツ経営学の展開』(森山書店,1988年),森 哲彦『経営学史序説』(森山書店,1993年),田中照純『経営学の方法と歴史』(ミネルヴァ書房,1998年)などは,経営学界の一隅で,

 「哲学と経営学」や「経営の理論と現実」という論題で表現されるごとき「経営学的な研究課題」が,経営学史の方法・視点として,どのように定立されるべきか議論を重ね,一定の視座も提供してきた。

 「歴史的反省の上に創造された経営哲学」(77頁)を求めたいのであれば,「人間学(生活学)としての経営学」(72頁)の方途を企画した学者たちが,ある時期において間違いなく一度,理論と現実の邂逅において〈奈落の底〉に突き落とされていたこと,たとえば「行為的主体存在論の経営学」を提唱した経営学者山本安次郎も,その端的な実例であったことが回顧されて当然である。

 要するに,社会科学であり経験科学であり歴史科学である「来るべき経営学」は「行為哲学としての経営学」として構築され,「経営哲学と経営理論が表裏一体に繋がった経営理論にして経営哲学」(77頁)というものにしあげたいと提唱されていた。

 だが,こうした理論構成をもって描かれた「行為的主体存在論」については,過去に酷似した発想があっただけでなく, 歴史学的に判断するに学問として大失策も犯していた。はたして,その「再生的な理論形成」が可能であるのか,あらためて慎重に吟味しておく必要があったと思われるが,この付近の課題に真正面より取り組んだ経営学者はいない。

 その「行為的主体存在論」,経営学的にいえば「経営行為的主体存在論」を提唱した山本安次郎の理論は,山本が大学院で指導した後進からはその継承者を生むことがなかった。

 この記述の冒頭では「生活世界」という用語が気安く口にされていた。だが,この世界は実は,社会科学者の発想にとって一番手強い研究対象である。その意味あいでも,「生活世界」という概念のもとに,いったいなにを取り上げいいたかったのか,そもそもその原点にも戻った議論が必要であったる。

 なかんずく「歴史学」の観点・視座を経営学史研究において,いかに生かすのかが根源より再問されている。

------------------------------

https://amzn.to/45Xy71a

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?