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マルクス的経営学の嚆矢とみなされた中西寅雄「経営経済学説」の吟味,戦時体制期に中西寅雄が創説した個別資本運動説はただしマルクスの思想・主義にあらず(その1)

 ※-1 中西寅雄「経営経済学説」の吟味があらためて必要である学説研究上の意義,「1938年度後期授業『講義ノート』」などの存在

 「経営経済学」という講義科目は,東京帝国大学経済学部商業学科の場合,戦前において開講されていた講義科目であるが,『東京大学経済学部五十年史』(東京大学出版会,昭和51〔1976〕年)の第5部「資料編」は,経営経済学という講義が正式名称として登場する年次を,「昭和16年改正」からと記録している(同書,1102頁)。

 それに対して本日とりあげる資料(資料)は,東大経済学部で講義を受けていた「当時の学生たち」が,自分たちが筆記したノートを「中西寅雄先生講義プリント」として「文字起こし」をおこない,これを,定期試験対策用として学生たちを対象に制作・販売したものと推測される。

 冒頭に以上の〈事実〉を指摘(推察)したうえで,つぎから本論の記述に入りたい。最初に,中西寅雄の「1938年度後期授業『講義ノート』」をめぐっては,昭和13年という日中戦争(「北支事変⇒支那事変」)開始された翌年である点,すなわち,帝国日本が中国相手に泥沼の戦争にのめりこんでいったという時代状況を,ひとまず前提として的確に踏まえておきたい。

その「1938年度後期授業『講義ノート』」の学生筆記版になる「中西寅雄先生講義プリント」は,

 その書名を『経営経済学(全)』とし,
  「昭和13年10月-14年2月」の「講義終迄」を,

 東京帝国大学経済学部講義録として
   「帝大プリント聯盟」が発行していた

というふに,奥付的に記入・説明されている。

 また上記のプリントは別版になるものとして

 東京帝国大学中西寅雄教授述「昭和9年度講義」『経営経済学-第1部 上巻・下巻-』啓明社,昭和9年3月1日と

 東京帝国大学中西寅雄教授述『経営経済学-第2部 上巻・下巻-』啓明社,昭和9年2月23日もあった。

 以上の経営学文献史的な留意を事前に断わっておき,つぎの本論にすすむことにしたい。

 

 ※-2 中西寅雄「経営経済学説」の吟味が必要である理由・事情,その問題のありか-

 a) 中西寅雄『経営経済学』(日本評論社,昭和6:1931年)は,経営学の研究に従事する者すべてが,一度はひもとくべき名著である。

 中西寅雄は,日本経営学史のなかで「個別資本〔運動〕説」を提唱し,反体制的な視点を経営理論の立場において定立したと,誤解されてきた。しかもこの「誤解」は,反体制派の経営学者のみならず,体制派的な経営学者にもみられた。ただし,中西寅雄に近しい一部の経営学者はその誤解にとらわれていなかった。

 とりわけ,「批判〔的〕経営学」の理論を構想し,反体制派の思想を標榜した経営学者は,中西寅雄「経営経済学説」を片思い的に受けとめ,自陣営内に定置させうる発想だと評定した。しかし,中西はけっして,「マルクス主義」的なイデオロギーに立脚した学問を披露したのではない。

 中西「個別資本〔運動〕説」に対するこの種の「誤解」は,筆者が指摘・修正するまで疑われることもなく,〈通説〉的な認識(まちがい)のままでありつづけてきた。

 もっとも,21世紀のいまどきにおいては,中西寅雄の92年前の主著をどのように読み,解釈するかという論点に興味を示す経営学者は,ほとんどいない。

 そうした現状はさておき,日本経営学史の流れのなかでなぜ,中西はそのように誤解されてきたのか。この論点は,日本経営学における理論史に関して,重大な課題たりうるものであった。

 中西寅雄『経営経済学』1931年の理論面における本質的な特性,その時代的な制約性に関しては,特定の信条に依拠した教条的・図式的な解釈以外,まっとうにとりあげられることがなかった。

 とりわけ,イデオロギー過剰の議論におちいりがちだった批判経営学の研究陣は,中西『経営経済学』をあたかも,聖典であるかのようにもちあげてきた。そのためかえって,その内実に関するまともな学説史的研究がないがしろにされた。戦前日本に誕生した同書の「総体的な評価」は,的確になされていなかった。

 筆者は,いくつかの論著で中西学説を論究してきた。そこで強調したのは,

 ☆-1 中西説が登場した「時代背景」
 ☆-2 中西が籍をおいていた「東京帝国大学経済学部の事情」

という2点を十分に探査し,そのうえさらに,これらの関連づけを究明した「理論的な検討」が必要なことであった。

 b) しかしながら,中西「経営経済学説」に対する批判経営学者の評価は,『経営経済学』昭和6:1931年から『経営費用論』昭和11:1936年へと理論を展開させていった中西寅雄の変転を,ただ「転向」よばわりし,闇雲に非難することにかぎられていた。

 すなわち,中西学説そのものに関する地道な「経営学説史:経営思想史」的研究,その初歩的な手順を無視してきた。そのけっか,自分たちの政治信条的な立場や価値観・世界観に合致する「理論部分」については,《中西寅雄》を歓迎・称賛し,のちにそうではなくなった彼は,ひたすら非難・排斥する,という〈常道〉を発露した「股裂き状態」に置かれていた。

 今回,本稿が議論する対象は,前掲したうちの「中西寅雄先生講義プリント経営経済学(全)」昭和13年10月-14年2月,東京帝国大学経済学部講義終迄,帝大プリント聯盟,昭和14年3月1日発行〔ガリ版刷〕である。

 戦時体制期に東大内で発生した事件をつぎに言及しておく。

 昭和14(1939)年1月28日,東大経済学部に「平賀粛学」事件が起きた。
 
 昭和13(1938)年10月,東大経済学部の河合栄治郎は,『ファシズム批判』など4著書の発禁処分を受け,昭和14年2月に起訴されていた。このとき同学部内では,河合擁護派とその追放をはかる土方成美ら〈革新派〉とが,激しい内紛を展開した。

  当時の東京帝国大学総長平賀 譲海軍造船中将は,河合栄治郎教授などを大学から追放する処分をおこなった。平賀総長は,喧嘩両成敗のかたちで収拾を図ろうとし,教授会にかけることなく,河合-土方両教授の休職を文部省に上申した。だが,その思想処分は学部自治を内部から無視し,崩壊させるものだった。

 昭和14年1月30日,両派の教授,4助教授がこれに抗議して辞表を提出した。平賀総長は評議会の支持のもと,大河内一男講師らの復職をえ,再建を軌道にのせた。

 註記)http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1936-40/1939_01.html 参照。関連する最近の著作は,竹内 洋『大学という病-東大紛擾と教授群像-』中央公論新社,2001年。なお,上記住所(アドレス)は現在,削除。

 中西はこの事件「平賀粛学」を契機に連袂辞職した「教授」の1人になっていた。中西は戦後,東大経済学部に戻ることがなかった。

 c) ともかく,その「平賀粛学」事件の発生年次まで中西は,「経営経済学」を講義してきた。その講義を聴講‐筆記した学生のノートをもとに製作・販売されたのが,「中西寅雄先生講義プリント経営経済学(全)」である。

 なお以後は「本講義録」を『プリント「経営経済学」』と略記する。また冒頭で断わったが,当時の昭和14年度においては東大経済学部の講義一覧には「経営経済学」という名称の科目がなかった。しかし,どうやら中西寅雄はこの講義の名称を使い講義をおこなっていたらしく推察できる。

 さて,中西寅雄『経営経済学』(日本評論社)昭和6:1931年からプリント「経営経済学」昭和14:1939年のあいだにおいて,はたして,どのような意図や展望がこめられつつ,中西学説の変遷ないしは発展が醸成されていったのかが,本稿の注目する論点となる。

 もっとも,プリント「経営経済学」は,中西の授業を聞いた学生が筆記したノートを材料に制作された「講義録」である。したがって,これをもって,特定時期における中西寅雄「経営経済学説」を,完全に反映させる中身とみなすわけにいかない。

 しかし,この「講義録」のプリント「経営経済学」を観察すれば,昭和2年度から昭和13年度まで東大経済学部で「経営経済学」を講じていた中西が,「経営経済学」の構想をどのように進展・変質させていったのか,おおよそ理解できる。

 筆者が中西学説の歴史的な変貌に対いて関心をもつのは,「満州事変」〔昭和6:1931年9月18日〕の年に刊行された『経営経済学』(昭和6年9月25日初版)の主唱がその後,中西自身の手によってどのように改変されていったか,という点である。

 同書,「中西寅雄博士年譜(概略)」をみると,『経営経済学』は初版発行後,絶版にされた点が理解できる。この処置は,中西寅雄『経営費用論』(千倉書房,昭和11:1936年6月)が増刷を重ねてきたのにくらべ,非常に対照的な点である。

 ちなみに,筆者の所蔵する『経営費用論』は,昭和16:1941年6月に25版を数えている。専門書としてはたいそうな売れゆきである。『経営費用論』は戦後に復刻版も刊行されている(「新刻」版,千倉書房,昭和48:1973年)。

 それでも,『経営経済学』は,中西が当時〔昭和6年まで〕において「経営経済学」の講義用に構想,準備した体系・内容とみなされてよい。筆者のこうした把握に無理がなければ,昭和2年度から昭和13年度のあいだ東大経済学部で中西の担当してきた講義:「経営経済学」--ではなく,正確には「商事経営論」であったが--の構想に生じた変転に着目する必要がある。
 
 d) ここでさきに断わっておくが,黒澤 清のように中西説の変転をとらえ,「個別資本運動の仮説の演繹と検証の過程において,それは学問的袋小路に導くものであることを,みずから発見された」というような一知半解の論断を繰り出したのは,大きな間違い間違いになる。

 註記)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年,黒澤 清「中西寅雄と日本の原価計算」はしがきⅱ頁。

 論稿,黒澤 清「中西寅雄と日本の原価計算」(『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年所収)は,「中西寅雄博士(年譜)」において,東大経済学部辞職の年次を昭和12:1937年と記述していた(*)。中西の没後も,その論文選集の編集‐公刊を世話するほど親しい間柄にあった研究者が,なぜそのように単純なミスを犯すのか不可解である。

 註記*)前掲書「中西寅雄博士年譜(概略)」

 黒澤は,中西寅雄の学問となり人となりをめぐる「時代背景」,「東京帝国大学経済学部の事情」などの論点とは無関係に,主観での独断的な解釈をくわえたに過ぎない。

 日本の会計学界においては「天皇的な存在」といわれた黒澤だったが,学問的・理論的かつ実証的・歴史的な裏づけを欠く,きわめて粗雑な判断を下した。

 要は,中西のプリント「経営経済学」は,昭和13年度後期の講義を学生が筆記した内容であり,東大経済学部における中西の最終講義を記録していた。時代の状況は,約半年あとの1939年9月1日,第2次大戦が開始するのであった。


 ※-3 講義プリント「経営経済学」の概要と問題点

 a) 第1項 講義プリント「経営経済学」の位置づけ

 中西のプリント「経営経済学」1939年の体系と内容は,中西『経営経済学』1931年とは異なる点を含んでいた。両著の主要な構成を参照しよう。

『経営経済学』1931年〔菊判,本文462頁〕の「章」構成。

   第1章 経営経済学の本質
   第2章 個別資本の生産過程
   第3章 個別資本の流通過程  
   第4章 個別資本の循環とその回転
   第5章 財産及資本の本質と其構成  
   第6章 株式会社

『経営経済学』1931年の「章」構成

プリント「経営経済学」1939年〔ガリ版,本文181頁〕の「章」構成

  ☆ 目次に記述されている「章」構成 ☆

   はしがき
    第1編 経営経済学ノ本質(経営経済学トハ何カ)
    第2編 部分経営ノ組織
    第3編 配給ノ主義,機能,本質,及ビソノ変化
    第4編 費 用

  ☆ 本文中〔実際の中身〕に記述されている見出しの「章」構成 ☆

   第1編
    第1節 生産経済ノ本質  第2節 消費経済ノ本質
   第3節 技術ノ本質    第4節 技術ト目的,技術ト経済
   第5節 経営経済ノ定義  第6節 経営経済学ノ課題
   第7節 企業家ト部分経営管理者ノ職能
    第8節 国民経済ト単独経済トノ関係

   第2編 部分経営の組織
    序: 企業(部分経済)ノ形態
    第1章 企業ノ形態
    第2章 近代的組織原理ノ順
    第2章(ママ)経営執行ノ合理化
     第1節 経営管理トハ何ゾヤ
     第3節(ママ)) 労働執行ノ合理化

   第3編 配給ノ主義,機能,本質,組織及ビ                  ソノ変化 {資本主義 統制経済
    費用ト収益〔121頁以降〕

  第4編 費用……〔135頁以降〕

プリント「経営経済学」1939年の「章」構成


 以上のようにプリント「経営経済学」1939年は,章節構成「見出し」の掲出方法に関して精粗があり,混乱もある。しかし,肝心な異同は,『経営経済学』1931年の第1章「経営経済学の本質」と,プリント「経営経済学」1939年の「第1編 経営経済学ノ本質(経営経済学トハ何カ)」とのあいだに生じた主張の相違にみいだせる。

 これは,マルクス経済学の学問方式にしたがい,否定的・消極的ではあっても「経営経済学」を措定したところの,中西の基本的見地を披露するものであった。

 ところが,『経営経済学』1931年の提示した「経営経済学の本質」観は,プリント「経営経済学」1939年では大きく変質する。

 わけても,「価値増殖過程」という語句が出てこなくなる。この1点をみても,中西はその後,マルクス経済学〔およびマルクス主義思想〕に対して,截然たる態度を採るかのように変貌したことが理解できる。

 b) 当時はすでに,日本帝国に対する反体制派の思想・学問の存在が,まったく許されない状況に移行していた。明治憲法〔大日本帝国憲法〕下の日本は,「満州事変」1931年9月を経て1937年7月日中戦争に突入,1938年5月には「国家総動員法」を施行,その間,反体制派を根絶やしにしたといっていいほど,苛烈な弾圧をくわえてきた。

 東京帝国大学経済学部は,「社会科学としての経済学や経営経済学」という学問・理論に従事する学者を擁する「日本最高峰の研究機関」であり,それゆえ,いつも国家の監視ときびしい弾圧を受けてきた。

 くわしい議論は東京大学史の関連文献などにゆずるが,東大経済学部の創立当初から為政者がくわえてきた圧迫は,その存立基盤を揺るがすような事蹟を数多く記録させたのである。

 戦前日本の国家体制は,治安維持法〔大正14:1925年4月22日公布〕によって,「國體ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコト」(同法第1条)につながる思想・信条や学問・理論を,徹底的に圧殺する姿勢を堅持してきた。大正時代後半にはやったデモクラシーも,昭和ヒト桁代にはその芽を摘まれ,東大経済学部もその圧政の影響を真正面より受けることになった。

 ここで注意したいのは,中西寅雄の『経営経済学』昭和6:1931年は,「けっして根底からマルクス経済学の展開を意図したものではなく,むしろ広くドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図したものであった点」である。

 註記) 吉田和夫『ドイツ経営経済学』森山書店,1982年,208頁。

 中西は,1931:昭和6年に『経営経済学』を公表した。だが,彼は直後に,本書に刻まれた「マルクスの経済学摂取の痕跡」を深く悔いる心境を覚えていた。それゆえ彼は,いち早く本書に絶版の措置をほどこし,迫りくる時代の危機から逃れようと構えなおした。

 中西は,当時刻々と高まっていく国家全体主義(ファシズム)の思潮のなかで,恐らく自分の立場を危うくしかねない〈時限爆弾〉であるかのように,自著『経営経済学』を受けとめていたと推測される。中西「経営経済学説」に対する考察は,そうした彼の気持を慮りながらおこなうべきものと,筆者は考える。

 c) さて,プリント「経営経済学」の本文の検討にもどる。

 まず,昭和13:1938年度後期授業において,中西が「経営経済学」の講義を展開するにさいし,聴講する学生に対してしめした参考図書は,つぎのものである。

 プリント「経営経済学」によれば,参考文献として,以下の6著を挙げている(中西寅雄「プリント『経営経済学』」1頁,46頁)。これらの文献については,枚挙された書名には誤記もあるが,本稿ではその正しい表記をかかげた。なお,原文は片カナ使用の文章である。

   宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂書店,昭和6年。
   宮田喜代蔵『生活経済学研究』日本評論社,昭和13年。
   酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年。
   古林 喜楽『経営労務論』東洋出版社,昭和11年。
   国松 豊 『工場経営論』千倉書房,昭和6年。
   桐原 葆見『労務管理』千倉書房,昭和12年。

 これらのなかで,古林喜楽『経営労務論』(東洋出版社,昭和11:1936年)は,実は「奴隷のことば」で執筆されたマルクス主義的な労務管理論〔今風にいえば人的資源管理論:ヒューマン リソース マネジメント〕であり,戦後にあらためて高い評価をえた著作である。

 しかし,中西のプリント「経営経済学」は,マルクス主義的な含意でもって,古林喜楽の同書を参照したわけではない。あくまで,その講義録の内容に必要な材料を,マルクス主義の思想およびイデオロギーの部分を抜きに参照したにすぎない。かといって,古林の同書に秘められた真意を,中西が読みとれていなかったとは思えない。

 中西『経営経済学』は前述のように,「広くドイツ経営経済学の問題意識をマルクス経済学でもって基礎づけんと意図した」ものだった(吉田和夫)。具体的にいえば同書は,マルクス『資本論』と,ドイツ経営経済学のなかでも,W・リーガー,H・ニックリッシュ,E・シュマーレンバッハなどの内容とを融合させ,構想・執筆した著作であった。

 ところが,プリント「経営経済学」をひもとくかぎり,「ドイツ経営経済学の問題意識」をとりあげている点にかわりはないものの,マルクス『資本論』は言及も利用もされなくなった。その代わり,プリント「経営経済学」を基礎づける方法論には,「ドイツ生活経済学」が充てられた。

 d) ともかく,中西のプリント「経営経済学」(昭和14:1939年)に説明された「経営経済学の本質」を聞くことにしたい。そのまえに,戦前,それも戦時体制期に日本経営学会が刊行した「年次大会の報告集」のうちから,当時の雰囲気をよく現わすものを紹介しておくことにする。

 なお,この「経営学論集」の題名はそれぞれ,その前年秋に開催されていた日本経営学会全国大会「共通論題」とほぼ同じである。

   『統制経済と企業経営』同文館,昭和12:1937年。
   『戦時体制下に於ける企業経営』同文館, 昭和14:1939年。
   『価格統制』同文館,昭和15:1940年。
   『利潤統制』同文館, 昭和16:1941年。
   『生産力拡充』同文館,昭和18:1943年。

 これらのうち,『戦時体制下に於ける企業経営』を共通論題にかかげた日本経営学会は,昭和13年10月14~16日に開催された。このころ中西はまさしく,東大経済学部において最後となる「経営経済学」の講義を開始した。

 

 ※-4 講義:プリント「経営経済学」の具体的内容

 1) 生産経済

 中西のプリント「経営経済学」はまず,「国民経済学ノ本質ヨリ」「経営経済学トハ何ゾヤ,ニツイテ」「述ベ来タラネバナラナイ」という。そして,経営経済学の研究対象である「部分経営」は,「統制経済ニ於テモ私有性ハ存スル。タヾ,ソレガ最大ノ利潤追及ト(ママ)イフ原則ニ依ラズ,国家ノ費用補償経済トナリ,コヽニ於テモソレハ社会主義的管理経済トハ異ナル」と規定している。

 註記)中西「プリント『経営経済学』」1頁,2頁。

 この見解は,『経営経済学』昭和6:1931年において,経営経済学を「個別的資本の価値増殖過程を研究する私経済学又は企業経済学である」と規定したものとは,明確に異なっている。

 それでも中西は,「生産経済ノ本質ハ,直接的ニハ最大ノ利潤獲得ヲ目的トスル。故ニ,費用ト収益トノ比較考慮デアル」と記述し,これにつづけて,「資本家的経済トハ収益(Ertrag)-費用(Aufwand)=利益(Gewinn)」という具合に説明する。

 註記)同書,2-3頁。

 しかし,「統制経済下ノ生産経済ニ於テハ,資本家的経済トハ異ナリ,営利原則ニ代ハルニ費用補償ノ原則ヲ以テスル

 「営利原則ニ依ル経済規制ト異ナリ,利益ノ有無,及ビ,収益カラ費用ガ補償サレルカ否カトイフコトハ個人ノ責任ニマカセラレル」

 註記)同書,3頁。

 「費用補償ノ原則ノ下ニ於ケル生産経済ニ於テハ,補償ガ国民経済者ニ依リテナサレル。通常ノ経営者ノ剰余ノ獲得モナケレバ,又費用ガ補償サレヌコトモナイ」

 「個々ノ生産経済タル立場ヨリ見ルナラバ,イヅレノ場合ニ於テモ,商品ノ販売ニ依ル収益カラ費用ヲ差引イテ剰余ヲ得ルトイフコトヽナル」

 註記)同書,3-4頁。

 その「異ナルトコロハ,費用補償ノ原則ニヨリ,収益ガ国民経済者ニ依リ制限サレテヰルコトデアル」

 「収益-費用=剰余」

 「コレガ費用補償ヲ原則トスル社会,即チ,統制経済下ニ於ケルモノデアル」

 「生産経済ノ本質ハ単独経済ノ立場ヨリスレバ収益ト費用ノ剰余ヲ最大ナラシムルコト,収益ト費用トノ比較考慮デアル」

 「生産経済ガ特ニ,営利原則ヲ目的トシテヰル場合(資本家的社会 下)ヲ企業トイフ」

 その生産経済は, (A) 企業(営利原則下ニ在ル) および (B) 生業(費用補償経済下ニ在ル)〔からなる〕。

 「而テ,コノ生産経済ヲ広ク企業(収益ト費用トノ比較考慮トイフ点ニ於テ)トイフ」

 「経営学者ガ企業ナル言葉ヲ用ヒル場合ニハ上ノ (A) (B) ヲ含メテ広義ニ企業ト呼ブ人モアルガ,私ハ (A) ノミ(狭義ニ)ヲ企業ト呼ブ」1)。

 註記)同書,4頁。

 以上の議論は,統制経済下において変質した「企業の性格」を論じたものである。とはいえ,その論旨の展開においては不明解な点が残している。

 統制経済下でも,私有性を有する「部分経営:生産経済」は,「資本家的経済,収益-費用=利益」ではなく,「費用補償ヲ原則,収益-費用=剰余」という目的追求をするもの,と規定されていた。

 生産経済は営利原則「収益-費用=利益」を追求するものだが,統制経済のもとにある国民経済的見地では,生産経済は「収益-費用=剰余」になる,といいかえられている。だが,このふたつの概念に実質,いかほどの差異があったのか。説得力を欠き,無理があった。一貫性が確保されていない主張であった

 それでも中西は,「営利原則下ニ在ル」生産経済「企業」のみ企業そのものとよぶ,とも断わっていた。「収益-費用=利益」は「収益-費用=剰余」にかわったけれども,前者を追求する企業を重視する姿勢に変化はない,といいたかったらしい。

 要は,「最大ノ利潤追及トイフ原則ニ依ラズ,国家ノ費用補償経済トナ」った企業の性格づけは,戦争「統制経済」,いいかえれば,戦時体制に突きすすんだ「日本経済の軍需生産体制の要求」に即応する方向性を表現したものであった。

 2)日本経営学会は関説したように,全国大会の「共通論題」をつぎのように決め,開催していた。
 
  昭和13:1938年10月,第13回大会「戦時体制下に於ける企業経営」
  昭和14:1939年10月,第14回大会「価格統制」
  昭和15:1940年10月,第15回大会「利潤統制」
  昭和16:1941年11月,第16回大会「生産力拡充に関する諸問題」

 時代は完全に戦時体制に移行した。学問も戦争のために「職域奉公」することを求められた。当時それにしたがわない社会科学者に対しては,その研究:存在じたいを抹殺しかねない空気が漂っていた。

 当時,日本学術振興会第38小委員会報告として『公益性と営利性』(日本評論社,昭和16〔1941〕年9月と題した本が公刊されていたが,この公益性と営利性という用語の順序,あとさきが時代をめぐる経済環境の変動を正直に物語っていた。

 中西は,『経営経済学』昭和6:1931年の第1章「経営経済学の本質」で理論的に惜しみなく表現した「マルクス経済学の方法」を消去することにした。しかし,そうした自説の転変は,中西が経営経済学の中身として元来学問的に認識しようとしてきたものに関して,一定の「齟齬をきたした」事実そのものは否めない。

 筆者は,昭和13年度後期の東大経済学部授業「経営経済学」において中西は,一定の意図をこめて,先述のような「概念規定の変更『利益』→『剰余』」を披露したとみる。

 中西『経営費用論』昭和11:1936年は,「序」のなかでこう述べていた。

 経営経済学は独立の生産経済,特に資本主義社会に於けるその最も典型的な形態としての企業をそれ自体として,換言すれば企業家の意識に反映せる姿容に於て研究する学である。

 費用,収益,利益の問題は,経営経済学の中心的基本問題である。

 費用問題の経営経済学研究は……その経営経済学的本質の解明をも必要とする。

 費用問題は経営経済学一般の基本的問題であるが,特に最近に於けるこの問題の実践的意義は,統制経済の進展に対するその重要性にある。 

註記)中西寅雄『経営費用論』序1-2頁

 中西はさらに,「経営経済学は個別資本の運動をその研究対象とする。個別資本の運動とは,個々の資本が剰余価値を生産し実現し獲得する過程であり,その意識的担ひ手たる個々の企業家の意識には,原資本価値とその増殖分との関係,換言すれば,費用,収益,利益の関係として現れる。従って,費用問題は,経営経済学に於ける基本的にして且中核的な問題である」と述べ,結局,「経営経済学は利益追求に方向づけられた生産経済,換言すれば企業をその研究対象とする学である」と規定していた。 

 註記)同書,1頁,6頁。

 中西『経営経済学』昭和6:1931年の本文中には,もともとこういう記述があった。

 「個別資本の循環と回転及び此の運動が資本家の目に反映する所の姿たる費用と収益との関係に就て考察した」(第4章「個別資本の循環とその回転」より)。

 註記) 中西『経営経済学』347頁。

 だが,プリント「経営経済学」における中西の講述は,戦時「統制経済の進展に対するその重要性」に対応させる方向を採った。いいかえるならば,「経営経済学一般の基本的問題である費用問題」に関する一定の見地を,決定的に変更させるような記述をおこなった。

 つまり,「個別資本の運動」「個々の資本が剰余価値を生産し実現し獲得する過程」に関する議論を,だいぶ後景に追いやるような処置をほどこした。

 その間,時間的には3年ほど推移した。だが,プリント「経営経済学」は,大幅に変質させた中西の「基本的な概念規定」をかいまみせた。
 
 3) 消費経済

 中西はつぎに,「消費経済ノ本質トハ何ゾヤ」と問う。

 「生産経済(広義ノ企業,〔前述〕(A) (B) ヲ含ム)ハ,経済全体ノ立場カラ見レバ一ツノ手段ニ過ギナイ」

 「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアルトイフ考ガ存スル」

 「斯ク考ヘレバ,消費経済ハ究極目的デアリ,生産経済ハ,コレニ対スル手段的ナル構成体デアル」

 「経済ノ目的ハ欲望満足ニアル,トイフ事ヲ前提トシテヰル」

 「私ノ立場ハ,国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル。コノ立場ヨリスレバ,消費経済モ生産経済モ個々ノ部分経済ニ過ギズ,消費経済ガ生産経済ヨリモ重イトイフコトハ出来ナイ。即チ,ソノ両方デ国民経済ヲ構成サレテヰルノデアル」

 「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」

 註記)中西「プリント『経営経済学』」5-6頁。〔 〕内補足は筆者。

 以上の議論は,中西「経営経済学説」は当初,「マルクス経済学の方法」を応用し,「個別資本〔運動〕説」を展開したが,ここに至りその基本的な立場を変更したことを意味する。

 4) プリント「経営経済学」は,当時「生活経済学」を論究していた宮田喜代蔵『経営原理』昭和6:1931年や,酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』昭和12:1937年などを,参考文献に挙げていた。

 そこで,中西が提示したその「生活経済学」の立場,つまり「経済全体ノ立場カラ見」た「国民経済ノ本質」が,「経済ノ目的ハ欲望満足ニアル」こと,「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」ことを,すこし説明しておく。

 宮田や酒井は,いわゆるゴットリアーネルである。ゴットリアーネルとは,Friedrich von Gottl (ゴットル) -=Ottlilienfeld の理論的信奉者たちを指すが,この“ゴットル”の「生活経済学」は戦時体制中,日本の社会科学を風靡する学風となっていた。

 もっとも,そのゴットル理論は「戦争の時代」における「日本の資本主義」を歪曲し,理論から逸脱し,倒錯の学説を展示していた。この難点はその後,内省されるべきものであったが,日本の提唱者たち(ゴットリアーネル))〔広くみるとその付和雷同者も含めて〕その作業を回避した。中西もその責めの一部を負わねばならならない1人であった。

 要するに中西は,戦時体制期〔昭和12年7月〕以降,従前の自説を,扮装し,変質させていったと観察されてよい。

 ゴットル『経済の本質と根本概念』〔原著1933年〕は,昭和17:1942年の5月と12月,2種類の日本語訳が公刊されている(*1)。さらに,「ゴットル自身によって書かれたゴットル経済学入門書といふことの出来る」著作,ゴットル『経済と現実』〔原著1939年〕も,1942年8月に訳出されている(*2)。

 註記*1) Friedrich von Gottl=Ottlilienfeld,Wesen und Grundbegriffe der Wirtschaft, 1933. 日本語訳は,中野研二訳『経済の本質および根本概念』白揚社,昭和17年5月。福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年12月。

 註記*2)フリードリッヒ・フォン・ゴットル=オットリーリエンフヱルト,佐瀬芳太郎訳『経済と現実』白揚社,昭和17年,〔訳者後記〕192頁。

 そこで,後者『経済と現実』におけるゴットルの見解に聞き,中西説の転変を理解する手がかりにしたい。

 ◆-1 戦時体制中の日本経済において,「生成の途上にある経済科学は構成体論的思考態度のものである」(*)。中西はだから,「消費経済ハ究極目的デアリ,生産経済ハ,コレニ対スル手段的ナル構成体デアル」と規定していた。

 註記*)Gottl=Ottlilienfeld,同書,184頁。

 ◆-2「経済は欲求と充足との持続的調和の精神における人間共同生活の構成である」(*)。中西はこの点を,「経済ノ本質ハ生産ト消費トノ持続的調節ニアル」と記述していた。

 註記*)同書,178頁,〔ほぼ同じ日本語訳が〕23頁。

 前項の b) にも関連するものだが,ゴットルのこういう記述もある。

 ◆-3「技術的進歩の操縦においても窮極の決定権が営利経済に認められることはもはや許されないのであって,それはむしろ国民経済そのものの要請に,窮極においては国民の生活上の必要に,属すべきものである」

 註記)同書,127頁。

 中西においてはその点を,つぎのように論及していた。

 ◆-4「国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」から,統制経済下の「部分経営:生産経済」は,「資本家的経済,収益-費用=利益」ではなく,「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」という目的観に立つ。

 しかもこの主張は,戦時体制を構える全体経済:国民経済のためにこそ,前提にしなければならないものとされていた。この経済体制観をささえた政治体制観は,国家全体主義(ファシズム)の思想だった。

 ◆-5 ゴットルは,「国民経済によって包括されてゐる構成体の生活力の増進は,それによって国民経済そのものの生活力が同時に高められる限りにおいてのみ,意味を有する」と主張した。そこで,中西「経営経済学」は,こういう経済認識を摂取する立場を明示した。

 註記)同書,47頁。

ゴットルの見解

 5) 戦時体制期において,全面戦争(total war)での勝利をめざす日本経済の課題は,軍需産業の生産力拡充あるいは生産増強という任務に当面した。

 いわば,「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアル」という概念規定が,軍用物資の生産-配分を最優先させるための根拠・理由を提供した。

 「『有機的関連』,すなはち全体は部分を支持し,部分はまたそれぞれ全体を支持するといふ関連,が存する。すなはち国民経済の枠内にある無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともにする」と認識されることになった。

 註記)同書,26頁。

 中西はその点を,「消費経済モ生産経済モ個々ノ部分経済ニ過ギズ,……ソノ両方デ国民経済ハ構成サレテヰルノデアル」,あるいは「生産経済(広義ノ企業)ハ,経済全体ノ立場カラ見レバ一ツノ手段ニ過ギナイ」と表現した。

 しかし,こうした見解は,中西『経営経済学』昭和6:1931年において論述した中身とは,明らかに異なる含意をもたせることになった。

 つまり,中西が以前論究していた見解は,こういうものであった。

  イ) 「吾々は利潤の意義,利潤率,資本回転の利潤率に及ぼす影響等の問題をマルクスに従って説明した」

  ロ) 「諸問題は,何れも個別資本の起動々機たり,終局目的たる剰余価値を資本家の直接的な意識に反映せしめた所の姿たる利潤を枢軸として旋回する。この利潤に対する充用総資本の比率は利潤率,又は企業の収益率である。この収益率の増大こそは個別資本の直接的なアルファでありオメガである。収益率の問題を個別資本の最後の問題として考察する所以が茲にある」

  ハ) 「経営は一般に経済の基礎であり,経済を条件づける。が,反対に経済によってまた反作用を受け,その特殊な歴史的な性質をも具有するに至る」

 註記) 中西『経営経済学』317頁,436頁,89頁。 

中西寅雄の以前における見解

 6)1945年8月,日本帝国は戦争に敗けた。したがって,日本社会における「無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともに」した。敗戦を機に,中西『経営経済学』の主張は逆説的に実証された。

 問題はそのつぎにある。「戦時期における持論」の実質的な崩壊は,中西において,どのように受けとめられたのか?

 戦時日本における経済体制は,その戦いの結果を,前述 e) の「栄枯盛衰」の経過にしたがうかたちで終えたわけである。それでは,敗戦という出来事を経て,中西のプリント「経営経済学」の提唱も「栄枯盛衰をともに」したかというと,そうではなかった。この論点は続編を充ててさらに詳述する。

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【断わり】 本稿の続編はできしだい,ここ( ↓ )に付記する。

  ⇒ https://editor.note.com/notes/nd983bf2f0d3f/edit/

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