戦時体制下の日本における「経営学の理論展開一例」(その2)
「本稿(その1)」2024年2月21日は,つぎの構成をもって記述されていた。「本稿(その2)」本日2月22日,その本論に入った途中からを受けつぐ内容,前後関係になっているので,できればなるべく「その1」から読みはじめてくれることを希望しておきたい。
「本稿(その1)」2024年2月21日のリンク先住所は以下のものである。
この「本稿(その1)」の記述は,つぎのような目次(見出し)をかかげていた。なお※-1は導入部,※-2からが本論となる。
※-3 旧満州国における建国大学
戦前も戦中期になっていたが,京城帝国大学や台北帝国大学とあいならんで,カイライ国家「満州国」内に創設された建国大学は,どのような性格をもった高等教育機関であったのか。
旧日本帝国の属国「満州帝国」〔総務庁直轄〕の官立大学だった「建国大学」は,正式名を満州帝国建国大学と称し,同国においては社会科学系高等教育機関を代表する存在であった。
建国大学は当初,満州国の建国理念:「王道楽土」「五族〔民族〕協和」をになう人材育成のために設立され,その意味では,同国〈最高峰の教育機関〉であった。
つまり,満州国立大学としての建国大学は,つぎのごときに「歴史に規定された基本性格」を背負って建学されていた。
a) 建国大学は植民地侵略精神によって建学された。
b) 植民地支配体制内に不可避だった矛盾対立を揚棄・超克を狙った。
c) 建国の理想である「王道楽土」を実現するための「五族協和」的な人材育成を教育目標にした。
21世紀の現段階になって振りかえるまでもなく,建国大学は,日本帝国主義の侵略的性格に加担する性格を,歴史必然的に負っていたといちづけられて当然の旧「満洲国」,中国風にいえば「偽満州国」に創立されていた高等教育機関であった。
しかし,太平洋〔大東亜〕戦争の結果,建国大学創設当初に高揚された目標は挫折した。日本の敗戦は,建国大学を瞬時に壊滅させたのである。1945年8月まで建国大学において企業経営論の講義を担当した山本安次郎は,満州国に実在した数少ない経営学者の1人であった。
山本安次郎は,京都大学大学院時代の指導教授小島昌太郎の意志にしたがわず,満州国の建国大学に移動した。山本を建国大学に誘ったのは,建国大学副総長となった元京大教授作田荘一である。建国大学の総長は満州国総理大臣張 景恵であり,その総長の仕事を実質的に遂行していたのが,作田荘一である。
経営学者山本安次郎が満州国の建国大学に赴任するのは,1940〔昭和15〕年4月のことであった。この年は第2次世界大戦勃発の翌年であり,いずれ日米開戦も不可避とみられる情勢下にあった。
時代は〈昭和軍事鎖国〉ともいうべき閉塞的状況にすすみ,建国大学に職場をうつした山本は「公社問題と経営学」を設題,研究に邁進する。そして,同僚たちと西田幾多郎「哲学論文集」を熟読,「主体の論理」に開眼し,経営学の学理的な自信をえたと,山本は回顧している。
※-4 王 智新「建国大学」論
建国大学に対する中国人研究者による要領をえた批判的論究がある。それは,王 智新編著『日本の植民地教育・中国からの視点』社会評論社,2000年,181-191頁に収録されていた,王 智新の論稿「高等教育-建国大学の場合-」である。なお,以下の論述中では他文献より適宜補述することにもなることを断わっておきたい。
1) 建国大学の淵源
旧大日本帝国は戦前,中国の東北部に従来存在した教育の営みを徹底的に禁圧し,その教育システムや施設・設備を完全に破壊したのちに,自分たちの必要〔すなわち支配・管理・掠奪の需要〕に応じて新たに教育政策を策定し,小学校や中学校を開設して強制的に奴隷教育を推しすすめ,
占領地域で「日本精神」を普及し,そこの住民を忠実で順良な勤労者に養成しようとした。それと同時に,支配階級に仕える管理者を養成するため,必要最小限の高等教育機構として「満州帝国建国大学」〔通称「建国大学」〕を設置した。
日本国内では,既存の大学にはすでにファシズムの嵐が吹き荒れていたものの,京大の滝川事件などが示しているように,なお大学の自治の伝統を誇る部分もあり,軍部の意のままにはならなかった。
したがって,既存の法規の網の目をくぐって,関東軍の天下となっている偽満州国で,軍人主導の大学を設置することになった。石原莞爾は構想を立てた。建国の実践者を広く募集し,各「民族」の学生を同じ寮に宿泊させ,各「民族」の「理解」を促し,たがいの「感情」を培おうとしたのである。
1937年3月より大学創立準備委員会を開設し,大学設置の具体事務を開始した。そのさい,大学の創立が現役の軍人によるだけでは「大義名分に反」し,大学の合法性と正統性が問題になる。
そのため,東京帝国大学の退官教授筧 克彦,同現任教授の平泉 澄,京都帝国大学教授の作田荘一,広島文理大学西晋一郎ら,神道や皇国史観の熱狂的な鼓吹者〔天皇制ファシズムのイデオローグたち〕を創立準備委員として依頼し,体面をつくろった。
基本理念・方針・政策はほとんど軍部で決められ,それを具体化していくのが,関東軍参謀を中心としたその準備委員会であった。
註記)野村 章『「満洲・満洲国」教育史研究序説』エムティ出版,1995年,76頁。
2) 建国大学の建学理念と学校システム
「建国大学創設要綱」1937年6月を,以下に引用する。この建国大学の創設要綱にしめされた中心は,石原莞爾が繰り返しいっていた,「亜細亜解放」「亜細亜の復興」「大東亜共栄」の思想にあった。
自由主義・民主主義を基本とする欧米文化を排除して,マルキシズムや共産主義の世界規模の波及を阻止し,日本人による支配をもって欧米植民地主義者のアジア支配にとってかわり,アジアひいては世界各地に,彼らの理想「八紘一宇」の大日本帝国の実現を夢みたのである。
石原莞爾は,昭和17〔1942〕年刊行の著作のなかで,「この建国大学は政治大学であります」といっていた。
註記)斉藤利彦「『満洲国』建国大学の創設と展開-『総力戦』下における高等教育の『革新』-」,学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』第30号,1990年3月,115頁。
竹山増太郎「塾教育を中核とせる建国大学指導者教育」昭和17年1月は,建国大学における教育体系上の特徴は,軍事教練科目が日本のどこの高等専門学校においても例をみないほど多いことにある,と指摘していた。
それはまた,「現役将校として第1線に役立ちうる如き成果を挙ぐること」を目標としていただけでなく,勤労的実習にも重点をおき,諸作業訓練をおこなっていた。すなわち,「俗に建国大学は,文科大学と士官学校と農学校とを合わせた如きものだと云はれてゐる」
註記)竹山増太郎「塾教育を中核とせる建国大学指導者教育」『興亜教育』昭和17年1月,90-91頁。
『満洲建国読本』昭和15年2月は,建国大学をこう解説した。
この大学の目的は,道義世界建設の先覚的指導者を作り,以て興亜の大業を翼賛せんとするに在る。依って単に学問のみならず,勤労を尚び,身を以てその理想を実践することを教へて居る。
註記)徳富正敏『満洲建国読本』日本電報通信社,昭和15年,128頁。
3) 建国大学の教員とその組織
建国大学創設初期,赴任したのはほとんど日本人の教員であった。1941〔昭和16〕年当時,教員構成は,日本人が71名〔教授25名,助教授38名,講師8名〕と全体の90%を占め,その他の民族の出身者は9名しかいなかった。
さらにめだつのは,軍人が教員になっていることや,軍事関連科目が多いことである。剣道や合気道,柔道など専任の武道担当者のほか,現役の軍人も4名いて,戦術や戦略論などの軍事科目と,全校生の軍事教練を担当していた。軍事教練を担当する偽満州国の軍人もいた。
教員の選考は主に東京事務所が担当したが,最終的には軍部の許可を経て決定された。最初の人選は,ほとんどが作田ら4名の御用学者の推薦によるものであった。この4人の政治思想傾向から,どういった人物が推薦されたか,容易に想像できる。
建国大学で教鞭をとった日本人教員の,赴任にいたる経緯や動機は,その出身や政治的・経済的・文化的背景によって,つぎのようにさまざまであった。
♠ いわゆる王道楽土の建設の理想に燃えて赴任した者。
♠ 立身出世を夢みて,軍部とぐるになってきた者。
♠ 「新天地」を求めて,大陸に「雄飛」しようとする若者もすくなくなかった。
♠ 開学後には,国内で左翼運動に参加して挫折し,追及を逃れて避難してきた学者。
註記)なお,建国大学に赴任した日本人学者一覧は,宮沢恵理子『建国大学と民族協和』風間書房,平成9年,巻末「資料」参照。
建国大学でも,学生運動の対策・進歩的思想への接近防止を仕事とする「師導」が17名もいた。また建国大学は全寮制で,その兵舎のような寮のことを「塾」とよんだ。塾訓育も大学教育の一部であった。日本人の塾頭がいて,学生の言論や行動は四六時中監視されていた。教員80名の専門分野の構成も,特別であった。
4) 建国大学の学生教育と管理
1941年当時,建国大学の在学生はつぎのとおりである。
日本人 277名( 47%)
中国人 217名( 37%)
蒙古人 24名( 4%)
朝鮮人 40名( 7%)
ロシア人 17名( 3%)
台湾人 12名( 2%)
総 員 587名(100%)
建国大学では,学生を完全に軍隊方式で管理していた。1人ずつ小銃も配られていた。少数の日本人の研究は,それがカイライ国家「満州国」に寄生していたカイライ制の大学で,虚構の大学であるとは認めながらも,「大学の国際化を先駆的に実施したといえる〈側面をもっていた〉」とか,「多民族の共存について真剣に思考し,実践にも務めていた」とかいって,せめてもの功績を挙げている。しかしそれは,共塾という表面的な現象しかみずにえられた結論であろう。
5) 建国大学の本質
1997年当時,まだ健在であった建国大学の中国人卒業生60数名は,勉学・勤労奉仕・塾生活など多方面に触れて,いわゆる「民族協和」という理念については,それを「看板」「詐欺」「虚偽」と表現している。つまり彼らは,建国大学在学中,民族平等や協和といったものを,少しも感じなかったということである。
日本人学生1期生は,卒業後,時期を前後して全員現地で入隊し,会計担当の1名をのぞいて,みな鉄砲をかついで中国での侵略戦争に加担した。逆に,開学から解散までの8年間,520名いた中国人学生の6%を占める32名が逮捕され,8%に当たる41名が中退していった。この数字をみても,建国大学のめざす「民族協和」がどのようなものであったか,理解するにかたくない。
野村 章『「満洲・満洲国」教育史研究序説』エムティ出版,1995年は,建国大学という学園の教育環境を,こう描写している。
学生は日本人をふくむ各民族を入学させたが,現地民族でこの大学に入学できた人々は俊秀といってよく,それだけに思想上の問題が絶えなかった。一歩学園の外にでれば,民族非協和,民族差別の実態が渦巻いており,日満一徳一心や民族協和について学生間の論争は激しかった。
のちの1940年代には,思想問題や地下活動容疑で関東軍憲兵隊に逮捕されたり,学生が脱走するというような事件が頻発して,実権を握っていた副学長〔副総長〕作田荘一が辞職に追いこまれるという状況になってしまう。この建国大学弾圧事件では,1941年以来3回の手入れで33名が逮捕され,「反満抗日」などの罪で重刑をうけ,獄死したものもあった。
註記)野村『「満洲・満洲国」教育史研究序説』100頁。なお,逮捕者数は前述と1名異なっている。
ある中国人卒業生は,こういう。
建国大学は思想的麻薬を伝播する伝道士〔先覚者〕を養成した。細菌は人間を死にいたらせるが,思想的麻薬は人間を侵略者の利用できる奴隷,口がきけて順良かつ繁殖できる奴隷にする。殺人は侵略者の手段であり,人を奴隷としてつかうのは彼らの目的である。そういう意味からいえば,建国大学の害毒は731部隊に勝るとも劣らぬものである。
王 智新は,以上に引照した著作とはべつの編著で,こう結論する。
すなわち,満州国の幹部候補者養成という使命をもった建国大学が,逆に「反満抗日」の意識と行動を学生たちに醸しだしたということは,歴史の皮肉であると同時に,他民族支配という不条理の基盤の上に立つ建国大学の理想という現実の限界を,もっとも象徴的に物語るものであった。
註記)斉藤「『満洲国』建国大学の創設と展開」131頁。
補記)ここでつぎに,建国大学関係の論稿を,いくつか挙げておく(以下は年代順)。
※-5 建国大学における経営学者山本安次郎
ところで,満州国は「日本人には赤通帳,朝鮮人には白通帳,中国人には黒通帳で,食糧をもらいました。赤い通張は,全部米,白い通帳はほんの少しの米と高粱,黒い通帳は全部高粱でした」(註記)といった食糧配給制度を敷いていた。
註記)指紋なんてみんなで “不” の会編『抗日こそ誇り-訪中報告書-』中国東北地区における指紋実態調査団,1988年,65頁。
建国大学内でも当然,出身民族ごとに差別する食糧配給制度があったが,運用上の工夫をもってその差別をなくした唯一の例外であった。とはいえ,1938〔昭和13〕年に創設された満州帝国建国大学は実質,日本・日本人関係者とそれ以外の国家・民族とのあいだに,越えようにも越えられないにおおきく,深い溝=障碍物をつくった。
建国大学の教員のなかに,満州国に不可避の根本的な矛盾・問題に直接触れた者がいないわけではない。建国大学教授天澤不二郎は,「労務管理刷新の基礎前提」を論じた(→『満洲の能率』第6巻第7号,康徳11〔昭和19〕年7月掲載の論稿)。
だが,旧日帝が中国各地に刻みこんだ「万人坑」遺跡は,建国大学教授による「満州国戦時労務管理体制刷新」論を,〈砂上の楼閣〉的論及とみなすほかない歴史的証拠を提示する。
戦争末期の日本は,中国支配地域で「ウサギ狩り」〔あるいは「労工狩り」〕という名の奴隷狩りをおこなって中国人を強制的に駆りあつめ,現地で,あるいは日本本土に送り奴隷的使役に当てて虫けら同然にこきつかい,あげくのはては無数の命を奪った。日本国内秋田県でおきた「花岡事件」が有名である。
1) 山本安次郎「満州国企業経営論」-公社企業論-
満州国の企業経営に課せられた,〈戦時体制期の緊急要請〉に答える経営学「論」が必要であった。この学的営為に従事した建国大学教員が,経営学者山本安次郎である。山本は,建国大学における後期課程専門学科「経済学科」で,「企業経営論」の講義を担当した。なお,建国大学の修業年限は,前期課程3年と後期課程3年の計6年であった。
まず,山本安次郎『公社企業と現代経営学』昭和16年9月の所説に聞いてみよう。なお,以下の記述においてはしばらく,年号の表示で「元号」が使用されている。悪しからず諒解を願いたい。
a)「太平洋の波益々高からんとするを思ふとき,謂はゆる高度国防国家の確立,経済力の最大能力を発揮すること焦眉の急を要する」 「大東亜の建設,世界新秩序の建設といふ世界史的課題は絶大なる国力,いな国家総力特に経済力を基礎としてのみ遂行せられる」
註記)山本安次郎『公社企業と現代経営学』建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年,69頁,61頁。
b)「国家が経済の基体であると同時に主体である」 「経済形態の問題は飽くまで国家主体の形成作用に於て考へられる」 「正に現代的企業そのものに外ならない」「公社こそ」「真に国民経済本然の姿といふべきであり」,「東亜の危機,日本の危機を自覚し……,計画経済的再生産者の自覚的担当者といふことが出来る」
註記)同書,57頁,58頁,73頁,9-10頁。
c) 要するに,「国家の立場,国家的存在の論理の立場,謂はゆる『行為的主体存在論の立場』即ち『行為の立場』に於て」「企業の現代的形態としての『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たる」「現代的課題が存在する」
「世界史の性格をもつ」ところの「実践的課題性に於て主体的に理解せられる」「現代経営学は公社経営論以外ではあり得ない」 「立場,方法,対象は行為に於て統一をなす」
註記)同書,はしがき1頁,35頁,50頁,12頁,40頁。
つぎに,満洲帝国政府編『満洲建国十年史』昭和44年,山本安次郎稿第3部「経済」第8章「企業」にも若干,聞こう。
「学者と実際家との統一戦線の結成こそ正に最も根本的な問題である。学に志すものゝ任務も極めて重大である」
「その成果如何は単に満州国にとってだけではなく,正に大東亜共栄圏の確立に重大な影響をもつ。真に世界史的重大使命と言はねばならない」
註記)満洲帝国政府編『満洲建国十年史』原書房,昭和44年,592頁,594頁。
2) 山本安次郎「経営学基礎理論」-経営管理論-
『経営管理論』昭和29年10月は,山本学説の本体は結局,「行為的主体存在論の立場に帰着せざるを得ない」と述べていた。
同書は,前項 1) の「世界史的な重大使命・性格⇔満州国公社企業論⇔行為的主体存在論」という,敗戦前における「山本学説の中身」を一部分切り落とし,理論上の三位一体性を解消させる内容展開を示していた。
註記)山本安次郎『経営管理論』有斐閣,昭和29年,序3-4頁参照。
建国大学時代の山本安次郎は,現代経営学の任務を,国家の「立場,方法,対象は行為に於て統一をなす」ことと規定した。山本は,満州国産業体制のなかで「公社企業論」を経営政策論的に垂示した。
しかもそれは,のちにみずから非難したごとく,「その経営は高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し」,国家の「主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ経営理論は殆ど全く無視せられ」たのものであった。
そして敗戦後になると,「かくて業績の余り香しからざるを見た」(以上において飛び飛びに註記)のが,「山本学説=経営学の国家的行為的主体存在論→公社企業論」であった。
註記)同書,序6頁。
だが,満州‐満州国の歴史的事実=研究対象に根づいたからこそ理論展開できた,「高度国防国家体制的な〈経営の立場〉」,具体的にいえば「世界史的重大使命=大東亜建設のための〈経営学の基礎理論〉」を,戦後の山本は簡単に失念したかのように,それもしばらくは沈黙したかっこうで言及することを避けていた。
しかし,注意したいのは,満州国時代に「高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し,……経営理論は殆ど無視」していた「〈国家〉行為的主体存在論」の立場が,戦後もなお,山本学説の理論的半身であることをやめなかったことである。
たとえば,『経営学本質論』森山書店,昭和36年は,注記中においてであたが,「私は経営政策学は国家を主体とする経営政策を問題とするものとして成立つと考えている」と明述していた。
註記)山本安次郎『経営学本質論』森山書店,昭和43年第3版,278頁。
この『経営学本質論』は,「経営学が実践理論として仮言的判断を含み得るとする場合,経営政策学は成立し得るか,という問題がある」といったのち,さきの〈国家主体の経営政策学〉を,再び(?)提起したのである。
註記)山本,同書,同頁。
戦争中,山本が政策論的にあつかった「戦時理論性」ならびに「国家科学性」は,戦後の著作にも登場させられていた。それもひそやかに出現するのをみた。筆者は当然のこと,非常に驚かされた。
しかもその論及する部分は,だいたい〈注記〉中に復活することになっていた。山本の頭脳のなかを探索してみると,いうところの「戦時理論性」と「国家科学性」とは,事後においても別物ではなく,なんら疑念なく「戦後理論」性としてそのまま再現させられていた。
それゆえか,山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年は,こう叙述していた。以下に引照する回顧談は,注記中に書かれた主張が,やはり多いことに注目したい。
「経営学を世界的視野から典型的に考え,これを凝集的に見れば」「わが国の経営学理論の世界史的使命」に即して,「著者〔山本〕がこの点〔経営学〕について明確に態度を確立できたのは,昭和15年から16年にかけてのことである。拙著,『公社企業と現代経営学』,建国大学研究院,昭和16年,参照」。
註記)山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,246頁,225頁,114頁注記6。〔 〕内補足は筆者。
「著者は第2次大戦中の戦争経済を背景に,満州国において株式会社-特殊会社を研究し,その公社企業への転化の不可避性を論じ,公社企業の原理的構造の解明に努力した」
「著者がこの見解に到達したのは,昭和15年以降西田哲学の本格的な研究を契機とするもので,それ以後の著作論文はすべてこの立場に貫かれている」
註記)同書,158頁注記48,44頁注記23。
以上を踏まえ本ブログ筆者は,つぎのように山本安次郎が提示した概念関連を作成してみた。
山本理論においては,「理念は一面ではどこまでも現実を超越し,非連続でなければならないが,他面ではそれに内在的,連続的な意味をもたねばならない」,あるいは「非連続の連続,断絶の連結,否定の肯定という意味をもたねばならない」などといったごとき哲学的な修辞は,きわめて恣意的に使いわけられていた。
註記)山本『経営学研究方法論』145頁,146頁。
山本学説は,現実的な〈内在・連続〉面では「理論的持続性」が決定的に破断していたにもかかわらず,理念的な〈超越‐非連続〉面,いいかえれば,「コトバの世界」でのみは「真の哲学本質論」を一貫させえてきたつもりであった。
3) 山本安次郎「満州特殊会社論」-企業形態論-
a) 満州国の国策的な特殊会社は,満州国民経済の「建設経済」的性格を基盤とし,その課題をみずからの課題として自覚的に担当する,固有の企業制度として形成され発展してきたものであり,今日〔当時:戦時〕では満州国民経済の中枢をなし,これとはなれがたい関係にあるという事実から出発する。
註記)山本安次郎「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」,京都大学『東亜経済論叢』第1巻第3号,昭和16年9月,110頁。〔 〕内補足は筆者。
b) この a) の記述は,「国家の立場」をもった山本「公社企業論」が,いかなる方途をめざしすかを明白にしていた。つまり戦時期に,特殊会社「を株式会社,営利会社への逆転によって問題の解決を図らんとすることが如何に時代錯誤であるかは説明を要しない。現実に於ける危機はそれによって打開さるべく余りに大きい。事実,営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った」と明言したのである。
註記)同稿,123頁。傍点は筆者。
当時,「公社の……合理主義的性格の形成こそ公社経営論の根本問題といはねばならない」のは,従来の営利「会社が自由経済の支柱といひ得るならば,公社は国民経済,その現代的形態としての計画経済の支柱といひ得る」からである。
また,「真の意味に於ける公益は国益で」あり,「経済性は公社に於て初めて真に具体的な経済性たり得る」からであった。つまり,「国益主義的共同主義的経済性」,「計画的適正利潤」,「利潤の費用化」は,「公社企業論」なる企業形態論においてこそ,適切に展開されるものであった。
註記)山本『公社企業と現代経営学』147頁,148頁,153頁,156頁。
戦後もなおそうした「戦中概念」にこだわりつづけた山本ではあったが,さすがに経済性概念への言及は,基本的に禁欲されていた。山本安次郎はその後,『経営学要論』ミネルヴァ書房,昭和39年初版のなかでは,「経営学は『経営の学』すなわち『経営利潤の学』といってもよい。経営利潤従って経営成果において初めて『経営性』が具体的に考えられ,『経営の論理』が生かされると思う」と,記述することになった。
註記)山本安次郎『経営学要論』ミネルヴァ書房,〔昭和39年初版〕昭和43年増補版,279頁,280頁。
ここまでの記述を本ブログ筆者なりに統合したつもりで,つぎの関連表に以上の記述を整理してみた。
4) 社会科学的な実験:満州国の歴史的な位置づけ
山本はこういった。
「従来,社会科学,文化科学,精神科学等と呼ばれる学問は殆んど全く実験から無縁なるかの如く考へられて来た。しかし立場を転検して見れば,無縁どころか実験そのものに外ならないことを理解し得ると思はれる。特に満州国に於てはその感が深い」
註記)前掲,山本「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」124頁。
満州国民経済体制下でおこなわれた〈社会科学的な実験〉は,その後どうなったのか。山本は,その経過についてすすんで自己評価をおこない,結果報告も出すべきだったが,満州国産業経済における「経営は高く政治目的を掲げ徒らに大言壮語し」たと,まるで「他人事」であったかのように,それもお茶を濁すかのように回顧するだけであった。
山本学説が仮に,ドラッカー経営哲学を超え,バーナード組織理論も包含できるほど卓越した構想を示しうる,りっぱな経営理論の体系構築を成就しえていたとするならば〔つまり,理論知や分析論理の一定の意義を肯定し,それを超える知識や論理があるならば!〕,
かの満州国企業経営論の「実践的現実を理論化した道」=公社企業論の〈社会科学的な実験〉を,本質論的に回顧する作業などお手のものであったはずである。
「山本経営学」の核心を構成した理論部分は,建国大学:満州国民経済のまっただなかに位置し,旧日帝の価値観を絶対的に正当とみなす見解として創説された。この事情を無視する山本学説の理解は,隅の首石を欠く建築物のごときである。
5)戦前・戦時体制というもの
ところで,戦前・戦時の植民地・占領地体制はこれを城郭に譬え,日本〔内地〕からの距離を階層序列をもって説明できる。
補注)以下は,大石嘉一郎編『日本帝国主義史3 第2次大戦期』東京大学出版会,1994年,〔金子文夫稿〕第10章「植民地・占領地支配」参照。
a)「朝鮮・台湾」など ……植民地として日本経済に深く組みこまれた地域。
b)「満 州」 ……準植民地〔傀儡国家〕としてブロック経済の柱となって相対的独自性をもった〔もとうとした〕地域。
c)「中国関内」 ……占領地として傀儡政権を樹立し,満州につづく位置にあった地域。
d)「南 方」 ……占領地として基本的に軍政が実施され,「大東亜共栄圏」の周辺部に資源の「補給圏」として位置づけられた地域。
朝鮮・台湾等の植民地は,日本に深く包摂されていたために独自の開発計画をもちえなかった。満州では,体系的開発計画が策定・実施された。中国関内・南方でも一定の開発計画が試みられたが,満州ほどの体系性はみられなかった。
戦時体制期をいくかの時期に細分して,ごく大まかに説明する。もちろん満洲国を意識しての,ごく簡略な背景説明であるが。
結局,経営学者山本安次郎はしごく当然に,満州国という価値前提=「〈傀儡国家〉の立場」に立っていた。山本はこう考えた。この点は敗戦後になっても変わるところがなかった彼の本心であった。
「大東亜共栄圏」の建設のために自説の「本格的経営学」を推進させることは,戦時日本にとって不可避の重要な任務である。そして,満州国における偉大な社会科学的な実験に対して,経営学の立場すなわち経営「行為的主体存在論」が歴史的にかかわれたことは有意義なことだった,と。
経営学を担当する教員として山本安次郎が建国大学に赴任したのは,1940〔昭和15〕年4月である。
山本安次郎は当時,満州国の特質であった「大日本帝国の属国性」,すなわち,その「戦時統制経済的なあり方・方途」を所与の学問前提と受けとめた。そのうえで,同時になおかつ,西田哲学の思考方法を哲学論的な基礎に置く経営学のための発想を試みた。
それは「戦時日本における帝国臣民」としての構想であって,これをより具体的にいえば,「国家に対して忠良,熱誠なる経営学者としての学問営為」を展開するための〈経営行為的主体存在論〉を,社会科学論として実践理論的に構築したのである。
山本安次郎は,その方途が「社会科学としての経営学」の立場ないし思想論として,もっともふさわしい〈統合の論理〉を提供できる構想であるかのようにも豪語していた。
しかも,その自信のほどは,経営学者であった山本安次郎自身が,満州国でなされた偉大な「社会科学的な実験」の一翼に参画できていたからこそ,えられたものだまで観念(=説明)されていた。
しかし,なぜ,偉大だともちあげられた満州国の社会科学的な実験が幻と化し,政治経済的には雲散霧消したのか。野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社,1995年(新版 2002年)は,副題を〈さらば『戦時経済』〉と称していた。
1940年体制に関する問題意識は,山本自身においては希薄であった。つまるところ,「〈満州国〉1940年体制」にむかって「さらば!」ということばを投じることができなかったのが,経営学としての山本のその後であった。
山本安次郎流の歴史観は,この国のなかにあの敗戦の史実があったにしても,自身の学問が連続してきた舞台の上では,ノッペラボウの「経営学史〈観〉」しか形成されえなかった。いわば「自分史」としてであっても,満洲建国大学の体験が実質では,ほとんど無化(=透明化)されたかとごとき残像になりはてていた。
戦後,山本安次郎は「日本に帰国後」,滋賀大学経済学部から京都大学経済学部などで,経営学総論を講じる人生を経てきた。だが,その後,若手の学究から以上のごときに詳細にわたり問題にされた論点を,つまり,自分への批判の対象として提示されていた批判は,完全にといっていいくらい理解できないまま,自分の学者としての人生を終えていた。
そのあたりの経緯に関してとなると,山本安次郎自身が包していた心境がどのように生成・発酵していったのか,もちろん他者にはうかがいようがない。けれども,そうした種類の〈不詳な事情〉は,学者が営為してきた〈生きざま〉そのものをめぐる問題点として,なおそれを客体化したかたちで究明をくわえる余地がなお残されている。
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【未完】 「本稿:その2」の続編は以下のリンク先である。
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