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皇室・天皇家の「衣装」の古代史と近現代史

 ※-0 前 言

 天皇一族がなにか「伝統行事」を執りおこなうさい,彼ら1人ひとりが着衣する「皇室・天皇家なりに〈衣装〉」が興味深い。それは,古代史から飛び出てきたかのような装いに映ると同時にまた,近現代史における「彼らなりに創作してきた着衣」の表現であった。

 だが「それ」はまた,中国伝来であるが明治謹製の加工もなされていたものゆえ,21世紀になったいまにおける「天皇・天皇制」を考えるさい,その歴史的な本質を探索するためのひとつの素材となりうるはずである。

 去年(2023年)の12月の初旬であったが,近所の医院にインフルエンザの予防注射をしてもらうために出向いたが,そこで最初に書類(事前の問診的な調査票)を記入してくれといわれたとき,日付に2023年と書いたた受けつけのお姉さんが「令和」で書いてくれ,西暦には棒線を引いて消してくれ,そうでないとダメですと,きっぱりいわれたので,

 「はあ? 今年は2023年じゃないんですか?」と問うてみたら,この受けつけの女性,キョトンとした表情でともかく令和で書いてくれの一辺倒。ところで,大手紙が「新聞」発行日の表記をどう書いているか,このお姉さんはしらないのかと考えてもみた。

 だが,その種の〈固定概念〉に沈潜している人にはなにをいってもムダそうなので,それ以上は突っこみを入れず,ともかく2023年ということで出した。気に入らないのであれば,自分たちで勝手に令和にしておいたらヨロシイのよ,という印象であった。

 さて,本日の記述は,時代が大きく「平成から令和に移った(「変わった?」といって,皇室神道・宮中三殿における皇室内の宗教儀式を華やかに伝えた2019年5月になってからのマスコミ・メディアの報道ぶりをめぐり,関連する天皇・天皇制の諸問題を検討してみたい。

 付記)冒頭の画像は文中で後段に出てくる画像資料から借りた。なおこの記述は2019年5月9日を初掲としていたが,本日の改訂・補述もくわえられている。

 

 ※-1 天皇・天皇制を再考してみたい「2019年段階の話題」はどのように報じられていたか?

 1)「〈ニュースQ3〉平安絵巻? 両陛下の衣装の由来は」『朝日新聞』2019年5月9日朝刊25面「社会」

冬はよいが夏はしんどい衣装
冷暖房完備の建物専用

 a) 明治維新政府は古代史的な扮装をまとって出場-そのゾンビ的な発現形態で近代史に臨んだ-

 参照しているこの解説記事は見出しのなかには,なぜか「?」が入っていた。「古式ゆかしき」皇室内の諸伝統のなかでも,視覚面に強く印象を与えうる衣装の問題である。しかし,ともかくこのように「?」(疑問符)付きで語らねばならないひとつの対象でもあった。

 「いにしえ(古)」の由来にまでさかのぼれると,決まり文句をもって語られる天皇家の諸伝統のことゆえ,なんでもかんでもその大昔に源泉を有するのがその諸伝統かと思ったらいけない,実はそう信じたら大間違いになる実体がいくらであった。それでは,天皇・天皇制の問題を,ありのままの現実・様相としてその本質をより正確に理解することはできない。

 伝統とはいっても「いつかの,あるとき」に,しかもそれがいつごろの昔にまでさかぼれるかはさておいて(不詳なことが多い),その伝統のひとつひとつは,間違いなくきっと「特定の時期」に「一定の事情」があって,そのもとで「創られてきた」。そう理解しておくのが,ひとまずもっともまともであり,妥当性ある「抽象的な解釈にもなる」はずである。

 天皇家ははたして「創業はいつごろであったのか」? 明治維新になると「神武創業」なる用語が創られていた。

 辻田真佐憲「『神武天皇』は『明治維新』で新政府にとって都合が良かった…新政府が利用した『巧妙なロジック』」『現代ビジネス』2023年5月18日,https://gendai.media/articles/-/110030(?page=2) が,

 この「『神武創業』という巧妙なロジック」という題目のもと,明治維新のまさにカラクリ的な「その維新ぶり」をつぎのように説明していると,この『現代ビジネス』の記事が関説していた。  

 これがけっこう面白い内容なので,その「page2」の全文を引用しておきたい。〔 〕内の補足は引用者。本文中で強調した文字は太字にした。

       ◆「神武創業」という巧妙なロジック ◆

 新政府の発足宣言でも,さっそく「神武創業」の文字が使われていた。1867(慶応3)年12月,最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還ののちに出された,「王政復古の大号令」である。

 つぎにその一部を引用する。原文はむずかしいので,「神武創業」の文字を確認するだけでもかまわない。

 諸事,神武創業の始にもとづき,搢紳(しんしん)・武弁・堂上・地下(じげ)の別なく,至当の公議を竭(つく)し,天下と休戚(きゅうせき)を同じく遊さるべき叡念につき,おのおの勉励,旧来驕惰(きょうだ)の汚習を洗ひ,尽忠報国の誠をもつて奉公いたすべく候事。

 明治天皇は,神武天皇の時代にもとづいて,出自や階級に関係なく,適切な議論を尽くして国民と苦楽をともにするお覚悟なので,みなもこれまでの悪習と決別して,天皇と国家のため努めなさい。大略そう述べられている。

 神武創業の文字は,国学者・玉松操(たままつみさお)の意見で入れられた。彼は,公家から新政府の最高指導者のひとりとなった,岩倉具視の知恵袋だった。原案では「総ての事中古以前に遡回し」だったから,これでグッと印象が変わってくる。たかがスローガン,されどスローガンだ。

 とはいえ,武家政権の中世をキャンセルして,天皇中心の古代に戻るというだけならば,べつに天智天皇や桓武天皇をモデルとしてもよかったのではないか。そう思った読者はとても鋭い。まったくそのとおりで,ここにトリックが隠されている。

 神武天皇の時代はあまりに古く,政治体制についての記録がほとんど残っていない。本当に出自や階級に関係なく議論していたかといえば,はなはだ疑わしい。

 しかしだからこそ,都合がよかった。ほとんど白紙状態ゆえに,新政府は「これが神武創業だ!」といいながら,事実上,好き勝手に政治をおこなえるからだ。つまり「神武創業」は,「西洋化」でも「藩閥政治」でもなんでも代入できる魔法のことばだったのである。

 現在でも,「これが本来の日本の姿だ!」といいながら,単に自分の思い描いた勝手な国家像を押しつけてくるものがいる。たとえば,夫婦同姓。日本の伝統などといわれるが,実際は明治以降に一般化した〔政府がそのように指導してきた〕ものにすぎない。

 われわれは右派・左派問わず,このような原点回帰というロジックにとても弱い。「神社の参道真ん中を歩くのは伝統に反する!」といわれるとハッとしてしまうし,「これがマルクスがいいたかったほんとうの共産主義だ!」と喧伝されると巻単位に転んでしまう。

 「本来の姿に帰れ」というかけ声には,なにかやましいものが紛れこんでいないか,つねに警戒心をもたなければいけない。

 〔最後は辻田真佐憲の最近作の宣伝になっているが,ついでにこう書いている⇒〕「本記事の抜粋元『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』ではさらに,明治維新から大東亜戦争まで,日本の神話がどのように利用されてきたのかを解説しながら,それに関連するエピソードを紹介している。

辻田真佐憲が説明する明治維新のカラクリ

 b) ところが,明治以来においては,それもごくかすかな古代史に対する記憶(古い文献・史料も含めてのその対象)を必死に思い出し,探し出したつもりになって,新しく「天皇制を創ってきた」。

 そのなかでも,天皇家(明治政府)が東京に引っ越して来てから,皇居(宮城)のなかに造営した宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の「新しい舞台」で,天皇が中心になって演じてきた,まさしく「明治謹製」の皇室神道になる新しい儀式の遂行にさいしては,そのとき身にまとう衣装についてもあれこれと,明治以来の創造性が大いに,つまり独創的,画期的に(!)発揮・加味されてきた。

 しかしながら,その「新たに加味された形式と中身」に関して宮内庁側は,けっして本気でつまびらかに公表してきたとはいえない。もちろん,専門の研究者が皇室・天皇家における衣装(儀式用)については研究を重ねており,だいぶその史実も解明されてはいるものの,皇室側としてはともかくかつなるべく,その衣服の面でも「いにしえ(古式)性」を格別に強調したいがゆえか,説明をしてくれるにしても「近・現代的な視点」にかたよった解釈でしか「応ええていない」。換言すると,まともに答えてはいない。

 明治以降の関連しかとりあげていないが,青木淳子『近代皇族妃のファッション』中央公論新社,2017年2月は,特定の皇族女性に関してだが,洋装の問題を考察している。本書の「内容説明」は,宣伝・広告用であるが,こうなされている。

 日本人の洋装化,生活文化の近代化をリードした皇族妃たち。現在,海外から国賓を迎えて催される宮中晩餐会で,皇族女性たちの正装は西洋のドレス姿である。

 日本には「きもの」という伝統的衣装があるにもかかわらず,国を代表するこの場面において,なぜ洋装なのか。

 本書は,「アール・ヌーヴォーのファッションを伝えた」梨本宮伊都子妃,「アール・デコのファッションを伝えた」朝香宮允子妃の例を詳細に検討することで,その問いに答える。

青木淳子『近代皇族妃のファッション』
 

 そもそも明治以降,日本でも喪服の色を欧米に真似て「黒色」にしたのは,けっして日本の伝統でもなんでもなかった。ただ「文明開化」の証しのひとつして「欧米に追いつき追いこさねばならない」国是の関係上,さらには「富国強兵」「殖産興業」路線を邁進しなければならなかった旧日本帝国にとってみれば,ある種の「急性の西洋かぶれ現象」の一例だったといえなくはない。

 もっとも,現在的にいえば,そのように評価するのはいいすぎだと感じる人もいるかもしれない。しかし,近くの国々ではまだ喪服に関しては日本よりもずっと古い,その「いにしえ性(古式・伝統)」を守っているところがある。

 ただ,日本の場合は本当はかなり新しい形式に変えてきた伝統であっても,これがとても古い(大昔の「いにしえ」からの)ものだと自称しており,いささかならず眉ツバ的に「古代史的な古式ゆかしき『性』」が演出されてきた。

 本当のところでいえば,実質的には,そのほとんどが明治以来にしつらえられた「その伝統性」であったけれども,皇室・天皇家の諸伝統をあらためて権威づける(意図して箔づけする)ために,人為的=政治的に構築されてきた。

 天皇の代替わりにさいして変更された元号の「令和」もそうであって,実は,もとをたどれば中国の漢詩に語源があっても,日本の万葉集から摂ったものだと,それも盛んに「国民たちに教えこもうと洗脳するマスコミの報道」が,いまもなおつづけてなされている。

 こうなると,元号でさえ,もとは中国由来そのものであった史実すらも,明治維新的に換言させられて,もとから「日本固有の時間支配の観念」だと誤解されかねない。というか,そのように日本独自の創造物だとまで,すなわちウソ的に喧伝しかねない。

 1890〔明治23〕年に大日本帝国憲法が公布されていた。この憲法の本文の前に提示されていた告文(前文)などに表現されている「大日本帝国:天皇制度」の神秘性・宗教性は,近代史のなかで出立したはずの明治政府の時代錯誤「性」を,その根幹においてからもののみごとに,つまり集約的に表現していた。

 以上に若干触れた「日本の伝統文化」に関する純粋・固有説の立場は,この明治謹製の天皇・天皇制の価値を高揚させるために,必要不可欠とされた具体的な表象である。


 ※-2 青木淳子『近代皇族妃のファッション』中央公論新社,2017年2月,本文の解説

 天皇,皇后両陛下が平安朝以来の古式装束をまとい,初めての宮中祭祀(さいし)に臨んだ。なかでも皇后雅子さまの衣装は10キロを超えるといわれる。装束はどんな由来をもつのか。

 補注)ここでの記事には「衣装は10キロを超えるといわれる」と書かれているが,その重さが具体的に計量されたことはないのか,などと考えてみたくもなる。

 別にその正確な重量を公表したところでなにも支障はないはずだから,これもまた皇室ネタとして宮内庁あたりが公表してもいいなどと勝手にに想像してみるが,庶民のほうでも大いに興味ありといえそうである。

 宮内庁はことが皇室・天皇家の関連情報になると,国民たちに対していろいろあれこれと,それも一方的に教えたがる。この衣装の重さなどは,国民向けに公表するには格好の対象たりうるはずである。だが,その重さは実際に量ったことなど多分ないものと思っておく。

 とはいっても,しょせんはおもしろ半分に興味の対象である。ともかくミーハー的にであっても,その点に関心を向けたところで,なにもおかしいことはない。むしろ,取材する記者のほうが調べて教えてほしかった,われわれ側の興味対象であるといえなくもない。

 1) 文様は王者の象徴

 天皇陛下は〔2019年5月〕8日午前,皇居の森の奥深くにある「宮中三殿」をまわり拝礼した。しばらくして皇后さまも続いた。宮内庁によると,両陛下の装束は今回の代替わりのために新調した。

 天皇陛下の束帯は,「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と呼ばれ,ウルシ科のハゼノキから採れた染料などで染めたもので,淡く赤みがかった茶色が特徴。

 平安時代以降,天皇が着用する色とされているという。浮き上がる文様は,鳳凰(ほうおう),桐(きり),竹,麒麟(きりん)がモチーフで,王者を象徴するものだという。

 有職(ゆうそく)文化研究所を主宰する仙石宗久氏(73歳,当時)によると,天皇陛下の「黄櫨染御袍」が即位儀式に用いられるようになったのは明治天皇から。それ以前は長い間,中国風の装束が用いられていたという。

明治維新以降に「これに決めたという装束」の実例

 陛下が手にした細長い薄板は「笏(しゃく)」。もともとは複雑な作法を忘れないように記した紙を貼る板だったともいわれている。これらの装束一式は,今秋,国内外の賓客を招いて国事行為としておこなわれる「即位礼正殿の儀」でも身につける。

 補注)この「文様は王者の象徴」は,古くも遠くは西アジア・ペルシャからシルクロードを経て中国に伝わり日本にも来たものであった。だから,この記事では故意になのか,「明治天皇からは……」というふうに,「明治謹製」的である点に意識して,あるいはそこで切り離しておきたいなにかがあったかのような口調で,触れていた。

 いずれにせよ,その「王者のしるし」をあしらった衣装の起源は,一番近い中国に倣うことによって創られていた。もっとも,民主主義の日本国憲法内における天皇が「皇室神道」内の宗教行事でまとう衣装についての話題であった。それゆえ,かなり奇妙な方向にこの話題がズレこむ雰囲気がないとはいえない。

 2) 上皇后さまを踏襲

 一方,皇后さまの装束には色や文様の厳格な取り決めはない。この日は五衣(いつつぎぬ)の上に小袿(こうちぎ)を羽織り,長袴(ながばかま)をはいた装いだ。小袿は落ち着いた緑色の「萌葱(もえぎ)色」で,亀甲の地紋が浮き出た生地に,鶴と松の白い丸紋がちりばめられている。

 補注)皇后になるとき雅子が着けた衣装は冒頭にその画像が出ていたが,ここであらためて衣装そのものだけの写真をかかげておく。

確かに重たそうにみえる

 宮内庁の担当者によると,即位礼正殿の儀の衣装は,小袿ではなく唐衣(からぎぬ)と裳(も)を着け,さらに格が高いものになる。京都風俗博物館によると,一般的にこうした装束の重さは15キロ前後にもなる。

 補注)こちら皇后の衣装になると,これはまったくにおいて,現在にあって決めているらしい「古代史風のまといもの」だ,という解釈が可能である。ただし,なぜか「皇后さまの装束には色や文様の厳格な取り決めはない」についての突っこんだ説明はない。

 なぜ,ないのか? きっとこの疑問に答えられる「女王の象徴」となるべき「衣装に関する歴史や伝統」は,宮内庁:皇室のなかでも確かなものはもちあわせていない。そしてまた,そうであっても,追々「新しい伝統として取り決めていけばいいものだ」といえなくもない。ひとまずそう説明しておき,あとは,なんとはなしに逃げている?

 いいかえれば,明治以来やってきたように,令和のこのさいもそれ以降に倣っていけばよく,それなりに「21世紀風に古代史的な皇室神道」の「現代的(モダーン)な宗教儀式」が執りおこなわれうる,ということにあいなっていた。

〔記事に戻る→〕 側近によると,皇后さまの装束や色は,皇后さまと宮内庁で決めたという。平成の同じ儀式では,当時の皇后美智子さまが「三重襷(みえだすき)」と呼ばれる地紋に鶴の文様があしらわれた小袿をまとった。仙石氏は「雅子さまは美智子さまの装束をほぼ踏襲したといえるのでは。いずれも縁起の良い柄だ」

 補注)ここまで話を聞くと,これはほとんど天皇家内の私的行事としておこなえばよいのであり,ここまで話が進むとなれば,皇室行事の「古式ゆかしきはずの儀式」の「現在的な意味」がだんだんと,ますますアイマイ化してくる。

 「大垂髪(おすべらかし)」と呼ばれる独特の髪形は江戸時代末期からのものだ。左右の側頭部のびんを大きく膨らませているのが特徴で,民間の女性の髪形にヒントをえたという。仙石氏は「装いに古い部分と新しい部分が入り交じるのは時代に合わせ少しずつ変化してきたから。長い歴史の表われです」と話す。

 補注)この段落の話「古い部分〔衣装のこと〕」に「新しい部分〔髪形のこと〕が入り交じる」点は,なにも髪形や衣装だけの問題ではなかった。天皇・天皇制の場合は,この存在じたい「全体」が「明治謹製」であったと形容しうるほどに,実は明治維新前後から創造されてきた制度や儀式が多い。

 ここでは参考につぎの画像を資料としてかかげておきたい。

前向き
後ろ向き

 3)少ない和装の行事

 皇室の歴史に詳しい所 功・京都産業大名誉教授は「実は,近代の皇室行事に和装を残すのは必らずしも簡単ではなかった」という。

 宮中では,明治時代に洋装が採り入れられた。歌会始や宮中晩餐(ばんさん)会など多くの皇室行事は洋装。

 即位関連の儀式でも,〔2019年5月〕1日に国事行為として宮殿でおこなわれた「即位後朝見の儀」などでは天皇陛下をはじめ男性は燕尾(えんび)服。皇后さまら女性皇族はローブ・デコルテと呼ばれるロングドレスだ。

 日々の宮中祭祀以外で古式装束が用いられているのは,即位を内外に示す即位礼正殿の儀などごく一部だ。

 所氏は「明治以来,各国王室の例も参考にされ,即位など重要な行事に伝統衣装を用いてきた。染色や織物の技術など伝統的な文化が伝わっている背景には皇室が装束を守っていることも大きい」と述べた。(所 功・引用終わり)

 この所 功の評言はだいぶズレた指摘をおこなっていた。つまり,明治以来において日本の「染色や織物の技術など伝統的な文化が伝わっている背景」には,「皇室の装束」を準備・提供する必要性があったからだといっている。

 肝心の話題(「歴史の問題側面」⇒そうした装束が登場したというれ「歴史の事実」)に対しては,なにも触れるところがない。なんでもかんでも皇室に「話をもっていき,日本史(?)のすべてがここに淵源する」かのような口ぶりになっていた。

 本ブログ筆者が以前から疑問を抱いていたのが,なぜ,明治維新以後の皇室・天皇家は「衣・食・住」の生活全般のなかに,米欧の様式を実質的に採りいれてきたのかという点であった。

 なかでも,日本古来の伝統だとか格式だとか強調したかったのであれば,室内の家具調度は机や椅子は使わず座卓や畳みで暮らし,衣装は洋装にせず和装で過ごし,スプーンやフォークを使わず箸で食事を摂り……などなど,と,関連するそれも素朴な疑念がいくつも湧いてきた。

 いうまでもないが,標語的にいえば「富国強兵・殖産興業」などがあった。日本は,19世紀後半までにはその圧力がより高じていた米欧帝国主義諸国の日本に対する国際政治路線に真っ向から対抗せざるをえなくなった関係上,アメリカやヨーロッパの真似をとりあえず虚飾的な態勢以上に,その実質を備えた国家体制としてととのえばならなくなっていた。

 そのために採った国家の方途が,鹿鳴館時代と称せられた文化的な状況も伴いながらの,とりわけ欧米に「追いつけ追いこせ」という近代化・産業化路線であった。そのなかで観れば,とりあえず人間の生活の基本条件である「衣・食・住」のうちでも一番簡単に変えやすいものが「衣服(衣装)」かもしれない。

 補注) 関連しては,『近代皇族妃のファッション』中央公論新社,2017年という本は,こう解説されていた。

現代,海外からの国賓を迎えての宮中晩餐会での皇族女性たちの正装は,西洋のドレス姿である。日本には「きもの」という伝統的な衣装があるのに,国を代表するこの場面においてなぜ洋装なのだろうと思う人も多いだろう。その問いに答えるのが本書である。

 列強諸国に伍するべく近代化を急ぐ日本は,服装の近代化も急務だった。そこで大きな役割を演じたのが,皇族妃たちだったのである。海外製品に早くから触れ,時には海外に滞在して,西洋の着こなし,立ち居ふるまいを身に付けた彼女たちは,当時のファッション・リーダーでもあった。

鹿鳴館時代の女性ファッションの意味

 もしかすると,もっとずーと古い時代の生活に関することがらだから,とうてい考証など不可能な事情に関して,本ブログ筆者は発言しているのかもしれない。だが,それでも現実には,ともかくも「日本の伝統,古式ゆかしき,なんとか……」を守ってウンヌンという割りには,皇室行事の全体が「衣・食・住」のすべてにわたって,ほとんどが洋式である。

 ただ,宮中三殿における祭祀だけは,どうやら古式らしき衣装をまとってやっている。それにしても,なにか変な感じだという印象を避けえない。
時代の進行とともに一番変わりやすいともいえる衣装の点であった。

 しかも,それを古式ゆかしきという具合に,それも今日的(つまり明治時代的にという意味で21世紀)になってもいる時期において,大昔風のそれにこだわるとなっていたのだから,そこらあたりにはきっと,なにかの重大で有意義な含意がもたされるべき縁起が条件づけられていた,というふうに解釈することも可能である。

 補注)男性歌手の千 昌夫は,白人金髪女性(もちろん美人)が大好きであった。だから,持ち歌のなかにはこういう歌詞のものがあった。皇室問題に対してなにか示唆できる内容もあると思い,ここに引いてみた。ただし,歌詞ではなくその前のセリフのみ紹介する。

             ★ 味噌汁の詩 ★    
       = 千 昌夫・歌,中山大三郎・作詞 / 作曲 =

 (セリフ) しばれるねぇ 冬は寒いから味噌汁がうまいんだよね うまい味噌汁 あったかい味噌汁 これがおふくろの味なんだねえ あの人 この人 大 臣だってみんないるのさ おふくろが いつか大人になった時 なぜかえらそな顔するが あつい味噌汁 飲む度に 思い出すのさ おふくろを わすれちゃならねえ 男意気

 (セリフ) へぇーそうか おまえさんも東北の生まれか 気持ちはわかるが あせらねえ方がいいな やめろ!  あんなあまったるいもの好きな女なんか 何がポタージュだい 味噌汁の好きな女じゃなくちゃ !!  寝るのはふとん 下着はふんどし ごはんのことを ライスだなんて言うんじゃないよ。 田園調布? 家を建てるんなら岩手県 それも陸前高田がいいね

 金髪?

 き・・・ 金髪だけはいいんじゃないべかねえ それにしても近頃の人は 何か忘れてるね これでも日本人なんだべかねぇ 日本人なら忘れちゃこまる 生まれ故郷と味噌汁を 何だかんだと世の中は 腹が立つやら 泣けるやら どこへいたか親孝行 まるで人情 紙風船 忘れちゃならねぇ 男意気

(セリフ) ふるさと出てから16年 いつもおふくろさんの ふところ夢見ておりました 思い出すたびに 子の胸がキューッと痛くなるんです 思わず涙が出てくるんだなあ それにしても今夜はしばれるねぇ このぶんだと雪になるんでねえべか おふくろさんの味噌汁が食いたいなあ・・・ かあちゃーん !!
 註記)「味噌汁の詩」『Uta-Net』https://www.uta-net.com/song/4337/ 

千昌夫・味噌汁の詩・前口上

 明治の鹿鳴館時代に関しては,それも米欧から来た人びとのなかでも衣装にくわしい者が,日本の婦人がまとうドレスについて違和感を述べていた場合もあった。要は,西欧のその流行ファッションからみるとずいぶんズレているほかない「女性たちの衣装」もあったという事情らしい。

 ところで,千 昌夫はふだんから褌をしていたか?(ウソだろう……) 女房をとりかえる作業よりも,フンドシをとりかえるほうが,比較になどならないほど,はるかに簡単なことであったはずだが……。

 

 ※-3「古式ゆかしく 勅使発遣の儀」『朝日新聞』2019年5月9日朝刊27面「社会」から

勅使発遣の儀

 天皇即位に伴い,秋に行われる「即位の礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」の期日を,伊勢神宮などに報告するための使いを派遣する「勅使(ちょくし)発遣の儀」が〔2019年5月〕8日,皇居・宮殿「竹の間」でおこなわれ,天皇陛下が古式装束姿で臨んだ。これに先立ち,宮中三殿では即位後初めての宮中祭祀(さいし)があり,陛下と皇后さまが殿上で拝礼した。

 「勅使発遣の儀」では,即位礼正殿の儀が10月22日に,大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀が11月14,15日にそれぞれおこなわれることを,伊勢神宮のほか,神武,孝明,明治,大正,昭和の各天皇陵に報告するため,天皇陛下の使い「勅使」を派遣する儀式。陛下は御引直衣(おひきのうし)と呼ばれる装束姿で,山本信一郎宮内庁長官を介し勅使に「御祭文(ごさいもん)」を授けた。

 午前には,陛下が即位礼正殿の儀と大嘗宮の儀の期日を宮中三殿に報告する宮中祭祀「期日奉告の儀」が行われた。皇后さまが賢所(かしこどころ),皇霊殿,神殿の三つで拝礼する祭祀に臨んだのは,療養に入る前の2002年12月以来。(引用終わり)

 伊勢神宮が一挙に天皇家とのつながりを,しかも特別に深めるようになったのも,明治以来である。それまで,天皇たちが伊勢神宮に参拝したことはほとんどなかった。

 明治維新以降,国策としてだったが,一方で伊勢神宮は天皇家を神道精神をもって権威づけるために利用され,他方で逆に伊勢神宮は皇室によって政治宗教的な威信を付与されていった。

 いいかえれば,双方の相乗効果が期待されるなかで「国家神道の大本としての伊勢神宮」も,また「政治の核心に置かれた皇室神道」も,神道宗教的な威厳を高めあい,いわば共存的に高める効果を大いに生んできた。

 21世紀の問題として現在的に観るとしたら,日本国憲法のなかでの「政教分離の原則」の貫徹にはどだい無理であった。それを可能にしようにも結局は,以上に記述した諸事が「錯綜的に入りくんだ関係」として,その原則などいとも簡単に破砕してきた。

 そしてまた,これからもほぐしえないこの「国民主権と象徴天皇」の根本矛盾は,「天皇・天皇制」×「皇室とこの神道」をもって,象徴的にという意味でも明白に露呈しつづけていく。

 

 ※-4 天皇・天皇制のなにが問題なのか

 最近作の大塚英志『感情天皇論』筑摩書房,2019年4月が,皇室・天皇家の日本的な「バチカン市国」化を提唱している。この提唱はほかの表現に意訳すると「天皇はん,京都へお戻りやす……」といった “京都人の発想” に通じる。

 「明治 ⇒ 大正 ⇒ 和戦前(→敗戦) ⇒ 昭和戦後 ⇒ 平成 ⇒ 令和」という具合に進んできた,明治「維新」以後の「古代史的な日本の再生・復活後における天皇・天皇制」の歴史は,

 皇室神道における儀式に使用されている衣装だどうだこうだといった話題をはるかに超えて,「今日における日本の民主主義」をもっとまともに再考する必要性を示教している。

 大塚『感情天皇論』に対するアマゾンの書評(ブックレビュー)は,本日〔2019年5月8日当時〕の時点で2点投稿されていたが(本日,2024年1月26日だと9点に増えていた),いずれも長文の感想文である。そのうち1点の投稿者は「再投稿したレビュー」の末尾で,怒ってだが,つぎのように述べていた。

【補 記】(2019年4月28日)  本稿は,2019年4月25日に投稿され,翌26日に反映されたものであるが,本日2019年4月28日に削除されたので,再度アップした。匿名者の誣告による,自動削除と思われる。

 本稿に,なにか間違ったところがあるというのであれば,ぜひ正々堂々と,当レビューのコメント欄で反論して欲しい。あるいは,そのご意見をレビューとしてアップし,私を名指しにして反論してもらいたい。

「再投稿したレビュー」


 日本の社会のなかでは天皇・天皇制の問題になると,まだまだこのように〔多分〕陰湿な反応が無名(匿名)のもとに横行しがちである。

 大塚英志の『感情天皇論』は最終・末尾の部分になってなのだが,もう1点のアマゾン・ブックレビューの表現(「天皇制廃止論ではない」2019年4月22日投稿)を借りるとすれば,以下のごとき事情のなかで,皇室・天皇家の「バチカン市国」化を,それもかなり唐突気味に,かつまた婉曲に述べていたことになる 

 読了後真っ先に思ったのは,なぜ題名が「感情天皇論」なのかということだ。確かに読めば分る話だが,それはあくまで主題に届くまでの過程・経緯だ。

 けっして『天皇制廃止論』ではない大塚の自説,主題そのものである,『天皇制断念論』,あるいは『天皇開放論』のようなタイトルを据えればいいではないか。

 理由は分る。大多数の国民が象徴天皇を支持する平成末期の今,上記のタイトルを据えることは難しいからだ。大方筑摩書房にも自主規制されて無難なタイトルになったのだろう。

あるブックレビュー

 本ブログ筆者の場合,大塚英志『感情天皇論』を読みながら途中で奇妙に感じて読んでいたところ,結論部になるや急に搬入されたかのようにも感じた「天皇制」「廃止・断念・解放論」については,日本の社会全体のなかでは不可避に「天皇論」にまつわりついていて,なかなかはがしきれていない「特定で特殊な感情論」を排除できない困難(問題性)も感じた。

 本来,「天皇論は日本人論でもある部分」をもつ。だが「戦後レジームからの脱却」でもって,いまの天皇・天皇制が創出された明治の時代に戻りたいと切望する政治家が,現にこの国の首相を務めている(故・安倍晋三のことであったが)。

 まさにトンデモ国家体制を夢想していたに過ぎないけれども,それでも「対米従属国家体制としての日本」だけは健在であり,晋三がいなくなってからも「その服属関係」は深まれこそ,解消していきどうな気配は,いまのところ皆無。

 ある意味,それでこそまたよく実在しうるのが天皇家であったのだから,これは日本・日本人・日本民族にとってみれば,より覚醒された政治意識をもって再吟味が必要な論点であったはずである。

 平成天皇が日米安保関連法体制に反対するそぶりは,みじんもみせなかった。それは,父ゆずりであった「皇室戦略(よりよき生き残り戦術)」であり,いわば天皇家にとっての「基本方策」であった。その子:徳仁天皇もまた大差ない生き方をしていくほかあるまい。

 大塚英志『感情天皇論』は,実は「論理天皇論」であったが,あえて反語的にその書名を選んでいたと受けとめてよい。

 いまだに対米従属国家体制を半強制されている日本にあって,敗戦後的な政治社会を創るのに貢献した人間としては,令和天皇の祖父が確実に介在していた歴史の事実が,まず先行してあったとなれば,なんとも名状しがたい「21世紀的な天皇制国家である日本が存在している」といえなくもない。

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