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高御座と御帳台,明治謹製だった日本皇室の大道具「一例」

徳仁天皇即位宣言,2019年10月22日『下野新聞』

 本日のこの記述の話題は,天皇家・皇室一族の歴史問題である。令和(の)天皇になった徳仁が,即位礼正殿の儀で上った高御座(高御座)から「日本の国民たち」に向かい発声していた。その天皇としての行為は,日本国憲法の本義に照らしてみるとき,どのような政治的な意味あいがありえたのか検討してみるのも一興である。
 

 ※-1『明治謹製』であるが,より正確には大正初期に新造された「天皇家の高御座」が近現代史においてもちえた意味

a) 高御座となんぞやという問題

【断わり】 この a) で高御座の話題をとりあげているが,b) からは天皇陵の話題にしばらく触れている。そのあと,※-2に進んでからが高御座じたい関する検討をおこなうことになる。

【断わり】

 2019年10月22日,天皇が即位を宣言する「即位礼正殿(せいでん)の儀」が皇居・宮殿の正殿・松の間でおこなわれ,天皇は天皇の代替わりを象徴する調度品「高御座(たかみくら)に立ち,「国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と誓った。

 この天皇代替わりの行事に関して,「前例踏襲でも違和感 安倍首相の『天皇陛下万歳』」『日刊ゲンダイ』2019年10月23日,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/263635〔~〕『日刊ゲンダイ』は,つぎのように報じていた。

 政権内で検討らしきものはほとんどされずに,疑義が残る旧憲法下の大正,昭和の前例をかなり忠実に踏襲して,逆に,神々しい登場を演出する「宸儀初見」を復活させた。

 それでもNHKがその議論に触れたのは即位礼正殿の儀の終了後,ホンの申しわけ程度の数分間に過ぎない。これでは三権分立の原則に反し,合理性も説得力もない「恩赦」に54%(朝日新聞調査)も反対する世論のほうが,よっぽどマトモに思えてくる。

 法大名誉教授の五十嵐仁氏(政治学)は,こういった。

 「戦前の国家神道に皇室祭祀が利用された歴史を考えると,その連続性を断ち切る儀式にすべきでした。天皇の『高御座』と皇后の『御帳台』は高さも広さも異なるなど,男女同権にも反します」(なお,『日刊ゲンダイ』からの引用は,ひとまずここまでとし,残りの段落は後段で紹介する)

 補注)世界経済フォーラムが発表した2022年のジェンダー・ギャップ指数の日本の総合順位は,146か国中116位(前回は156か国中120位)であった。前年と比べほぼ横ばいの順位とかで,あいも変わらず後進国的な順位しか出せないでいる。

 補注)ところで,「めおと茶碗」を想起させるかような要領で製作されたこの『高御座』と『御帳台』にかかわっては,つぎの「平成天皇夫婦のためにすでに用意されている墓(陵)の概略図」を紹介しておく。

 なお以下の記述はしばらく,天皇陵墓の問題にこだわった内容を論及することになる。

 b) この図の意味を説明する余地はあるまい。ということになるが,この陵基の話題,それも21世紀における「古墳規模の天皇夫婦のための墓の建設」に関しては,次段より特別に論及してみたい。

平成天皇夫婦のために用意されている墓・陵
平成天皇夫婦のために用意されている墓・陵

 この平成天皇夫婦のために準備されている墓・陵の概略図を観た人はきっと,古代史における古墳としての天皇陵を,ただちに想起するに違いない。明仁の妻(正田)美智子に関してだが,上記の図解を作成・提供した『週刊朝日』の報道にもとづき,つぎのように伝えていた記事もあった。

 「〈読んだ気になる! 週刊誌元木昌彦〉 平成最後の日々(へいせいさいごのひび)」『Japan Knowledge』2013年12月06日,https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2540 の感想から一部分を,次段に引用する。

「葬儀は火葬に」「墓は小さめに」と天皇皇后両陛下が示したみずからの葬儀に関するお気持ちが話題を呼んでいる。

 『週刊朝日』(〔2013年〕11月29日号,以下『朝日』)によれば,天皇が逝去されたときには,天皇自身が「火葬が望ましい」という意向があると,当時の羽毛田(はけた)信吾宮内庁長官が発言したのは2012年4月26日だった。

 葬儀も,国民の負担にならぬよう,簡素に,質素におこなうようにという天皇の考えが反映された「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」というものが11月14日に宮内庁から発表され,話題を呼んでいる。

 「火葬に」という思いは実現したが,皇后陛下と同じお墓(陵)にという思いは,美智子皇后が「あまりに畏れ多いこと」と固辞したことで叶わなかったという。

 朝日新聞の皇室担当編集委員だった岩井克己氏によると,美智子さまは,「『私などが,めっそうもない。陛下のおそばに小さな祠(ほこら)でも建てていただければ』というお気持ちを示されていたようだ」という。

 そのため,御陵は合葬ではないが,天皇陵と少し小さめの皇后陵を並べて,二つが一体となって一つの陵をなすように設計されるようになったという。そして発表文にはわざわざ「同一敷地内に寄り添うように配置する」と明記されたのだそうだ。

 場所は武蔵陵墓地内の大正天皇陵西側で,総面積3500平方メートル。昭和天皇陵の8割程度になる予定だ。

 以上のように説明された平成天皇夫婦のために用意されている墓・陵に対する平成天皇配偶者の発言を聞いて,国民たちの側からする感想はどのようなものとして応えうるか。

 まず,一般論としていっても,古代史におけるような巨大な墓・陵を建造することじたいに問題がないとはいえまい。

 つぎに,美智子の発言は意図したかたちで,夫明仁の立場から一歩うしろに引いている点にも,問題を感じないわけにはいかない。

 c) 皇室内の価値的な問題秩序に関係がある「彼女の意識」として考えるとき,端的に指摘すれば「男尊女卑」,それも皇族である明仁と一般の民間人であった出自を有する「彼女との間柄」において「その種に類する意識」が,もしも彼女の気持ちなかに本当に,その隅っこにでもまだあるのだとしたら,問題なしとはしえない。

 その指摘は彼女自身が個人的になにか問題があるという性質のものではない。むしろ,日本における天皇・天皇制といった大枠の歴史問題から彼女の「現在の立場」にまで降りそそぎつづけている,皇室内にまつわる「特定の日本特殊的な政治問題」であった。

 1958年6月下旬からの話題であった。正田美智子が明仁の嫁さん候補に上がってきた。この情報に接しえた彼女の両親はとりあえず,自分たちのこの娘をその話題から遠ざけておくために,海外に回避させた一件は有名である。つぎの記事を参照してほしい。

 この記事は『婦人公論.JP』https://fujinkoron.jp/articles/-/5577?page=3 のなかでこう書いていた。これは,正田美智子が自分の手紙のなかで書いていたことばである。

 「私は,自分を不幸にしたり,皇太子さまをも不幸にすることはできません。私の血は庶民の血でございます。(内田源三証言)」

 この発言と,前段で明仁夫婦のために準備されている陵基に関して美智子がいった「『私などが,めっそうもない。陛下のおそばに小さな祠(ほこら)でも建てていただければ』というお気持ちを示されていたようだ」といった内容と,完全に符合している。そう解釈されて当然である。

 ということで,1958年の「正田美智子に対する明仁との縁談話」と「平成天皇夫婦のために準備されている陵基の話題」とのそれぞれに関して「美智子自身が残した発言」との間には,半世紀に近い長い年数が経っていたけれども,その基本の意識にはなにも変わりがなかった,と受けとるしかないのではないか?

 補注)明仁の母,香淳皇后(昭和天皇の妻)は,正田美智子と「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」といいはなち,当時の侍従と数時間懇談し,妃の変更を訴えた。

 また,秩父宮妃勢津子の実母である松平信子は,美智子が2人目の子を流産してしまったさいには,「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと自身から罵詈雑言を浴びせていた。

 この種の話を,正田美智子が皇室に入ってから聞いていないはずはないと思われる。また,美智子ならびに正田家側は,明仁と彼女が結婚する以前の段階で,そうした罵詈雑言が自分に向けて浴びせられる可能性を予見していた。そう解釈しても大きな間違いにはなるまい。

 d) 明治時代が来る寸前までの長い期間,古代史における王たちの墓・陵に似せて,その規模が大きいものが建造されることはなかった。「なかった」どころか,その間における天皇たちの墓は,実に質素でささやかなものであった。いまのわれわれが自分たち(自家)のお墓を造るのとあまりかわりない程度であった。

 だが,古代史の古墳を真似て再び,あの巨大な墓・陵を建造しだしたのは,あくまで明治時代に入ってからであった。

 つぎに借りる画像資料内にも註記の文章を入れておいたが,その画像を借りたブログの記述,「京都市 / 東山区 泉涌寺周辺天皇陵 / 陵墓」『4for travel.jp』 2020.9.27,https:///travelogue/11649071 は,泉涌寺関連の画像を豊富に提供してくれている。

 この画像の下部に付言した説明に留意してほしい。前後する記述に関係する点のみ言及する。本ブログ筆者が,画像の下部に記入した説明に関連しては,この画像の一部を拡大し,独立させるかちで切り取った2つの画像も,つづけてかかげてある。

泉涌寺周辺・天皇陵など
孝明天皇後月輪東山陵-大きさに注目-
孝明天皇後月輪東山陵
-前掲の衛星写真では右側中程に位置する-
英照皇太后後月輪東山陵
-前掲の衛星写真では右上の位置する-


 e)
 さて,ウィキペディアにも泉涌寺に関連しては,つぎの解説が記述されている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/月輪陵・後月輪陵 は,「近世の天皇陵墓制と御寺」という項目を充てて,なぜ,孝明天皇夫婦の代から古代史妄想的な古墳まがいに大きな陵基が建造されたか,その時代と背景にかかわる説明を与えている。なお文中の註記・番号はここでの引用では無用とみなし,外した。

 近世になると本陵墓内には新上東門院(1620年逝去)を始めとして皇族の墓が造営されるようになり,後光明天皇(1654年崩御)に至って四条天皇以来の陵が造営された。

 後光明天皇より仁孝天皇(1846年崩御)までの近世の天皇陵の葬制は,火葬の儀を執りおこないつつ実際に火葬はおこなわず土葬するようになった。また,陵はすべてて本陵墓に造営され,泉涌寺は名実ともに皇室の香華院となって御寺と称されるようになる。

 (中略)

 〔ところが〕孝明天皇が1867年に崩じると,神仏分離の影響から山陵の復活を望む運動が起こる。陵は天智天皇陵の付近に造営する意見もあったが泉涌寺が反対し,本陵墓に近い後月輪東山陵に定まった。

 この混乱で孝明天皇の葬儀は崩御から1か月後となった。葬儀も火葬の儀はおこなわれない完全な土葬となり,近世の天皇陵墓制は終焉した。

泉涌寺周辺天皇陵の解説

 そして「明治謹製」になる新・古墳時代が再興(?)されたことになる。時代錯誤という以外・以前(?)の,「明治維新の政治的な作風」に依拠した「大規模陵基の建造」は,明治天皇以後にも継続されてきた。今日にまでまだ継続しているそれである。
 
 f) 江戸幕末から明治時代に日本の偉大な国家指導者になった伊藤博文の政治思想にかかわっては,ここで,キリスト教徒の意見に聞いてみたい。

 明治国家を形成する責任を担った政治指導者たちは,欧米列強に対して日本が独立した主権国であることを認めてもらおうとし,日本が憲法によって治められている近代法治国家だとアピールすることを急務としていた。

 そこで明治政府は岩倉使節団を欧米諸国に派遣し,欧米各国が国をどのように統合しているのか,その形態を学ばせたのである。

 そのとき岩倉使節団は,政府機関や制度の仕組みだけでなく,欧米各国が国民を統合している大きな要素に気づいた。それは,機関や制度を超えた一つの宗教,一つの信仰,つまりはキリスト教信仰であった。

 岩倉使節団の副使として参加した伊藤博文は,1888年5月,枢密院における憲法案審議の開始にあたって,「憲法制定の大前提は,我が国の機軸を確定することにあり」と指摘している。

 欧米には宗教なるものがあって,これが国家の機軸をなし,深く人の心に浸潤して国民全体を帰一させている。日本にもそのような「機軸が必要だ」という指摘である。そして,日本において「国家の機軸」として機能しうるものはなにかと考えた。

 プロイセンの法学者ルドルフ・フォン・グナイストは「日本は仏教をもって国教となすべき」と進言をしますが,伊藤は「我が国にあって機軸となるべきは独り皇室であるのみ」と決断したのである。

 ここで注目してほしいのは,伊藤博文をはじめとする使節団は,ただ憲法を作り,政治機関や制度を整えるだけでは,欧米のような民衆の内面の求心力はえられないと理解していたことである。国民がひとりの神-キリスト教の神に仕えていることが,社会制度の維持,国民統合の重要な要素となっていると,しっかりと見抜いていたのである。

 しかし悲しいかな,「では私たちもキリスト教信仰を学ぼう」とはなりませんでした。むしろ,「国民を統合するという目的のために,キリスト教に代わる神をつくろう」と考えたのです。

 まさにそれは,本当の神をしらない異教国ならではの発想です。仏教か,いや天皇にしよう……。その結果,行き着いたのが “国家神道”の始まりであった。日本の近代天皇制は,明治政府が国民の統合のために自家製の神をつくろうとした異教の発想ゆえのものなのである。

 註記)「これって何が論点?! 第3回 天皇ってどういう存在なの?」『月刊いのちのことば』2013年11月号,https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/これって何が論点-第3回- 天皇ってどういう存在な

天皇・天皇制を創った伊藤博文

 以上の説明,キリスト教臭の点は我慢して聞くとするが,このなかに書かれているのは,古代史の作法を真似て「大規模な陵基」を復活させ建造しだした明治時代が,近代日本が富国強兵・殖産興業を推進するなかで,同時にまた「古墳もどき,というか,それと瓜ふたつである天皇の墓・陵」を再興しだした「歴史の事実」である。

 敗戦以前の大日本帝国においては,天皇は現御神であり,天照大神の子孫であるという神話が本気で,臣民たちの精神に植えつけてきた。それゆえ,19世紀の後半期,古墳時代の再興ごとき大規模の陵基が,孝明天皇(明治天皇の父)の墓として,古式ゆかしく〈リバイバル〉的に建造されだした。

 21世紀のいまにもなおつづいていくのが,その皇室の「家長夫婦の霊」を納めるための「とても大きな墳墓」の建造である。
 

 ※-2 高御座・御帳台

 (※-1で『日刊ゲンダイ』を引用していたが,ここからその続きの段落をさらに引用する)
 即位儀式の伝統の重さといっても,その大部分は明治以降につくられたもの。高御座と御帳台が新たにつくられたのも,大正天皇の即位のさいです。安倍政権が明治からの伝統と連続性を断ち切らなかったのは意図的なサボタージュ。やはり,明治という『坂の上の雲』の時代への敬慕と回帰の表れでしょう。

 『身の丈に合った儀式』という秋篠宮殿下の意見には耳を貸さず,『令和にふさわしい憲法改正の議論を』などと,都合の良い時だけ天皇制を政治利用。元号が変わることと改憲はなんら無関係なのに,ひたすら天皇の権威付けに励み,聖なる者として国民に植えつける。神格化された天皇の威を借りてみずからの権威付けを図るのが,安倍首相の狙いなのでしょう。その魂胆に公共放送が手を貸すとは,つくづく嘆かわしい実情です」。

 慶事に水を差す気はないが,安倍政権下での「即位の礼」は皇族の意に反し,グロテスクさもまた際立つのである。
 註記)「前例踏襲でも違和感 安倍首相の『天皇陛下万歳』」『日刊ゲンダイ』2019年10月23日,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/263635〔~〕


  ◆ 今回の論題(こちらが本論となり,※-1の議論はその前提)◆

 天皇家の高御座(タカミクラ)とは,古代史を近代史的に再現させたつもりの現代的な伝統(皇統?)であったが,この文化財が政治の前面に出てくる “なぞなぞ” として,議論を進行させていきたい。

  要点:1 「古代史からあったといわれる天皇用の高御座」

  要点:2 「明治帝政時代に製作された皇后用の御帳台」

  要点:3 「高御座と御帳台とは〈絶妙なコラボ〉的施設であり,近代史のなかで創造されてから「敗戦をはさんで」現代に至る天皇・天皇制を象徴している

 1)「高御座,即位控え分解」『朝日新聞』2018年8月21日朝刊30面「社会」
 宮内庁は〔8月〕20日,来〔2019〕年10月22日に執りおこなわれる「即位礼正殿の儀」で新天皇が立つ「高御座(たかみくら)」の分解作業を,京都御所(京都市上京区)で報道向けに公開した。作業は劣化具合や組み立て方法を確認するため。終了後,9月にも東京都内に陸送し,修復作業に入る予定だ。

 高御座は,天皇の代替わりを象徴する調度品で,高さ約6.5メートル,重さ約8トン。屋根上の大鳳凰(ほうおう)を含む飾り金具には腐食,漆塗り部分には色あせがみられ,宮内庁は修繕や移送のため,今年度予算に約5億円を計上した。この日は2度目の分解調査が開始され,委託業者の職人らが朱塗りの欄干や階段を外していた。(引用終わり)

 2) ウィキペディア「高御座」解説
 この説明はきちんとした作法にしたがって書かれた内容になっている。「高御座」の英訳は Jump to navigation,Jump to search である。
 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/高御座

 a) 高御座の画像資料は,ネット上でいくらでも検索できるが,ここではつぎの4点で紹介しておきたい。

『毎日新聞』2019年10月22日
『AFP』2019年10月21日,冒頭の画像に借りたもの
白黒画像の高御座と御帳台

 つぎの画像はパロディとして描かれた高御座「像」である。

画像はパロディ版の高御座

 b) 説 明-ウィキペディア参照-
 高御座(たかみくら)とは,天皇位を象徴する玉座のことである。調度品としては,歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で,いわゆる即位礼において用いられるものであり,皇位と密接に結びついている。京都府京都市の京都御所に常設されている。

 イ)「概要」 平城京では平城宮の大極殿に,平安京では平安宮(大内裏)の大極殿,豊楽殿,のちに内裏の紫宸殿に安置され,即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼のさいに天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。

  (中 略)

 現在の高御座は,大正天皇即位のさいに,古式に則って制作された物であるが,玉座は茵(しとね)から椅子に代わり,新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。現在は京都御所の紫宸殿に常設されており,春・秋の一般公開時にみることができる。

 補注)ここで「例の……」といっているごとき,いいかえれば「古式に則って」という決まり文句が出ている。その古式とはいったい,どのような古式であるのか,いいかえれば,この高御座の一定に決まっている構造様式がどの時代(古代)のそれに拠っているのかと問われると,その「則っているのか」と表わされた点は,必らずしも明解ではなかった。

 結局, “いつものとおり” であって「古式に則って」といっておけば,それだけで,なんとなく周囲が納得するような雰囲気をもちこむことができていた。あえてそれ以上,なにやかや問いつめて尋ねるのは無礼だ(ヤボだ)という感じもあった。

 以上の説明のなかでは,大正時代の到来に備えて「新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された」と断わられていた。だから,高御座に関する話題は,ある意味では完全に “近現代史における創造物であった” という帰結になる。 

 なお,大正天皇の2代前の孝明天皇が使った高御座は,幕末の御所大火(1854年)で焼失していた。現在の高御座は,1915〔大正4〕年におこなわれた大正天皇の即位のさいに作られていた。

 つまり,皇后用の高御座=御帳台は,明治帝政になってから準備(製造)されていた。天皇・天皇制関連のこの種の物的施設は,まさしく近現代史における創建のたまものであった。

 しかもそのおり,古代史を近代の地平から振り返る構図のなかで,それも思い切って創造的に超克しようとする意志が,それらにはこめられていた。

 すなわち,天皇を中心とする半封建制的な近代(?)国家体制を志向した政治理念を展開させていくために,いいかえれば,天皇制を基軸に置いて出立させた明治帝政国家体制の基盤を整備するためになされた,非常に大事な “努力の一環” が記録されている。

 それ(高御座ならびに御帳台)に関しては,伊藤博文がとくに注力したはずの「明治体制の核心」を意味するなにかが,その道具立ての一端としてであっても,確実に反映されていなければならなかった。

 ロ)「構造と外形」(ウィキペディアに戻る ↓ )
 高御座の構造は,三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて,鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。

 椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響,と考える人がいるが,『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条,下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり,椅子ではない。

 伊勢奉幣のさいの子安殿の御座や清涼殿神事のさいの天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので,大極殿の御座もこれに類する。

 補注)天皇・天皇制(?)に相当する日本の政治が明治時代に再出発させられるに当たっては,既述したように伊藤博文が大いに工夫をほどこし,米欧の先進資本主義国に対して「負けない気位を有しうる大日本帝国」の建設に努力したわけである。その関連もあってか,高御座のなかに「椅子」がもちこまれていた。

 明治維新は「脱亜入欧」を標語に叫んでいた時代でもあったゆえ,極力,西欧の風習・習慣も活かそうとした「その実際的な反映」が,高御座のなかで椅子を利用するかたちにも表現されていた。そこには,「古式ゆかしき伝統」もそれなりに,進歩・発展をとげていった様子がみいだせる。

 ハ)「高御座と皇居」
 調度品としての「高御座」の保管場所そのものから,天皇の正式な在所を権威づけるだけの伝統的・文献的根拠は明確ではない。仁藤敦史によれば古代日本では高御座と京職などの存在することが首都の要件であったとする。

 高御座は天皇の所在地を示すものという見方があり,これにしたがえば,古代から大極殿に高御座は常設されていたとなるが,延喜式や中世の史料によれば高御座は組み立て式で,即位や朝賀などの重要な儀式のときだけ使われ,終われば撤去されるものであったとされる。

 補注)かくのごとしであり,われわれに向けて与えられている「高御座」に関した説明はただ,現状においてこの高御座に関して分かりうる知識を,それも取材をもとにまとめ解説していた。だから厳密にいうまでもなく,この程度にしか分かりえないのが,この高御座をめぐる歴史・由来であった。

 それでいて,現在ある,それも大正天皇のために新造していたこの高御座が(しかもいまでは,天皇夫婦用に2座あるわけだから),「古式に則って制作された物である」といった常套句で聞かされたときは,いささかならず眉ツバものだと感じても,けっして無闇に排除できない。

 高御座の成立は大極殿の成立より早いとみられているが,国家的儀式を大内裏大極殿で開催されるようになってからは大極殿で,大極殿の廃絶後は様々な殿舎でおこなわれ,中世では太政官庁,南北朝の代には天皇即位のさいに南朝・北朝ともで設営されていた。

 後柏原天皇(1464-1528年)が紫宸殿で即位式をおこない高御座は紫宸殿に移され,以降高御座は紫宸殿にある。天明の大火(天明8年:1788年)のさいには焼失してしまっている。

 補注)つまりそれから百数十年間は,その焼失した天皇用の高御座はないままの状態が続いてきたことになる。天皇家は,徳川幕府の威勢のもとで小さくなって暮らしていた時代が長く続いていた。

 焼失した高御座の再建は,明治維新後において新しく,それも「近代政治機構のなかに」「古代の天皇・天皇制を擬似的に復活・再生させる」といった,いわばそれじたいからして極度に矛盾した政治的な手法もどきをもってなされていた。

〔記事に戻る→〕 現在も高御座は,京都御所内の紫宸殿に安置されている。近代に入ってからも,明治天皇・大正天皇・昭和天皇の即位の大礼は,高御座のある京都御所でおこなわれた。

 今上天皇(ここでは平成天皇)のさいは,警備上の問題から,東京の皇居で即位の礼がおこなわれたが,高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ばれ,大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。(引用終わり)

 それならば,次回の即位の大礼は京都でおこなえればいいのでは,といったたぐいのごく素朴な疑問も浮かぶ。だが,宮内庁のほうはきっと,こうした庶民の疑問など歯牙にもかけないと思う。

 いずれにせよ,本来であれば大昔の古い伝統,それも天皇家のひとつの施設であったに過ぎない高御座がいまもなお,現代における日本の政治の一部分としてとりあつかわれ,そのための物的な装飾部品となって使用されている。

 なお,『日本経済新聞』は,2018年8月21日朝刊にも関連する記事を掲載していた。以上の批評的な解説を読んでくれた人は,つぎの ※-3に紹介するこの記事をあらためて読んで,どう感じるか。
 

 ※-3「高御座の解体公開 来年の即位の礼で使用 京都から東京へ来月移送」『日本経済新聞』2018年8月21日朝刊32面「社会1」

 宮内庁は〔8月〕20日,2019年10月の「即位礼正殿の儀」で使われる高御座(たかみくら)を東京に移送するため,京都御所(京都市上京区)の紫宸殿内で解体する様子を報道各社に公開した。

 高御座は新天皇となった皇太子さまが国内外に即位を宣明される場。新皇后となる皇太子妃雅子さまが登壇される御帳台(みちょうだい)とともに,宮内庁は6月下旬から解体を開始した。

 解体と組み立てを2度繰り返し,修繕箇所や組み立て方法を入念に調べたうえで,3度目の解体を経て9月中に東京へ陸路移送する。今〔2018〕年度中に漆を塗りなおすなどの修繕を終えるという。

 この日公開されたのは,高さ約 6.5メートルある高御座の2度目の解体作業。装飾用の金具などは最初の解体でとりはずされたままで,職人らが木づちなどを使って,識別用のラベルが貼られた欄干や階段をつぎつぎと外していった。部品は御帳台と合わせ約3千あり,解体に約1週間かかるという。
 

 ※-4 天皇の代替わりどころではない「お世継ぎ問題」の現実

 最後にこういう意見を聞いておく。浦部法穂の『法学館憲法研究所』「憲法雑記帳」第14回「女性・女系天皇」(2017年7月24日)を参照する。浦部は当時,安倍晋三も「連中のなかの1人あつかい」したうえで,こう論駁している。

 --「女性・女系天皇」反対論の「主流」は,安倍晋三首相も含む「日本会議」などの右翼の連中からの議論である。

 「女性・女系天皇」を否定しつづけるなら天皇制が「自然消滅」に至る可能性はけっして低くないのに,日本という国のアイデンティティとして天皇あるいは天皇制を最重要視しているはずの彼らが「女性・女系天皇」に猛反対しているというのは,実に奇妙なことである。

 が,そのいいぶんは要するに,男のほうの「血統」で一本につながっているという意味での「万世一系」の伝統は絶対に崩してはならない,ということであるらしい。

 男の子だけでなく女の子であっても当然親の血は引いているわけだから,女の子を介しても「血統」はつながっているはずなのだが,なぜ「男系」でなければならないのか。「女系」による「血統」の継承はなぜ認められないのか。

 それは,「天皇家」の血筋を引かない「他家の男」の血が入った人間が天皇になったら,天皇の地位がその「他家」のものになってしまい「天皇家」のものではなくなってしまうから,なのだそうである。

 だから,彼らの反対の核心は「女系天皇」のほうにあるようなのだが,「女性天皇」(たとえば愛子さんが天皇に即位する場合)を認めれば,その「女性天皇」の子の皇位継承という話になっていく可能性があり,容易に「女系天皇」につながりかねないので「女性天皇」にも反対だ,ということらしい。

 天皇の地位に関しては,憲法が「世襲」としているので「血のつながり」が問題になるのは当然だとしても,それを「男」のほうの血筋だけで考える発想は,前近代的・封建的な男中心の「家制度」の発想そのものである。

 天皇というものがそういう発想のもとに存在しているのだとしたら,それは,「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」としてまったくふさわしくない。

 逆に,そういう天皇を「象徴」として置いているのだとしたら,日本という国は依然として前近代的・封建的な国であり国民もそういう考え方のもとに統合されている,というように内外に発信しているのと同じである。

 日本国憲法下の象徴天皇のありようとして,それでいいはずがない。
 補注)憲法学の先生がここまで議論する(できた?)としたら,つぎに問うべき論点があった。当然のこと,こうなる。

 すなわち,「天皇・天皇制」そのものが「前近代的・封建的な」発想に依拠しているのだから,女性・女系天皇をウンヌンする以前に,あるいはまた「『家制度』の発想そのものである」と論難する以前に,浦部先生なりに指摘し,批判すべき重要な問題点が,天皇・天皇制についていえば,本来あったのである。
 
 その程度のことは百も承知で,この浦部先生は議論したものと察している。それにしても,安倍晋三を支持「できる」石頭の憲法学者たちも何人かはいた。その氏名は,所 功,百地 章,西 修,長尾一紘,八木秀次などである。

〔浦部に戻る→〕 彼ら右翼の連中にとって,天皇制の安定的な永続は至上命題のはずである。それなのに,「女性・女系天皇」にあくまで反対を貫きとおして,天皇制の安定的な永続が可能だと考えているのだろうか。

 「男系男子」を墨守すれば皇位継承資格者がいなくなるかもしれないことは,つい10年ほど前までは現実問題として意識されていたことなのに,それでも「女性・女系天皇」に反対しつづけるというのは,彼らが,そのいいぶりとは裏腹に,天皇や天皇制というものを軽んじていることの表われなのかもしれない。

 あるいは,いざとなれば「側室」をもうけ「世継ぎ」を生ませる,などということまで考えているのか? だとしたら,度しがたい時代錯誤であり女性蔑視であり,そしてまた天皇という「人」に対する度しがたい侮辱である。

 「伝統・伝統」というが,そもそも,彼らの信ずるところに従えば,天皇は「天照大神」の子孫ではなかったのか? そして,「天照大神」は「女神」とされる。とすれば,天皇はもともと「女系」だったのではないのか?
 註記)http://www.jicl.jp/urabe/zakki/20170724.html (2023年4月26日検索したところ,現在は削除されている)

 そのとおりでしかない。だが,安倍晋三君などは,神武天皇が日本王朝の始祖であって,それ以前の女どもは無用という寸法であった。こうした連中に「日本の古代史」をまともに理解しろといっても,また,実際に勉強させたところで,「馬〔や鹿〕の耳に念仏」同然である。

 2023年4月3日に実施された国政の補選に関して,安倍晋三の血縁になる甥が立候補し,なんとか当選していたが,その岸信千代という若者の発想がこうであった。一番下の描かれている家系図には「女」が登場しない。信千代も確か,女から生まれた男であったはず……。

 それにしても, “こういった連中たちの問題” まで引き寄せて議論しなくてはならない「現代における日本の天皇」問題とは,いったいなんぞや?

 そういえば,神武天皇にもさらに父と母がいたはずだが,この点をまともに考えている人はいないのか?

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