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日本の経営学は「解釈学・訓詁学」と断定していいのか,野中郁次郎の即断に論駁する

 以前,野中郁次郎が日本経営学を批判し,「解釈学・訓詁学」だと指摘した。だが,そうした断言は,学史的に妥当な判断ではありえなかったという話題。

 一橋大学商学部の経営学は「解釈学・訓詁学」であり,古色蒼然たる理論展開ばかりであったか? 2019年9月に野中郁次郎が「私の履歴書」のなかで披瀝した独自の見解に対する疑問を提起し,議論する。
 

 要点:1 解釈学・訓詁学だからといって,そのすべてがイケナイわけではなく,とりあえず学問の初歩:入口では必須の方法である。

 要点:2 野中郁次郎もアメリカ留学中に,アメリカ経営学の理論枠組から経営学の基本見地を構築する手がかりをえていたはずである。
 

 ※-1「私の履歴書」内における野中郁次郎の一橋大学商学部「観」

 2019年9月中に,野中郁次郎は『日本経済新聞』の「私の履歴書」に執筆していた。

 野中郁次郎(のなか・いくじろう,1935年5月10日生まれ87歳)は,日本の経営学者であり,一橋大学名誉教授,カリフォルニア大学バークレー校特別名誉教授,日本学士院会員。

野中郁次郎・画像

 カリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクールから同大学最高賞の生涯功績賞を史上5人目として授与された。元組織学会会長(なお,野中郁次郎の経歴は,後段で補述される)。

 2019年の9月中に執筆・公表された,この「私の履歴書:野中郁次郎」編のすべてをとりあげるつもりはないが,なかでも9月20日に公表されたその19回目( ⑲ ),題名を「『四人組』 一橋大へ移籍,改革参加-米国型実証研究に反発の声-」(全 1326文字)のなかに,若干気になる指摘があった。この点についていくらか議論してみたい。

 ほかの段落はあえていっさい無視し,関心を抱いた段落である冒頭の部分を,まず引用する。

 --防衛大学校で共同研究に取り組んでいると,突然,移籍の話が浮上した。熱心に声をかけてきたのは一橋大学商学部に属する産業経営研究施設(現イノベーション研究センター)所長の今井賢一先生である。

 一橋大学商学部には,古色蒼然(そうぜん)たる「解釈学」「訓詁(くんこ)学」が深く根をおろしていた。海外中心の経営学の文献を解説したり,解釈したりするのが日本人の経営学者の役割とされていた。

 たとえば,ドイツ経営学の理論を解釈するにしても,理論の新しい本質を掘り起こすような解釈であればよいが,「誰かがこういった」と,ひたすら解説するだけだから,日本の独自性を発揮できない。ましてや,そこから新しい理論は生まれてこない。 (引用終わり)

 ※-2『一橋大学学問史』1986年

 一橋大学に関した年譜的な論著は,いくつも資料として公表されているが,商学部内の微細に入った事情はひとまずおいて,たとえば,1986年の『一橋大学学問史』一橋大学学園史刊行委員会が与えられている。

 しかし,この大学史に関する大部な著作において,商学部史の「経営学」部門じたいに関する論及は十分になされていなかった。

 とはいえ,実学を志向した上田貞次郎(写真)が明治末期に萌芽させていた「日本の経営学史の出立点」を踏まえたうえで,このたびにおける野中郁次郎の回想記:「私の履歴書」が書かれていたわけではなさそうである。

       ◆ 上田貞次郎人物紹介-上田貞次郎とは ◆
 商工経営・商業政策を講じ,先駆的経済学者として,一橋実学の基盤を築くとともに,自由寛容の精神をもって後進の指導にあたり,学界・実業界に多くの人材を送り出した。

 理論と実際の合一を図って,新自由主義を提唱し,自由通商運動を推進するなど,その識見と行動はなお現代の指針となるものが少なくない。  

注記)『福田徳三研究会』2008年,https://fukuda.lib.hit-u.ac.jp/person/uetei/biography.html 参照。

 もっとも,そうした明治時代の発源にまでかかわる一橋の経営学に関する事情が,野中郁次郎の関心事内にあったとは思えない。それゆえ,このあたりに関した一橋大学商学部の内部事情史を,ここではあえてこまかく問う必要を感じない。

 だが,一橋大学商学部における経営学関連部門の歴史的な展開が,野中郁次郎自身が在籍していた時期までにおいて,はたして「解釈学・訓詁学」にのみ終始していたのかと,あらためて問うてみるに,けっしてそうではなかった。つまり,その事実に即した発言ではなかった。

 前段に挙げた『一橋大学学問史』1986年については,江夏由樹「一橋大学における『学問史』編纂の歴史」,一橋大学創立150年史準備室『ニューズレター』No.1,2015年3月が,つぎのように言及していた。

 「一橋の学問とは」という問題については,すでに,多くの先人が「学問史」のなかでさまざまに論じてきた。そこに示された理解は,今後の学問史編纂にとって示唆に富む内容となっている。その全体をここで論じることはできないが,ここでは,多くの一橋人が次の2点を強調していたことを確認しておきたい。

 第1に実学の重視である。たとえば,上述の文章のなかで,増田四郎は一橋の歴史学の特徴をまとめている。彼れは,本学の歴史が商法講習所にその起源があることを強調し,「実際上の必要から発した先学が,研究の円熟とともに到達した独自の境地が,結果的にみて「歴史学」となった」と述べている。

  つまり,一橋では,現実を理解する必要性から歴史学が生まれてきたのであり,さらに,その学問は実証的方法,「しろうとくさいやり方」,社会学的考察・比較史的方法に支えられていたとまとめている。「学問」のための「学問」ではなく,現実に根差した学問という点は,「学問史」のなかで,多くの人びとが強調していたところであった。

 「学問」のための「学問」への戒めとして,上田貞次郎の有名な言葉,「学者は実際を知らず,実際家は学問を知らず」という言葉も理解できよう。

    第2に,上記の点とかかわるが,なにもないところから,学問を作り上げてきたということへの自負である。与えられた「学問」ではなく,商業学校というその出自から,必要に迫られての学問の創造であった。
  註記)引用は,https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/10253/3/HU150NEWSL0000100210.pdf

 野中郁次郎は,商学部の経営学部門に対してはあくまで,前述のように「古色蒼然(そうぜん)たる『解釈学』『訓詁(くんこ)学』が深く根をおろしていた。海外中心の経営学の文献を解説したり,解釈したりするのが日本人の経営学者の役割とされていた」と,その基本を性格づけていた。

 だが,この解釈学・訓詁学だという日本の学問史に関する指摘(=批判)についていえば,一橋大学商学部史のなかに蓄積されてきた学歴:記録を観るにさいして,一部には当てはまる部分があったとはいえ,この規定をもってそのすべてを仕切れると思ったとしたら,基本的に間違いを犯したことになる。 

 ※-3  日本経営学の始祖:上田貞次郎

 1) 野中郁次郎なりの位置づけ
 野中郁次郎はそもそも,上田貞次郎の存在(日本の経営学の始祖に当たる人物)が,一橋大学商学部の原点に位置していた事実を,まさかしらなかったのかとは思いたくないが,その節を疑っておく余地を残す。野中が一橋商学部に勤務:在籍していた時期は,つぎの各期間であった。

     1982年4月 防衛大学校退職,一橋大学商学部附属産業経営研究施設(現・同大学イノベーション研究センター)教授
     1998年4月 一橋大学退職,北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科教授,同研究科長
     2000年4月 北陸先端科学技術大学院大学退職,一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授
     2006年3月 一橋大学定年退職,4月に一橋大学大学院国際企業戦略研究科特任教授,一橋大学名誉教授

 野中郁次郎は一橋大学商学部そのものに勤務していたのではなく,商学部附属産業経営研究施設の教授として勤務しはじめていた。本ブログ筆者のような外部の人間にとって,その勤務内容じたいに関連するくわしい事情は分からない。

 だが,『日本経済新聞』2019年9月21日の「私の履歴書」のなかで野中郁次郎自身が記述した文章は,商学部本体に所属する教員たちとは一定の距離を感じさせる回顧をしていた。

 そうした野中郁次郎の一橋大学における立場あたりから,一橋大学商学部の「経営学分野は解釈学だ・訓詁学だ」という指摘(批判)を抱くことになったと推測される。かつまた,その種の理解を格別に強調しようとする彼の発想も汲みとれないのではない。

 確かに,この商学部の経営学者たちのなかには,そうした学問の傾向を強くもった教員もいた。けれども,いちがいに全員がそうだったとか,1人ひとりの教員たちが “完全にそうした立場” に近すぎる者も多かったとみなしたうえでの非難だとしたら,これはまったく的を外した発言である。

 明治末期,上田貞次郎の商工経営論への試みが,経営経済学へと進展したあと,一橋商学部の経営学の展開は「解釈学も訓詁学も包摂した全体像」を形成しながら進捗していた。要は,教員たちによってまちまちであったとしか表現のしようがない。
 註記)上田貞次郎の商工経営論への試みについては,「商事経営学トハ何ゾヤ」『国民経済雑誌』第7巻第1号,明治42〔1909〕年7月を参照されたい。

 昭和の時代に進み,さらに戦時中から敗戦後へ,そしてとくに高度経済成長期にかけて一橋大学商学部「経営学部門」では,〈三羽がらす〉として注目された古川栄一・山城 章・藻利重隆たちが輩出された。

 野中郁次郎は,この3名が意欲的に展開してきた「経営理論の内容」を実際に観察・理解したうえで,一橋大学商学部の経営学が「解釈学だとか・訓詁学だとか」うんぬんしたかといえば,そのようには受けとれない。

 2) 古川栄一,高宮 晋,山城 章など一橋商学部の経営学者
 古川栄一の経営学の場合は確かに,解釈学・訓詁学のもっともよくない側面,つまり,企業経営の基本目的を「経済性」に置くといった根本的な誤謬を犯していた。

 けれども,古川栄一が同時に別に挙げてもいた諸業績,戦前から戦後にかけての経営財務論の研究や,敗戦後におけるアメリカ経営管理学の紹介・導入までも,解釈学・訓詁学だといってただちに排斥するような思考はあまり生産的とはいえず,その理論的な貢献をいたずらに排斥するあまり毀損しかねない。

 戦前・戦中において日本の経営学という学問は,日本経営学会(「学界」ではなく)の活動史を観察してみても即座に理解できるように,実務家・経済人も大勢くわわった布陣で活動してきた。そのなかでまた併せて,日本の学問は経営学にかぎらず,解釈学・訓詁学から始めなければ「なにも始まらない」という側面ももっていた。

 それは,欧米の学問を「脱亜入欧」式に受容・摂取しなければならなかった明治以来の理論的に回避できなかった伝統,ある意味ではその便法(手順)でもあったとしても,仕方なしに採られた学問を展開するための方法であった。

 それゆえ,その種の伝統をどのように解釈して評価するにせよ,いちがいに非難だけして収まりうるような「日本の学問史の全体にかかわる全容」ではなかった。

 一橋大学商学部(戦争中から敗戦後の一時期,東京商科大学という学校名を東京産業大学に変えていたこともあった)においても,戦時体制期における学問業績の中身:実体(戦争責任問題関連)が問われるべき足跡が明確に残されていた。この問題は別個に注意しておくべき論点であった。

 関連させていえば,戦争中は東京帝国大学経済学部に勤務していたが,戦後になって教職員適格白色パージを受けてしまい,のちに一橋大学商学部に所属することになった高宮 晋がいた。この経営学者は,アメリカ経営学に必死になって学んだ成果を,名著『経営組織論』ダイヤモンド社,1961年に凝縮して世に送り出していた。

 当時の日本政府による教職追放は,公職追放令後の1946年5月7日の勅令「教職員の除去,就職禁止及復職等の件(教職追放令)」のあとに実施されていた出来事であった。

 これにより,職業軍人や文部省思想局,同教学局等の2年以上の在勤者(1937年7月7日~1945年9月2日の間),公職追放者等の就職を禁止し,他の教員全員に対しては都道府県教員適格審査委員会等(他に学校集団教員,大学教員,教育職員適格審査委)による審査を義務づけ,判定を不服とするものの,上告機関として中央教職員適格審査委員会も設置した。

 1947年4月までにほとんどその審査を終了し,5月21日,勅令は〈教職員の除去,就職禁止等に関する政令〉にあらためられ,新規採用者の審査,自動的不適格者制度の廃止等を定めた。

 高宮 晋について,野中郁次郎は「〈私の履歴書〉野中郁次郎 ⑮  組織学会の恩師 無念の死-企業訪問に同行,晩年は中国へ-」『日本経済新聞』2019年9月16日朝刊で触れており,こう書いていた。

 「高宮先生は晩年,中国への罪の意識から,日本と中国の組織論をテーマとする研究会を主催していた」(「〈私の履歴書〉野中郁次郎 ⑮」 )。だが,戦時体制期における高宮の実際における翼賛・協力に関して,具体的な指摘はなされていないので,ここではそれ以上のことがらは分からない。

 前段で挙げた高宮 晋の『経営組織論』1961年は,まさしく解釈学・訓詁学の観点にも豊富に即していながら,「経営組織の発展論理」を,日本の経営学者の立場から創説していた。

 高宮 晋はまた,戦時中における企業組織体制論の国家全体的的な再編制論(『企業集中論』有斐閣,1942年)を公刊していたが,『経営組織論』の前哨に位置した研究業績であったといえる。

 高宮 晋『企業集中論』1942年は,敗戦を機にそれほど関心を向けられない業績となっていたとはいえ,けっして,その解釈学・訓詁学の観点にだけ終始する業績などではありえなかった。

 さて,一橋大学商学部「三羽がらす」の話題に移る。戦争の時代の話題にふれると,「藻利経営学と尊称された『経営理論の規範的な基本性格』は,実は,ドイツ・ナチスのファシズム学説に淵源するという話題」もあった。とくに,山城 章や藻利重隆が「戦争(戦時体制のための翼賛)経営学」へと向かうための,理論構築を営為していた「史実」は,忘れられない学史上の軌跡であった。

 たとえば「山城 章」が残した著作のうち,

 『価格統制の研究-価格政策の経営経済学的考察-』日本評論社,1940年
 『生産拡充と利潤統制』同文館出版部,1942年
 『新企業形態の理論』経済図書,1944年

などは,あからさまに戦争協力の学問形態を実践学的に構築していた。だが,敗戦の境に一転し,こんどは「民主化のための経営学」に転身していった。ただし,その理論基盤には共通する思考方式が潜在していた。この《特徴点》に関しては “とくに留意が必要” である。

 以下に列挙する著作は,敗戦後5年ほどが経過していくなかで,山城 章が公刊してきたものである。

 『企業体制の発展理論-生産管理の企業論的考察-』東洋経済新報社,1947年。
 『資本と経営の分離-その経営学的研究-』産業経理協会,1947年。
 『経営政策』経営評論社,1948年。
 『企業体制』新紀元社,1950年。

 これらの著作はとうてい「解釈学・訓詁学」の範疇には収まりきらない,それなりに「理論と実践との交叉」を念頭に置いたうえで,意欲的な理論志向性を維持しつつ研究の成果を産んでいた。

 ただし,その理論の軌跡そのものは,ひたすら時代の変遷に無条件に状況適合的であった。それだけにかえって,その反面において「学者としての倫理」が,別の問題として問われていた。もちろん,この指摘は「敗戦という出来事:時期」をはさんでの「学的な倫理」に関する話題であった。

 3) 伊丹敬之の過誤
 本日のこの記述でとりあげている,野中郁次郎の「私の履歴書 ⑲」2019年9月20日の記述は,自分の立場に近い路線の経営学者として「伊丹敬之の氏名」を出していた。

 だが,この経営学者伊丹敬之の場合は,すでに他稿で議論したところであったが,東芝の経営失策を社外取締役(監査役)として見逃すという大失敗を犯していた。

 だが,その後において,なんら一定の責任も問われることもないまま,その後を無事に過ごしてきている(蛇足的にいえば,けっして「無難に」ではなく,そのようにやり過ごしてきた)。

 2010年代の伊丹敬之の略歴を紹介する。

  2012年 東芝取締役・指名委員会委員・報酬委員会委員
  2015年 東芝経営刷新委員会委員長
  2017年 国際大学学長

 伊丹敬之の最近における履歴は,以上のごとく立派なものであったが,「非正規雇用の立場を余儀なくされている労働者の存在をありのままに合理化する経営理論」を展開した事実は,昔風にいって『労働者のけっして味方などにはなりえない立場(作風)』をたずさえて,学問の営為に邁進してきた点を教示する。

 もしも野中郁次郎のこだわるように,一橋の商学・経営学系統に関して,解釈学・訓詁学という用語にどうしてもこだわるていさいで,あれこれをいいたいのであれば,その概念をもっと慎重に据えたうえで,なおかつ定義についても厳密にくわえたうえで利用してほしいところであった。 

 ※-4  む す び

 日本の経済学者たちは,アダム・スミスやカール・マルクス,ジョン・M・ケインズなどの経済学書を読み,まず解釈学・訓詁学的にという意味でもって “学問的に経済理論に接して” いき,頭脳の訓練:鍛錬をするほかなかった。

 それと同じ要領をもって日本の経営学者も,フレドリック・W・テイラーやエルトン・メイヨー,ハーバート・A・サイモン,ピーター・F・ドラッカーなどの経営学書を読み,やはり解釈学・訓詁学的に理論の勉強を始めるほかなかった。

 なお,ここではアメリカ経営管理学のみ挙げてみたが,少数派とはいえ,戦前からドイツ経営経済学の研究なども旺盛であった学史状況も,申しそえておく必要があった。

 したがって,そうした段階において解釈だとか訓話だとかいった勉学の方法があって,なにもおかしいことはなかった。むしろ,その研究手順は基礎的な鍛錬の方法としてきわめて有益であり,しかも必要不可欠な前提条件である。この指摘はなにも経営学分野だけに限られる話ではない。

 参考にまで触れる。 「〈私の履歴書〉野中郁次郎 ⑩  厳しい指導教官 独力には限界-ペアで学習 努力実り調査・研究の補助職に-」(『日本経済新聞』2019年9月11日朝刊) のなかで,野中郁次郎はこう述べていた。

 「ハーバート・サイモンの組織論」は「近代経営学の祖と呼ばれ,1978年に意思決定の理論と実証研究でノーベル経済学賞を受賞した」。

 「サイモンは,経営を意思決定の科学的なプロセスであると考え,人間の価値観を分析の対象から除外する。人間の情報処理には限界があり,完全に合理的にはなれないが,ある限定された範囲内なら客観的に判断できる。それを可能にする装置が組織だと論じる」。

 「ニコシア教授は,サイモン理論を応用して消費者の意思決定論を展開していた。彼の指導を受けた私も,サイモン理論の影響を受けた『サイモニアン』となった」。(引用終わり)

 もっとも,野中郁次郎はのちに「ハーバート・サイモンの意思決定理論をベースとする組織論を展開していた」ものの,この「サイモン派から脱皮し,自分の理論を求める転機となった」事情も説明していた。
 註記)この段落は「〈私の履歴書〉野中郁次郎 ⑳『知的創造』理論の構築へ-ハーバード大から研究要請-」『日本経済新聞』2019年9月21日朝刊 参照。

 もちろん,一橋商学部の経営学者のなかには「解釈学・訓詁学」的な立場に偏った経営学者が,全然いなかったとはいえない。前述したように実際にいた。だがそれは,ごく限定された一部の教員だけである。

 学問の分野にもよるが,文系の学問から解釈だ,訓詁だという領域を除去しておくべきだといえるような絶対的な理由は,なにもない。ただ,それだけに終わるな,という意味に受けとるのが順当な考え方である。いうなれば解釈や訓詁は,学問研究にとってみればその基礎工事に相当するゆえ,かえって,そう簡単にはないがしろにできない「学問じたいに関する誘導路としての手順」を意味する。

 野中郁次郎「私の履歴書」のなかには,一橋大学商学部に勤務していた時期にいろいろとあったと思わせる,そのときどきに起きていたらしい「学内の葛藤に関する事情」が反映された文章(段落)も登場させていた。

 だが,しょせん,外部の人間にはなんのことやらさっぱりよく理解できない話題であった。多少,分かうるところがあるしたら,この点が野中郁次郎に,一橋商学部の経営学者のなかには「解釈学・訓詁学」的な立場に偏った経営学者がいたと「非難めいた批判」をいわしめたのか,などと想像してみる。

 ※-5 付  論-組織学会と経営学史学会-

 a) 本ブログ筆者は以前,経営学を専攻するある先生から,つぎのような示唆(意見)をもらっていた。どういうことか?

 それは,「高宮 晋(1963年~1986年に組織学会会長)→ 野中郁次郎」の理論系列で観る「組織学会の連続性」は希少(薄いこと)であった点について,である。

 つまり,その系譜関係はリニアー(直系的)ではなく,高宮に対して野中は一定の「感謝の念を表明して」いるものの,「組織学会を変容させた」のは野中のほうであった,と指摘していた。

 要するに,「『かつての組織学会』≒ 経営学史学会」という「仮説を唱える」という意見なのであった。組織学会会員には,経営学分野以外にも多くの学問分野から加入者がいる。

 経営学会の会員数は2021年度で1799人の規模であり,これに対して組織学会の会員数は2021年度で2128人である。経営学会は以前は2000人以上の会員が居た時期もあった。

 それはともかく,経営学会への加入者は経営学専攻者が主体とあるが,組織学会への加入者は隣接科学的に,経済学・社会学・政治学・心理学・情報科学などから幅のある参加となってもおり,この実勢を反映させて,加入者数が経営学会よりも多くなっていた。

 b) 本ブログ筆者は前段の示唆をもらったとき,ハタと感じる点があった。それは,長年抱いていた印象であったのだが,「組織学会」の変容ぶりに関するある疑問が,その意見に接しえたことによって “一気に氷解できた気分になれた” のである。

 その教示は,私信による教示であったので,原文のままでは紹介できないが,だいたいの要旨は,以上の説明の仕方で理解してもらえると思う。また,同学の士のなかでも同じ感想をもっていた人も,間違いなく多くいた。こちらの事実も付言しておく。

 そこで,経営学分野では比較的新しく1993年に創立されていた「経営学史学会のホームページ」をのぞくと,その創立の意図が以下のように説明されている。

    経営学史を踏まえながら経営学の理論的研究を深めることを目的とする学会があればいいなという声があり,いろいろな構想が折りにふれ話し合われてきた。   

註記)『経営学史学会』ホームページ,http://keieigakusi.info/

 ちなみに組織学会が創立されたのは1959年,その初代会長は馬場敬治(経営学者・東京大学教授)であった。高宮 晋(経営学者・一橋大学教授)がそのあとを受けて2代目の会長になっていた。

 前段に紹介したある経営学者の意見によれば,この組織学会の変質が新しく,経営学史学会を誕生〔スピンオフ〕させる遠因ないしは素因(?)を提供していた,という解釈であった。

 c) さらに付言しておくと,野中郁次郎が組織学会の会長を務めた時期は,1996年6月~2002年9月,また伊丹敬之のそれは,つづいて2002年10月~2005年9月であった。本日の記述に関連してだが,この9年ほどの時期的な関連が,経営学関連の諸学会をめぐる動向をめぐり,一定の含意を有していた。

 どういうことか?

 その組織学会は「野中郁次郎・以後」においては「組織という用語」を基盤の概念として最広義に設定していたがためか,社会科学的分野におけるその位置づけを曖昧模糊にさせていくほかない不可避の方途に向かっていった。

 すなわち,経営学の領域のなかでの組織学会ではなく,社会問題全般にまたがる組織問題研究のための学会となった。そうだとなれば,経営学研究者からは組織学会に対して,その存在価値がみいだしにくくなるのは,ことの必然であった。
 
 結局,経営学者のなかには組織学会に対してそっぽを向く人びとも少なからず出ていた。組織学会は経営学者たちが生んだ学会であったが,野中郁次郎や伊丹敬之が学会長を務めていた時期,その本来有していた「当初の理念・目的」が学会員に対して説得性のある「変質の方途」を説明できていなかった。

 d) そうした事象の介在に対してこそ,野中郁次郎および伊丹敬之によるなんらかの「理論(?)的な貢献があった」とすれば,1959年に発足した組織学会が歩んできた歴史のなかに,ある種,皮肉な経過が刻まれたことになる。

 以上に指摘した問題は,実際つぎのように自己説明されている組織学会の歴史的な変遷のなかに観取できる。

 ▲-1 1959年に設立された組織学会は,経営学(戦略論・組織論)を中心に学際的に組織の学問をあつかう学術団体である。経営学領域で最大規模の会員数をもち,学会誌『組織科学』を発行している。

 2022年において組織学会「概要」は,こう説明されている。

 ▲-2 広く一般市民を対象として,組織科学--目的を達成するための人間集団である組織を研究し,解明し,しかも望ましい組織を構想することを目的とした総合的な学問であり,心理学・教育学・社会学・史学・法学・経済学・経営学・総合工学などで構成される--に関する啓蒙・普及・教育事業および組織科学に関する学術調査・研究事業をおこない,もって,社会の安定・発展等の公益の増進に寄与することを目的とする。 

 e) 以上,1959年と2022年の組織学会に関する説明は大きく変質している。この変質をもたらした関係者が野中郁次郎と伊丹敬之であった。経営学史学会を誕生させる直接の原因がその変質にあった。
 
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