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バーガミニ『天皇の陰謀』1971年,日本語訳1973年

 ※-0 いまからちょうど半世紀まえに日本語訳が公刊された,バーガミニ『天皇の陰謀』1971年は,その内容じたいが「日本とアメリカ」体制のなかで疎まれるほかない理由をはらんでいた

 このバーガミニ『天皇の陰謀』1971年(日本語訳1973年)の分析や考察は,日本社会史において特有であった「天皇・天皇制と部落問題」について,「聖あれば賤あり」とされてきたその構造・機能の秘的問題を考える契機・材料として,有意義である。

 明治以来,大日本帝国主義のために創造され,いったんはその敗戦という出来事によって大きく動揺してもきた「天皇・天皇史の真実」に迫る究明・批判を詳細・綿密に展開した同書は,どうしても日本では極度に嫌悪されざるをえない必然的な事情などを考えてみる。 
           
  要点:1 明治天皇:睦仁と昭和天皇:裕仁
  要点:2 バーガミニ『天皇の陰謀』1971年(日本語訳1973年)と秦 郁彦
  要点:3 明治以来,操られてきた天皇の歴史
 

 ※-1 大室寅之祐が明治天皇であったとする主張

 1) 「三種の神器」を本気で信じていた昭和天皇
 a) 次項※-1 以降でくわしく論及するが,コンノ ケンイチ『天孫降臨 日本古代史の闇-神武の驚くべき正体-』徳間書店,2008年は,鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』成甲書房,2007年8月を高く評価し,そのなかから,つぎの引用をしていた。

    部落解放運動が明治維新となったのである。あの〔明治〕天皇も重臣の多くも部落出身者であった。彼らは自分たちを権威づけるために「三種の神器」という伝説を創造したのである。ヒロヒトがこの「三種の神器」にこだわる理由がそこにある。
 註記)コンノ ケンイチ『天孫降臨』272頁参照。鬼塚『日本のいちばん醜い日』553頁。 

コンノケンイチ『天孫降臨』引用

 昭和天皇は,皇位に座していた「自分の存在」の根拠を,本気で「あの物神呪術的な神器」である「鏡と剣と玉」に求めていた。しかし,明治天皇の孫に当たる天皇裕仁は,もしかするとコンノ『天孫降臨』の指摘する〈明治天皇に関する諸事実〉〔の点はさらに後述もする中身〕を,よくしっていたかもしれず,そのうえで,彼自身の皇統の連綿性が「三種の神器」によって裏づけられると,なおかつおおまじめに信じていた。

 以上の話は,現在の天皇(明仁天皇〔⇒徳仁天皇〕)にも当てはまっていくものである。ところで,明治天皇が昭和天皇ほどに「三種の神器」の神聖性を確信していたかというと,これにはほとんど説明にとりあげるべき材料がなく,否と答えるほかない。

 b) 過去において帝国臣民(国民)は,偉大で神格的な天皇を頂点に戴く日本帝国は,世界に冠たる「神国(神州)」であると思いこまされてきた。そうして,この種の完全なる迷信をもって,明治天皇や昭和天皇などを〔なぜか大正天皇だけはひとまず外されて続けてきているが〕,「人間でありながらの生き神様」として絶対的にかつ無条件に,崇拝(崇敬)させられてきた。

 明治以来における日本帝国のそうした〈歴史の期間〉は,77年ほどあった。日本国は,敗戦後すでに,2023年で78年目になる年数を経てきたにもかかわらず,天皇をいまだに〈絶対的に神聖視するかのような精神風土〉を,本気の政治精神であれ利害得失の経済精神であれ,それなりに残している。

 つまり,この国はいまもなお,天皇・天皇制という前近代的な封建制度を,払拭も排除もできない「政治後進国」の外套(マント)として捨てきれない政治風土を維持させようとしてきた。

 c) 日本がたとえばジェンダーギャップ指数でみると,世界経済フォーラムが発表した2022年におけるその指数の総合順位は,146か国中なんと116位(前回は156か国中120位)と,先頭からはかけ離れて下位集団に属している。

 そういう国だから女性天皇はおろか,女系天皇すら絶対ダメだとかいったたぐいの男尊女卑の典型的・代表的な頑迷観念に脳細胞を冒されている御仁が,まだいくらでも生息する国柄である。

 本ブログ筆者の母が昔よくいっていた文句は,「女がいなければ男だって生(産)まれないよ」ということばであった。また昔は,結婚した女性が子どもを儲けられないときは「夫に離縁されること」がよくあった。しかし,よく考えてみればよい。医学の視点からいえば,生物学的に不妊の原因は男女観で五分五分である。ところが,その不妊の原因を女性側にのみ押しつけてきた。

 以前,オヤジの田中角栄に「オマエが男に生まれていればなぁ・・・」といわれたことのある田中真紀子は,誰のことをいったのかよく分かったことだが,ある「世襲3代目の政治屋」(むろんあり〈男〉のこと)を指さして「種なしカボチャ」などとヤユする発言をした。

 女性の側からすれば,『女は産む機械』だとウンヌンした大臣など--それを古い表現でいうと,子どものできない女性をとらえて石女:うまずめということばもある--は,許しがたい唐変木のうつけ者である。

 それならば,女性である真紀子の側から前段の発言をもって反撃した態度は,ひとまず,その粗雑さと偏見の程度は男の発言と同じ次元に落ちこんでいたにせよ,ひとまず許されるべき余地があったと弁護する事由もありえた。
 
 d) 以上,天皇の妻になった女性が,具体的にいえば現在の天皇の妻:雅子の場合だと,子どもは愛子という女性1人だけとなったが,これまでの彼女の人生においては,天皇家内の「お世継ぎの再生産作業」に関連して,いかほど精神的に苦悩させられる人生を過ごしてきたか,お堀の外側に暮らすわれわれには想像すらできないものがあったと推察しておく。

 あるときは,宮内庁の官僚が雅子に向かいじかに,あなたは「子作りをしっかりなさるべきだ」という趣旨の進言を受けたときは,それはもう屈辱という前に,彼女自身が一個の人間として存在する基本が,ハナから否定された思いになったはずだと想像できる。

 2) 天皇および皇室問題の特徴
 ここで,話題を少し方向転換する。たとえば,民主党政権(2009年7月に政権交替,その後2012年12月には自民党政権に戻ったが)になって,宮内庁関係予算に対する「事業仕分け」がなされたという話も聞かない。

 まともに民主主義の基本理念を抱けている日本国民は,皇室を維持する関連の予算が「不可触(Untouchable)の領域」に属するかのようにあつかわれているとすれば,まずこれじたいについて,もっと敏感に疑問を感じてよいはずである。

 補注)日本の敗戦時,天皇が出した「終戦の詔勅」のなかには,原案の段階での話であるが「神器を奉じて」という文句があった。これに対して,当時の農商務大臣石黒忠篤がこの文句の削除が適当だと意見した。

 というのも,アメリカなどが日本の天皇に神秘力があると考えているのにそのように書いておいたら,天皇の神秘力の源泉が神器にあると思われてしまい,三種の神器について無用の詮索をすることになりかねない。それこそとんでもないことになると心配したのである。

 補注)この事実(補注1の話題)はあちこちに説明されている歴史の記憶である。ここでは,迫水久常『機関銃下の首相官邸-2・26事件から終戦まで-』恒文社,1964年,301頁を参照して書いた。

 補注)天皇家と皇室を主管とする宮内庁の予算を紹介しようと思い,当該の統計をさがしたところ,つぎの掲示では下方に配置しているが,過去3年間分しか公開されていない。

 しかし,以前,宮内庁ホームページに公開されていた過去の年度分(1987-2020年)が当方に保存されていたので,これを上方に配置したかたちで,まとめていっしょに紹介しておく。

宮内庁予算,1987-2020年度
同上,2021-2023年度分だが,どうしたら憲法施行後
という題字の表現ができるのか,とても不思議

〔本文に戻る→〕 「天皇の神秘力の源泉が神器にある」という表現は,こういいかえておく余地がある。たとえば,明治天皇の孫に当たる昭和天皇は〈三種の神器〉の神秘性を本気で信じてきた。

 敗戦の時期が昭和天皇がこの三種の神器が本土決戦までに至った場合,戦場となったこの日本のなかで焼失・消滅するのではないかと非常におそれていた。このことは,よくしられている事実である。

 三種の神器あってこその天皇位であるという信仰心,いいかえれば,天皇家に受けつがれた並々ならぬ皇室神道的に大事であったその確信:自信が,この「天皇の地位」に関した彼(ら)のよりどころになっていた。

 古代史・中世においてだが,その三種の神器を奪いあってもきた天皇の地位に関していえば,そこに諸種発生していた「紛争の歴史」は,そのフェティシズム(呪物崇拝・物神崇拝)にもとづく神道的な宗教心に原因していた。

宮中三殿・地図と見取り図

 基本,日本国憲法のもとでも天皇家の人たちは,前段のごとき信仰心となにひとつ変わらずに,まったく同じ観念基盤を抱いているつもりである。宮中三殿の皇霊殿にあっては,いったいなにが祭壇に祀られているか?

 この天皇のその一族が「日本国・民の統合の象徴」だとしたら,すなおに類推すると,日本の民たちは皆,皇室神道への信仰心をもつべき「しもじもの人間たち」という帰結になるのか?
 

 ※-2 明治天皇「偽者」説の真偽と万世一系「論」の筒抜け論的な話題

 さて,こういう歴史の説明が一説としてある。

 a) 「明治天皇に即位した大室寅之祐」〔つまり「ニセモノだとされるあの明治天皇」〕の父親は,地家作蔵(生年月日は不明~1887年4月24日)といわれている。

【参考画像資料】 つぎの画像は,もとの「本当の明治天皇」にすり替わった「大室寅之祐」ではないかと目されてきた人物が,真ん中に写っている写真。ウィキペディアなど,ネット上にはこの画像資料はいくつも出ているが,ここでは「姓名を特定して記入したもの」を借りておく。

フルベッキ集合写真,40に明治天皇になったとされる人物がいて,
しかも,前列の真ん中に座っている構図が意味深長?

〔前段本文から続く→〕 その「地家作蔵」は苗字もない海賊某の息子「作蔵」であったが,地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子に入って,地家姓を名乗ることになった。「地家」の名前の由来は「村の中心」という意味とのことである。地家作蔵は,山口県〔現在の〕熊毛郡田布施町麻郷地家に住み着いた。

 1850〔嘉永3〕年1月10日,地家作蔵がおよそ25歳のとき,妻スヘ18歳とのあいだに長男虎吉が誕生し,つづいて次男庄吉も誕生している。作蔵のこの長男:地家虎吉がのちに大室寅之佑となり,睦仁にすり替わって明治天皇になったといわれている。

 b) さらに関連する事情を説明する。話はだいぶややこしくもなるが,我慢して聞いてほしい。

 1854年10月ころ,地家作蔵と離婚したスヘは,1855年1月ころ,大室弥兵衛の後妻(二号)となった。これにともない,地家虎吉は大室虎吉を名乗った。

 1855年11月ころ,大室弥兵衛とスへの間に「本当の大室寅之助(※)」が生まれていたが,直後スヘが死亡した。このとき,大室虎吉〔のちの大室寅之祐に入れ替わった〕のほうはかぞえ6歳だった。ところが,大室弥兵衛とスヘの間に生まれた大室家4代目のその「大室寅之助」も,1857年6月,虚弱体質で1歳数ヶ月で夭折する。

 またところが,この大室寅之助に大室虎吉がなりすまし始め,事後において大室寅之祐となる。大室家の血筋が注目を浴び始める。こうして 「大室虎吉が大室寅之祐となり,明治天皇にすり替わる」という筋書きできあがっていた。

 c) だが,話は,もっとこみいってくる。

 歴史は不思議で,この時代もう一人の大室虎助がいたともされる。こちらの虎助は,萩に在住している南朝の満良親王の血を引くとされている大室弥兵衛の弟らしい大室惣兵衛の息子の,別の「大室虎助」であった。

 江戸時代の有名な思想家吉田松蔭が,前段に出ていた大室虎吉とその弟大室庄吉の2人は連れ子であったから,南朝大室家の血統ではないとして,こちらの「(別の)大室虎助」を玉にしようとしていたといわれる。この虎助は京都の睦仁親王と同じ年であった。

 註記)以上,『大室寅之祐→明治天皇考』最新見直し,2007.1.31,http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_meigitennoco.htm 参照。こちらでじかに読むのもよし,と思う。

 こうした議論は非常にこみいっていて,しかも史実かどうかふたしかな要素も含まれており,信憑性に関して問題がある。とはいえ,その 「大室虎吉が大室寅之祐となり,明治天皇にすり替わ」ったのか,それとも  「こちらの『大室虎助」を〔最初から〕玉〔そのもの〕にしようとしていた」のかという論点は,天皇制の歴史をある程度しる者にとってすれば多分,どちらでもいいと答えるかもしれない。

 南朝系の「本筋の血統」を有するものであっても,またそうではなくてもよい。ともかく,もとの本物の「睦仁」明治天皇にすり替われる《玉》に使える者であれば,つまり,それらしき「玉」に改造できる者であれば,誰でもよかったのではないか。そうまで思ってしまうほど,「万世一系」の創作的な捏造物語にまつわるこみいった諸説が,まるで腸捻転的に語られてきている。

 d) 明治天皇(睦仁天皇)の父とされる孝明天皇は,幕末の1866〔慶応2〕年12月に弑逆されていた,という一説がある。この天皇「暗殺事件」については,その真偽をめぐって賛否両論が交叉しており,いまだに完全に決着がついてない。さらに,孝明天皇の「実の息子」である「睦仁」もまた毒殺によって始末されていたとの伝聞もある。

 1867〔慶応3〕年1月9日ともかく,睦仁親王が践祚し,即位して明治天皇になっていた。この睦仁も抹殺されていて,「〔前出の〕大室寅之祐」(あるいは「大室寅助」か)がいつごろからすり替わって,明治天皇になっていたのか。この時期を正確に推定することはむずかしい。睦仁が践祚に前後する時期にその可能性があったと考えてもよい。

 こうした推理は,当時の天皇家の「子育て環境」を配慮すれば無闇に否定できない。
 

 ※-3明治天皇にとって南北朝問題は二の次

 つぎに続く議論は,前段のごときにばらついた家系をさかのぼるかたちで,「明治天皇⇒大室寅之祐の素姓」が追跡できると想定しての話になる。この「にせの睦仁」=大室寅之祐天皇が明治の中期,本来「北朝とされていた」明治皇室のそれまでの由来を認めないといいだし,明治も末期のころ,明治天皇は正式に「南朝の立場」を採用させた。

 この睦仁天皇自身がもともと,「南朝の血筋」を引くといわれた大室家の「実の子孫」であったか否かのどちらであったにせよ,南北朝のいずれに関して「系譜:血統上の連続性」が確実にあったかどうかは,いまでは確認しにくい。

 いずれにせよ,「皇室の血筋」が「万世一系」であるから尊いのだと特別に教説されるような,まさしく「鶏と卵」の関係のごとき〈妄論の筒抜け的な空虚さ〉だけは,確認できる。

 それでもなぜ,明治天皇〔大室寅之祐〕自身が在位して(生きて)いたうちに南朝説を採ったといえば,これは西郷隆盛の影響と思われる。ここではくわしく触れないが,ただ簡潔にいえば,まず西郷が自身の「経歴を南朝系の政治意識で維持」していた点,つぎに西郷に対しては,明治天皇(大室寅之祐)が特別に親密な関係にあった事情を挙げておけばよい。

 その関連でいえば,大室寅之祐〔明治天皇〕が南朝系の人間であることを自身でよく承知していたとしても,この歴史的な性格から多少離れた彼の個人的な感情次元〔ある種のこだわり〕をもって,明治期における南北朝問題を意識的に受けとめていた要素もあった。

  ◆ 万世一系「論」の限りないコッケイさ ◆

 厳密にいえば,万世一系などというものと実際には縁遠いはずの,「明治天皇」から大正・昭和・平成の「各天皇への世代」までにおいて創られてきた《近現代の日本昔話的な神話》が,わざわざその万世一系を提唱するために制作されていた。

 どだい,「万世一系における天皇名の一覧は,実在しない天皇が大勢いても「万世一系」だといわれるのだから,ふつうにむずかしく考える余地もなく,はじめから「?」であった。

 その意味でいえば,明治維新史以降における近現代日本史の「話題:天皇と天皇制」に不可避の嘘っぽさ,すなわちその創作性は,確かに一貫されていた。しかし,それはあくまで「万世ではなく最近・直系の4世・5世」までに限定される物語であった。

 つまり「明治から平成と〔その次代・以後〕」までに区切られ,限定されてのその〈話〉であった。そうであればこそ,誰に憚ることもなく「万世一系〈性〉そのものの事実性」は,大声でとなえてよいことになる。

 しかし,このような一系性は,なにも皇室一族に特有の血筋「問題」ではない。日本の,どの人・家・家族に関してでも,それも「4~5世代」くらいまでの家系図なのであれば,かなり確実にさかのぼってその確認が可能である。

 したがって,その程度の万世(!?)一系「性」についていえば,かくべつに誇るほどの意味は,ないはずである。つまり,天皇家も万世一系,あなたの家系も万世一系……,ともどもにみな,千代に八千代に万々歳……。

 先日(本日の記述をしている時点だとだいぶ以前になるが)のテレビ放送でも,高祖母(こうそぼ:ひいひいおばあさん)を最年長に,親子5世代がいっしょに暮らす一家が紹介されていた。

 その点でも「一系は一系」(女系でも男系でもそのどちらとも)であり,単に自分の祖先〔家系・系譜〕をどこまで確認できるかという,しごく単純な話に過ぎない。

 いわば,それ以上の以前における〈家系の昔話〉となれば,これをいくらでも拡伸させながら想像する(「創造→神話化」あるいは「祖先偉大化物語」にする)ことはできる。その当たりに関する想像力の発揮は,どうぞご自由にいくらでもなさって,ご制作してください,ということになりうる。

 ※-4 コンノ ケンイチ『天孫降臨 日本古代史の闇-神武の驚くべき正体-』徳間書店,2008年に読む「昭和天皇の歴史的な画策:自己保存本能」が明解であった事実

 敗戦後史的な話題としては,「日本国憲法に天皇制が残された事情」をめぐり,「闇取引的な裏交渉がマック(アメリカ)と裕仁(個人)とのあいだでなされていた歴史の事実を論じる」ことになれば,「自己保身に長けた昭和天皇の記録」⇒「かつての臣民・赤子を踏みつけにし,自分ばかりがうまく生き延びてきたつもりの男の,バレてしまった悪あがき的な画策」は,いまとなっては隠しようがない「歴史の事実」として記録されている。

 その話題=論題は,世間話としてのそれではなく,学術・研究の世界において闡明されてきた「事実の問題」としてとりあげられてきたゆえ,戦前的な感覚で「オマエは不敬罪相当になる罪な言動をしている」などと,方向感覚ならびに時代の完成を喪失ごとき意見は,まったくに無用である。

 さて,コンノ ケンイチ『天孫降臨 日本古代史の闇-神武の驚くべき正体-』徳間書店,2008年という本を読んでいたところ,第5章「昭和天皇における闇の深さ」(227-306頁)が,昭和天皇のいかにも人間らしい〔誰にでも備わっているという意味での〕狡猾さを,これでもか,というほどに追求していた。

 コンノの同書が言及した論点はさらに,つぎの※-5を設けて,こちらで議論することにしたい。 
 

 ※-5 デーヴィッド・バーガミニ,いいだ・もも訳『天皇の陰謀 前・後篇』原著1971年,れおぽーる書房,日本語訳 1973年

 1) バーガミニと秦 郁彦

 このデーヴィッド・バーガミニ『天皇の陰謀 前・後篇』(原著1971年,れおぽーる書房,1973年,のちの新装版は『隠された昭和史 全7巻』NRK出版部,1988年)は,いまから40年も以前に日本語訳が発行されていた。 

バーガミニ・7分冊版・画像資料
 

 ここでは参考にまで,7分冊に分割された新装版に付けられた「各巻の題名」を紹介しておく(上の画像の出所は,http://martin310.exblog.jp/17305279/ )。

  1.   世界最終戦の勝利と敗北     2.   帝国の没落と東京軍事裁判
     3.   東条英機と真珠湾への道     4. 南京大虐殺と原子爆弾
     5.   2・26事件と天皇の裏切り    6.   ポツダム宣言と天皇人間宣言
     7.   満州事変ー泥沼のはじまり

 本ブログ筆者は,当時としては高い定価の本〔 ← 1973年版『前・後篇』のことで,各冊が¥1500で計¥3000〕であったけれども,早速これを買って読んでみた。このバーガミニ『天皇の陰謀』原著1971年(日本語訳:1973年)を,日本の天皇・天皇制の歴史:現代史をきびしく批判的に追跡しつつ描いた著作として,非常に興味深く読んだ記憶がいまでも残っている。 

 なお,本書のアマゾン「ブック・レビュー」としては,つぎのものが☆5つの評価で寄稿されている。これを紹介しておきたい。

       ☆ 日本人が目を背けてはいけないこと ☆
           = 2012年5月2日 =

 日本国内ではタブーとされている天皇家,日中戦争,海外での皇族の犯罪と略奪を外国人の視点で描いた書。日本国内ではあまりしられていないが,同書を元に焼きなおされた国内,海外小説数点あり。

 昭和天皇以前の天皇家がいかに無責任で傀儡であったかが良くわかる。それをみるにつけ,今上明仁天皇様が,お一人で過去からの責任を含め,全うしようとしているお姿は涙ぐましく感じます。

 それもこれも,我々日本国民の安泰を何より願っておられるからでしょう。頭が下がります。 

バーガミニ「書評」

 さて,コンノ ケンイチ『天孫降臨 日本古代史の闇-神武の驚くべき正体-』2008年は,デーヴィッド・バーガミニ『天皇の陰謀』1971(1973)年について,こう論及している。

 なお,ここではまえもって,国家官僚から大学教員〔拓殖大学・千葉大学・日本大学〕になった「秦 郁彦」という,しかも「御用学者らしき学風」をしっかりと有した立脚点から「日本現代史を専攻した歴史学者」の存在を念頭に置いての話となる。

 バーガミニは『天皇の陰謀』を執筆するさいして「日本の資料を集め,整理するために,当時防衛庁の文官であった秦 郁彦の世話になった,と書いている。バーガミニは自分の資料の不確かさを秦 郁彦にチェックしてもらっていたはずである」。

 ところが,秦 郁彦『昭和史の謎を追う 上巻』文藝春秋,1993年「の第1章に『天皇の陰謀のウソ』というタイトルで延々とこれでもかとこれでもかと秦はバーガミニを追及している」(同書,21-24頁参照)。

 当初「バーガミニは秦 郁彦に助言を受け,大いに感謝している。しかし秦はバーガミニの本を偽善と決めつけているのである」。鬼塚英昭は「この秦の書いた文章を読んで,ほんとうに呆れた。私は秦 郁彦のほうが,歴史の偽造者仲間の1人に違いないと思っている」とまで裁断するほど反発している(コンノ『天孫降臨』275頁)。

 2) 秦 郁彦によるバーガミニへの助力

 国家官僚それも軍部〔防衛庁(現防衛省)〕出身の秦 郁彦である。現代史を研究する歴史学者としてこの者が保持する立場をあえて詮索するとすれば,よほどの偏屈者でもないかぎり,国家寄りの執筆をする傾向を出自的に有すると見当をつけて,けっして間違いにはならない。これは偏見ではない。秦のような歴史研究家は,一種独特の資質を不回避に備えていた。

 本ブログの筆者は,アメリカ人研究者バーガミニと日本人研究者秦とのあいだに,それも事後において発生していたと思われる関係事情を,つぎのように推理する。

 秦は,防衛庁文官の時代に自分を訪ねてきて教えを乞うたバーガミニを,日本の天皇を研究してくれる,それも〔=だからというべきか「うれしく」思い〕好ましくみえるアメリカ人の日本史研究家とみなしていたはずである。それゆえ秦は当時,バーガミニに対しては喜んで,あれこれ親切に指導してあげていた。

 ところが,バーガミニがのちに著作を完成させ公刊した『天皇の陰謀』をみると,その内容は,昭和天皇が「受け身の君主ではな」くて「戦争を企てた張本人として裁かれるべきだった」という主旨になっていた。

 このことから秦は以後,バーガミニを「歴史の偽造者」と罵倒し,著作『天皇の陰謀』を「悪書」と決めつけた(コンノ『天孫降臨』274頁)。秦側においてバーガミニに対する,こういう評価がどうして生起したのか,もっと注意深く観察する余地がある。

 バーガミニ『天皇の陰謀 前篇』の「著者から読者へ」は「歴史学者秦 郁彦は,15年間作ってきた個人的なノートを利用させて下さった」と語っている(同書,前篇,同所ⅩⅩⅩⅠ頁)。

 この事実は当初,秦がいかにバーガミニの研究のためになる手助けを親切に与えていたかが理解できる。だが,バーガミニは研究の成果として昭和天皇に対する歴史的な評価をこう下していた。

    私の評価では,裕仁は,倦むことを知らぬ,一身を捧げた,細心で,狡猾な,辛抱強く,忌むべき戦争指導者であった。彼は,彼の偉大な祖父〔明治天皇〕から,アジアを白人から奪い取るという使命を引き継いでいた。国民が抵抗し,尻ごみしていたので,彼は,戦争前20年にわたり,その課題の心理的および軍事的準備を国民にさせるべく,巧妙に彼らを操作したのである(同上,同所,ⅩⅩ頁)。

 バーガミニによるこの「天皇裕仁」評価は,戦前体制における日本帝国の軍国主義体制を天皇に集約して代表させ,そして象徴させて表現している。秦にとってこうした「大元帥天皇に対する評価」は,「飼い犬に手を噛まれた」--バーガミニには,親切にあれこれ教導してあげたのに,まったく意に反した,気に入らない天皇評価を結論された--ような顛末に感じられた。

 秦が以降,そのような自分にとっては〈予想外の結論〉をもちだしてきたバーガミニに対して,研究者の立場からであっても「精一杯の悪口雑言を浴びせることになった」ゆえんは,そうした経緯に求めていいはずである。

 バーガミニは「私は,裕仁を “陰謀” の指導者として描かねばならない」,「裕仁は,第1に日本を西洋との戦争に導き,次いで,敗北した場合に記録を不分明にするために,召集の者と隠密裏に画策していたのである」(同上,同所,ⅩⅩⅤ頁)と,昭和天皇を裁断していた。

 その論旨は結局,秦が許容しうる「日本現代史としての天皇研究」の範囲をはるかに超えていた。バーガミニは,秦が予想だにしえなかった天皇研究の結論を提示した。秦にとっては,バーガミニに対する教導が “予想外の展開” になっていた。

 秦はおそらく, 「飼い犬に手を噛まれた」というよりは,自分の喉元にまで襲いかかってきた狂犬であるかのように,バーガミニをみなおさねばならない気分に襲われたのではないか,とそのように推測しておく。

 つぎの画像資料はバーガミニ『天皇の陰謀』日本語訳版,1973年の函に印刷された同書の解説である。なお,この宣伝文句として謳われている解説は,画面をクリックすれば拡大表示される。

バーガミニ『天皇の陰謀』前後篇・函から

 3) 秦 郁彦の「国家寄り」の日本現代史-国家の立場に居た秦 郁彦-

 秦 郁彦が旧日本軍にかかわって南京虐殺事件や軍事性奴隷〔慰安婦問題〕を論じるときの姿勢は,これを「歴史の事実」として認めざるをえない立場であっても,なるべく「皇軍の関与」や「加害者」性を少なめにか,あるいは,できれば〈それはなかった〉ことにしたい「歴史解釈の立脚点:姿勢」を貫いてきた。

 一見したところの彼は,「自虐史観」「反日論」に対してひたすらムキになって反発・反論する「単純思考の国粋ヤマト民族派」(いわゆるネトウヨ的に極右陣営の未熟人たち)とは明確に一線を画した「学究のポーズ」をまとっている。しかも同時に,それがいかにも学究的な立場に立ったかのような体裁で発言や論評をおこなってきたところには,日本国家主義的な世界観が潜んでいた。

 結論的に示した秦の歴史研究の立場は,旧・大日本帝国に対する思いに関してとなれば,どうしても混濁した問題意識が,最後の最後まで払拭できなかった。学問研究の基本姿勢として彼は,体制批判を初めから徹底しえないその立場・イデオロギーに局限されていたゆえ,当初から官許的な志向の限界を赤裸々に露出させていた。

 しかし,かといって秦の立場は,「国家の立場」寄りである自身のイデオロギー的特性を,論説の展開のなかでは必らずしも直接かつ明白に断わらない。すなわち,自分の深部に控えている国家主義性向である研究の方途を 隠していた。その点は逆接的にであったが,まさしく正直に「国家の立場」寄りである自分を告白したようなものであった。

 とはいえ,秦ははまた,国家体制へ偏倚(へんい)した自身の立場を意識したうえで,執筆していた。それゆえまた,その付近の色あいは,意識して粉飾・脱色させる工夫もわすれなかった。だが,学術・研究にたずさわる者で,しかも専門領域を同じする研究者にとってみれば,その程度の装飾ぶりはいとも簡単に見破れた。

 補注)参考にまで指摘しておけば,秦 郁彦は山口県田布施町に近い防府市の生まれである。前段においてその地名が出ていた。この地名「田布施町」は,明治維新という歴史問題に深い関係を有していた。岸 信介と佐藤栄作はその地の出身者であった。

 だからこそ,秦は自身の「学問的な立場」そのものが純粋に,それも客観・公正的に堅持されかつ確実に徹底されているかのように,いいかえれば,それには思想的な片寄りなどなく,公平・万全な志向性でもあるかのように,いつも可能なかぎりで綿密に論陣を張っておく留意もなされている。

 とはいっても,秦の場合どうやっても,軍部〔防衛庁〕の文官「出身」という経歴が根っこに控えて(隠れて)いて,特定の強い影響を与えている。この影響要因が,彼の学問精神においては「切り捨てることのできない」「国家意識の正直な反映」となって表象されており,当然のこととして,その学問営為の方向も具体的に定めていた。
 

 ※-6『天皇の陰謀』という書名

 したがって秦 郁彦は,自分の思想的な立場から判断して,著作の題名からしてもとうてい〈許しがたい〉とみなしたバーガミニ『天皇の陰謀』に対しては,のちにあらんかぎりの悪評(痛罵)を送りつけた。こうなると,日本現代史研究において秦流に踏まえるべき「学的な〈規準〉」がどこにあったかは,よりいっそう理解しやすくなっていた。

 結局,この国日本は,天皇制を政治的制度として現実にもち,しかも尊崇すべき天皇を戴いている。ところが,これを仮にも「天皇の陰謀」などととらえて批判したバーガミニの『天皇の陰謀』は,日本「国家の立場にとって不利な歴史研究」であり好ましくない,ということに帰着する。これが秦の「原初から究極までの立場」であった。

 だが,秦のような悪評などによって,これまで評判をおとしめられていたバーガミニ『天皇の陰謀』が,最近では逆の好評をえている。「バーガミニの〔天皇〕陰謀説」という「『確信』は『まったく正しかったことが証明された』」(森山尚美 = ピーター・ウエッツラー著『ゆがめられた昭和天皇像-欧米と日本の誤解と誤訳-』原書房, 2006年,222頁)といわれるまで,評価が再転していた。

 秦がなぜ,バーガミニにしりあった最初のころにはみせた指導的・協力的・好意的な姿勢を急転させて,その後はバーガミニの本を偽善・悪書,そしてバーガミニ自身を偽造者とまで悪口雑言を浴びせなければならなかったのか? その意味・意図・意向をひととおりは探ってみる価値がある。

 バーガミニ『天皇の陰謀』にくわえられている「最近の再評価(好評)」は,より正しい見地,つまり日本の現代史に関するよりまっとうな理解・分析・批判であったに過ぎない。そうであったとすれば,秦が繰りだしてきバーガミニに対する「攻撃的な非難」「執拗な罵倒」(罵詈雑言)の裏側には,つぎのごとき「日本人的な精神心理」が控えていた。

 実は,天皇・天皇制に関する研究において,秦〔のような国家寄りの思想・立場〕側の弱みを,『天皇の陰謀』が真正面より的確にかつ正直に暴いていた。この事実は,秦のような国家側に親密な価値観を抱く「知識人・研究者」にとっては,地団駄を踏むほどに悔しい出来事を意味した。彼は実際のところ多分,バーガミニに対しては怒り狂っていたと推察できる。

 すなわち,敗戦後は意図的に喧伝された「平和を愛していたとされる天皇裕仁」のイメージは,もとより事実ではなかった。軍部などに引きずられてしかたなくも,この国をあの戦争に突きすすませたのだという「昭和天皇:大元帥に対して敗戦後になって計略的に形成された粉飾のイメージ」,いいかえれば「われわれがこれまで間違えて」一般に教えられてきた『裕仁天皇の虚像』が,バーガミニ『天皇の陰謀』によって根本から再批判され,あらためて,その訂正を要求された。

 GHQの中心となったアメリカ側は,日本を占領・支配するに当たっては,日本の天皇・天皇制に対して「歴史的な操作」を施しておくことにした。昭和天皇は「平和を愛していた」などといったごとき,それもごく彼の精神の一部分に潜んでいたに過ぎない「戦時体制期における大元帥陛下の真情」にまつわる潜在的可能性を,拡大鏡を当てて意図して最大限に強調しておく方策を採った。

 敗戦後における「統治政策としての戦術:昭和天皇利用計画」は,そのように具体的に展開され,実際にもその効果を上げた。この天皇を「擁護し,かつ利用していく作戦」は,敗戦後における日本社会のなかに浸透させるよう執拗に実行され,そして成功した。    

 たとえ,昭和天皇が戦争を本当はしたくなかったとしても,実際に始まってしまった戦争過程のなかでは,大元帥の役割をりっぱにかつ存分に果たしてきた。当時における天皇裕仁のこの姿容,たとえば「白馬に跨がる勇姿」は,

大日本帝国陸海軍大元帥時代の天皇裕仁

 この彼が,敗戦後は日本側「言論界の強力な協力」もえながら,戦術的に構築されたような天皇像,いいかえれば「平和を愛好する生物学者の天皇」の核心ではけっしてありえなかった事実を,視覚的にも強く訴えていたはずである。

 秦がやっきになってバーガミニ『天皇の陰謀』の学問的な価値を否認〔この本は悪書だと罵倒〕したのは,現在も民主主義国家体制にあるはずの「日本国」の中枢部に「封建遺制的に居座っている天皇・天皇制」を,バーガミニ『天皇の陰謀』が「戦争責任の歴史的な問題」にからめて,基本的に考察,真正面より批判し,なおかつ,徹底的に剔抉しえていたからである。
 

 ※-7 付 論-アメリカの陰謀-(追記)

 ※-6などの記述内容に関しては,つぎのように語った人もいた。

 バーガミニはこの1983年の新書版(全7巻〔のほうのこと〕)の第1巻の巻頭の「新版への序文」で,驚くことに、アメリカで大ベストセラーになったこの書で,「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と書いているのだ。「私の愛国心は幻滅に帰した」とも。

 つまり,敵国の天皇の陰謀を暴いた書を評価されると思ったところ,まったく逆に,エドウィン・O・ライシャワーを中心とする,アメリカのまさしく権力エリートらが,バーガーミニの著述家としての活動のすべてにわたって,完全に抹殺するように総力を挙げて襲いかかったというのだから驚きだ。このことはなにを意味するのか?

 要するに,同じサタニスト世界権力側の人間の内幕を暴いたことが,彼らの逆鱗に触れたのだ。天皇裕仁の秘密を晒すことは,彼らの陰謀の内幕がばれるからだ。

 註記)ブログ『Martin Island ~空と森と水と~』の2013年02月12日における記述,天皇の陰謀を暴いたバーガミニ:太田 龍講演録より」。

 補注)ライシャワーからバーガミニに繰り出されたこの「敵対的な評価,攻撃的な対応」としての基本姿勢は,別の記述を用意し,そのなかで説明する予定である。ただ,ここでさきに断わっておく点は,こういうことがらとなる。

 バーガミニが天皇・天皇制を批判する『本格的な研究書』を公刊した。しかもその基本の立場は,昭和天皇を真っ向から批判し,断罪していた。敗戦後史における「米日間の国際政治」の舞台においては,それもとくに講和条約が成立・発効するまでは,アメリカ側が「昭和天皇の適切な利用」を裏舞台において努力していく政治過程を形成していた。

 ところが,その第2次大戦後において志向された「アメリカ側の利害追求の観点」をめぐり,つまり「日本の昭和天皇」の「国際政治的な利用」をめぐる評価に関する論点に関しては,これを真っ向から否定し,対立する判断を論及したのがバーガミニの立場であった。ライシャワー(ら)はおそらく,このバーガミニが執筆した「天皇批判の研究書」の登壇に驚愕し,大いに脅威を感じたのである。

 ライシャワーはそのように,「バーガミニの立場全体」を「亡きものにしようとする〈陰謀〉」をしかけた。つまり,アメリカの日本占領政策史の記録にとってバーガミニの「天皇・天皇制批判研究」は,非常にまずい・不都合な業績を意味したわけである。

 以上の記述だけでは,まだ判りにくい議論になっているかもしれない。ただし,本ブログではすでに,ライシャワーが太平洋戦争が開始したすぐ直後の時期,日本帝国を敗北させあとには「この国を占領・支配することになるアメリカ」が,「昭和天皇を操り人形(puppet)にして統治・運営していけばよい」と主張する文書を書いていた史実のみ,あらためて断わっておく(この問題点の議論は別に,記述をしたてて追論する予定)。

 さて,つぎに引用しておくのは,いまから114〔121〕年前の文章である。

 一昨日,有栖川宮邸で東宮成婚に関して,またもや会議。その席上,伊藤〔博文〕の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて,伊藤のいわく「皇太子に生れるのは,全く不運なことだ。生れるが早いか,到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ,大きくなれば,側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は,操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。--こんな事情をなんとかしようと思えば,至極簡単なはずだが。 

 皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は,これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが,現代および次代の天皇に,およそありとあらゆる尊敬を払いながら,なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を,敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時,一日本人がつぎのように表明した。「この国は,無形で非人格的の統治に慣れていて,これを改めることは危険でしょう」と。

 註記)トク・ベルツ編,菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』岩波書店,1979年,204頁。なお原文は改行なし,ここでは1カ所入れた。皇太子とはのちの大正天皇のこと。

『ベルツの日記』引用

 本日,以上の記述は「歴史の事実」に関する説明である。天皇への好き嫌いの感情の問題や,天皇制を支持する・しないといった次元の論点ではない。こういった問題の性質,議論の仕方については,不必要な過剰反応あるいは条件反射(パブロフの犬)的な現象が飛び出てくる可能性があるかもしれない。しかし,ここでの議論は,感情をクソミソ的に混入させる短絡的な非難(批判にあらず)を不要としていた。

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