社会科学方法論-高島善哉の学問(8)
その間,この「社会科学方法論-高島善哉の学問」と題した連続ものの記述は,「本稿(7)」まで進行してきたが,今回は,少し間が空いての「本稿(8)」の記述になる。
なお,「本稿(8)」の初出は2014年11月20日,更新が2020年3月1日であって,さらに本日2023年6月27日に改訂の機会をえたことになる。
付記)冒頭の画像は,岩波書店・文庫版の和辻哲郎『風土論』表紙カバー。
「本稿(8)」の要点はつぎの2点に表わしておきたい。このところとくに「本稿(5)」からは,高島善哉が社会科学の「基本的な視点から対象化した」「『風土』という問題」を継続的にとりあげ議論している。
要点:1 高島善哉の社会科学論における風土の概念
要点:2 現代の社会科学方法論は,高島善哉を超えられないのか?
※-1「風土に関する八つのノート」1966年〔その5〕 -第4のノート:パターニズムの克服-
1) 新しいナショナリズムの2面性
この「第4のノート」は「文化人類学的なアプローチについて」という副題を付けていた。高島善哉いわく,戦後も20年が経過し,哲学的な用法でいえば「日本人の自己内還帰」が問題となっている。これは「新しい愛国心」を意味するものゆえ,実は「明るい顔と暗い顔を同時にもっている」。
その「真の問題」は,単に日本人とはなにを問うことではなく,いかにしてこの問題にアプローチできるか,そして,なんのためにこの問題を問題にするのかと問うことにある(高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』竹内書店,1966年,257頁)。
a) 芳賀矢一『国民性十論』冨山房, 明治40〔1907〕年
本書は,日本人の国民的・民族的な気質を「忠君愛国」「祖先を崇び・家名を重んず」「現世的・実際的」「草木を愛し・自然を喜ぶ」「楽天洒脱」「淡白瀟洒」「繊麗繊巧」「清浄潔白」「礼節作法」「温和寛恕」という10項目にまと芳賀矢一めていた。
本書はまた,明治の末年から対象の初年にかけての国民的な気分を非常によく示していた。時代の制約は免れていないとしても,日本人の国民性についてのひとつの古典的な著作である(258頁)。
今日,社会科学者の目から仮にこれを整理すれば,日本人の国民性は
「情緒的であること」
「主体と客体の関係が不分明であること」
「自分と他人の区別があいまいであること」
「すぐれてプラグマティックであること」
「受容的であること」
の5点に要約できる。
芳賀『国民性十論』の著者は文学者であって,社会科学者ではなかった。文学的な直観力において優れたところがあるにしても,それは結局〈直観的〉な範囲を出るものではなかった。また,古い日本の国民道徳にひとつの支柱を与えるための〈なんのためにの問題〉ものでしかなかった。
b) なお,当時の狂信的な愛国主義者に毅然として立ちむかった津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』〔大正5-7〔1916-1918〕年〕があったことをみおとしてはならない。
芳賀と津田の違いは,一方が文学者で他方が歴史学者であることにあるのではなく,「なんのためにとりあげたか」「それが決定的な分かれ目なのである」(258-259頁)。
補注)高島は津田左右吉『前掲書』を『文学に現はれたる我が国民性の研究』と誤記。
2) ルース・ベネディクト,中根千枝,石田英一郎
a)「ルース・ベネディクト」
敗戦後の一時期,日本の社会科学者のあいだで評判になったルース・ベネディクト『菊と刀 上・下』(原書 1946年,社会思想社,昭和26年)は,戦時下日本人の思想や行動にじかに触れていた,それもアメリカ式の文化人類学の特徴をよく披露する著作であった。
ベネディクトは,日本人に独特と観た性質を文化の特異性だとみなし,これを類型化してひとつの〈様式〉にまで盛りあげたのである。しかも,戦争中という悪条件のもと,敵国人のもののみかた・考えかたについて研究した成果は,著者の並々ならぬ才能を発揮していた(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』259-260頁)。
さて,高島の風土理論にとってベネディクト『菊と刀』は,なにを意味する仕事であったか。一方の,日常の平均的な日本人から日本文化のパターンを作りあげた努力はさておき,他方の,歴史的な感覚や歴史的研究は,まるでといってよいほど欠落している。敗戦国日本を支配し統治するという目先の目的のためであれば,いちおうこと足りる著述であったのか。
けれども,日本文化の特質とか日本の文化的風土とかいった論点を深くえぐり出すには,とうていものの役に立たないのがこの『菊と刀』である。そこに欠けているのは,ひとつにすべての類型学(ティポロギー:Typologie)にとっての歴史的直観であり,ふたつに「文化的風土」と「本来の自然的風土」との結びつきの完全な無視である。仮に新しい造語が許されるならば,このような文化類型学的な方途をパターニズム(patternism)と名づけたい(260頁)。
b)「中根千枝」
そのパターニズム(patternism)の分かりやすい一例が,中根千枝「日本的社会構造の発見」『中央公論』1964年5月であった。中根は,洗練されたかたちでもうひとつのパターニズムを現実化していた。外国旅行は「自民族と他民族との風土の違い」を強く感じさせる。
中根論文〔の「前掲」稿は加・補筆され『タテ社会の人間関係-単一社会の理論-』講談社,昭和42(1967)年に発展する〕は,自分の身を他民族のなかに置いて故国を観察した文化人類学者の感覚が流れている。まとめかたも鮮やかである。だが,新しいといえる発見といえるものはなにひとつ見当たらない。彼女はせいぜい日本社会の縦割り構造を語っているに過ぎない(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』260-261頁)。
日本の政治学者や法学者,経済学者,社会学者などには,もっと進歩的な視角からこの問題にとり組んできた人が少なくない。石田英一郎『東西抄』(筑摩書房,1965年)が指摘しているように,この中根論文のうしろ向き的性格に注意しなければならない。こういうことである。
☆-1 ひとつは,戦後日本の民主主義を積極的に押しすすめようとする気迫に欠けているばかりか,反対に,戦後民主主義をあと戻りさせようとする最近の風潮に乗せられている。
☆-2 ふたつは,いわゆる風土の問題を政治・経済・教育などの問題から切りはなして,ただそれだけのものとして扱いたがるその方法論にある(以上,261頁)。
補注)ここまで記述していて思いだしたことがある。というのも,いまから35〔40(43)〕年も以前の記憶である。
本ブログの筆者が当時勤務していた大学が新学部を新設するに当たり,「人間学科」という学科〔当時としてはまだ珍しかった名称〕も設置した。その新学部新学科の発足のさいして開催した記念講演会の主演講師に,当時たいそうな売れっ子だった人類学者の中根千枝を呼んだのであった。
中根千枝『家族の構造 社会人類学的分析』(東京大学出版会,1970年)は本格的な学術書である。だが『タテ社会の人間関係-単一社会の理論-』(講談社,1967年)のような解説的・啓蒙的・通俗的な新書版を東大教授の肩書で書き下ろした。これが社会科学者側に無用・不要の誤解を生む原因になっていたとも解釈できる。
c)「石田英一郎」
同じ文化人類学者でも石田英一郎の視野は広く,その方法にも歴史的な深みがある。石田は「永遠の日本人:コアパーソナリティの歴史的な形成」を解く鍵を,弥生時代の農耕民族に発見しようとした。
「永遠の日本人」とは,すべての日本人の思想や行動のうちに時と所を越えて現われてくる〈あるもの〉である。石田はしかも,それを絶対に不変とは考えておらず,探求すべき現代的な意義についても鈍感ではなかった。
補注)石田英一郎『日本文化論』(筑摩書房,昭和44〔1969〕年)は,「日本人の民族性とか,あるいは日本文化の基本的な特性,日本文化のパターンズというものも,その源をさかのぼればおそらくこの弥生時代に求めうるのではないか,と私は考えています」と述べている(96頁)。
しかしながら,ここでいわれた〈源〉が「日本人の民族性」「日本文化の基本的な特性」「日本文化のパターンズ」の,その〈源〉すべてを提供しうる《実体》になりそうには,とても思えない。歴史の進展なかでその「〈源〉というもの」が「徐々に積み上げられていくか」ように「段々と形成されてきた」とみなすほうが,発生史論的にはよりまともな解釈・整理ではないか?
ところで,外村直彦『日本文明の原構造-水平と求心の文化-』(朝日出版社,昭和50〔1975〕年)は,こう主張していた。
弥生文化の時代ではなく,縄文文化の時代にまで日本文化の自然風土的な伝統様式をさかのぼって観察できるというのが,こちら外村直彦の見解である。
いずれにせよ,歴史に記録されてきた「時代的な積層・重層」の,いったいどこまでを観察したうえで,日本の文化史を開始させればよいのか。あるいはまた,その弥生の時代か縄文の時代かの違いについて発生する歴史的な評価については,ここで議論をおこなっても当面はきりがないので,これ以上は触れないでおく。
しかし,それにもしても,石田英一郎の「永遠の日本人」像は,日本の風土(農耕民族という認識)から切断されている。生産力の視点まであと一歩だというのに,である。総じて,文化人類学者は自然との対決姿勢が強すぎて,自然との結びつきがを初めから拒んでいる。
いいかえれば,「人間は自然に働きかけることによって自分自身を変化させる」(マルクス)という命題に含まれる〔「変化させる」とは「作りあげる」が前提されている〕〈思想の意味〉を,もっとよく省察すべきである。同時に,マルクスへの対決の意識がこの種の省察にとってひとつの障碍になっている。
d)「高島善哉」自身
高島は,「風土理論への2つの接近方法」について,つまり地理学的なアプローチは命題(テーゼ)であり,文化人類学的なアプローチは反命題(アンティ・テーゼ)であるから,両者は当然綜合されねばならないと強調する。そしてそこに,和辻哲郎『風土』(昭和10〔1935〕年)の意義を認める。その綜合はどこまで成功したか考えたいというのである(ここで,高島善哉に戻り,『現代日本の考察-民族・風土・階級-』262-263頁)。
本ブログの筆者が「本稿:社会科学の基礎理論」を論述するなかで,とくに注意したというか警戒したいと思ったのは,時代の制約があるのはいたしかたないにせよ,高島善哉がマルクスに過剰の学的な依存心を抱き,また和辻哲郎「風土」論に過褒の評価を与えていたことである。つぎに,高島自身が和辻哲郎を批判する記述に進みたい。
※-2「風土に関する八つのノート」1966年〔その6〕 -第5のノート:卓越した着想とみじめな結論-
1) 和辻哲郎『風土』昭和10年の魅力
和辻『風土』の魅力はその文体にある。文体というものは,その人の発想法・思考様式と結びついている。文体は人柄である。和辻哲郎は哲学者であって文学者ではない。だが,彼の文体は優れた文学者の直感力と格調の高さをもっている。
日本の社会科学者にはあまり類例をみない非凡な素質ともいっていい。これが読者の心を捉える。和辻の理論への賛否はあっても,その魅力のまえでは,いわば風土的とも解釈できる共感が味わされる。
和辻「風土理論」の魅力は,「モンスーン型-砂漠-牧場」という3類型は興味深いには違いないにしても,それよりもこの2つの分類を読者に向かって詳述するその個性的な文章のなかにこそ,その魅力の秘密が隠されている。彼の生き生きと流露する直観力が欠けていれば,読者はただそこにひからびたパターニズムを気象学的唯物論を発見するだけである(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』264頁)。
補注1)高島も触れていることであるが,和辻は昭和23年12月の時点でこう語っていた。
ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ,飯塚浩二訳『人文地理学原理 上・下』(岩波書店,昭和15年),ルシエン・フェーブル,飯塚浩二訳『大地と人類の進化 上・下』(下巻は田辺 裕訳,岩波書店,昭和16・17年)の公刊以前に,自著『風土』を公表した事実に関して,
「もし当時自分がそれらの書に親しむことができたのであったら,風土学の歴史的考察はよほど違ったものになったろうと思われる」と(和辻『風土』240頁)。
これは単なる回想なのか,それても反省(?)なのか解釈のしようでは,どちらにでも受けとめられる。
和辻はそのさい「こういう体のいい〈逃げ口上〉」も付けくわえていた。
前掲,飯塚浩二の訳書2著が「日本において読まれたとなると,自分の乏しい知識による風土学の歴史的考察は,まったく無くもがなの感に襲われるのであるが,しかしこの書〔自著『風土』〕において述べているように,自分の風土学の狙いは必ずしも人文地理学と同じではないのであるから,そのための暗中模索の記録として,前文は原形のままに保存することにした」(241頁)。
補注2)和辻「風土理論」3類型を,高島は「モンスーン型-砂漠-牧場」と書いているが,正確には「モンスーン型-沙漠-牧場」である。目がみえなくなっていた高島,その助手を務めた人たちに対してこのような指摘が不要とは思われない。あえて指摘しておく。
補注3)この補注に関する議論は長めになる。
本ブログ筆者が資料ファイルを探っていたところ,『朝日新聞』1978年11月7日夕刊に寄稿されていた瀬木慎一「和辻哲郎『風土』への疑問,ヨーロッパは本当に牧場なのか-,追い越せ論に通じる危険さ」という見出し文句の付けられた〈切り抜き〉をみつけた。
この論稿は「東・南アジア=モンスーンという類型のなかに日本を含めることに対して,徹底的な批判がくわえ」,「日本はモンスーン地域というよりは,むしろ,南中国からヒマラヤに延びる長大な照葉樹林地帯の一部とみるべきだというのが今日の科学的なみかたである」と批判し,さらにこうもいう。
和辻は「牧場的風土に,ギリシャ・イタリア文化の高度な発展の必然を求め,それがヨーロッパに普遍的であることを力説」し,「あたかも」そこに「ヨーロッパがあるかのように」解説した。だが「これは,厳密には,19世紀以前のヨーロッパであ」る。
「今日,ギリシャ・イタリア文化が汎ヨーロッパ的であるなどといったら,ギリシャ・イタリアのナショナリスト学者以外は,激しく異議を唱える」はずである。
和辻は「せっかく,地中海から隔たった中部ヨーロッパに生活しながら,この風土の科学的考察をほとんどおこなっていない」。「牧場と規定することが困難なこの一帯の風土と文化をさすがに全面的に無視することができ」なかったのである。
「なぜ」和辻は「ギリシャ・イタリアを賛美し,至上としなければならなかったのか」「まったく奇異というほかない」。「こうした既成の価値観にもとづく思念の根本には,明治以来の近代日本人の理想主義的なヨーロッパ単一観が集約されていた」。
「バロックあるいはマニエリスム文化の意義に一顧もくれていない。これでは,ヨーロッパは一面しかとらえられないし,その限りでヨーロッパを抽象するならば,たちどころに,全土が緑に輝く大牧場と化し」ていく。そうであれば,まさに「『ヨーロッパの風土は湿潤と乾燥との総合としての規定せられる』からである」。
「現実的にいって,風土的にも文化的にもヨーロッパは,東,南アジアとアラブの総合ではないし,ヨーロッパそのものがすこぶる複雑であって,けっして,単元的ではない」。「文明開化の明治期ならいざしらず,昭和期に入って,なお,こうしたヨーロッパ幻想を日本最高の英才が抱いていたことは,驚異としかいいようがない」。
「それが今日まで一向に疑われることがなかったのは,不思議という以外にないが,日本=モンスーン域論が否定されるならば,それとの対応関係になるこの奇怪なヨーロッパ牧場論もいま,当然に照射されなければならない」。
以上,和辻「風土論の全面否定」にも聞こえる「瀬木慎一の議論」を,もしも全面的に受容するとしたら,いま検討している高島「風土論ノート」にも多大な影響がもたらされること必至である。
とはいっても,高島の議論は「体制-階級-民族」という以前からの枠組:発想のなかに,新しく「風土という〈問題契機〉」をくわえる社会科学論を構想していた。こちらの次元にその力点があったとすれば,瀬木の「和辻風土類型論に対する否定的な批判」とは,また位相の異なる論旨が展開されていたと受けとめてよい。
2) 風土の存在論的な把握
和辻の風土理論は,人間存在の時間性(歴史的性格)と同時に人間存在の〈空間性の側面〉に目を向け,生きた具体的な人間をこの「時間性と空間性の相即」において把握しようとした。
つまり,風土というものは,あるところではモンスーン型の人間と文化において,ほかのところでは沙漠型もしくは牧場型のの人間と文化において現われる。風土は「自然と人間の相即の場」であり,あるいはまた風土は「自然と文化や社会との相即の場」である。
ここで,風土における時間性〔=人間の文化・社会〕と空間性〔=人間の置かれている自然〕との相即とは,なにか。その2つの性格は,人間存在の構造的な契機として,どのように統一的に把握されるのか。「生きた現実の人間」はそのような構造的契機の担い手として1個の主体となっている(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』265-266頁)。
3) 自然は人間存在の構造的な一契機
2) に示した存在論的な風土の理解によって和辻は,一方でかの「地理的唯物論の機械主義」を克服し,他方で「文化類型学の文化主義」を回避しようとした。哲学的には唯物論でも観念論でもない第三の道が採られたのである。
そうして,カールソン・ハンチントン,河田喜代助・中島満洲夫抄譯『社會地理學』(古今書院, 昭和7〔1932〕年)ならびに,矢沢大二「マークハム著『気候と国民の活力』」(日本地理学会編『地理学評論』第22巻第6・7号,1949年10月,33~37頁)に対しての,文化人類学の流れに属する諸学者の仕事が,原理的に綜合されうる可能性が示されたかのようになった。
しかし,その綜合ははたして「真の綜合」かといえば,そこにはたかだか自然と文化の連関の論理が示されたに過ぎない。主体は歴史的・社会的な人間であり,そしてその構造がこのような人間の行為の連関であるといってみたところで,認識はたいして深まったわけではない。
経済学者が需要と供給の関係を説明するさい,それは価格メカニズムの構造的契機として把握されるといったところで具体的な説明にはならない。その構造の担い手あるいは構造の主体の論理が明らかにされなければ,それだけではただ自明のことを述べたに過ぎない。
和辻風土論は,自然はただ人間存在の構造的な一契機としてのみ位置づけられているが,自然はもともと人間に先行し,人間に対立し,したがって人間は自然の子であると同時に,自然に働きかける〔=これが〈生産力〉である〕ことによって,自分自身を開発していく。
和辻理論では,自然が人間存在の構造的な一契機とされることにより,自然が本来もっているその先行性が否定され,自然の客観性が観念化される。こうして風土はその本来の風土性を剥奪される。これは明らかに人間と自然についての新たな観念論である。
和辻哲学からしてもともと審美的な解釈学であった。「風土の問題はけっして単に人間存在の人間主体による自己解釈の問題ではない」(266-268頁)。
4) 天皇制の肯定につながる和辻の反動的倫理
和辻の風土概念は抽象的に理解されるかぎり,けっこうな命題である。和辻は「時間性の原則」と同時に「空間性の原則」をとり入れることによって,その師ハイデッガーを一歩抜け出したともいえる。しかし,その和辻がどこへいったかといえば,ヨハン・G・ヘルダーからゲオルク・W・F・ヘーゲルの線に逆戻りした。
この逆戻りのなかに前進ともいうべき進歩性が含まれていることは,ヘーゲルの社会観〔『法の哲学』〕のなかにも,部分的には進歩性が認められることと同様である。
ただし,ヘルダーもヘーゲルも,それより重い反動的な側面をもっていた。和辻理論においてまさに,そうした進歩性と反動性の絡みあいをみてとらねばならない(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』268-269頁)。
和辻『倫理学』は以上の2面性をよく表現しており,人間存在を「歴史的・風土的」な人間関係のなかで捉えることから始め,人間をどこまでも風土に根を下ろした歴史的・社会的な構造のなかで追求しようとする。
倫理学は人間的組織のなかにおける人間主体の研究であって,抽象的にはたしかにドイツ観念論に含まれている進歩性が認められる。しかし,この進歩性が容易に反動性に転化していく。
『倫理学 中巻』昭和17年6月は「家族-親族-地縁共同体-経済的組織-文化共同体-国家」という順序で体系化されるが,民族はこの系列では文化共同体「学問・芸術・宗教」のひとつに過ぎない。人間は国家において最高の現実性を与えられる。
したがって,左右を問わず「国家における公共性」を乱すものは〈人間の人倫性〉にそむくものとなる。和辻が天皇を国民的統一の表現者とみ,公務員のストライキをきびしく戒めているのは,注目される(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』269頁)。
5) マルクスを無視した一文化主義に原因した理由-
風土理論は結局,象徴天皇制を基礎づけるために工夫されたのか。和辻の論理には,ヘルダーやヘーゲルを越えた現代的:モダーンな要素がある。「家」と「公」を混同する絶対天皇制(忠孝一致の国民道徳)に反対し,旧道徳に反対するかぎり,和辻理論はひとつの進歩性をもちうるかのようにみえたのである。
しかし,新しい日本のナショナリズムの基礎づけとしては,その反動性を押し隠すわけでもない。だが,それは風土理論そのもののためか,それとも風土理論を展開していくと,そのしかたに問題があるのか。高島はその後者に問題があると判断する。
和辻は「自然主義と人間主義の統一」を求めていながら,人間の自然から離脱に人間主義の意義を認めようとする〈ひとつの文化主義〉に陥っている。マークハムの「国民のエネルギー」というような理念(アイデア)などは,下界の妄想として斥けられている。
その「国民のエネルギー」すなわち「国民の生産力」とはなにか。哲学者や文学者や芸術家もこの問いを発することはできる。だが,この問題に真に現実的な解答を与えられるのは,現在ではただ社会科学者だけである。
和辻はなぜマルクスやウェーバーの存在を無視したのか。その着想の豊かさにもかかわらず,その結論のみじめさは,彼がこの2人の巨人をみのがしたところから来ている(高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』270-271頁)。
補注)和辻哲郎「風土論」がなまじ,社会科学領域に進入するほかなかった『倫理学 上巻』岩波書店,昭和12年4月,『倫理学 中巻』昭和17年6月,『倫理学 下巻』昭和24年5月を執筆したことは,和辻の学問の特性をより鮮明にさせていった。その特性は社会科学性の視点を基本的から欠如させていた点に露呈されていた。
6) 高島善哉へのマルクスの影響
ウェーバーはさておき,マルクスを無視した和辻に対しては,河合栄治郎の『マルキシズムとは何か』(タイムス出版社, 昭和7〔1932〕年)に聞いておくべき価値がある。河合は同書の「結語」において,大正時代中期以降の日本社会にも浸透してきた〈マルキシズムの思想〉を,こう語っていた。
これだけ大規模の体系がマルキシズムの名において起こった。マルキシズムでない吾々はこれに匹敵するものを持ち合わせがない。彼には唯物論という哲学があり,歴史の発達に対しては唯物史観という歴史哲学がある。資本主義の将来その対策について細かく説明がしてある。
これに対してマルキシズムが出てこない前に,日本にこれと対立するような一つの体系ができていたか。これと対応するどころではない,これに一部分でも匹敵するものが日本の社会には一つもなかった。
だから,マルキシズムの侵入は空家に入って来て坐りこんだということだと思う。マルキシズムは自分の思想への眼を開かしたのみでなく,およそ思想というものに対する青年学生の眼を開かしたという一つの特殊的役目を日本の社会に果たしたのである。
マルキシズムが突いている原因,社会の弊害の核心をすっかり直してゆくのでなければ,マルキシズムが地を払うということはむずかしいのである。 註記)『河合栄治郎全集 第12巻』社会思想社,昭和43〔1968〕年,368頁,369頁。
高島が助手論文「静観的経済学止揚の方法」の初稿をまとめたのは,1928〔昭和3〕年11月18日,その定稿を完成させたのは1929〔昭和4〕年の2月のことであった。この論文の結論部において彼は,マルクス経済学の卓越性を,以下のように記述していた。
しかし,高島が祖述したマルクスの〈変革の論理〉,すなわち「資本主義体制の歴史展開」に関して確信された「未来に起こるはずの必然的な移行過程」は,20世紀の末葉になるとその効力を完全に滅失させた。
「資本主義社会崩壊のさきにその登壇が〈科学的に確実〉と〈信じられていた〉社会主義体制」の問題は,21世紀になって社会科学論の学問世界では昔話と化した。社会主義体制は資本主義体制よりさきに崩壊し,その歴史的な寿命が平均的にも短いことが実証された。
こうしてわれわれが体験してきた〈歴史の現実〉は,実際にどういう経過をたどってきたのか,あらためて確認しておく必要がある。
高島はまた,「マルキシズムの理論に於ては歴史の発展を対立関係に基づく質的変化の過程と解することにより,必然に将来への展望が問題となる」といっていた。あるいは「先ず理論の物質的基礎が問われねばならぬ」のは,
「マルキシズムの理論にとっては理論の物質的基礎がそのまま歴史的特殊性のうちに(現代社会の発展を担うものとしてのプロレタリアートの社会的地位に)求められるが故に,理論はそのまま歴史の運動法則となることができる」ともいっていた。
しかしながら,いまわれわれが生きている歴史の段階のなかで〈全地球的規模の視野〉をもっていえるのは,高島の主唱が,その完全にすべてではないにせよ,基本線では「理論はそのまま歴史の運動法則となる」などとは,もはや成立しえない現実に邂逅したことである。
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