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【小説】桜に酔うて、見る夢は ~京都キタ短編文学賞最終選考ノミネート作品~

あらすじ
 東京で就職した千絵理ちえりは軽いうつ病で会社を休職し、故郷の京都市に帰ってくる。桜が満開の平野神社で、猫のタツを追いかけ桜苑へ入るが、そこで高校の同級生だった東也とうやの姿を見る。東也はバイクの事故で亡くなったはずだった。
 東也の幻影に高校生のときの夢を思い出した千絵理は、家族に見守られうつ病から立ち直ってゆく。

 軒にぶら下がる風鈴が、ちりんと春風に鳴った。昼下がり、私は居間に寝そべりぼんやりと窓の外を見ていた。
 軒下の台には、ビオラやマーガレットの鉢植えが並べられている。そのかたわらから、タツがひょこりと顔を出した。
 タツはぶち猫で、八年前に祖父が亡くなったあとすぐ、よく庭先に現れるようになった。鼻のところに八の字の髭みたいな模様があり、貫禄がある。母と祖母は祖父が猫に乗り移り帰って来たのだと言い、野良猫だったのをうちの飼い猫にした。名前は、祖父の名前の達夫たつおから取った。
 タツは飛び上がり、掃き出し窓から、たん、と居間の床に上がった。近づいて来て、私の顔の前でしっぽを振るが、相手して貰えないとわかると、廊下へ出て行った。
 私は大学を卒業し、去年の春に新社会人になったが、仕事の忙しさと人間関係の大変さから、軽いうつ病と診断された。会社を一ヶ月休職することになり、東京から京都の実家へ帰って来ている。
 玄関の扉が開く音がする。廊下を歩く足音がして、ただいまと声がした。祖母だった。
 祖母は鞄を下ろし、ああ、疲れた、と言いながらソファに座った。
「千絵ちゃん、また、床に直に寝転んで。お腹冷やすえ」
 大丈夫やし、と呟いたけど、子ども扱いされたみたいで決まりが悪い。私はおもむろに起き上がり、居間を出て二階の自分の部屋に戻った。
 夕方、母が介護士の仕事から帰って来た。部屋にいると、着替えに上がって来た母が、ドアをノックした。
「千絵里、ただいま。これ見て」
 母は持っている小さなシールみたいなものを、嬉しそうに見せて来た。
「おかえり。なにそれ」
二葉葵ふたばあおいのステッカー。上賀茂神社でもろてん」
 ふうんと呟くと、母は私の反応に不満げに言った。
「これ、レア物なんよ」
 ヤサカタクシーの二葉タクシーに乗り、その領収書を上賀茂神社に持ってゆくと、二葉葵のステッカーを授与して貰える。二葉タクシーは京都に二台しかなく、なかなかお目にかかれない。
「あんたにあげよか。持ってたら、ええ出会いがあるんやて」
「別にええって。余計なお世話」
「そう。でも、おじいちゃんは、千絵里が結婚するまでは死ねへん言うて、楽しみにしてはったなあ」
 彼岸の最中さなかだからか、亡くなった祖父にかこつけて、お仕着せがましい。私が黙っていると母はドアを閉め、寝室に入って行った。

 あくる日、私はふらっと散歩に出た。秀吉が作ったという御土居の前を通り、北野天満宮を左手に、天神川にかかる桜橋を渡る。正面には平野神社の鳥居が見えて来た。この神社には、高校の同級生である明日香が、巫女として働いている。顔を見られたらいい、くらいの気持ちで神社に向かった。
 平野神社は約六十種の桜が四百本も植わっている。この時期は境内が桜の花に覆いつくされ、本殿や摂末社は花の陰に隠れてしまう。その豪奢な情景を見ようと、大勢の人が毎年詰めかけるのだ。
 鳥居をくぐると、樹という樹の桜の花が、薄桃色や薄紅や白に咲き乱れていた。手水舎で手を洗い、桜の神紋の提灯が並ぶ楼門をくぐる。本殿の前で手を合わせ、ふと横を見ると、左手のフェンスによじ登るタツの姿を見つけた。フェンスの向こうは神社の桜苑だ。
 タツはフェンスの上から、桜苑の中へ飛び降り、歩き出した。飼い猫になってからも放浪癖が治らないのだ。私はタツを連れ戻さなければと思い、桜苑の入り口へ向かった。
 入場料を払い、一歩苑内へ足を踏み入れる。思わず見上げると、空は一面うす桃色に染まっていた。歩くたび、はらはらと花びらが頭上や肩先に舞う。地面も落ちた花びらで埋めつくされ、どこを見渡しても、うす桃色の花びらと木洩れ日が目映かった。
 小径の脇には菜の花が向こうまで並んでいる。そこをタツがすり抜けてゆくのが、前の方に見えた。私が早足で追おうとした時、つむじ風が起こり、桜の花びらが目の前に降り注いだ。
 風が止むと風景の奥にある、西の鳥居のあちら側が白く光っていた。その光の手前に、東也が立っている姿が見える。東也のそばにはタツもいる。私は呆然とその場に立ちすくんだ。東也は十八歳の時のままの姿だった。
 東也とタツが、光の中に吸い込まれてゆく。東也はなにか言っているがうまく聞き取れなかった。そのうち姿が見えなくなった。
 はっとして辺りを見回すと、誰もいない。あんなに大勢の人がそぞろ歩いていたのに。慌てて出口を探すが、遠近感のない桃色の世界が続く。私は困り果てベンチに腰かけた。目の前のしだれ桜の花びらが陽射しに透け、風にそよぐのを見ていると、どこからか龍笛や篳篥ひちりきや太鼓の音が聴こえた。私は立ち上がり、その音色の方へ歩き出した。
 やっと出口を見つけ、桜苑の外に出る。本殿の前には人だかりができていた。近寄ってすき間から覗くと、桜苑で聴いた雅楽の音色に合わせ、舞の奉納が行われていた。
 煌びやかな朱色の装束に身を包み、飾りを施した金色の面をかぶった人物が舞っている。烏帽子の男たちの列の真ん中で、大胆に足を上げたり回ったりする。時おり風が吹き、花吹雪が舞人まいにんの頭上に降り注いだ。私はしばらくその情景に見入った。
 舞の奉納が終わり、舞人が金色の面を取る。私はあっと声を上げそうになった。その人物は明日香だったのである。目が合ったが、明日香は烏帽子の男たちと言葉を交わし、すぐその場を去った。
 タツの姿は完全に見失った。私は家に帰り、部屋の中でぼんやりと桜苑で見た東也の姿を思い出した。
 東也は高校の同級生で、明日香とは幼なじみである。私とは漫画研究会で一緒だった。私は漫画を描きたくて漫研に入ったが、東也は読むのが専門だった。お調子者の東也とは、いつも軽口を叩き合う仲だった。
 その東也が死んだのは、高校三年生の冬休みだ。バイク事故だった。葬式で明日香は泣きじゃくっていた。

 夕方、明日香からLINEがあった。仕事が終わったから、今から会えないか、という内容だ。私はふたたび外へ出た。
 待ち合わせの喫茶店にゆくと、明日香はもう席にいた。実家に帰っている理由を話すと、明日香はお祓いの真似事をした。そんな仕事もするのかと訊くと、今日みたいに神事で舞は舞うけど、お祓いはしないと笑った。舞の名前は「蘭陵王らんりょうおう」というそうだ。
「今日さ、神社の桜苑で東也がいた。見たんよ、私」
 あっけに取られる明日香に、タツを追って桜苑に入った話を、口早に話した。話し終えると明日香は言った。
「桜って、花粉にエフェドリンって物質が含まれてて、そのせいで気分が高揚するんやって」
 エフェドリン? と訊き返すと、明日香はうん、と頷いた。
「うちの神社、今、桜満開やん。かなりの量のエフェドリンが漂ってると思うし、そういう幻も見えるかもしれへん」
「ほんとに見たんやって」
 私がむきになって言い返すと、明日香は冗談、冗談、と言い苦笑いした。
「千絵里の前には現れるんやな、東也」
 明日香が淋しげに呟く。どう答えたらいいか迷っていると、明日香はとつとつと語り出した。
 明日香は東也が死ぬ三日前に、告白したらしい。だけど、他に好きながいるとふられたそうだ。私はてっきり、東也は明日香が好きなのだろうと、思っていた。そのくらい、ふたりは仲がよかった。
「なんで今ごろ話す気になったん」
「そやな、やっと負けを認める気になったんかな」
 負け? 私がきょとんとしていると、明日香はぷっと吹き出した。
「東也が好きやったん、千絵里やで。多分」
「うそ。東也、そんなことひと言も……」
「あいつ、あほやなあ。なにも言わんと死んでしもて」
 胸が詰まって言葉が出ない。明日香は吹っ切れたような、すっきりした顔でいる。私は今、どんな顔をしているのだろう。
 そのあと、ふたりで東也の思い出をひとしきり話したが、私はどこか上の空だった。神社の桜苑で東也はなにを言っていたんだっけ。そればかりが気になっていた。

 その夜、夢を見た。神社の桜苑で花びらが舞っている。東也とタツが光に包まれ、鳥居のあちら側に立っている。
「……は、もう……らめたんか」
 東也がなにか言っている。なにかとても大切なことを。光の中へ東也とタツの姿がゆっくり消えてゆく。東也の名前を叫んだあとで目が覚めた。外はまだうす暗かった。
 私が高校の漫研にいる時、東也に描いた漫画を見せたことがあった。感想どころか茶化されたので、二度と見せなかった。漫画家になりたいと思っていたけど、大学で就活が始まるころには、絵を描かなくなった。
 ふたたび目覚めたのは、朝遅い時間だった。一階へ下り、簡単に朝食を済ませる。母は仕事が休みで、庭仕事をしていた。おはよう、と居間から声をかけると、やっと起きたの、と嫌味を言われた。母の作業をしばらく眺めていたが、母はハート型の葉の植物を、プランターに丁寧に植え替えていた。
「なんて言うの、それ」
 私が訊ねると、母は手を止めてふり向いた。
「これ? これは二葉葵。お母さん、上賀茂神社で栽培してる二葉葵の里親になってん」
「里親? なにそれ」
「葵祭で葵桂あおいかつら飾るやろ。そのお手伝いやねん」
 葵桂とは、葵の葉と桂の枝葉を絡ませて作る。葵祭の時に、神社の境内をはじめ、牛車、勅使、斎王代、牛馬など、行列の全てに飾られるものだ。二葉葵は育てにくいため、株分けして育ったものを神社が収め、毎年役立てているらしい。
 母はどうやら、この前の二葉葵のステッカー授与で目醒め、お手伝いを決めたらしかった。
 母が植え替えの作業に戻ると、祖母とタツが一緒に居間に入って来た。
「どう、これ。今度の発表会で着る衣裳なんやけど」
 青地に黄色いハイビスカスの咲いたドレスを着て、祖母はその場で裾を広げた。足腰を鍛えようと、数年前からフラダンスを習っているのだ。母も私も、素敵、似合ってる、などと祖母を褒めそやした。今日は午後からドレスを着て、最終リハーサルらしい。
「あんたも気晴らしに、なんかしたら?」
 母が作業をしながら言った。タツがソファに上がり、膝の上に乗って来る。私はうん、と頷きながらタツの体を撫でた。
 母はそのうち作業を終えたので、私は言われるがまま、三人分のコーヒーを淹れた。
 祖母は仏間から菓子箱を持って来た。
「上野さんから頂いたん。お漬物のお礼やって」
 箱を開けると、中にカランという菓子店の「舟山サブレ」と記されていた。小袋をひとつ開けたら、五山送り火の船形をかたどったサブレが出て来た。
 みんなでコーヒーとサブレでお茶していると、祖母は思い出したように、持っていたバッグから小さな紙を取り出した。差し出しながら、船岡温泉にでも行っておいでと言う。銭湯の回数券だった。
「体冷やしたらあかんえ」
 私は、うん、ありがとう、と返事して素直に回数券を受け取った。
 父はゴールデンウィークに、単身赴任先の九州から帰って来るそうだ。その話を母から聞き、コーヒーを飲み終えると居間を出た。
 タツが後ろを着いて来る。仕方がないので部屋に入れ、ベッドの上に寝転んだ。がりがりと音がするのでふり向くと、学生時代の机の引き出しを、タツが引っかいている。
 こら、と叱りつつベッドを下りた。タツが机を見てぶみゃあと何度も鳴くので、促されるように机の二段目の引き出しを開ける。中にはGペンやミリペン、漫画用の原稿用紙が入っていた。
「漫画は、もう諦めたんか」
 ――そうだ。東也はそう言っていたのだ。私は画材を取り出し、机に向かった。桜苑で見たあの光景を無心で描く。東也の笑顔を。最後にマーカーで色づけをする。絵が完成したら涙が出て来た。
 私も東也が好きだった。私は明日香みたいに彼に想いを告げられなかった。負けたのは私の方かもしれない。そう思い滲む涙を拭いながら、またペンを握った。それからは、来る日も来る日も漫画を描いた。

 休職中に、私は東京の会社を辞めアパートを引き払った。実家で暮らしていると、半年ほどでうつ病は治った。それから就活し、地元の会社に就職した。漫画は描き続けていて、SNSやブログに投稿している。そこそこファンもいる。
 三年後、私は結婚した。夫は職場で知り合った先輩だ。結婚式は身内と親しい人だけの慎ましい式にした。その数日後、タツが死んだと母から電話があった。高齢だったから仕方ないと言っていた。私は結婚するまで死ねないと言った祖父の顔を思い出し、春の空に祈った。   (了)


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