「現代詩の入り口」15 ― 揺るぎない詩のあり方にふれたかったら、好川誠一を読んでみよう

「現代詩の入り口」15 ― 揺るぎない詩のあり方にふれたかったら、好川誠一を読んでみよう

好川誠一の詩を読んでみようと思います。好川さんは詩誌「ロシナンテ」の同人でした。何年か前、粕谷栄市さんとお酒を飲む機会があって、その時に粕谷さんが「松下さん、好川の詩について書いていましたね」と言ってくれたことを思い出します。ああ、読んでいただいていたのだなと、それだけでぼくは感激していたのです。

それでは読んでみましょう。五篇あります。

*(1)

生きたいというやつがひらきなおる   好川誠一

死にたいというやつがいう
「死ぬと花になるんだ」
生きたいというやつがこたえる
「死ねば石コロになるんだ 道ばたの」
死にたいというやつがいう
「死ぬと花になるんだつてば」
生きたいというやつがこたえる
「ばかこけ へでなしいうな」
死にたいというやつがいう
「死ぬことはむずかしいんだなあ」
生きたいというやつがこたえる
「それが簡単なんだ」
死にたいというやつがいう
「めんどうなんだな なにごとも」
生きたいというやつがひらきなおる
 「ホ 本当に死にたいのか」

「生きたいというやつがひらきなおる」について

好川誠一はもう生きてはいません。今は死んでいるわけですから、死ぬと花になるのか石コロになるのかを、もう知っているのだと思います。でも、この詩を書いたときにはもちろん生きていて、死んだらどうなるのかを知らなかったのです。死んだらどうなるのかっていう疑問に対する答えは、ほんとはだれだって見当がついています。でもそれを言ってしまうとつまらないから知らないふりをしているのです。この詩に出てくる「死にたいというやつ」も「生きたいというやつ」も、死んだらどうなるのかを知っているのに知らないふりをしています。

ところで、この詩そのものは死んだあとどうなるかという疑問ほどには難しくありません。でもひとつだけ分らないのが、生きたいというやつがこたえる「それが簡単なんだ」のところです。なんで生きたいという人にとって死ぬことは簡単なんだろう。

で、そのあとを読んでみると、実は「生きたいというやつ」の心の方がむしろ追い込まれていて覚悟ができているのです。だから死ぬことは簡単なんだっていいのけることができるのです。

「本当に死にたいのか」と相手を問い詰めながら、いい加減なことを言うなと思いながら、「生きたいというやつ」はきっと涙ぐんでいたと思うのです。かつてのぼくのように。

*(2)

人間のうた   好川誠一

歩くなら
歩くなら胸を張りましよう
小さな骨から大きな骨
大きな筋肉から小さな筋肉
それらあらゆるものを背中へ折り
肝つ玉を張りましよう
途中でふと 方角がわからなくなつたら
やさしい女性の声でたずねましよう
大きな骨から小さな骨
小さな筋肉から大きな筋肉
それらみんなお腹の方へ折り曲げましよう
もしかあツときたら
かんにん袋の尾がほころびそうになつたら
そのときこそは<喜・怒・哀・楽>の
「怒」の四分の一だけ
みつちり怒りましよう
「喜・哀・楽」の四分の三を内蔵して
歩くなら
歩くなら胸を張りましよう
肝つ玉を張りましよう

「人間のうた」について

こうして自分が書いたのではない詩をPCに打ち込むのはすごく新鮮です。詩はこの行に続けてこんなところへ向かうのだなと思ったり、驚いたりするのです。高階杞一さんとやっていた共詩の感覚と似ています。まさに「方角がわからなくなったら」っていう感じがします。

この詩が書かれたのは戦後10年ほど経っての頃のことでしょうか。(あとで調べてみよう)。つまり僕が子どもの頃です。

この詩は先日国会図書館に行って昔の雑誌を画面で見ていて読んだものです。今では、デジタル化されたものは自由に読むことができます。すごいなと思います。好川誠一は無名の詩人ではありませんが、もし本当に無名の詩人の詩を読みたければそれもできます。ずっと昔に投稿欄で一度きり載って詩をやめた人の詩だって、今の時代はそれほどの手間をかけずに読めます。

ですから詩はもう、時代のすみずみまで読まれるものになっています。地域のすみずみまで手に取ることのできるものになっています。それって、あらためてすごいと思うのです。詩が一度発表されたきり捨て去られてしまうことはもうありません。日本語と、この地球がきちんとある限りは。

それで、この詩を読んで思うのは、今僕らが書いている詩と、それほどに発想のデドコロとか言葉のアツカイとかが違っていないということです。詩の歴史とか状況とかを軽視するつもりはさらさらありませんが、それとは別に、ひたすら受けついでいかれている揺るぎない詩のありかたというものもあるんだなと思うのです。その、揺るぎない詩のありかたというのは、戦後ここまで続いて来ているのですから、もうしばらくは(いつまでかはわからないけど)新しい詩人を突き上げ続けてゆくんじゃないかと思います。

この詩の好きなところは、元気のよいところです。単純で、紛れがなくて、読む人を明るい方向へ向かわせてくれるところです。

それはつまり、好川さん自身が這いつくばるようにして、生きる明るさに手を伸ばそうとしていたからなんじゃないかと思うのです。

*(3)

正直者   好川誠一

バカとバカとがすれ違って
ニッコリ笑って挨拶した

バカとバカとがすれ違って
眼をむきだしてケンカした

バカとバカとがすれ違って
おもわず わあつと泣きだした

「正直者」について

と、これはなんとも短い詩です。昔の雑誌からそのまま持ってきたものなので、不適切な表現が入っているのは勘弁してください。

この詩を読んでいますと、石原吉郎の詩の中の軽い一面、じゃがいもを書いた詩なんかとどこか共通したものを感じます。石原吉郎の、これ以上にないきまじめで深刻な詩篇群の中に、たまにうしろを向いてベロを出しているようなおちゃらけたかわいらしい詩(こちらが本来の姿なのかもしれません)がありますが、そういうのと似ています。好川と石原は詩誌「ロシナンテ」の同人で、ライバル同士でした。どちらがどちらの影響を受けたのかはわかりませんが、時代や場に共通の詩のありかたというのが、おそらくあったのだろうと思います。

三つの連でできていて、一行目はみな同じです。二行目に「笑って」「怒って」「泣いた」と、三種の感情を書いています。今どき、現代詩に感情をじかに持ちだすのは恥ずかしいことですが、詩を書いているのが人である以上、仕方がないのです。

つまり詩には、ひたすら自分(人の感情)を消そうとするものと、自分(人の感情)をあからさまにしてしまえとするものがあるということです。

好川は後者です。ちなみに僕も後者になります。選んでそうしたわけではありません。ですから言い訳のしようがないのです。感情と心中をする、って感じです。

もともと器用ではないし、武骨に書きたいものをひたすら書いていたらそうなった。それで失うものがあることはわかっていますが、失うことが恐くて詩なんか書けません。と、もちろんこれは好川のことではなくて、僕のことです。

最後に、この詩に「正直者」という題をつけたのはなぜだろう。考えてみてください。

*(4)

あかごをうたう   好川誠一

せかいじゅうのははのちぶさ
じゅんすいぬすとのあかごたちよ
こんこん
ねむりつづけることができますか
うみのむこうで
ゆりかごにかなりやはいまも
ないてますか
みどりがあまりにういういしい
あなたたちのかあいいひとみにのみ
どしてすべてのいざこざばかりがうつってしまうのでしょう
ほら
あれはどこのくにのこもりうた
ねんねこにくびをうめて
ぼたんゆきにほほずりされて
そうそう
しまは
にっぽんのきたぐにです

「あかごをうたう」について

全部がひらがなの詩です。あかんぼのことをうたっているからひらがなが似合っています。

かつて僕もひらがなだけの詩を書いたことがありますが、そういう場合、詩がひらがなに助けられてしまっていないかを確認するために、いったん漢字交じりに直して、その詩が読むに堪えるかを試していました。

この詩はどうでしょう。やってみましょう。

赤児を歌う 好川誠一

世界中の母の乳房
純粋盗人の赤児達よ
こんこん
眠り続けることができますか
海の向こうで
揺籠にカナリヤはいまも
鳴いてますか
緑があまりに初々しい
あなたたちの可愛い瞳にのみ
どしてすべてのいざこざばかりが映ってしまうのでしょう
ほら
あれはどこの国の子守歌
ねんねこに首を埋めて
牡丹雪に頬ずりされて
そうそう
島は
日本の北国です

こんなふうになります。これでも充分読むに堪えますが、やっぱりこの詩はひらがなの方が栄えます。

たとえば二行目「じゅんすいぬすと」のところは、ひらがなだとまず意味がとれなくて、しっかり読んで、ああそうか「純粋盗人」なんだなとわかって、ただひたすらに奪い取る人だからなんだなと段階を経て理解が届いてゆきます。

その段階がちょっとした感動に結びつくというわけです。

なんでもかんでもひらがなにするというのを僕は勧めません。安易に流れてしまうことがあるからです。

でも、いったん読者の読みをわざと一瞬止めたいという時は有効なのだと思います。

それにしてもこの詩、いいです。

僕が今「じゅんすいぬすと」であることができるものってなにかあるだろうかと、考えてしまいます。

*(5)

あなたも わたしも      好川誠一

しりのあおい
あなたも わたしも
 ーー ピリオードはそのとき
    うたれたのです

はだかで うまれた<罪>
はりあげた 声の<罪>
にぎりしめた こぶしの<罪>
むしゃぼる乳房の<罪>

<罪>は
せんなく
<時>を背負われ
<時>を売り歩く

ふくろうの目は実
揺れる林の巨大な
サザエのうすのなか
終点のない
目盛の上に佇ちすくむ
あなたも わたしも
善良な商人

<時>
<時>を売る

「あなたも わたしも」について

詩にとって最も重要なテーマは言うまでもなく「死」です。ですから「死」の原因でもある「時」も頻繁に詩に現れることになります。あるいは何を詩に書いたって、所詮行き着くところは同じになります。「死」を語っていたということになるのです。

好川のこの詩を、ぼくはこよなく愛します。もっとも重要で、それゆえもっともありふれた「時」を、素直に扱って詩の中に登場させています。

人を「時」を売る商人だと言ったのは、おそらく好川誠一だけだろうと思います。「時」を背負って売り歩く、というのですから「時」はさぞ重いものだったのでしょう。ひとつ売れたら、その分軽くなったのでしょうか。

疲れたら川べりに座って、肩から「時」を下ろし、河面を見つめるなんてことがあったのでしょうか。もちろん、「時の外」で。

好川誠一の詩を五篇読んでみました。好川誠一という名前、その詩を、知っている人は知っているでしょうが、たぶん多くの人には忘れ去られています。もう半世紀以上も経っているからです。

これからさらに時が経って、また半世紀が過ぎたら、今書かれている詩や詩人のほとんどは忘れ去られてゆきます。

でも、もしかしたら、運が良ければ、国会図書館の地味な書庫の地味な一ページに詩は残っていて、僕のような顔をしたニンゲンが、必死に検索して、ちょっといいなと思いながら、その日じっくりと読んでいるかも知れません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?