「現代詩の入り口」18 ― 命をしっかりつかんでいたかったら、野木京子を読んでみよう

「現代詩の入り口」18 ― 命をしっかりつかんでいたかったら、野木京子を読んでみよう

本日は野木京子さんの詩を読みます。とてもいいですよ。

次の十篇です。

「鏡の空と幻獣」 (『クワカケルル』)
「ティルトシフト」 (『クワカケルル』)
「空の水」 (『クワカケルル』)
「ウラガワノセイカツ」 (『クワカケルル』)
「渦のもの」 (『クワカケルル』)
「声のひび割れ」 (『クワカケルル』)
「樹木の声」 (『明るい日』)
「犬」 (『明るい日』)
「鞦韆(ぶらんこ)」 (『ヒルム、割れた野原』)
「プラネット、包む布」 (『枝と砂』)

では始めます。

「鏡の空と幻獣」 野木京子

行かないで まだ行かないで
そのひとの足元で小さな幻獣が叫んだ
あなたのちいさなげんじゅうを
ころしてはいけない まだ
今日は夜空が妙に透き通って 銀色の
さざ波を鋭く立てて輝く海面のようで
そのひとは星々と直接
繋がりそうになった 合わせ鏡の空に
飛びこんで砕けそうになった
それでも足元にいる小さな生きものが
ここにいるよ と低くうずくまったまま
悲しんで叫んでいた
ひととひとは疎外しあい憎みあって
ジグザグの失敗ばかりを
繰り返している 幻獣たちは
そんな暗闘とは関係なく それぞれのひとの
外側で繋がりあっている だから
あなたが行ってしまったら
わたしらもいなくなってしまうのだと
出現罪の化け物は化け物として
黙ったまま片隅で叫んでいる
どんな目の色と姿なのか
見えないしわからないまま それでも
ひとのそばには どのひとの足元にも
震えるようにうずくまる生きものが
行かないで  まだ行かないで と
彼の声を送っているから
あなたはあなたの小さな幻獣を
まだころしてはいけない

「鏡の空と幻獣」について

ひとつの物語を読んでいるようです。ひとには誰でも足下に小さな生き物がくっついている、とあります。その生き物が「行かないで」とひとにお願いしています。

ここはさまざまな読み方がありますが、「行かないで」というのは「この世から行ってしまわないで、みずから命を絶たないで」という声のように聞こえます。

つまりこの小動物はじぶんの中の「ためらい」です。「ためらい」という幻獣です。

なぜ自分から死のうとしたかと言えば、「ひととひとは疎外しあい憎みあって/ジグザグの失敗ばかり」なのだとあります。具体的なことは書かれていませんが、なんだかわかるような気がします。

人を傷つけるのは別の人です。でも、その傷つける人の足下にも小さな生き物はいて、「それぞれのひとの/外側で繋がりあっている」とあります。つまり小さな生き物は「つながり」でもあります。何だかやけに泣けてきます。

一人一人の人の生きて行くことのむずかしさを分かってくれる、その人だけの「幻獣」であり、つまりは「りかい」という名の動物でもあるようです。

いろいろな名でわたしを生きて行く方向へ向かわせてくれる幻獣です。

「ティルトシフト」 野木京子

からんとした部屋に 矩形の匣
蓋をずらして開け なかを覗きこむと
どこか古ぼけた 線の歪んだ町が入っていた
こんな わたしひとりが入りこむだけの
大きさの匣に 町があり
さまざまなものが流れるように 動いている

その町の かつての苦みの地点へと
異界の黄色い光の眼を持つ
黒い猫を追って走った
それが現実の町なのか 匣のなかの町なのか
確信を持てないまま わたしは小さく駆けたが
心の隅で予想した通り
かつての苦みの地点は土台すら消えて
天婦羅を買って戻ってきた少女が
猫の隣でぼう然と立ちつくしている

からんとした矩形は
わたしのためだけのものだから
ためしに横たわってみると
幾層にも重なった古ぼけた町も
風の揺れのように 匣の底へと雪崩落ちる
そして次々に
土台すら消えていく

「ティルトシフト」について

ティルトシフトというのは写真用語のようです。ティルトシフトレンズというものがあるようです。ですからこの匣(はこ)というのはカメラのことなのかもしれません。カメラが写した町が入っているということでしょうか。

でも、ぼくはこの匣を、一般的な匣のようにして読みたいと思います。どこか大きなお櫃のようなものを思い浮かべます。

その中に町がひとつ入っているというのですから、いろいろと想像をしてしまいます。その匣の中の町に「わたし」は入り込んで、走ります。

どこか絵本の中の町のようにも感じられます。ただ走っているのではなくて「苦みの地点」へ向かっているとあります。「苦味の地点」とはなんでしょうか。おそらくつらい経験をした場所ということなのでしょう。でも、たどり着いた「苦みの地点」はもうなくなっています。

「天婦羅を買って戻ってきた少女が/猫の隣でぼう然と立ちつくしている」のところがなんだかすごくリアルに感じられます。この少女はかつての「わたし」で、この匣の町に生まれ、育ってきた。空を見て匣をのぞき込む将来の自分の気配を感じてでもいるのでしょうか。

その匣の町に、空から「わたし」が降ってきて、寝そべり、町を押しつぶしてしまいます。カメラの中の映像を、幾重にも重なった町と、喩えているのかもしれません。

そうであるのなら、写真にしろ、詩を書くにしろ、対象物へ向けるまなざしと表現物へ変換する手さばきを、この詩は書いたものだと解釈するのは無理があるでしょうか。

「空の水」 野木京子

したびかり 心という臓器ですらないもの
その奥にたたえられた水の 水底から そのひとを照らす光

手のひらに乗せていた光の小さな生きものが 一番目の姉の手から こぼれ落
ちるように逃げていったのです 妹の生きものを檻から出してはいけないと
言ったのに

それは窓を越え 庭へと走る だれかの脳のなかで構築された世界のように
妙な円形のほのあかりの庭 生きものの笑い声が響いた それは一度振り向い
たあと その先へと消えた

夕暮れになり 庭はまだ薄闇で 空は 気体が燃えているオレンジの火の色
火は空の水に触れても消えることなく 冷たい境目の彼方へ 妹の心が吸われ
ていった 生きものもどこかの隅から きっともう 境目へと駆けこんでいる
はず

二番目の姉は 遠い町で葬儀があり 電車に乗りこんだ 西へ向かって一直線
に走っていくのだろう 夜になると 伸びていた線路はくっきりと曲がって
弾き飛ばされていく 戻ってこないひとの声が空の水に吸いこまれ 吸いこま
れたはずなのに 戻ってきて 電車のなかのひとを苦しめる

したびかりのように ほんのりと明るいその場所の光だけがひとを支えている
と 境目から 返信のように 光線が送られてきた

「空の水」について

とにかくこの詩は、冒頭の「したびかり」という言葉にしびれました。

詩って、そういう時があって、理由もわからずひとつの言葉にひどく惹かれて、それだけで感動してしまう。不思議なものです。

「したびかり」。どういう意味かというと次の行に書いてあります。「水底から そのひとを照らす光」ということです。つまりは自分の精神をあからさまにしてしまう光のことでしょうか。

ここにも小さな生き物が出てきます。野木さんの詩の重要な役回りをしている生き物です。「小さな生きもの」というのですから、「したびかり」そのものを指しているようです。つまり自分の精神です。

で、その生き物は逃げていったということですから、この精神を持った人(妹)の心がどこかに失われてしまった、ということのようです。

お姉さんが二人いて「一番目の姉の手から こぼれ落ちるように」ということなので、一番目のお姉さんが妹の心の安定を見守っていたのに妹の心の病はひどくなっていった、ということでしょうか。

四連目、妹は「冷たい境目の彼方へ」行ってしまったのですから、どうしても「死んでしまったのかな」と思ってしまいます。

五連目、二番目の姉が葬儀に行くとあるので、妹の葬儀かなと思ってしまいます。

「戻ってこないひとの声が空の水に吸いこまれ 吸いこまれたはずなのに 戻ってきて 電車のなかのひとを苦しめる」とあるのは、お姉さんが妹を思って苦しんでいることでしょうか。

最後の連の、「境目から 返信のように 光線が送られてきた」というのは、亡くなった妹の思いがこちらまで届いてきたことを表しているようです。

どこか夢幻の世界を描いているような、雰囲気のある詩です。

生きていることは
したびかりに支えられていることであり
死んで後も
そのようであるようです

「ウラガワノセイカツ」 野木京子

きょうぽこぽこがわたしのところにおりてきて
ぽこぽこ
響きもなく周りをまわっている
天空の海原は灰色でいつも大荒れ
波は絶え間なく首をもたげ 空の透き間を牙で刺す
浜辺にいるひとが海や空を見るのが好きなのは
その裏側にもうひとつ別の生があるような気がするからだ
(それはうそだよ さあどうだか)
裏側に移動できるかもしれないという思いが 浜辺にいるひとを支えている
(さあね どうだか)
ぽこぽこは手のひらの上のあかりのように
かすかなぬくもりも持っていて 気づかないときにも周りをまわっている
わたしたちが踏む薄氷の未来に向けて
(ウラガワにはウラガワノセイカツがあるのだよ)
そんなうそめいた言葉をぽこぽこはわたしの耳の近くでささやく

重い扉を開けると
隕石の匂いがする部屋の暗い底で 水枝さんはうずくまっていた
いつの間にこんなにやせこけてしまったのだろう
細い肩を逃げ場を失った小さな生きもののように震わせて
泣く以外に体の使い道がないかのように
水枝さんは震えていた

それから七年
天空からおりてくるぽこぽこしたものが
水枝さんのところにもようやくやってきた
冷え切った時間のなかにいたこのひとのところにも
ほんのり温かなものが
ぽこぽこ
彼女が気づかないうちに周りをまわっていて
そうしてやはり一緒にいるのだ
空や海のウラガワからやってくるぽこぽこ

「ウラガワノセイカツ」について

この詩の中の一行「泣く以外に体の使い道がないかのように」を読んだ時に、詩ってすごいなと、ぼくはあらためて思いました。

ところで、この詩にも小さな生き物のようなものが出てきます。「ぽこぽこ」という名前がついています。

このぽこぽこは、生きている人に未来を感じさせてくれるもののようで、そうとははっきりと書いていないけれども、前を向かせてくれるもののようです。

そこへ水枝(みずえ)さんという人が出てきます。暗い心に閉じこもっていたのが、七年経って水枝さんのところにもぽこぽこがやってきた、とあります。水枝さんも生きる方向へ顔が向いたかなと、思う一方で、七年というのは七回忌のことで(七回忌は六年後ではあるけれども)、亡くなった水枝さんがやっと成仏できたと、そのようにも読むことができます。

困難な中で、そばにいてほしい小さな生き物とともに生きることを続けようとしている人たち、そして生きることができなかった人たちを、野木さんは執拗に書こうとしています。

ところで、タイトルにもなっている「ウラガワノセイカツ」とはなんだろう。普通に考えれば「あの世」なのかなとも思うけど、そうでないもう一つの世界と、そこに住むもう一人の、明るみへ向かう自分を表しているのかもしれません。

「渦のもの」 野木京子

天へ両腕を伸ばす樹木と 横たわるわたし 時間の丘の上で 斃れた獣のように上質なものでもなく わたしはただ 垂直になるための血流の仕組みが わからなくなっていた
耳を立てていたのに 渦が近づく音は聞こえず ふいに わき腹になにか生きものが留まったことに気づいた
それは小さな子どもで 口無しのまま わき腹に貼りつくように留まっていた
わたしはあんたのおかあさんじゃないよ そう言おうとしても 言葉が消えていたので 動けずにいたら やがて ふうっといなくなった
感触だけがしばらく残った ああ いまのは自分のおかあさんと間違えて それでわたしの傍らに留まったのだ いやそんなはずはない ひとりきりで離れて渦に乗ってしまったことを“それ”だって知っていたはずだ
少し立ち寄っただけなのだと わたしがわかるまで 間があった 休みたかったのだろう“それ”は流れてきて わたしのわき腹に留まって休み そして去った
初めは大きくゆっくりまわっていた渦も 中心に近づくにつれ 流れが速くなり さまざまなことを忘れていく その小さなものでも 少しだけは持っていただろう 記憶も 流れが速くなるにつれ消えていき つかの間わたしの傍らで休んだあと また流れに戻っていった

「渦のもの」について

この詩にも「小さなもの」が出てきます。野木さんの詩に繰り返し出てくる「小さなもの」は、あるときは命を持つものであり、あるときは命のないモノであるようです。

この詩に出てくる「小さなもの」は、「生きもの」であるとされています。「生きもの」がわき腹に留まると書いてあります。それだけでこの詩に惹かれてしまいます。自分の脇腹に、目鼻のついた寂しげな生き物がくっついていて、ほっと安心している様子を考えれば、そのものがなんともいとおしくなってしまいます。

そのものの持っている寂しさを流し込むように、飼い主にぴたりと身を寄せる生き物は、多くの家にもいるようにも思います。

また、留まるという言葉は、どこか「流れさるもの」が一瞬そこに止まっている感じをも持ちます。液体の属性を持っているような感じがします。

この小さなものが留まって行くのは、渦に乗ってちょっと休むためにワタシに来た生き物です。渦に乗っているうちに記憶をなくして、かりそめの休憩から去ってゆくものとは、わたしたちすべての命のあり方を表しているのではないかと感じられてしかたがありません。

ですからこの小さな生き物は、私たち自身です。この世にしばらく休んでいるけれども、その内に記憶を失って、どこかへ飛び去ってゆきます。

命をまるごと上からのぞき込んでいるような、おおきな視野を持った詩です。

「声のひび割れ」 野木京子

西日がみんなを焼いてしまう
だから午後になるとカーテンを閉めてしまうの 茜さんは言った
部屋の外にいたときは 蝉の叫び声が空気を震わし あたりは真っ白だった
部屋のなかに入るとそれらの音は遠のいたが 蝉の声はわたしの鼓膜の内側に入りこんだまま 小さな騒ぎ声を立て続けていた 案外 蝉自身よりも声のほうが長く生きる これからいくつもの冬を わたしのなかで越えていく
茜さんは暗くなった部屋で 溶け残っているキャンドルに火を点けた
――このあかりみたいなものも
茜さんが 声を落とした
――斜めに少しみんなを焼いてしまう
わたしの右隣の壁にヤモリが数匹はりついていた おやおや 家のなかだというのに 茜さんが守ろうとしているのはこのヤモリたちなのだろうか 朽ちた木の色をしているが 枯れた枝とは違い 細い腹部と胸には 腸や心臓や肝臓や肺やらが湿度とともにひくついているはずだ
わたしがヤモリたちを見詰めていると 茜さんが言った
――この生きものたちはわたしの記憶の末裔なのです
このヤモリたちのなかに茜さんの記憶が詰まっているの? わたしが訊くと
――分散してバラバラに散らばってこういう生きものになって やがて廃墟を這いずりまわる
茜さんが答えた その声が急にひび割れはじめたので ああ もう少しでばらばらに砕けるのだとわたしにもわかった
――あなたのような管理人には わたしのことなどはわかりっこない
茜さんは最後にわたしにそう言ったようだった

「声のひび割れ」について

この詩にも小さな生きものが出てきます。この詩ではヤモリということになっていて、ワタシのそばに生きています。さまざまな姿でワタシのそばに生きているこのものは、ワタシの別の姿であり、ワタシを外から見る目にもなっています。

「蝉の声はわたしの鼓膜の内側に入りこんだまま 小さな騒ぎ声を立て続けていた 案外 蝉自身よりも声のほうが長く生きる これからいくつもの冬を わたしのなかで越えていく」のところはとても見事です。実体よりも、実体が残したものの方がずっとそばにあるのだと言っています。

生きる、ということが、目の前に姿を現していることだけを言っているのではないということです。姿をなくしても、その声の記憶があるかぎり、受け取り手の中で生きている。そのことを明確に詩に書き記しています。

後半の、「――この生きものたちはわたしの記憶の末裔なのです/このヤモリたちのなかに茜さんの記憶が詰まっているの? わたしが訊くと/――分散してバラバラに散らばってこういう生きものになって やがて廃墟を這いずりまわる」の箇所は重要です。

おそらくこのヤモリについての説明は、この詩を超えて、野木さんの他の多くの詩に出てくる「小さないきもの」にも当てはまるのではないかと思います。

そばにいる小さな生き物はわたしの記憶であると、言っています。

この記憶は単なる日々の積み重ねの記憶を言っているのではなく、かつての決定的な出来事の記憶なのではないかと思われます。その出来事が過ぎ去っても記憶はワタシにまといつき、よくも悪くも残りの人生を、ワタシはその記憶とともに生きていくことになるのだと。

生きていくというのはそのようにしてわたしたちにあります。確かに。

「樹木の声」 野木京子

小さな動物が公園の隅に逃げ込んで泣いていた
くうくう息が洩れるような音
「どうしようもないよ、どうしようもないよ」
という声が空から落ちてきた
どうしようもないことばかりが
小石のように降ってくる白昼
からっぽの公園で
空気の薄い層の隙間に
老いた樹木のような幹の硬い男が
影を縫い込んで立っていた
その男が地中に沁み込むように入って消えてしまったあと
私はそのひとのやわらかくこぼれ落ちた粒子を
拾い集めようと身を低くかがめて
手のひらを地面につけた
地面には錆や砂が散っていたので
大切なものと大切でないものがごちゃ混ぜになって
手のひらの下に集まった
陽光がキラキラする結晶の切片になり落下の途中で輝いた
からっぽの公園に立つ樹木が風の声を伝えた
小鳥たちは胸を膨らませ
彼らの呼吸に大気が揺れた
私はたおれた樹木に腰掛けて
その樹の声を聞いていた
隣にはからっぽのひとが座っていた
重く沈んでゆくもの
「悲しみがひとを支えることがある」という言葉は
公園の隅 草地の根もとで
小さな動物が震えながら語ってくれたことだ

「樹木の声」について

「どうしようもないよ」、という言葉が出てくるしかないような気持ちの人が公園で座っている、という詩です。「どうしようもないよ」。ぼくもかつて言ったことがあります。ぼくが言った、というよりも、言葉それ自身が言った、そんな感じでした。

ところで、この詩にも小さな生き物が出てきています。この生き物は自分の分身のようです。元気のないとき、だれにも慰められたくないときに、自分が自分に声をかけてあげている。

それにしても、「悲しみがひとを支えることがある」という言葉は、真の悲しみを通過した人からしか出てこない言葉だし、真の悲しみを通過したことのある人にしか分からないかもしれません。

詩の中ほどの「拾い集めようと身を低くかがめて/手のひらを地面につけた」というこの地面は、悲しみの底なのだと思えます。底にまで沈み込んだから、もう沈もうにも沈めないから、少しは強くなれてしまうのです。

隣に座った「からっぽの人」も同様です。からっぽになれば、その真空に、なにか光のようなものがかすかに差し込んでくるかもしれません。

「犬」 野木京子

地面のその場所にはなにかしらの温度があり、見えないものが奥に丸まって揺れてでもいるふうなのだ。
 両親の家の庭先で飼われていた犬が病気になり、医者に診せたが衰弱して死んだと母から知らせが来た。老嬢というべき年齢だったが、いつも裸で庭に寝そべっていたので、老嬢の黄昏時がどういうものだったかわたしにはわからない。父は業者の車を呼び、林の道へ入り、火葬をする特殊な装置を動かした。わたしが訪ねたとき、犬はひと山の骨になって残っていた。
 犬小屋をどかしたいと父が言い出し、一緒に持ち上げて動かしたら、その下の地面に穴があいていた。あの老嬢がこんなものを掘ったのだろうか。それにしても、先が細く奥深くまで続くらしいこの具合は、とても掘ったものとも思えなかった。そもそも地面にぴったり据え置かれた小屋の下に、犬が潜り込むことなどできないではないか。掘り出された地面の土はどこにあるのだろう。穴を埋め戻すにはもう夜が近いので、小屋をどかした跡に父が大きな板を乗せ、穴をふさいだ。
 その晩、泊まって寝ているわたしの部屋に、しゃりしゃりと、なにかが近付いてきた。〝しゃりしゃり“は窓枠の隙間から入って、長い縄のような生きものらしく、身をくねらせながらこちらへ這い進んでくる。尾はどこまで続いているのだろう。やがて〝しゃりしゃり”の先頭が枕もとに着いた。わたしは息を止めた。止めなければ、呼気と吸気とともにそれは境界を破って、こちらに入ってくる。
 しゃりしゃりーー
 わたしの耳もとで、それは言った。
 しゃりしゃりーー
 言い続けていた。
 しゃりしゃりーー
 連れていけ、と言うとどうなるのだろう。
しゃり……
気付くと “しゃりしゃり”は消えていた。
音が消えたということは、それが自分の穴に帰っていったということなのか。呑まれてそれの内側に入ってしまったわたしには、ただわからなくなっただけなのか。あるいはそれを呑んでしまったわたしは、見えないものが丸まって揺れているふうな小動物にでもなったのだろうか。

「犬」について

詩は、死んでしまった飼い犬の小屋の下に穴が掘られていて、誰が掘ったのだろうというところから始まります。

詩の後半で、寝ていると「しゃりしゃり」というモノか動物か分からないものが来たと書いてあります。つまりは犬の小屋の下の穴は、どうも「しゃりしゃり」のすみかのようであるらしい。

ということは、しゃりしゃりは犬のところにも生きているときに訪れて、夜ごと、犬と会話でもしていたのでしょうか。

犬が死んで、しゃりしゃりは行くところがなくなったので、ワタシのところに来たのでしょうか。

あるいはしゃりしゃりは犬の魂であって、亡くなったあとにワタシに会いに来てくれたのでしょうか。

「しゃしゃりしゃり」とは犬のことなのか、はたまたワタシのことなのか、あるいはこの世の生き物すべてのことなのか。それは読む人の解釈によるのだろうと思います。

最後のところでワタシはしゃりしゃりに飲まれてしまったのでしょうか、はたまたワタシがしゃりしゃりを飲んでしまったのでしょうか。ぼくにはその二つは、同じことなのではないかと思われ、どちらも同じくらいの深さの悲しみに思えて仕方がないのです。

「鞦韆(ぶらんこ)」 野木京子

ふいに姉の声が耳元に響きました。「き……ちゃん……」ととがめるような声で言っているのです。私には姉などいないのに。
次に違う女の人の声が耳元に響きました。「……あたし、ときどき気がつくのよ……」しゃがれた感じの声。
「……気がつくのよ……。隣の家、変なの。庭のブランコ、さびている古いの、ときどき揺れてる。誰も乗っていないのに、揺れる。あたし、気をつけて見張っているの…。夕方が怪しい。二階の西側の窓んところに立って見張ろう。 もう夕方だもの」
そうすると、確かにはるか先の方まで、夕焼けが広がっていました。 夕焼けは、赤い色ではなくて、さらさら音が鳴るたくさんの金色の粒でした。なかに入っている人もみな金の粒になっているでしょう。私が両手を目の前に出してみたら、両手も金の、くずれたかたちの粒の集合体でした。

兄さん、兄さん。
呼びかけると兄さんは、こちらを向いて微笑んだ。あの時とおなじ白い頬。
兄さん、兄さん、生姜のお茶を淹れたよ、あたたかいよ。
兄さんはゆらりとからだがかしいで、ブランコから立ちあがると、ひっそり微笑んだままこちらヘ、ベランダから庭に面したキッチンへ入ってきた。
なんだかね、そのうちに眠っているんだか、目がさめてるんだか、自分でもわからなくなって、今もよくわからないけど、ここにくると、き……ちゃんがいるから、来てしまうんだ。
その日から兄さんは私の部屋で暮らすようになったのです。
兄さんはあたたかいジンジャー・ティーの入ったカップを両手で包んで、楽しそうに湯気が立ちあがるのを見ていた。飲めないくせに、にこにこして。
私たちは小半時キッチンテーブルをはさんで、柔らかな空気に包み込まれた時間を過ごした。
やがて私が立ちあがり、テーブルを離れて廊下のほうへ行きかけると、兄さんも立ちあがり、私に近づき、それから私の身体を通りぬけて、また、消えていった。

兄さん。兄さん。
兄さんはそれから姿を見せなくなりました。私は二度、失ってしまったのです。
私は兄を二度失いました。ブランコの前に終日座っていましたが、兄はもうそこにはいませんでした。 川の音が鼓膜に流れ込みます。 兄はもうずいぶん遠くまで流れていったことでしょう。
なぜ私が川のそばの家に住んでいるのかわかりました。 知らない遠いところから、川はなにかを運んできてくれるのです。

隣の家の庭の錆びたブランコがまた、かすかに揺れていた。

「鞦韆(ぶらんこ)」について

どこかとらえどころのないイメージに満ちています。とらえどころがないという感覚は、誰も乗っていないブランコの揺れにも共通するものなのかもしれません。

この詩そのものが前後に揺れていて、でも描かれている人が乗っていないのです。乗っていないけど、背を押してあげるためにそちらへ向けて手を伸ばしてしまう。そんな感じがします。

亡くなったお兄さんがブランコの揺れから現れて、と、ここまでは幻想のようですが、そのお兄さんが私についてきて一緒に暮らすようになったというあたりは、なんとも切なく感じられます。

また、手に持ったお茶を「飲めないくせに、にこにこして。」というのは、お兄さんには命がないから飲めないのでしょう。命って、なんだかコップ一杯の量しかないように感じられてきます。

亡くなった人に似た人を町中で見た、という経験は、ぼくも持ったことがありますが、亡くなった人と暮らすという設定は、なんともすごいと思います。

小説などでも同じような設定はありますし、夢の中の出来事のようでもありますが、この詩はそれでは済まされない切実感を提供してくれています。

この詩を読む人それぞれに、かつて失ったかけがえのない人がいて、それぞれがそれぞれの体験に合わせて、この詩の中に深く入り込んでしまうのだと思います。

「プラネット、包む布」 野木京子

裏地の懐かしさ
潜りこんで
砂礫、光の伸びていく指、しろい女(ひと)
地の裏側

骨の奥に音が棲んでいるので
一心になにかを叩き
響きはじめると
水辺が薄い布のようにまくれたり伸びたりして
上空の風が渦と一緒に肩に降りてくる
音が響いて
かがみこんだ背の傍らに立ち上がってくるもの

不思議な通路よね
人々が小さく揺れて細い列がしずかに近づき
わたしの胴(からだ)を抜けて向こうへ行く夜
見えない主道路(メイン・ストリート)
夢の獣が指先から出て
からだを抜ける

たくさんの粒がぶつかる
銀色の音波が耳の奥へ引いていく
薄い布が星を覆っている

汚れていても、いいのよ
気にしないでね
擦過音が走り抜ける、暗い空(くう)
辷るように降りてきた柔らかなしろい布が
プラネットにいう
すこしくらい汚れていても、構わない
たった一つの
奇妙な迷路

「プラネット、包む布」 について

今回は「野木京子さんの詩を読む」の最終回です。

最終回なのに、ぼくはこの詩をどこまで読み取れているか、わかりません。ただ、この詩を読んで思い出したことがあります。もう死んでしまった人が、かつてぼくに話していた話です。

子供の頃、お兄さんと毛布をかぶって「トンネル、トンネル」と言ってふたりで大騒ぎをして楽しかったことがあったと、ある日その人は、唐突にぼくにそんなことを話しました。この詩を読んで、なぜかその人のことを思い出してしまいました。

何か柔らかいものを被って、その裏地を感じながら、壮大な想像力の中で遊んでいる姿です。

プラネットという言葉や、「水辺が薄い布のようにまくれたり伸びたりして」の行からは、とてもダイナミックな空間を感じますし、「汚れていても、いいのよ」の一言には、耳元でささやかれる温かさを感じることができます。

妙に懐かしくて、命の根源に裏側から触れてしまったような恐ろしさも感じます。

「汚れていても、いいのよ」という言葉は、僕の中で、
「それほど完璧でなくても、いいのよ」
「そんなに頑張らなくても、いいのよ」
「もっと生きていることを楽しんでも、いいのよ」
「だれにも勝たなくても、いいのよ」
「もっと気楽にすごしても、いいのよ」
と、聞こえてきます。

多くの詩の掲載を許可していただいた野木京子さんに、感謝します。

願わくば、「こんな感想でも、いいのよ」と、言っていただけることを。

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