「現代詩の入り口」5 - 想像力って何だろうと思ったら、鈴木ユリイカの詩を読んでみよう

「鈴木ユリイカさんの詩を読む」

 2020年の後半に三冊の詩集を出した鈴木ユリイカさんの詩を読んで見ようと思います。二十九年ぶりの詩集だそうです。それもいきなり三冊です。どれも読みごたえがあります。『サイードから風が吹いてくると』『私を夢だと思ってください』『群青くんと自転車に乗った白い花』(すべて書肆侃々房刊)の三冊です。読みでがあります。三冊の違いや内容については、雑誌に書評を書きました。そのうち出ると思いますので、そちらも参考にしてください。
 読みたい詩はたくさんあるのですが、今日は三冊目の『群青くんと自転車に乗った白い花』からの二篇です。この詩集には、実体験をもとに書かれた詩と、想像力のもとで書かれた詩の二種類があります。読んでいて考えたのは、実際に体験していないことでも、想像力で詩は見事に書かれることがあるのだということです。今日は例として、最初に実体験をもとに書かれた詩「変なことが起こっている」を、次に想像力によって書かれた詩「序曲、月の光」を読もうと思います。二つの詩が成し遂げたことを読み取ろうと思います。

変なことが起こっている 鈴木ユリイカ

変なことが起こっていると私は言った 変なことって何か言ってごらんと友達は言った 声はつめたい夜の底を這い 雪の積もった明るい寒い公衆電話ボックスを行ったり来たりしてとぎれた 彼が蟹みたいに赤い足をして横に歩いているの、つまり、ひとりで立っていられないのよと私は言った あ、それはおかしい、すぐ救急車を呼んでと友達は言った 声は東京とパリを行ったり来たりして 中間でとぎれた

救急車のひとがもごもご言っている 係のひとがでない 係のひとがでるまで十分待つ 何だか死にたくなる 夫を起こし 着がえるように言う 夫は無理をして着がえている 救急車のひとがふたり来て階段のうえとしたで夫の体を支えながら降りていく

(中略)

インフルエンザかも知れない と医師が言う X線写真をパソコンに写そうとイライラする インフルエンザではなかった 普通の風邪でも九度二分もあるのはおかしいと言う 夫は点滴して体を横たえている 部屋のなかはこんなに暑いのに夫は寒くてガタガタ震えている

  遠い 遥かなところから
  誰かがやって来るのでも なく
  何かが呼ぶのでも なく
  ほんとのことが ほんとにやって来るから
  私は川のふちに横たわり
  川がきんいろの泥と一緒にながれていくのをみる
  川はながれていく 川ではなく音楽が
  音楽ではなく 人の一生が
  どうして 私はこんなところにいて
  ひとりぼっちで泣いているのか?
  ほんとのことが ほんとにやって来るから
  世界はやはりあるのだろう

あなたはベッドに横たわり聴いていた モーツァルトのクラリネット協奏曲を そのやさしさを 熱にガタガタ震えながら 神秘のモーツァルトはドナウ川とともに十の国を流れていった 木々の成長する音がする 街々が成長する何千年という音がする 川のなかで光がはねる やがて夜明けはやって来る
私たちは家に帰れるだろうか?

「変なことが起こっている」について

 この詩で僕がぐっときたのは行頭を下げた箇所の四行目「ほんとのことが ほんとにやって来るから」のところです。ここを読んでどきりとしました。するどく突き刺さる表現です。老いた夫の病とそれに続くであろう死のことは、毎日考えないわけではないけれども、いつか必ず来るとわかってはいても今日ではないだろう、明日でもないだろう、いつかでしかない。ではその日ってなんだろうと思いながら毎日をすごしている。でもその日がきた。夫が病に倒れた。そうか、いつか必ずくると思っていた日は、ホントに来るのだという不思議な驚きが、とてもよく表されています。「ほんとのことが」というなんでもない日本語がとても怖く感じられます。
 この表現は数行先にも出てきます。「ほんとのことが ほんとにやって来るから/世界はやはりあるのだろう」のところです。そうか、これは夢の中ではなく、現実だからホントのことがホントにやってくるのだということです。世界は手に触れていて、夫とともに生きてきた年老いた私も、その姿で確実に存在しているのだということをあらためて発見しています。生まれてきて、現実の中にいたから夫に会えた。そして、現実の中にいるから、夫の病を見ることになり、いつかホントに別れることになるのだという感じ方です。
 
 言っている内容は、しごく当たり前で、だれでもが感じることのできるものです。けれど、こんなふうに無常感を表現した詩を、ぼくは知りません。「ほんとのことが ほんとにやって来る」。こんなふうに、なんでもない言葉で、ほとんどの人がわかるのに、自分だけの思いが詰まっている。そんな詩を書きたいものです。


序曲、月の光 鈴木ユリイカ

家は水の底に沈み 箱船のように
流されていた 屋根瓦も崩れそうだった
私は黒い海の黒い波に揺すぶられ
どこまでも どこまでも流されていった

(中略)

何日も何日もおひさまと月に繰り返し出会ったが
船一艘も飛行機にも出会わなかった
もし出会ったとしても 私に気づくことはなかった
これほど孤独なことは一度もなかった 何千年も 何億年も
海はこうしてたゆたっていたのだろうか
海はいったい何をしているのだろうか
この黒い海、刃物のようにいま私を傷つけている
海はいつからここにあったのか?
月の光はやさしく私は思わずあの人を呼んでみた
元気ですか? 眠ってますか?
あなたがいないと私は生きてゆけません 私を
探してください 私は今日も一日あなたに会うために
生きています こんなことが起きるとは思っても
みませんでしたね

テレビでは声を出してしゃべる犬が何匹もいますが
私もあなたとしゃべってみたいです

月の光はゆっくり ゆっくり 私のなかに入ってきた
なにかずっと前にあった香り高い思い出のように
私はあの人に会う前どこにいたのだろう
私は私の母を覚えている
ひどくやさしく とても怖い 私の母よ
昆布のように新鮮で 熱い乳が流れていた
私の母よ
私たちは母の六つのおっぱいを飲んだ あの頃兄弟も
妹も一緒にいたような気がする
ころころころところがって遊んだ清涼な野原よ
私たちはどこで別れてしまったのだろう
こんなとき母も子どもたちもみんな一緒にいることが
できたら どんなに心強いだろう
おかあさーん 私は母を呼んでみた
黒い大きな波が動き ざわりと音がした
海の底に何か恐ろしい生き物がいるのだ
鮫だったら どうするのか?
身の毛がよだつとはこのことだ

「序曲、月の光」について

 この詩は、東日本大震災のことを書いています。この詩がちょっと変わっているのは、犬の身になって書いていることです。津波で海に流された犬が考えていること、訴えていることを、人が書いています。ぼくも犬を飼っていたことがあるので、胸が痛む思いをしながら読みました。

 一番胸が痛んだのは二連目の「あなたがいないと私は生きてゆけません 私を探してください 私は今日も一日あなたに会うために/生きています」のところです。これもなんでもない言葉ですが、人を頼るという行為のなんときれいなことだろうと感じます。おそらく飼い主も、もしどこかに生きていたら、この犬に向かって「私をさがしてください」と思っていたのだろうと思います。最終連の、子犬だった頃に、お母さん犬に甘えていた頃のことを思いだしているところもすごいなと思います。「おかあさーん 私は母を呼んでみた/黒い大きな波が動き ざわりと音がした」のところは、平常心では読めません。
 
 この詩に限らず、鈴木ユリイカさんの詩は、例えば犬の視点で書くとか、もちろん詩としての工夫はあるのですけれども、それ以外はホントにまっすぐに思いを書いています。おおらかに、書きたいことを書きたいように書いている。それが鈴木さんの詩のすばらしいところだと思うわけです。なんとか人に伝わるように、ここをこうしようとか、どうしようとか、いつもこまごましたところにこだわって、詩全体の姿を壊してしまう僕としては、うらやましいほどのすがすがしさだなと思います。

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