2024年2月19日(月)劣等感のとらえ方

本日は月曜日。横浜には弱い雨が降っている。

昨日はのんびりと図書館に行ってきた。のんびりと館内を歩き、のんびりとした本を4冊借りてきた。のんびりとした気分になれるのは、やはり会社勤めから遠ざかったからなのだろう。

ぼくは勤め人の頃、月曜日の朝はいつも寝不足だった。また仕事が始まると思うと憂鬱だった。恐ろしかった。週明け前夜はなかなか眠りにつけなかった。巨大な虫にはならなかったけど、眠れたあとも、うなされてばかりだった。それでも朝になり、いやいや会社に行ってしまえば、それなりに時間は過ぎてゆく。同僚と笑ったりもした。そんなことを43年×52週も繰り返した。

ところで、ぼくが最近考えていることは、みんなができることを、できない人がいるということだ。あるいは、みんなには当然としてあるものが、ない人がいるということだ。さらに、みんなの正常値とか普通の範囲に、入っていない人がいる、ということだ。

つまり、能力にしても、肉体にしても、自分は人よりも劣っていると、みずから考えざるを得ない人がいる、ということだ。

劣っているのではなく、それは個性だ、という考え方もある。でも、当の本人はそんな言葉では納得できない。

自分だけがなぜこれができないのか。自分はなぜみんなのようになれないのか。その思いはしつこく心を満たし続ける。

ぼくも少年の頃から、劣等感に悩まされてきた。今だって同じだ。ただ、歳をとってくると、自分の劣等感に少しは慣れてくる。

それと、生きているということは、つまるところ自分と向き合うことなのかなと、最近は思っている。自分と二人きりになることだ。

自分との関係が、ほかのなによりも大事なことであり、自分が人よりもここが劣っているとか、欠けているとかは、自分と二人きりになれば、たいした問題ではないようにも感じてくる。

こんな世の中にこんなふうに生まれたのだな、と考えるよりも、ただ自分と仲良く生きていたいと思いたい。

そして、「自分と仲良く生きていたい」と思えるような自分に生まれたことは、少なくともありがたいと思っている。

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