「現代詩の入り口」14 ― めそめそしていない叙情に浸りたいなら、富岡多恵子を読んでみよう

「現代詩の入り口」14 ― めそめそしていない叙情に浸りたいなら、富岡多恵子を読んでみよう
 
 
富岡さんの詩を読んでまず感じることは、詩というものを書こうという焦りや、変な欲が感じられないということです。なんだか普通の文章をそのまま書いて、どこかの縁側で足をぶらぶらさせても詩が書けちゃう、そういうのが詩だと考えている、そんな感じがするんです。
言い方を変えれば、なんでも詩にできちゃう人っていう感じがします。思ったこと自体が人と違うからそのまま書いたものが詩になる。それって飯島耕一にも似たようなところがありますが、つまり普通の時間から詩の時間へ持ってゆく段差の高さが、他の人よりも低いんじゃないかと思うわけです。もともとの身体が詩に浸されているから、そのまま詩ができちゃう。そのすごさを感じるんです。
 
非常に大雑把な言い方をすると、戦前の詩って、基本、濡れています、あるいは湿っていました。もちろんそうでない詩人もいましたが、大雑把に言うと、涙が濡れているように、感動するというのは涙することであり、詩も濡れた叙情でした。叙情が濡れているというのは、詩を読む人にとってはとても受け入れやすいことなのです。
それにくらべると、戦後に出てきた富岡多恵子や岩田宏って、濡れていないわけです。涙の詩人ではない。乾いています。泣き顔ではなくて、無表情なわけです。というか、きりっとしています。無表情で乾いた詩を前にして、だからぼくは戸惑いました。これは詩ではないと最初思ったのです。乾いているのは散文だと。でも、だんだんわかってきたのです。無表情の奥にも叙情があるのだと。理性にも叙情があるのだと。泣き顔でなくても、遠くを見つめる寂しさがあるのだと。
 
それで、詩の読者というのは、濡れた叙情詩はすっと入ってくるからよく読むと思うんですけど、乾いた叙情詩まで読む人ってそれほど多くはないのかもしれません。でも、乾いた叙情詩も読んでみると、詩というものの幅が広がりますし、楽しみも増えます。詩とはこういうものだという考え方が柔軟になってゆくと思います。
 
自分の読みの幅を広げるには、岩田宏と富岡多恵子って、とってもいいと思います。
 

 
「between」―― 富岡多惠子
 
誇ってよい哀しみがふたつある
 
部屋のドアをバタンと後に押して
家の戸口のドアを
バタンと後に押して
梅雨の雨で視界のきかない表通りで
一日の始まる時
これからどうしよう
これから何をしよう
どちらにも
味方も敵でもないわたくし
この具象的疑問を
誰に相談しよう
戦争ぎらいで
平和主義ではないわたくし
ただ目を見開いてゆくための努力
その努力しか出来ない哀しみ
 
誇ってよい哀しみはふたつある
 
あなたと一緒にいるわたくし
あなたがわからない
だからあなたが在るのだとわかるわたくし
だからわたしが在るのだとわかるわたくし
あなたがわからない哀しみ
あなたがあなたである哀しみ
 

 
「「between」――」 について
 
富岡さんの詩の面白さは、素直に書かれていないということです。
 
最初に宣言のように「誇ってよい哀しみがふたつある」と断定していますけど、どうせこの断定は一筋縄ではないのだろうな、分かりづらいのだろうなと、想像できます。案の定、最初は主義主張が曖昧だという哀しみで、後の方は恋愛対象との関係性の曖昧さの哀しみですが、その二つの哀しみがどうして誇ってよいのかがわかりません。つまり曖昧なままでいいのだ、ということですが、でもその解釈でさえ、断定できない、断定を許してくれない、そんな気がします。
 
自分が曖昧だということを歌っていて、でもその曖昧な状態自体がいいのか悪いのかも曖昧な感じがします。それなのに「誇ってよい」と言っています。それも曖昧な「よい」なのかもしれません。
 
でも、なぜかすごく正直なんだなと感じるんです。曖昧でないと断言するよりも、曖昧だと言ってくれた方が正直な感じがするんです。
 
こういうふうに正直に書くって、自分をさらけだしているわけですから、なかなかできないんです。
 
富岡さんの詩には、同じ言葉の繰り返しやひっくり返しの遊びがよくあって、この詩も
「だからあなたが在るのだとわかるわたくし
だからわたしが在るのだとわかるわたくし
あなたがわからない哀しみ
あなたがあなたである哀しみ」
とわたしとあなたが繰り返し出てきます。
 
言葉の遊びが意味を作ったのか、意味を言い表すためにこんなふうに繰り返し言うしかなかったのか、どちらなのかわからないのですが、たぶんその両方なのかなと思いますし、こうして書かれると、リズムがあって、岩田宏の唄のように、意味はどうでも、クセになる詩なんです。
 
言葉で遊びながら肝心なこと、重要なことを言っている、ということでは、富岡さんと岩田さんって共通する感性というか、知性があるのかもしれません。
 
そして、ぼくは勉強不足だから断言できないんですけど、そういう中身の詰まった軽みって、その後あまり今の詩人に受け継がれていないような気もします。
 
深刻そうに真面目に言うよりも、軽くなんでもないふうに言われた方が、言葉って哀しみが増すんです。
 

 
「女友達」 
 
となりの
二号さんがお経をよむ
ひるさがりに
ロバのような動物が
窓のしたを通るのを見た
それをカーテンのすきまから見た
いつもカーテンのすきまから
あたしに逢いにくる女のひとがいるのに
今日はまだこない
ジョウゼットでできた
安南人のようなきものをきて
男好きのする腰つきで
かの女はくる約束をした
今日はまだこないので
今日死んだのかもしれない
このまえ
かの女と旅をしたら
田舎のコットウ屋で
ドイツかどこかの古い木版画を
ほしがったことがある
田舎の宿で
あたしはかの女の
ブリジッドバルドウのような
もりだくさんの髪の毛を
はじめてかきむしることができた
ふたりは踊った
いつまでも
からくれないの頰よせて
ウインのワルツを踊った
透明のかの女の
楽天的な詩想が
ときたま汗のようにこぼれる
のをあたしは泪とまちがえたい
かの女は今日こない
となりの二号さんのように
まひるから声をあげて
祈るのである
かの女は
こない約束はしなかった
往ける者
往ける者よ
 

 
「女友達」について
 
この詩は富岡さんにしてはきちんと何かを言っているように、一見、見えます。でも富岡さんですから、普通に普通のことを書くわけがないのです。
 
女友達が往ってしまった、とあるので亡くなったということなのかなと思います。この「往く」の字は「往生」の「往」ですね。だとしたら、その人への追悼文のようです。
 
でも一方で、詩の中に
「かの女はくる約束をした
今日はまだこないので
今日死んだのかもしれない」
と明確に書いてあって、こんなに軽く人の死を書くわけがないので、そういうことではなく、単に今日は来ないというだけなのかなとも思います。
 
そして詩の読み方としては、ぼくはどちらでもいいのかなと思うんです。
 
本来なら厳粛に書かれるべき友だちとの友情の内容なのに「となりの二号さん」が出てきたり、いつもふざけて書かないとやってゆけない恥じらいや、哀しみを感じるわけです。
 
素直にものが言えないんです。その素直でないところが詩になると、人と違った個性になって惹きつけられるわけです。いかにも富岡さんらしい屈折の仕方だと思います。
 
ふと気がつけば、その二号さんはお経を読んでいるわけです。であればやはり、女友達は死んでしまったのかもしれないとも思い、さらに、死んでしまったのは女友達だけでなく、作者自身の生存のあり方や、考え方や、すべてを葬ってしまいたいという、大きなあきらめのようなものも、この乾いた文体から受け取ることができるんです。
 
起きた出来事と、考えていることとが、ごちゃまぜになって、境目がなくなったような世界を描いています。それがきちんと詩になって、読むに堪えるというのはすごいなと思うわけです。
 
現実ではないし、かといってすべてが空想でもない。妙な世界を書かせたら、富岡さんに敵う人はいないかなって思います。

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