日記 しょうもない本質

最近、ポストずんだロックなのだをめちゃくちゃ聴いている。

めちゃくちゃ聴いているし、めちゃくちゃ刺さっている。画面をしっかり見ながら聴くと、鼻の頭がツーンとする。私はこの手の、内面の吐露を飾らずにまっすぐ伝える曲がとても響きやすいのだが、多くは聴いたり見たりする前に反射的に避けてしまうのでなかなか出会わない。ので、正面からダイレクトにぶつかってしまったこの曲をループし続けている。とはいえ、こうしてしっかりめに『食らって』しまったのは偏にこの曲の構成やメロディやずんだもんの声が素晴らしいからだろうから、出会えてよかったなあ、と思う。

今日、ショッピングモールでぷらぷら歩いているときにもポストずんだロックなのだを聴いていた。ポエトリーリーディングの曲、今まで聞いたのも良かったな……と考えていると、ふと卯月コウの革命MADのことを思い出した。すでに2、3回視聴したことがあったが、また聴きたくなって再生する。歩きながら、メロディの上に乗った卯月コウの声を聴く。

やばい、と思ってトイレを探した。もう鼻の頭がずきずき痛んでいた。こういう時ばっかり近くにトイレがない。どうにか見つけて個室に入って、座り込んで、その瞬間涙があふれてきた。
もうすでに内容を知っていたはずなのに、最初に見たときも軽く涙ぐんでるはずなのに、ちょっとびっくりするくらい泣けてしまった。ヒッ、ヒッ、と漏れそうになる声を必死で抑えて、マスクが濡れないように外して、蹲って目をトイレットペーパーで抑えながら動画を見る。
私の置かれている状況が、そこで読まれているお便りと駄々被りしているとかではない。けれど、その中でうたわれている気づきとか、思想とか、意地とか、全部がぐっさぐさに私を刺してきて、情緒がめちゃくちゃになってしまった。ポジティブな涙を流すのがあまりにも久しぶりだったから、そのこと自体にも感動していたと思う。


希望って

さんざ泣いた後、目の腫れが治まるまで卯月コウの別の切り抜きを見ていた。その中にあった『暗がりの人が暗がりの人であり続けているからこそ、明るみの人には見つけられないものを見つけるのが好き(意訳)』という言葉を聞いて、希望ってこういうことかあ、と思った。
今すぐ世界が終わればいいのに、と思い続けるような人生で、特別不幸な環境でもないのに『不幸な自分』から抜け出せない精神だから、この先は永久に暗がりが続いているに決まっている。それが何より自分の精神を蝕んでいる(ということ自体にも今まで気づいていなかった)なかで、その状態であり続けるだけで、あり続けるからこそ何か見つけられるものがあるんだ、という確信めいたものが心に降ってきたのだ。卯月コウの言葉を聞いた瞬間に。『希望を持つ』ことに逆らい続けてきた私が、明確な光を見たのだ。土曜の、ショッピングモールのトイレの中で。


本質って

物事の本質というのは、必ずしも感動的なわけじゃないはずだ。どんなものにも本質があるということ自体が幻想で、表層(に見えるもの)だけで構築されているものだって無限にあるのだろう。でも、私たちは『本質は確実にあって、さらに感動的であってほしい』と思ってしまう。あらゆるものの、心を揺さぶる中身を探し出そうと躍起になる。
今日、そんな私が探していた『素敵で胸を打つ自分の本質』の一部を、思いがけず垣間見ることができた。よりによって『希望』なんていうSSRワード付きで。『"それ"に向かって生きるのではなく、気づいたら既に"それ"を掴んでいるのでもなく、今のままあり続けることでその先に"それ"があると確信する』というのは、生き方の本質だ。そのまま言葉で語られても腑に落ちない、自分で気づく機会がないと理解できないことだ。

どんな素晴らしい教えも、全て「物は言いよう」という言葉で片付けられてしまう、と私は考えている。今回、私が涙を流しながら行き着いたひとつの結論だって、きっと既に誰かから説かれ、「それがどうした」と過去の私が切り捨てたものと結局は同じことだと思う。そんなしょうもないことが、人生の本質であるわけがないだろう、と。
でも、やっぱりこの気づきは本物で、だとしたらこの考えが本質でないはずないのだ。こと『自分の人生』なんてものの本質は、自分がそうであると信じたものすべてになるはずだから。本質というものはいつだってしょうもなくて、素敵で、壮大で、みみっちくて。ただ『それに気づいた』ということに価値をもつだけのものなのだ。

いろんなことに気づいて、でも別に新しい発見は一つもないのだ。ただ腑に落ちるためだけに同じことを考え続けているのだ。いつまでも、いつまでも、繰り返しているのだ。ポストずんだロックなのだ。


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