デザイヤー

承認欲求の話。
承認欲求という言葉は、もうすっかり身近な恐ろしいものとして浸透している。SNSが発達するのと同時に承認が可視化されてしまうのは、現状どうしようもないものだ。そもそも承認を得たいという欲は、持っているのが当たり前のものであり、問題なのはそれが『うっかり満たされてしまう』ということだと思う。


私が二次創作をしたいなと思ったきっかけは、そんなに純粋な気持ちではなかった。二次創作という概念に触れて、こんな世界があるんだ!と新鮮さを味わっていたころ。自分も発信側になっていいんだ、ということに気づいたあたりで、「これなら私も書けそう」と思っちゃったのだ。
決して見下しから来た考えではない。むしろ『これ』が指すのはどれも好ましい二次創作品たちであり、質も高く、真似しようと思ってできるものは一つもなかった。つまるところ『書けそう』というのは自身の技術力をさっぱり把握していないからこそ出た言葉であり、過信だ。この後、実際に書いたり描いたりしてみて自分の愚かさに打ちのめされるところまでがセットなのだが、今回の話とは微妙にずれるので割愛する。

そんなこんなで二次創作をやり始め、自分の力に絶望しつつも、まあまあ楽しくやってきた。いろいろ作ってみて、結構いいものができたぞ、と思って投稿し、後から見返して「なんじゃこれ」と思い、それでもたまにリアクションがもらえて・・・・・・を繰り返す、非常に健康的な時間だったように思う。

ある時、超巨大ジャンルに身を投じた。いつも通り、二次創作をいくつも見漁って、自分でも書いてみて、投稿してみた。この頃にはすっかりネットでの交流が下手っぴになっちゃっていたので、ほとんどそういうのはなく、短い作品をアップして、ちょっとリアクションもらえたら嬉しいな、なんにせよ細々やっていきましょうかね、なんて感じだったのだ。

フォロワーが500人になっていた。
はあ?である。さしてクオリティも高くなければ、テーマも凡庸なものばかりだ。今までの経験であれば、リアクションが3もらえれば上々、くらいのものだったのに、500て。そこからさらに数字は増え続け、気づけば1000に到達していた。
想像できたろうか、今までじっくり時間をかけて100フォロワーが限界だった人間が、たった数日で1000人からフォローされちゃったのだ。通知が多くて14個ずつまとめられちゃってるのだ。すぐに「ジャンルの性質と大きさのせいだ」と分かったし、自分に言い聞かせもした。私の作品がどうとかではなく、界隈の盛り上がりを支援している人が大量にいるだけだと。理性では理解していた。
が、もう、内心ニッッッッヤニヤであった。今までカッコつけて『興味ないです』みたいな顔して目をそらしていたものが、手の中にあった。嬉しくてしょうがなくて、一週間毎日投稿なんてしてみたり、日常ツイートが減ったりした。

この状況、あらゆる面でタチが悪かったなと、今になって思う。二次創作といえど「自分の作ったものに対して承認を得ている」という形のせいで、欲の満たされ方が段違いなのだ。何度も通知欄を更新して、テコテコ二次創作して、マシュマロを開く。そうして順調に承認を貪り食っていた。
しかし、それに伴って自分の作品の稚拙さにも意識が向くようになっていった。明らかに過剰な評価をされている状況にだんだんと圧迫感のような、居心地の悪さを感じるようになり、自分の書いているものが嫌いになっていき、創作元のジャンルから離れるようになっていき、もう何が好きなのかわからなくなっていった。

今はすっかり書いていない。ほかの人の作品を読むこともしていない。ここまで離れてしまったのは承認欲求との戦いのせいだけではないのだが、いずれにせよ急な承認によって私の創作活動の一つは終わってしまった。とはいえ私はそんなにさっぱりした人間ではないので、アカウントも消してなければ、気が向いて書けちゃったらまたアップしよっかな~なんて思っている。結構な期間離れているので以前のようなハイパー承認は得られないだろうが、その方が良い、絶対に。

いっぱい通知が来て、いっぱいの人が自分の作品をわざわざタップして見ていることが示された時に抱いていた感情は、喜びと、興奮と、自分が自分じゃなくなるような、正常な判断を下せなくなってしまうような、そういう類の恐怖だった。すごく自然に「こわいなあ」と思った。「こわいなあ……(震)」であり、「こわいなあ(ニチャ)」でもあった。そんなハイとローの感情が同時に来ることを何度も繰り返していれば、ストレスがかかるのも当然のことだ。娯楽としてやっていることでここまで(良くない方向で)疲れてるの、おかしくない?と思ったら、そこから手を引いたのは賢明な判断だったといえるだろう。

承認欲求は恐ろしい。醜い。人間には無い方が良い欲求だと私は思う。承認欲求が無い方が確実に悲しみが減らせる。ただ、承認欲求が無い方がより幸せになれるかというと、それはちょっとわからない。他に良い表現方法がないからこう言うが、禁断の果実だ、これは。私が触れた恐ろしさは、本来のそれの一端の一端の一端だが、それでも身を震わせるには十分だった。なのに、良い思い出でもあるのだ。だからこうして詳らかに思い出して、考えを書き起こすことができている。

承認欲求って言葉がもはや実態に対して気軽すぎるな。『衆の罪業』とかにしよう。

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