漫画

ここ最近はずうっと漫画を描いています。

幼少期からコピー用紙に描いては親や友人に見せていたのですが、中高ぐらいから漫画熱は冷めて、大学時代は一度も描かず。しかしデジタル作画が可能になり、かつ高価なipadなどが買える社会人身分になってからは、漫画創作の気持ちが再熱。そんなこんなで担当さんも付いていただくことが出来、連載に向けて執筆模索中…な訳ですが…

現在の創作軸は、

  • 商業連載のためのネームづくり

  • 自分が好む物語世界の漫画づくり(ネット投稿)

このふたつである。上記の二軸が同一化するのが理想ではあるのだが、現状、そうはなっていない。商業連載という観点からいえば、今の俺が描いている世界観はミスマッチのようだ。自分では「そんなことない!」と思う気持ちも少々あるが、結果が出ていない現実を踏まえると、二軸が溶け合っていないことは事実なのだろう。

具体的にいえば、俺は「弱い主人公」に惹かれるが、商業連載を考えると「強い主人公」に設定すべき、という点で隔たりが生じている。ウジウジと悩んで結局行動しなかったり、誰にも相談できない人間の一人称物語を書きたいと考えるが、物語を継続的に動かし続ける必要がある商業連載という形態にはそぐわない。いつまで経っても話が進展せず、周囲の人間の支えや環境で何とか一歩ずつ進んでいく物語形態は、読者を飽きさせてしまう。

そんなわけで、諸々を踏まえた商業連載提案用のネームを考えているわけだが、他方で「俺は誰かのために漫画を描きたいのか」という疑念も浮かんでくる。漫画は自分のために描くもの、さらにいえば、辛く苦しかった時代の自分に読ませるために創るもの、という意識の俺にとって、見知らぬ誰かに読ませたいという感情がどうにも湧いてこない。俺と同じような苦しみを抱いている人間に読ませたい、と考えると、どうしても「弱い主人公」を設定したくなる。しかし「強い主人公」を商業連載は望む。だがそれは過去の自分ではない。俺とは異なる葛藤を抱える何者か、なのだ。その他者のために、俺はこれだけの時間と労力と精神力を削り取って執筆しているのか?と悶々として、ペン先が止まる。連載を持ちたいのは、金のためではない。他者のためでもない。では何のためなのか。自分でもよくわからない。やはり金のためなのかもしれない。漫画で生活できたら嬉しい。アニメになったら泣いて喜ぶ。そんな気持ちがないと言えば嘘になる。ではやはり「誰かのため」に俺は描きたいのか?そんな答えが見えない葛藤を身体の奥底で延々旋回するのが、近々の俺である。

当初はこう考えていた。商業用の漫画と、個人的に望む漫画。ふたつを自分のなかで切り分けて描いていく。担当に褒められて、編集会議で通過するような企画案と構成の漫画を描く一方で、自分が本来描きたいテーマの漫画を趣味的に執筆する。だが意外とこの切り分けに苦戦している。担当からのフィードバックを、個人的に望む漫画のほうにも当て込もうとしてしまうのだ。明快に境界線を引くことができない。どちらかがどちらかへ侵食する。

と、言葉にしてみると、案外解決策は容易く見つかりそうに読める。商業用の漫画で受けたフィードバックを、個人的な漫画に落とし込む。そして、自分が描きたいスタイルを編集会議通過用の漫画に入れる。双方の相乗効果によって、前者は企画性は高いがオリジナリティのある作品へ、後者はオリジナリティ全開の一方で大衆性もある内容へと変貌する。だがこれが意外に容易くない。商業性を意識して自分の軸をむげにすれば、自分の創作の軸を捨てたような気分になり、途端にペンが止まる。俺は何のために漫画を描いているのか。稼げるだけで何年後かには忘却されるような、自分が読みたいと本気で思えない漫画を、多大な時と労力を費やして作り続けるのか。

だが、後者──商業連載を意識せずに、ただひたすら自分が読みたくて描きたい漫画──の場合だと、ペンが止まったとしても再び動き出す。

結局、作りたいというただそれだけの意識こそ、最も強大な創作の原動力なのだと痛感させられる。



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