第3章 ブッダが語る自らの死後の行方

 ゴータマ・ブッダ(釈尊)は、「死後の世界」についてどのように捉えていたのだろうか?

 私は、これらの内容を理解することなしには、「ブッダの究極の理法」を知ることはできないだろうと思っている。

 ところが、これについて語る前に、(信じるか信じないかは別として)どうしても一つだけおさえておかなければならない点がある。(誤解のないように、私がこれを信じているから、あるいは信じていないから、以下の説明を行っているのではない。)

 それは、古代インドの多くの沙門やバラモンが目的(目標)とする究極の境地とは、「輪廻からの解脱」と呼ばれるものであった、ということである。

 「輪廻からの解脱」とは、死んでは繰り返し再生されていく「輪廻転生の輪から外れる(脱却する)」ことを意味する言葉であり、それは同時に「苦の終滅」を意味する代名詞でもあった。(「輪廻からの解脱」とは「再生の要素のない境地」であるとも言える。)

 *古代インドでは、生まれ変わりによって何度も繰り返される(再死を含めた)永遠の苦しみを受けなければならないという輪廻転生説が説かれていた。そういった意味においても輪廻転生説とは、生きていることそれ自体が苦しみである(=「一切皆苦」)という厭世的な思想であるとも言えよう。

 ゴータマ・ブッダもまた、当然のこととして、こういったヒンドゥーの世界の中に産まれて生きていた人間であり、「輪廻転生からの脱却」、つまり「苦の終滅」を目指す沙門の一人であったと思う。(もちろん、ゴータマ・ブッダが、最初から輪廻転生説を信じていなかった可能性を完全には否定することはできないが。)

 仏教最古の経典にも、三箇所、「苦しみの輪廻転生の輪から外れる」こと(=輪廻からの脱却)に関する文言が記されている。

 「再び迷いの生存状態に戻らないようにせよ。」(Sn.1121)

 「再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」(Sn.1123)

 「邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?」(Sn.789)

 そういったことを念頭においた上で、生と老衰とを乗り越えたゴータマ・ブッダは、自らの死後の行方について、どのように捉えていたのだろうか?(本章の以下の考察は、忘れられてしまった仏教最古の時代に説かれていた「ブッダの理法」の核心部である。)

 実は、仏教最古の経典「パーラーヤナ篇」の中に、この問いに対して、ゴータマ・ブッダの明確な解答(ブッダが観る自らの死後の行方)が語られている。

 早速、パーラーヤナの核心部でもあるこれらの箇所の詩句(ガーター)を引用してみよう。

 『Sn.1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、浄涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

  Sn.1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

  Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

 *「滅びてしまったその人」(atthangatass)とは、断滅の(無になってしまうという)意味ではなく、「想いから解き放たれた人」、より詳しく言えば、『「想いから解脱する」という想いからも解脱した人』(沈黙の聖者たるブッダ)のことである。この箇所は、仏教最古の時代に説かれていた「ブッダの究極の理法」を理解するための重要な核心部の一つである。

 Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」( 中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』岩文庫 P.225~226)

 これらの詩句の要点を分かりやすく説明すれば、次のようになる。

 バラモンの尊者ウパシーヴァは、ブッダに次のような質問した。

 あなた(ブッダ)は死んだ後に、意識が持続するのですか、しないのですか?

 そして、あなた(ブッダ)は死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅して消えて無になって(完全滅却して)しまうのですか?

 ― と。

 それに対してブッダは、質問者に対して、何とも意外な答えを明かした。

 想いからの解脱において解脱してしまった沈黙の聖者(=ブッダ)には、そういったこと(死後に意識が持続するか否か、永久不滅か断滅か、などといったものそれ自体)を測る基準そのものがない。

 かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれ(輪廻から解脱した人=沈黙の聖者たるブッダ)には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされた(すべての「想い」と「見解」とから解き放たれてしまった)とき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。ーと。

 ブッダの返答は、実にウパシーヴァ尊者の大いなる期待と願望とを見事に裏切る解答であっただろうと思う。

 なぜなら、バラモンの尊者ウパシーヴァは、「永久不滅」か「断滅」かのいずれかの解答を期待していたに違いないからである。 

 *断滅(論)とは、死んだら無になるという思想(見解)である。

 そもそも、人間には、脱する(捨て去る)ことの難しい二つの根源的な願望(欲求)があると思う。

 その一つとは、「常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望」、言い換えれば「死んだ後も生き続けたいという願望」である。

 そして、もう一つは、「断滅(虚無、消えて無くなってしまうこと、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望」である。

 分かりやすいように具体的に言おう。

 パーラーヤナ篇に登場するブッダ(釈尊)が語っているように、人生の真実相を悟った人は、「常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望」と「断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望」とから解き放たれて (離脱し)てしまっている、ということである。

 *これらの詩句(Sn.1073~1076)の内容に関して見逃してはならない重要なポイントとは、質問者であるウパシーヴァが少なくとも存在論な(それらの存在が有るのか無いのか、あるいはその存在のあり方)視点からブッダに質問しているのに対して、ブッダは存在論的にはぼかした返答しかせず、認識論的な(ものの見方的な)解答をしている、ということである。具体的に言えば、パーラーヤナの(最も重要な核心部の一つでもある)この箇所に対する注視すべき点とは、「傍観者(第三者、凡夫)が知りたい存在論的なブッダの死後の行方」(存在の有無、あるいはそのあり方)ではなく、「認識論的(ものの見方的)なブッダが観た自らの死後の行方」(すなわち、悟った人の自らの死後の行方に対する基本的な捉え方)ということだと思う。

 実は、仏教最古の経典であるアッタカ篇にも、これ(Sn.1073~1076)と同じ内容の詩句がある。

 「Sn.856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」

 「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」ということは、分かりやすい言えば、「繰り返し再生しこのまま生き続けようとする妄執も、断滅して無になってしまうという妄執もブッダにはない。」ということだと思う。(『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳 荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄 訳 講談社文庫 P.230 参照)

 さらに、アッタカ篇の別の箇所では、バラモンの学生マーガンディアがブッダに対して「あなたはどのような生存状態に生まれ変わることを説くのですか?」という質問をするシーンがある。

 それに対して、ブッダは「『わたくしにはこのことを説く』ということがわたくしにはない」と答えている。(Sn.836~837)

 これらの一連の詩句を観ても分かるように、最終的に自らが死んだらどうなるのか、という輪廻の生存に対する「想い」や「見解」から解き放たれている境地が、まさにゴータマ・ブッダが捉えた「輪廻からの解脱(脱却)」と呼ばれるものだと思う。

 重要なことは、それだけではない。

 想いからの解脱において解脱している人は「死後(の輪廻)の行方」に対する「見解」や「想い」からだけではなく、輪廻思想から導かれる「再死」(何度も繰り返される死)あるいはその他諸々の「死後の(輪廻の)恐怖や不安」からも解き放たれ(脱却し)てしまっている、ということでもある。

 *多くの日本人には理解し難いことなのかもしれないが、古代インドにおいて信じられていた「移りかわる種々の生存」に対する恐怖や不安は、われわれの想像を絶するものであったに違いない。

 これについての詳細は、以下の詩句においても確認できる。

 「Sn.776 この世の人々が諸々の生存に対する妄執に囚われ、震えているのをわたくしは見る。下劣な人々は種々の生存に対する妄執を離れないで、死に面して泣く。」

 *「妄執」(もうしゅう)とは、妄想がこうじて、ある特定の考えに囚われてしまうこと、またはその状態を指す。

 「諸々(種々)の生存」(bhavabhava)とは「輪廻の生存」を意味する言葉である。(中村元『ブッダのことば』岩波文庫 P.383 「種々の生存」の注釈 、中村元『ヴェーダーンタ哲学の発展』P.362, 733 参照)

 分かりやすい言葉に置き換えて言うなら、Sn.776で説かれている詩句は、死後の輪廻の世界に対する迷いや不安を含めた「想い」や「見解」から(つまりそういったものに対する妄執から)脱却せよ、と言っているのだと思う。

 それらのことを踏まえた上で、次に引用する経典の詩句は、最初期の仏教(釈迦仏教)の核心を一言で言い表していると言うことができる。

 『Sn.801 かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 

 「種々の生存」とは、先にも言ったように、「輪廻の生存」を意味する言葉である。

 単刀直入 に言えば、沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)には、「この世」においてのこだわりや執着だけではなく、「輪廻転生」(輪廻の生存)や「来世」に対するこだわりや執着からも離れている。そして、そういったもの(死後の世界)に対する「願い」や「願望」さえも捨て去ってしまっている、ということなのである。

 「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。」(Sn.1091)

 参考までに、「種々の生存(=輪廻の生存)に対し願うことがない」と同じ意味の詩句は、先に引用したアッタカ篇のSn.776とSn.801以外に、パーラーヤナ篇の中に、二箇所存在する。

 「種々の生存に対するこの執著を捨て去てて」(Sn.1060)

 「移りかわる生存への妄想をいだいてはならない」(Sn.1068)

 *「移りかわる生存」=「輪廻の生存」

 つまり、これらの仏教最古の経典に登場するゴータマ・ブッダ(釈尊)は、次に引用するアッタカ篇の詩句に具体的に語られているように、死んだ後にどうなるとか、どうなりたいとか、そういった「移りかわる輪廻の生存」に対してあらかじめいだいた偏見(先入見や妄執)を捨て去れ、と言っているのである。

 「Sn.786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。」(さまざまな生存=輪廻の生存)

*余談ではあるが、仏教最古の経典(アッタカ篇とパーラーヤナ篇)には、輪廻(サンサーラ)という言葉が一度も現われてこない。さらには、輪廻と業報を結びつける記述も全く見られない。これらの経典には、それをあからさまに輪廻(サンサーラ)という表現をせず、「種々の生存」(bhavabhava)という言葉を用いることによって、真理を語りながらも、それと同時に他の人々たちとの摩擦を極力避けようとする経典の編纂者たちの強いはからい(配慮)があったのではなかろうか。(『スッタニパータ~仏教最古の世界』並川孝儀 岩波書店 P.97~99 参照)

 さて、ここまで述べてきたことを、最初から分かりやすくまとめてみよう。

 ゴータマ・ブッダが体現したニルヴァーナとは、(唯物論者や断滅論者、あるいは懐疑論者などの一部を除いた)多くの古代インドの宗教者や哲学者たちが言うように、「死後の輪廻転生の影響を受けない」、ということであった。

 「Sn.877 思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 そして、より詳しく言えば、真理を悟った人は、生死を超越しており、当然この輪廻をも超越している。

 すなわち、一般的なヒンドゥー教の世界観において説かれているように、輪廻を断つことが究極の境地であると考えられていたわけである。

 *古代インドに伝わるウパニシャッドの伝承によれば、人間の本体である永久不滅なるアートマンと宇宙の根源たるブラフマンとは本来同一のものであると言われている。それらの伝承による基本的理念によれば、修行者は、修行を積むことによって、業によって霊魂に付着している微細な物質を取り除き、それによって完全に真我となったアートマンはブラフマンに帰入する、つまり、アートマンとブラフマンとが本来あった状態(ブラフマン=アートマン)に戻ることにより、苦しみの輪廻の生存から解脱することができると説かれている。

 ただ、これまで詳しく説明したように、仏教最古の経典で説かれている「輪廻を絶つ」(輪廻からの解脱、再び迷いの生存に戻らない)ということは、「断滅」(虚無、消えて無くなってしまうこと、消滅してしまうこと)の意味ではなかった。(もちろん、それは「永久不滅」、あるいは「常住」でもない。)

 仏教の原初において説かれるニルヴァーナ(不死)とは、「断滅」ではない、ということは、仏教最古の経典アッタカ篇で語られている次のブッダの言葉によっても確認できる。

 「Sn.876 この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄はこれだけのものである』と語る。さらに或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

「Sn.877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々の変化的生存を受けることがない。」

*Sn.877の詩句で最も注視すべき点とは、「解脱せる人は論争のおもむかない」という言葉であると思う。他者との対立や論争を回避するための手法こそが、生と老衰とを乗り越えるための重要事項の一つなのだろう。

 いずれにしても、ゴータマ・ブッダが見い出した「輪廻からの脱却」(=苦の終滅、心の平安、ニルヴァーナ)に対する対処法とは、先に引用したアッタカ篇とパーラーヤナ篇に登場するブッダの言葉を見れば分かるように、当時の沙門やバラモンたち、あるいは後代の仏教で常識のように説かれているものとは、かなり違っている、ということが分かるだろう。

 つまり、仏教最古の経典の中に「死後の輪廻の生存に対する妄執から離れる」ことが繰り返し何度も説かれているように、ブッダが見い出した真意を具体的に言えば、

かれ(ブッダ)は、あらかじめいだいた(植えつけられてしまった)輪廻の生存(輪廻転生)という思想や見解などといった偏見や妄執そのものから離脱してしまっている。

 ― ということなのである。

 そして、そういった人たちは、文字通りの意味においても「種々なる変化的生存を受けない」(Sn.877)ということであり(種々の生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しないのだから)、最初期の仏教において「疑惑のない人」とも呼ばれていたのである。

 ここで再度、確認のためにSn.788に説かれている詩句を引用してみよう。

 「Sn.786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存(=輪廻の生存)に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。」

 だがその一方において、沈黙の聖者たるブッダが、「輪廻の生存」(死後の世界)に対してあらかじめいだいた偏見や妄執から離脱してしまっている」からといって、ブッダは、その究極の境地において、「種々の生存」(輪廻や死後の世界)の存在を否定してるわけではない。(私は、輪廻の存在を否定することは、ブッダの悟りではないと思っている。)

 なぜなら、ここまで観てきたように、「想いからの解脱において解脱」した人には、(後代の仏教で説かれるような)「死後の世界」などといった(宗教的、哲学的な)「見解」や、そういったものに対する「願い」や「願望」などというものがなく、究極に言えば、かれ(ブッダ)には、「これが真理である」と説かれることもないのである。

 『Sn.882 わたくしは「これは真理である」と説くことはない。

 最初期の仏教では、「(哲学的宗教的な見解を含めた)すべての見解」を捨て去ることが説かれているのだから、ブッダが、『わたくしは「これは真理である」と説くことはない。』と言うのは、当然の話であり、驚くにはあたらない。

 そういったわけで、仏教最古の経典には、死後の輪廻の生存(世界)については、否定的な、というよりは、厳密に言えば、消極的な姿勢が示されており、そこに語られている言葉のすべては、「現世」に限定した話として説かれるのである。(現法涅槃)

 『Sn.1053師が答えた
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたりに体得されるこの理法を、わたしはそなたに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行ない、世間の執著を乗り越えよ。」』 

 『Sn.1066師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたりに体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行ない、世の中の執著を乗り越えよ。」』 

 ここで、以上の考察をもって、次の結論が導かれる。

 つまり、それは、―

 仏教最古の経典に登場するゴータマ・ブッダ(釈尊)は、「死後の輪廻の世界」を説いているのではなく、「輪廻から解脱する」(=苦の終滅、心の平安、ニルヴァーナ)ための、その手法(方法)を説いた。

 ― ということだ。

 そして、より具体的に言うなら、「死後の輪廻の生存」に対してあらかじめいだいた偏見や妄執を捨て去らなければ悟れない、つまり真の「心の安らぎ」の境地を体現することができない、ということでもあると思う。

 ところが、「スッタニパータ」という経集に組みこまれている「アッタカ・ヴァッガ」(第4章や「パーラーヤナ・ヴァッガ(第5章)よりかなり後の時代に編纂された「ウラガ・ヴァッガ」(第1章 第3節「犀角経」を除く)、「チューラ・ヴァッガ」(第2章)、「マハー・ヴァッガ」(第3章)などの(最古の経典以降の)古層の経典が書かれる時代になると、話は一変し、「死後の輪廻の世界」や「来世の思想」が積極的に肯定的に説かれるようになっていった。

 *仏教の縁起(説)には、三支縁起説、五支縁起説、十支縁起説、十二支縁起説、二十四支縁起説などといったように数多くの異なった縁起説が混在している。これらの異なった縁起説は、初期仏教史においての発展的段階の中に生じたものであるとする見方が、合理的に観て有力であると言えるだろう。(もちろん私は、それ以外の捉え方を否定するものではない。)そういった中で、並川孝儀氏は、「三支縁起説から五支縁起説への展開において、縁起の解釈の中に輪廻の考え方が初めて導入された」と言っている。(『ゴータマ・ブッダ考』並川孝儀・大蔵出版 P.102 参照)

 次の章では、最初期の仏教と信仰について詳しく解説してみようと思う。


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