第8章 史実としてのブッダについて


 仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』よりもさらに古い資料を含むと言われているジャイナ教の聖典『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)には、サーリプッタマハーカッサバなどがブッダとして紹介され、サーリプッタが仏教の代表者であるとされている。(これ以外に、ヴァッジプッタの名前も紹介されている。)

 しかし、そこには、なぜかゴータマ・ブッダ(釈尊)の名前が全く表れてこない。

 これは一体どういうことなのか。

 このことに関して、中村元博士の解説を分かりやすくまとめた安部慈園先生の言葉を引用してみようと思う。(以下『中村元の世界』青土社 P.142~145より引用) 引用開始

 近年刊行されたジャイナ教の古い典籍『イシバーシャーイム』(聖仙のことば)は、四十五人の聖仙の思想を伝えている。仏教者としては、サーリプッタ(本文中ではサーティプッタ)とマハーカッサバ(アハーカーサヴァ)などが言及されている。彼らは、みな「ブッダ」と呼ばれているが、サーリプッタは特に「ブッダであり、阿羅漢(尊敬されるべき人)であり、仙人である」と呼ばれており、「慈悲の徳」を強調していた、という。

 奇妙に思えることであるが、仏教の開祖である釈尊が、本書中のどこにも言及されていない。むしろ、ブッダとなる教えが、サーリプッタ(など)の教えとして紹介されていることである。すなわち、初期のジャイナ教徒からは、仏教は釈尊の教えとしてではなく、サーリプッタの教えとして伝えられていたこと、つまり、サーリプッタが最初期の仏教の指導者と、彼らから見なされていたという事実である。博士は、そこから、次の如く推理される。

 【釈尊は臨終時にもアーナンダその他の多くの極く僅かの人々につきそわれていただけの微々たる存在であったが、それを大きな社会的勢力に発展させたのは、サーリプッタその他の仏弟子のはたらきではなかったか?】(⑫390項)

 と。さらに、

 【『聖仙のことば』に伝えられている・・・・・教えが歴史的に古い。もとのものを伝えていて、現在のわれわれが<仏教>と考えている内容が実は後代の成立のものであるかもしれないという可能性も考えられる。】(前同)

 と提起される。かくの如く、サーリプッタの一側面を論じられたのち、博士は、さらに、「ブッダ」という観念すなわち仏陀観の変遷を次のようにたどられる。以下は取意して述べる。

(1)最初期のジャイナ教においては、『聖仙のことば』を見るかぎり、聖仙はすべて宗教の区別を問わず<ブッダ>であった。

(2)ところが、サーリプッタだけが特にブッダであることが強調されているのは、彼がブッダになることを強調したからではなかろうか。

(3)『スッタニパータ』の古い詩句には、ブッダということばがでてこないのは、この時代の仏弟子たちは、釈尊を特にブッダとも思わなかったし、また特別にブッダと称せられるものになろうともしなかったからである。

(4)次の段階として、尊敬されるべき人を、一般にブッダとか仙人とかバラモン仙人とかバラモンと呼んだ。

(5)このうち、ブッダは特別にすぐれた人と考えられ、その呼称として用いられるようになった。

(6)ついに、ブッダとは釈尊(あるいは釈尊に匹敵し得る人)のことであると考えられるようになった。(⑫391-393項)

  サーリプッタが、「ブッダ」と呼ばれているのは、これらの発展の初期の段階を示している、と述べられ、さらに、博士は、

 【なおこの原典から見ると、当時<仏教>というものは認められていなかったし、開祖釈尊なるものも、後代になって現われ出たのであろうと考えられる。】(⑫393-394項)

 (引用 終わり)

 余談ではあるが、「中村元選集⑫」の中で、中村氏は次のように解説している。二か所続けて引用してみようと思う。(以下 引用)

 【修行者をサマナ(沙門)と呼ぶことは仏教でもジャイナ教でもかなり古くから行われていたが、仏教でも理想の修行者を「バラモン」とよんだ段階のほうが以前であり、最古のものである。】P.207

 【ジャイナ教の最古の原典である『アーヤーランガ』のガーターの中ではどこにもサマナという語が出て来ないで、理想の修行者は「バラモン」と呼ばれている。また仏教最古の経典『スッタニパータ』のうちの最古の部分である「パーラーヤナ編」では理想の修行者はつねに「バラモン」と呼ばれていて、「サマナ」とは呼ばれていない。】P.208

 そして、中村氏は次のようにも言っている。

 【仏の弟子という表現が最初期の仏教には見当たらない。〔この点はジャイナ教の場合も同じである。〕】P.228

 「仏の弟子」という表現が最初期の仏教には見当たらない、ということは一体どういうことなのか。

 中村氏は、このことに関連して、次のように言っている。二か所続けて引用してみよう。

 【普通には釈尊はいつも多勢のビクを連れて歩いていたように考えられ、仏典にもそのように記されているが、それは後世の仏教徒の空想であり、最古のことばによってみると、釈尊は森の中でただ一人修行していた。『ゴータマはひとり森の中にあって楽しみを見出す。』(SN.Ⅰ,p.4 G.)悪魔がゴータマに呼びかけた語のうちにも、『汝は森の中にあって沈思』(SN.Ⅰ,p.123 G.)という。】P.335

 【釈尊が千二百五十人の修行僧をつれて歩いていたなどというのは、全くののちの空想の産物なのである。(千二百五十人もつれて練り歩くなどということは、今日のインドでもヴィノーバやシャンカラ法王のような崇敬されている人でも不可能である。食糧の手配だけでも大変である。シャンカラ法王が巡歴する場合でも、ついて行く人は数十人にすぎないし、それもバスや自転車によって食糧を運ぶからこそ可能なのである。)】P.336

 つまり、最初期の仏教では、修行者は一人でいることが讃えられており、さらには、最初期の仏教修行者は、寺院や僧房はおろか、住む小屋さえももたず、村人にもつき合わなかったのである。(同 P.336 P.337 参照)

 さらに、中村元氏は、次のような興味深いことを言っている。 

【『スッタニパータ』のパーラーヤナ編やアッタカ編を見ても慈悲の教えは殆ど説かれることなく、専ら「執着するな、こだわることなかれ」ということが教えられている。慈悲の教えは『スッタニパータ』の新層になって現われる。仏典とジャイナ教聖典との所伝が一致するところから見ると、慈悲の徳を特に強調したのはサーリプッタであり、それ以降仏教が急激にひろまったのだと考えられないだろうか。『聖仙のことば』に記されているサーリプッタの実践は、『スッタニパータ』に述べられているものに大体対応する。】P.395

 私は、中村元氏が言うように、慈悲の思想を説いていたのは実はサーリプッタであり、ゴータマ・ブッダは、執着と貪りとを捨て去ることのみを説いていたのではないのかと思っている。

 こういったことを踏まえながら、古い経典から知ることができる史実としてのゴータマ・ブッダ像は、おおよそ次のようになる。

(1)ゴータマ・ブッダの時代には、その修行者たる沙門たちは、僧院に住むことはなく、屋根のある家に寝泊まりすることはなかった。つまり、洞窟や樹木の下を住みかとし、果実や木の実を拾って食する以外は、托鉢による乞食によって、生命を維持する程度の食事をしていたのである。

 古い経典である『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』には、修行者は、痩せて血管が浮き出ていると語られている。

 『糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、―かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』 (Dhp.395)

 なお、仏教の修行者ばかりではなく、ジャイナ教の修行者においても同様であり、ジャイナ教の聖典『ウッタラッジャーヤー』にも、次のように語られている。

 『鳥の足の関節のように痩せていて、血管が浮き出ていて、食物と飲物の量を知っている人は、憂いのない心をもって行動すべきである。』 (Utt.2.3)〔山崎守一先生訳〕

 そして、(2)最初期の仏教においては、仏教の修行者たちは、糞掃衣と呼ばれる、ぼろ布をつぎ合わせたものを着ていたのである。これに関して、中村元博士は、次のように言っている。

 「少なくともサンガーティー(大衣)と呼ばれる衣をまとっていたことは確かであるが、それはぼろをつぎ合わせたものであり、ジャイナ教徒たちからは、それが仏教徒の特徴を示すものであるとみなされていた。」 (『中村元選集・第12巻』P.320)

 また、(3)経典『スッタ・ニパータ』(第1章・7の冒頭の箇所)には、ゴータマ・ブッダが坊主頭であったことを語っている。


 『そこで、師にいった。「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。』

 『そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは「この方(ブッダ)は頭を剃っておられる。この方は剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。』 (『スッタ・ニパータ』第3章・4の冒頭の散文の箇所)

 『わたくしは家なく、重衣をつけ、鬚髪(ひげかみ)を剃り、ここを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。』 (Sn.456)

  先に述べたように、(4)最初期の仏教では独りでいることが称賛されていた。

 『肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。』 (Sn.53 )

 ブッダの時代には、おそらくは教団などというものは存在していなかった。古い経典に記されているように、ゴータマ・ブッダは、おそらくはただ一人で生きていたに違いない。そこにいたのは、おそらく1人か、いたとしてもせいぜい2~3人くらいだろう。(後代に決められたような、複雑な戒律もなかったのだろう。)

 ブッダが入滅したときでさえも、おそらくはそこには複数の人はいなかっただろうと思う。

 そういったの意味からも、中村元氏は、サンガを含めた<三宝>というもは、後代の人たちによって創られたものではないのかと言っている。

  *三宝とは、「仏・法・僧」と呼ばれる3つの宝物のことである。

 「サンガ(教団)というものは、仏教にとって本質的なものではなかった。サンガを含めて<三宝>というものを考えるようになったのは、のちの発展段階においてである。」 (同 p.240~241参照)

 ちなみに、ジャイナ教の古い経典には、数人の仏教の修行者が紹介されているが、そこには千二百五十人の比丘については全く記されていない。

 そして、(5)ゴータマ・ブッダの時代と、それ以降のインドにおいて、仏教では、葬儀は一切執り行なわれていなかった。そもそも仏教の修行者が葬儀をはじめとする諸々の冠婚葬祭などで金銭の授受を行うことはもちろんのこと、「儀式を執り行うこと」自体が、かたく禁じられていたのである。

 仏教最古の経典パーラーヤナ篇の中で、祭儀などの宗教的儀式に専念するバラモンの司祭たちは、生と老衰とを乗り越えているのか、というバラモンの学生プンナカの質問に対して、ブッダは、次のように答えている。

 『Sn.1046 世尊が説かれる。「プンナカよ、かれらはどうかしてそうなりたいと希願し、そうなるための祭式も清浄であると称賛し、どうしてもそうなりたいとあくことなく欲求して、供物を献供している。

 しかし祝儀として与えられる報酬をあてにしていて、欲望の対象をあくことなく欲求しているにすぎない。かれは祭式を執行して祝儀が与えられるようにと専一に努力しているのであり、くり返し再生してこのまま生きていく存在を欲求し、愛好しつづけている。そのようなことによっては、生まれては老いぼれてゆく存在の彼岸へ渡っていくことはないとわたしは説く。』(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P.227)

 パーラーヤナのこの箇所の詩句が語っている核心とは、金品の授受を目的として祭儀を執り行うことは、欲望(または執着=苦しみ)の根源となるから、これを断じて禁止していた、ということである。

*仏教修行者が「葬儀や祭儀や葬儀を執り行うことによっての金銭の授受」と「ブッダの理法(真理)」や「ニルヴァーナ(生と老衰とを乗り越えた境地)」とは、対極(真逆)に位置するものである、ということは、最古の経典に登場するブッダがすでに警告していることでもあった。


 「はからいをなすこともなく」(Sn.794、Sn.914)

 「智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。」(Sn.792)

 それでは、ゴータマ・ブッダの時代において(あるいは古代インドでにおいては)は、誰が、葬儀を行なっていたのだろうか?

 古代インドでは、一般的に、葬儀はバラモン教の僧侶が施行するものであった。

 こういったことに関して、中村氏は、次のように解説している。(以下『中村元選集・第3巻』P.361より引用)

 「・・・・少なくとも原始仏教の時代においては、出家修行者が在俗信者のために葬儀を執行することは決してなかった。インドでは一般に葬儀はバラモンの僧侶が施行するものであった。仏教徒はその葬儀によってはなんら死者の救いは得られぬと考えていた。『バラモンたちの誦する呪文をひたすら嘲り罵る』というのが原始仏教における指導者たちの態度であった。原始仏教聖典によると、出家修行者が葬儀に参与することを釈尊自身がこれを禁止している。人が死んだ場合には、葬儀によるのではなく、その人の徳性によって天に赴くともいう。葬儀は世俗的な儀式であるから、出家修行者はこれにかかわずらうことを欲しなかったのである。

 ところが、仏教がシナを経て日本へ来るとともに、仏教の形而上学的な性格のゆえに、いつしか死の現象と結びつけられ、亡霊の冥福は仏教の法力によってのみ得られるものであると考えられ、ついに今日では葬儀が仏教行事の主要なものと見なされるに至ったのである。」

  そしてまた、(6)「読経や説法を行うことよって施しにあずかる」ということも、ゴータマ・ブッダの時代において、仏教では、禁止されていたのである。(以下『スッタ・ニパータ』より引用)

 ブッダの時代に、仏教徒や仏教修行者が「冠婚葬祭などの儀式」だけではなく、「読経や説法を行うことよって施しにあずかる」ということが禁止されていた、ということは、ある意味において、驚くべく事実である。

 「読経や説法を行うことよって施しにあずかる」ということ『Sn.81 詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。これは正しくバラモンよ、」このことは正しく見る人々(目覚めた人々)のならわしではない。詩でを唱えて得たものを、目覚めた人々(諸々のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目覚めた人々の)生活法なのである。』

  スッタ・ニパータでは、詩(ガーター)を唱えることによって在家者から食の施しを受けた比丘が、その後に、その食べ物を川に流して捨てたという話が記されている。 (Sn.480 参照)

 *「詩(ガーター)を唱える」ということは、現代で言えば「お経を唱える」という意味に近いと思う。

 さらに、(7)最初期の仏教においては、占星術や呪術的なことがらも禁止されていたのである。

 『師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。』(Sn.360)

 『わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。』(Sn.926)

 そして、(8)ブッダの時代には、仏(ブッダ)が人々を救ってくれるのではなく、仏は苦しみからの救いの道を示すのみであり、真の救済は己自身が実践せねばならない、ということが説かれていたのである。

 アッタカ篇に登場するブッダは、次のように言っている。


 「他人が解脱させてくれるのではない。」 (Sn.773)

 (9)釈尊や仏弟子たちは、宗教的儀式としてお経(あるいは、ガーター)を詠む、ということもなかったし、仏像を拝む、ということもなかった。(仏像が制作されたのは、おそらくは紀元後であろう。)

 これらによって示される結論は、一般読者においては、どれもが信じがたいことであるに違いない。

 こういったことを念頭に置きながら経典を熟読すれば、「ブッダの理法」に対する理解はより深まるのではないのだろうか。

 次の章では、「アーサヴァの滅」について解説してみようと思う。


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