第9章 「アーサヴァの滅」について


 「アーサヴァの滅」について仏教の経典には、仏教の核心に触れる箇所において、「アーサヴァ(asava)を滅する」という語が、随所に散見する。

 古代インドの言語のエキスパートでもある山崎守一博士は、「アーサヴァの滅」の原意に関して、とても興味深いことを言っている。(「アーサヴァを滅する」という部分は、中村元氏が、「煩悩を滅ぼし尽くして」、あるいは「煩悩の汚れを滅し尽くして」と訳している箇所である。以下『沙門ブッダの成立~原始仏教とジャイナ教』P.157~160より引用)

 ブッダの教えは後世、様々な形で論理的に体系化されていくが、ブッダがネーランジャラー湖畔で何に目覚めたのかは、はっきりとわかっていないのが実情である。古い経典は随処において、「アーサヴァを滅ぼ尽くして、最後の身体をもっている」と説き、さらに、「アーサヴァを滅ぼ尽くした阿羅漢」という表現が見られる。

 最古の経典の一つと見なされる『ダンマパダ』において、 『覚りを得るための方法に正しく心を修め、執著なく愛著を捨てることを喜び、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、彼ら輝く人たちはこの世において涅槃を得ている。』(Dhp.89) 

 とあり、さらに、『スッタニパータ』では、 『精神を統一し、激流を渡り、最上の知見によって理法を知り、【アーサヴァを滅ぼ尽くして】、最後の身体を持っている如来、かれは、献菓を受けるに値する。』(Sn.471)と説かれている。

 激流とは輪廻の激流であり、最上の知見とは「全智者の智慧」であり、最後の身体を持つとは、もはや輪廻転生によってこの世に新たな肉体を受けることがないことを意味する。つまり、他の経典においては、最後の身体を持つことを、「再びこの世に戻らない」とも表現されているように、こては輪廻転生から解き放たれたことを意味し、当然のこととして、生まれることもなければ老いることもない。

 ところで、「アーサヴァを滅ぼ尽くして」の語源は、「キーナーサヴァ」(khinasava)であり、キーナ(khina 滅尽)とアーサヴァ(asava)との複合語である。アーサヴァの本来の意味は「漏れ込んでくる」ことであるにもかかわらず、仏教では、正反対の「漏出」と考えられ、通常、漏れ出る汚れ=煩悩と解釈されてきた。

 しなかしながら、仏教の姉妹宗教と言われるジャイナ教では、語源通りに霊魂に漏れ込んでくることを意味する。この語アーサヴァは、輪廻の大海という文脈の中で用いられ、【輪廻から解放されることを妨げるもの】である。なぜなら、船に漏れ込んでくる水は、かき出さないと船が沈んで対岸では到達できないからである。

 仏教においても古い詩節では、船に漏れ込んでくる水の意味を留めている。アーサヴァのない人こそ激流を渡った人であるとも言われ、『スッタニパータ』では次のようにも言う。

 『今日、われわれによってそれ(太陽)は見られた。よく世が明け、よく立ち昇り、その中に〔輪廻の〕激流を渡り、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を、われわれは見た。』(Sn.178)

 『世間を知って、最高の目的を見、激流と海を横切って、繁縛のない、アーサヴァのないそのような人、彼を賢者たちは牟尼と知る。』(Sn.219)

 『かれは泥の中に横たわり、もがきながら、洲から洲へと漂流してきました。そしてその時、私は、〔輪廻の〕激流を渡った、アーサヴァのない等覚者(よく目覚めた者)を見ました。』(Sn.1145)

 これらの詩節に見られる「輪廻の激流や海を渡って」という表現からもわかるように、「アーサヴァを滅ぼ尽くす」とは、「煩悩(=漏れ出る汚れ)を滅ぼし尽くす」のような、従来、仏教でなされてきた解釈よりも、ジャイナ教で行なわれてきた「輪廻をもたらす原因(が入り込むこと)を滅ぼし尽くす」という解釈の方が、より文脈がはっきりしていると言えよう。こう見てくると、大阪大学教授の榎本文雄の指摘に基づけば、アーサヴァは、最初期の仏教でもジャイナ教同様、「漏れ出てくる煩悩」というよりは、「漏れ込んで来る水」に喩えられる輪廻の原因としての煩悩・愛欲と考えられていたことが理解できる。(引用 終わり)

 これに関連した話であるが、奈良康明氏は、一般的に仏教で「煩悩を滅する」と訳されてているときの「ニローダ」という語を「滅する」というよりは「堰き止める」と言った方がより原意に近いと言っている。

 さらに、最古層の経典である「アッタカ篇」や「パーラーヤナ篇」には、その冒頭から終始一貫して「よく気をつけて」という言葉が繰り返し述べられている。これは、それらの経典に続いて古いと言われる「サガータ篇」の中に含まれる古い詩句についても同様である。

 なお、「パーラーヤナ篇」に登場するゴータマ・ブッダは、その冒頭の箇所で次のように言っている。

『師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」』 (Sn.1035)

*「塞がれる」という部分の註釈として、中村氏はこう言っている。「pithiyyare.pithiyyati(=pacchijjant 妨げる、Pj.p.586)これについては、ジャイナ教のほうでも同様の文句を伝えている。(cf.Isibasiyaim,29,vv.1-2)」

 そして、「アッタカ篇」においては、その冒頭から次のように語られている。『スッタニパータ』のSn.768~771までの詩句を続けて引用しよう。

 『足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。』 (Sn.768)

 『ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。』 (Sn.769~770)

『それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。』 (Sn.771)

 それにしても、最古層の経典は、一体なぜ、「よく気をつけて」という文言を繰り返し説くのか。

 それは、そのことが最初期の仏教において最重要事項であったからだと考えられないだろうか。

 実は、サガータ篇の中に、らこれらのことを裏づける記述がある。

 分かりやすく具体化して言えば、古い層の経典には、成道後のブッダに、悪魔が現れてくるのである。(周知のとおりではあるが、新層の経典には、成道後のブッダに悪魔が現われてくることはない。

 これらのことは、一体何を意味しているのだろうか?

 それは、古い時代の仏教修行者たちは、「悟ったら、それで終わりである、その後は何もしなくてもいい」などとは考えていなかった、ということだと思う。

 こういった意味合いを含めて、中村氏は、次のように具体的に言っている。(以下『中村元選集・第12巻』P.296より引用。)

 『・・・・・・・・・これからわれわれは実践に関して重要な結論を導き出すことができる。すなわち、<解脱>とは熟睡のような一つの状態に安住することではなくて、われわれが過ちを犯すかもしれないその一つ一つについて不断に気づかっていることである。一つの戒めを守ることが、一つの解脱なのである。ニルヴァーナとはわれわれが不断に注意して実践していくことであり、それのみに尽きている。

 要するに、中村氏の説明を一言で要約するなら、こういうことになると思う。

人間の根源的な欲は完全に滅することはできない。しかし、修行によって、常にそれに気をつけて、それらを回避することによって、ニルヴァーナに到達することができる。その絶え間ない行為そのものが仏道なのである、と。

 釈迦のとった手法とは、他の宗教のそれとは明らかに異なっている。

 それは、釈迦は、自らの経験によって裏づけされたものしか相手にしない、ということである。

 私が知っている中で最も仏教を熟知している(私がそう思っている)ある方が言っておられた。

 釈迦の手法とは、それを敢えて言えば、理をもって理から離れる、ということだ、と。

 理をもって理から離れる、ということ。

 これは、私は、釈迦仏教の根幹であると思っている。

 ちなみに本章の結論を言おう。

 ブッダは臨終に際して、次のように言ったと伝えられている。

 「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう、―もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成しなさい」と。(「大パリニッバーナ経」第3章・51)

  詰まるところは、仏教の最も重要なる教えとは、無常を覚ること、そして修行に精進すること、この二つに尽きる、そういうことだと私は思っている。


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