第7章 「破僧の定義」の変更について


 原始仏教聖典(パーリ・ニカーヤ)の中には、待機説法という言葉では到底説明がつかないような「真逆の教え」や「矛盾した教え」が数多く混在している。

 一例を挙げて言うなら、修業完成者は前世や来世を見通すような超能力(神通力)を保持している、という説明と、修業完成者は前世や来世を見通すような超能力(神通力)などは全く保持していない、という説明などが、それである。(後者については、『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典Ⅱ 相応部経典 第2巻 P.239~253 春秋社 参照)

 原始仏教聖典の中では、一体なぜ、矛盾する正反対のことが語られるのか?

 それぞれの別々のことを書いた経典の作者は、全くの別の宗派の人なのか?

 それとも、異なった教えは、どちらか一方が初心者向けの教えで、もう一方が上級者向けの教えなのか?

 実は、佐々木閑博士によれば、アショーカ王の時代に、仏教教団(サンガ)には、仏教に関する様々な解釈を施す仏教者が出現し、分裂の危機に瀕していたので、アショーカ王によって、仏教教団内においての「破僧の定義」が変更されたのだという。

 ちなみに、アショーカ王以前においては、規則を破ったり、あるいはブッダの教えに対して全く異なった教えを宣教する者は、破僧として取り扱われていたのである。

 ここで、佐々木氏の解説を少しばかり引用してみようと思う。

 『お釈迦様のころにはただ一つだった仏教が、あるときいきなり二十いくつの部派に分かれたのはなぜでしょう。これは結論から言いますと、いちどに二十いくつに分かれたのではないのです。破僧の定義の変更によって、一挙に二十いくつに分かれたように見える事態になったのです。それはこういうことです。

 お釈迦様の死後、自然の成り行きとして弟子たちの考え方にずれが生じ、それにしたがって派閥のようなものができ、全体に歩調が乱れてきました。そして、おそらくアショーカ王のころにかなりのケンカ状態に陥ったのです。お前の考え方は仏教ではない、お前こそ仏教の教えからはずれていると言い合いになったのでしょう。放っておいたらたいへんなことになりそうな気配になったのだと思います。

 そこで、アショーカ王はこれでは困ると考え、なんとかまとめようとしたのです。しかし、これは主義や解釈の違いですから、どちらが間違っている、どちらが正しいという問題ではありません。「間違った教えを主張して党派を組めば破僧だ」という古いチャクラベータの定義に従うかぎり、どう処理しても、誰かが「破僧の悪人」ということになってしまうのです。そこで、当時の仏教界は定義の方を変えたのです。すなわち、「違う考えを持っていても、儀式や集会をともに行っていれば同じ仲間と見なす」。このように定義を変えれば、多少揉(も)めている状態でも仏教という一つの看板のもとにまとまることができます。争う必要がなくなります。そのための定義変更だったのです。』(『ゴータマは、いかにしてブッダとなったか』佐々木閑著 NHK出版社 P.168~169)

 ここでは、佐々木氏が論点としている「破僧の定義の変更」については詳しく触れないが、少なくともアショーカ王の時代には、すでに仏教内において、様々な解釈を持つ仏教者たちが数多く存在していたのは間違いないと思う。

 佐々木氏によれば、「破僧の定義」について記されているアショーカ王の碑文が作られた年代は、紀元前260年頃であるという。(同 P.168 参照)

 そして、本稿第3章ですでに述べたように、中谷英明氏は、スッタニパータの第4章「アッタカ篇」、スッタニパータの序偈を除く第5章「パーラーヤナ篇」、同第1章「犀角経」以外の経典は、アショーカ王の統治時代にはまだ成立していなかったと言っている。

 いずれにしても、パーリ・ニカーヤは、長い歳月をかけて、最終的には、マウリヤ王朝時代よりもはるか後になってから現形のようにまとめられたことは間違いないだろう。(『古代インド史』中村元 P.333 参照)

 *中村元氏の解説からすれば、パーリ・ニカーヤが現形のようにまとめられたのは、紀元前185年よりはるか後ということになる。

 余談ではあるが、セイロン島に伝わる『マハーヴァンサ』には、聖典(パーリ・ニカーヤ)が紀元元年直前に書かれたことが述べられているという。

 そういった訳で、その流れの中で制作されていったのが、四つのパーリ・ニカーヤなのである。

 四つのパーリ・ニカーヤは、短い期間において一気に書かれたものでは決してない。

 加増や増広を繰り返しながら、長い年月をかけて、現存する仏教聖典が成立したのである。

 実際に経典自身が、「経典は釈迦が亡くなってからはるか後代に成立した」ということを語っている。(参照『中村元選集・第14巻』P.282 参照)[cf.SN.ⅩⅩ,7.vol.Ⅱ,p.267. AN.Ⅴ,79,5(vol.Ⅲ,p.107)もほぼ同文である。cf.AN.Ⅳ,160.vol.Ⅱ, pp.147-148.cf.M.Winternitz:Gesch.d.ind.Lit.,Ⅱ.S.60]

 結論を言えば、つまりー

 同じ仏教のサンガの中に、様々な異なった捉え方をする仏教教学者たちが混在し、そういった複数の人たちによって、しかも長い年月をかけて、四つのパーリ・ニカーヤは制作されていった。

 ー 可能性が高いのである。

 繰り返して言おう。

 佐々木博士によれば、仏教のサンガ内において、アショーカ王のころにかなりのケンカ状態に陥った、というのだ。

 実は、こういったことに関して、並川孝儀博士は次のように言っている。

 「端的にいえば、初期経典が一人のブッダであるゴータマ・ブッダ、すなわち世尊によってのみ説かれたとする立場は、経典に対する客観的理解とはいえない。初期経典の多くの表現がゴータマ・ブッダの教えとされていても、実際のところ経典の説示形態を読み取れば、主文の主語は仏弟子たちであって、副文の主語がゴータマ・ブッダであると理解すべきである。つまり、仏弟子たちが受けた教え、伝え聞いた教えをもとに、あたかもゴータマ・ブッダ自身が語ったかのように表現したのが大半であり、ときには仏弟子たちの思索や解釈もそこに含まれたとみるのが自然であろう。またブッダとも呼称されたすぐれた仏弟子たちの教えが経典にブッダ・世尊という名称で説かれている可能性も十分に考えられ、その意味では経典にみられるブッダ・世尊は多数のブッダの総体とも解釈できよう。」 (『ブッダたちの仏教』並川孝儀ちくま書店 P.102~103)

 さらに、並川氏は、次のようにも言っている。

 「初期経典のどこをみても、その箇所だけで全体を表現しているものではない。どれもが一部分であり、ある断面にすぎない。全体をみようとすれば、少なくとも初期経典すべてを眺めなければならず、完成形を知りたければ展開の過程を知った上でなければならない。それも一直線に展開しているわけでもなく、また同系の内容ばかりではない。多様に展開し、異なった系列が存在し、その他にも異説や矛盾した記述は枝葉末節にいたれば限りなく存在する。初期経典とは、こうした様態を有した文献なのである。」(同 P.100~101)

 「原始仏教やゴータマ・ブッダに関する概説書や入門書の類いは、どれもわかりやすく、あたかも仏教が興起してから一定の思想が説かれ、その展開も必然であったかのように、まとめられたものが多い。多様な要素や複雑な展開の過程が削ぎ落とされ、それらは最大公約数的のような内容となっているのである。したがって、それを前提に原始仏教やゴータマ・ブッダを考え論じれば、不十分で不完全な結論を導くことにもなりかねない。多様であっても複雑であっても、そうした様態を既成概念にとらわれず全体から客観的に直視し考察することが、初期経典に臨む基本的な姿勢である。初期経典といえども、その実態は決して揺るぎのない変わることのない聖典なのではない。初期経典も、以降に展開する諸経典と本質的には変わらないのである。」(同 P.101)

 つまり、そういったことから考えれば、原始仏教聖典の中に、なぜ全く矛盾する異なった教えが説かれるようになったのか、その謎が容易に氷解されてくると思う。

 そして、このアショーカ王による「破僧の定義の変更」が、最初期のブッダたちが決して説くことがなかった仏教への新解釈への拍車を加速させていったのであろう。

 次の章では、「史実としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)」について、考察してみようと思う。


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