第1章 真理に対する考察について

 仏教の「真理に関する思索」を行うことに対して、最初期の仏教は、どのように捉えていたのだろうか?

 「真理に対する思索」を行うことは、「ブッダの真理」に到達するための妨げになるのか?

 あるいは、「真理に対する思索」を行うことは、最初期の仏教では、重要視されていたものなのか?

 実は、仏教最古の経典パーラーヤナ篇に説かれている詩句には、仏教の「真理に関する思索」について、次のように語られている。

 『師(ブッダ)は答えた、
 「ウダヤよ、愛欲と憂(うれ)いとの両方を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨(かいこん)をやめること、平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、ー それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ー これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」』(Sn.1106~1107)

 つまり、仏教最古の経典には、「無明を破ること」と「正しい理解による解脱」は「真理に関する思索」に基づいて起こるものである、ということが説かれているのである。

 古い経典(アッタカ篇とパーラーヤナ篇)の詩句には、これ以外にも、智慧の重要性が説かれている。

 「Sn.847 智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。」

 「Sn.868 疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 「Sn.1035 世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

 「Sn.1064 そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」 

 それでは、そもそも、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の目指すべき真の目的は何だったのだろうか?

 そのことは、「釈迦仏教の根幹とは何か?」ということを語る前に、はっきりと明確にさせておかなければならない核となる部分である。

 ブッダが目的としたものは、ただ一つ、現世においての「究極の安らぎ」(涅槃寂静、ニルヴァーナ)を体現すること、これ以外はないと思う。

*ニルヴァーナとは、煩悩の炎が止み静まった状態、すなわち「究極の安らぎ」の境地を言う。

 具体的に言おう。
 「究極の安らぎ」の体現とは、「苦の滅尽」を意味する。

 「究極の安らぎ」の体現は、「苦の滅尽」なしにはあり得ないからである。

 そして、経典は、まさに無明こそが「苦」の原因である、と明言しているのである。ブッダの最終段階においては、その「思索」や「想い」または「見解」からも解き放たれるのであるが。(これについては、本稿の第 章の中で詳しく述べる。)

 ところで、先に引用した詩句(Sn.1106~1107)にある「無明を破る」ということは、一体何を意味するものなのか?

 それは、今ここにある「苦を滅する」(「究極の安らぎ」を体現する)ための理(ことわり)と手法(方法)とを知ることにあると思う。

 先にも引用したパーラーヤナ篇には、次のような詩句がある。

 Sn.1050 師(ブッダ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。

 Sn.1051 実に知ることなくして執着をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることであり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執着)をつくってはならない。」

 パーラーヤナのこの箇所(Sn.1050~1051)は、おそらくは、十二支縁起説が成立する遥か以前の、仏教で説かれるところの「縁起」というものの最も古い原初の形態を示すものであると思われる。(別の視点から観て、Sn.862~874もまた最古層の仏教思想が語っている縁起と捉えることも可能であろう。)

 *最初期の仏教では、形而上学説を含めた「縁起」は説かれていない。(『中村元選集 第14巻』中村元著 春秋社 P.41~42、P161~162 参照) ここで言う「形而上学」とは、人知の超え出る領域、という意味である。

 そこで、最も注視すべき点とは、「苦しみの生起のもとを観じた人」という部分である。

 これを分かりやすい言葉に置き換えるとするなら、それは、仏教において説かれるブッダの理法の最大なるスタート地点とは、「人間においての苦しみが起こる原因の元を知る」(Sn.1051)ということだと思う。

 最初期の仏教においては、おそらくは「苦しみの生起の元」を知らずして、ただ盲目的に瞑想や修行のみを行うことを推奨しているのではなく、まず最初に、人が苦を滅するためには、人が苦を作り出している原因と、さらにはそれが作り出されている構造(メカニズム)とを知ることが重要視されていたのである。(もちろん、瞑想や修行は「真理に対する思索」と並行して重要である。)

 サンユッタ・ニカーヤは、次のように言っている。

 「比丘たちよ、無明とは何か。比丘たちよ、苦について知らないこと、苦の原因について知らないこと、苦の消滅について知らないこと、苦の消滅に導く実践について知らないこと、比丘たちよ、これが無明といわれる。」(『相応部経典』第2集・第1篇・第1章・第2節=『原始仏典2 相応部経典 第2巻』春秋社 P.6)

 そして、パーラーヤナ篇に登場するブッダは、次のようにも語っている。

 「どんな苦しみが生ずるものでも、すべて無明によって起るのである。しかしながら、無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみは生ずることがないのである。」(Sn.728 参照)

 では、仏教の原初において、人間においての苦からの脱却を、一体どのように捉えていたのだろうか。

 最初期の仏教の基本的な捉え方とは、人が苦しむ要因(原因)を自己以外(他者を自分の思いどおりに変革させようとすること)に求めるのではなく、それらを生み出す原因は自ら(自分自身)の内にある、と観ることにあると思う。(もちろん、苦の原因のすべてが自らが作り出しているわけではないのだろうが。)

 具体的に言えば、人が苦しむ要因は、世界や他者にあるのではなく、実は、その苦しむ要因を自分自身が作り出している、というのである。

 それは、初期仏教の原点とは、おそらくは(それを仏教と称して)世界や他者を、自ら(自分)が意図する方向へと変革させようとするものではなく、自ら(自分自身)が苦を滅する、ということに比重が置かれていたのであろう。(歴史的人物としてのブッダは、自らが仏教の開祖になろうとする想いもなかった。)

 「向上につとめた人は『わたくしは修行僧の仲間を導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。」(『原始仏典 第二巻 「長部経典」16経 ブッダ最後の旅 第2章・25 P.133 中村元監修 春秋社 参照)

 そして、それ以上に重要なことがある。

 それは、人生においてのほとんどの問題は、他者との関係によって生じる、ということである。

 人間は、他者との接触を仮に意図的に減らすことができたとしても、人は生きている限り他者との依存関係を完全に無くして一人で生きていくことはできないと思う。

 そうであるからこそ、他者との対立や摩擦を回避するための合理的な手法を知って、それに対処することが、苦を滅尽させる(=究極の安らぎを体現する)ための核心の一つであると言ってよい。

 ここで再度、確認のために言っておこう。

 「真理への思索」を、理屈をこねまわしていると勘違いしている人は、ブッダの理法を見ていない人である、ということを。

 いずれにしても、経典で繰り返し明確に語られているように、「真理に対する思索」を行なうことは、そこに至る過程において、最初期の仏教において、最も重要視されていたものの中の一つであった、ということは、間違いないだろう。

 つまり、「煩悩の流れは智慧によって塞(ふさ)がれる」のである。

 「Sn.1035 この世におけるあらゆる(欲望の)流れをせき止めるものは、思念である。(思念が)流れを防ぎまもる。智慧によって流れはたたれるであろう。」

 「 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。」(『ダンマパダ』 340)

 「Sn.1064 最上の真理を知るならば、あなたはこの激流をわたるであろう。」

 そしてより具体化して言うなら、真実(真理)とは、黙って寝ていて向こうから自然に訪れてくるものではなく、自らが探し求めて、自らの手で掴み取るものであると思う。(そういった意味においても、ゴータマ・ブッダは、そこに至る前段階において、誰よりも試行錯誤を繰り返したのは間違いないだろうと思う。)

 ただ、重要なことは、すでに述べたように、最後の最後には、「ブッダの真理(理法)」さえも捨て去らなければならない、ということでもある。(これは、最終段階である。)

 分かりやすく言うなら、それは、「理によって理から離れる」ということである。

 『Sn.1091 [師いわく]、「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは何も所有せず、欲望の生存に執著していない。」』

 「かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。」

 誤解のないように、もちろん、それは、知ることを知り尽くし、激流を渡り終えた人の話である。

 なお、ブッダの理法に関して、ここで次のことをはっきりと明言しておかなければならない。

 それは、最初期仏教で説かれる「ブッダの究極の真理」(ブッダの理法)とは、自然科学や物理学などで説かれる真理とは同じではない、ということだ。

 「わたしが説かないことは 説かないと了解せよ。」(『中部経典63』)

 そこで、ブッダが言う「わたし(ブッダ)が説かないこと」とは、一体何なのか?

 実は、そのことを明白にさせること、そして「ブッダが説かないこと」に対する願望と執著を捨て去ること、これが、涅槃寂静(ニルヴァーナ)に導かれる必衰条件なのであろう。

 つまり 「ブッダが説かなかったこと」(捨て去るべきこと)とは一体、何なのか?

 このことが、ブッダの理法の核心であり、本書が解き明かそうとする最大の重要事項なのである。

 早速、本論に入っていこうと思う。


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