第2章 真理について

「ブッダの理法」とは何か?そして、ブッダは、一体何を悟ったのか?

 これらのすべての答えは、仏教最古の経典「アッタカ篇」と「パーラーヤナ篇」の中に明確に語られている。

 実は、仏教最古の経典である「アッタカ篇」(『スッタ・ニパータ』第4章)の中に、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の理法の根幹を端的に言い表している箇所が存在する。

 それらを簡潔に要約すれば次のようになる。

 世間一般では、ある人は「これこそが真理である」と言い、また他の人は、これとは全く別の異なった見解をもって「わが説こそは絶対である」「われこそが絶対の真理に到達した者である」と唱える。

 そしてまた、それとは他の説を唱える人は、その反対説を「偽」であると説く。

 はたして世の中には、このような数多くの異なった真理が存在しているということになるのだろうか?

 そもそも真理というものは、「絶対的に自説が正しい」という前提の上に成り立っている。

 このように「自説が絶対に正しい」という真理の前提は、何をもってその根拠となり得るのか?

 一体これこそが絶対であるという真理なるものを唱える人たちは、自説が真理であるということを、誰がいかなる理由をもって、いかなる根拠をもって、そう断定したのであろうか?

 そして、そもそも自らが唱える絶対の説を(それがもし絶対の真理であるのなら)一体なぜ、その反対説の論者は、それを認めないのだろうか?その説は、客観的妥当性がないのか?

 多くの人々(諸々の「異説の徒」)は、これらの多くの異なった「真理」の中にある、自称「真理」なるものを一切の前提として、「われこそが真理である」「他の説を主張する者が愚者である」と他説を論じる人に「偽」なる烙印を押し、その自称「真理」なるものをもって主張し合い、さらには「絶対的な真理」という自らの見解に固執・固着することによって論争を引き起こし、争いを生じさせているのである。

 世の中には一体、このように「多くの異なった真理」というものが存在するのだろうか?

 それとも、数多くの主張の中で、唯一の「絶対的な真理」なる見解が存在し、それ以外の諸々の他説は「偽」であり、さらには、それらの他説を主張する者のすべては愚者であるということになるのだろうか?

 もし、わが説と異なった見解を「真理」であるとする人々の立脚地からすれば、わが説は「偽」であることになるのだろう。

 そして、わが説を「真」であると主張する者の見解によれば、その他は「偽」となり、世の中には「多くの異なった真理」と「多くの異なった虚偽」とが同時に混在することになる。

 アッタカ篇に登場するブッダは次のように言っている。

 『みずから真理に到達した人であると称して語る論者たちは、何故に種々の異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるのか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのだろうか?

 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思考考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)妄想である」と二つのことを説いているのである。』 (『ブッダのことば』 Sn.885~886 中村元訳・岩波文庫)

 そして、アッタカ篇に登場するブッダは、またこうも言っている。
 
『「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に沈溺して汚れに染まっている。ここ(わが説)のみに清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何ぴとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれらは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』 (同・Sn.891~894)

 つまり、世の中に存在する数多くの異なった真理の中から、唯一これのみが真理であるとする「絶対的な真理」を選択しないこと、依拠しないこと、ブッダは、それが真理である、というのである。(想いからの解脱)

 『真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。』(同・Sn.884)

 Sn.884を結論とするアッタカ篇の核心部を分かりやすく解説するなら、おおよそ次のようになる。

 迷える沙門たち(異説の徒)は、一つの見解に固着して、かれらはそれぞに異なった真理を説いているけれども、諸々のブッダには、しがみつく見解が何もない。

 しがみつくものが何もないから、人と争う原因それ自体が存在しない。

 だから人と争うことがない。

 多くの異なった真理の中から、これのみが真理であると固着するものが諸々のブッダには何もないのである。

 根こそぎに伐られてしまったターラ樹の株のように、苦を滅尽してしまった人には、これのみが真理であると固着するものが何もなく、そういった種々の「見解」や「想い」から脱却(解き放たれて)してしまっている人がブッダである。

 そのような人は、いかなる特殊な見解にもにもかかわりをもたない人であり、いかなる超越的存在をも根本的なものとして絶対視することはない。

 だからと言って、そういったものの存在や見解を否定しているわけでもない。

 それゆえに、沈黙の聖者たるブッダは、「宗教的ドグマなどの見解」を語ることも主張することもなく、いかなる宗教や哲学的見解から解き放たれているのである。

 事実、ブッダの時代には「仏教」という呼称は存在しなかった。

 なぜならブッダの時代には、後代に説かれるような「仏教」という特殊な宗教(あるいは教義)や信仰は存在しなかったのであり、「仏教」という呼称も必要なかったのである。

 確認のため、分かりやすい言葉でもう一度言おう。

 ブッダの究極の理法とは、そこには、これのみが真理であると固着し絶対視するものが何もない。

 一切の見解や特殊な宗教的ドグマなどから完全に解き放たれているのである。

 もちろん、そこには、何らかのものを拝んだり、すがる、というものも何もない。

 つまり、沈黙の聖者たるブッダには、これのみが絶対に正しいとする見解や何らかのものにしがみつこうとする「想い」や「願望」が何も存在しないのである。

 そうであるからこそ、彼(ブッダ)には、他者との対立の要因それ自体が存在しないのである。

 アッタカ篇の中でも最古の経とも言われる「15経 武器を執ること」に登場するブッダは、次のように語っている。

 『Sn.938 ・・・そのひとびとがかく安住していることによって、「われこそは最高究極の真理を知った」と主張しては論争しあい対立しあっているのを目のあたりにして、わたくしは絶望的になったー ふとその瞬間、わたくしは、あらゆるひとびとの心臓に一本の矢が突きささっているのを見た。』

 そして、ブッダは、その心臓に突きささった矢を引き抜くことを薦めている。(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P. 253~254)

 「想い」から脱却した人(ブッダ)には、何らかのものに対する願望や見解が存在しない。

 繰り返して言うが、特殊な宗教的哲学的見解への固着は、他者との対立の第一要因なのである。

 ところが、ブッダの究極の理法は、決してそこだけではとどまらない。

 苦を滅尽するために、そこに至る過程において最も重要なことは、実はそこから先にある。

 それは、「これのみが真理であると固着し絶対視するものが何もないブッダの真理」でさえも、それを一つの見解として想定することはなく、「想いから解脱する、という想い」からも脱却した境地の体現が、ブッダの究極の理法なのである。

 つまり、ブッダの究極の理法とは、絶対の真理として設定されるようなものは何もなく、さらにはブッダの理法さえも固着し絶対視されるものではない。

 ブッダの理法(究極の安らぎ、ニルヴァーナ)を体現するためには、最後の最後には、ブッダの真理からも離れなければならない。

 もちろん、それは最終段階である。

 『Sn.21 師は答えた、
「わが筏(いかだ)はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到達している。もはや筏の必要はない。」』

 しかし、まずはブッダの理法の概要を理解することから始める。それが、釈迦仏教のスタート地点であると思う。

 次の章では、最初期の仏教においての核心部についてかなり詳しく解説してみようと思う。(第3章は、本稿の核心部の一つである。)


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