第12章無我について


 仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」とは、人間の本体として想定される、「形而上学的な意味合いでのアートマン」として捉えることが可能であろう。

 ところが、それにもまして重要なことは、最古層の経典において、「無我」(非我)の「我」とは、「私」と「私のもの」という意味として説かれている、ということである。

 つまり、そこで説かれている「無我」(非我)の「我」とは、(1)「私」とは無常であり、常住ではない、私は死ぬものであるということ、そして、(2)「私のもの」とは、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものも無常であり、常住ではない、いずれは無くなってしまうものである、とうことである。(もちろん、②「私のもの」は①「私」の中に含まれているとして、それらを総称して「無我」(非我)の「我」と解釈してもよいと思う。)

 すなわち、仏教で言う無我(非我)とは、「私」というものは、死から決して免れ得ないものであり、さらに、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものとは、すべて、いずれは消滅してしまい、私のものでは無くなってしまうものである、という事実を、<ありのまま>の事実として<ありのまま>に知る、ということなのである。

 次の古い経典のガーター(詩句)は、仏教で説かれる「無我」(非我)の「我」の「私のもの」というものを、端的に言い表している言葉であると思う。

『人々はわがものであると執着したもののために憂える。(自己の)所有したものは、常住ではないからである。この世のものはただ変化し、消滅すべきものである。 』 (『スッタ・ニパータ』Sn.805)

『名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、ー かれこそ〈修行僧〉とよばれる。』 (『ダンマパダ』 367)

 私が「私のもの」であると思い込んでいる「私のもの」「私の所有物」とは、いずれは朽ち果ててしまい、失われてしまうものである。

 あるいは、私の「死」をもって、私が「私のもの」「私の所有物」と思い込んでいるものは、「私のもの」では無くなってしまうのである。

 人は、「私のもの」「私の所有物」とは常住であり永遠である、と思い込んでいるけれども、実はそうではない。

 さらに、古い詩句は、「無我」(非我)の「我」(=私)というものに関して、次のように語っている。私は、この『スッタニパータ』の「矢」という経は、先に引用した詩句と併せて、最初期の仏教の根幹を語っているものであると思っている。(以下、『スッタニパータ』Sn.547~593より引用)

 『この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

  たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。 

 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

  泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

  見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

  ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。

 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。』

 さらに、古い経典の詩句は、次のようにも語っている。(以下『ダンマパダ』より引用)

 『花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、―

花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。』 (47~48)

 『大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟にいても、およそ世界の何処にいても、死の脅威のない場所は無い。』 (128)

 なお、他の経典には、次のようにも語られている。

 『生命には限りがあるとする感受を感受すると、生命には限りがあるとする感受をわたしは感受していると知る。身体が壊れて、生命が滅尽したあとは、まさに現世で感受されたものどものすべてはおおいに喜ばれるものではなく、冷たくなるであろうと、知る。』  (『相応部経典』第3集・第1篇・第2部・第4章・第7節 =「原始仏典 相応部経典 第3巻 P.232 春秋社)

 そして、仏教においての死に対する姿勢は、『ダンマパダ』の次の言葉によって語り尽くせるだろう。

 『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。』(1・6)

 経典には、人は、自らの「死」から逃れられない、人は死ぬものである、ということ、そして、「私」が「私のもの」であると思い込んでいる「私の所有物」もまた、いずれは無くなってしまうというこの理(ことわり)を真に知ったならば、心は静まりかえり、争いはなくなる、ということが説かれているのである。

 さらに、『スッタ・ニパータ』において「想念を焼き尽して」(Sn.7)と言われるように、想いから解脱す(解き放たれ)ること、そして、想いから解脱する、という想いからも解脱するということ、すなわち、それらを総称して、我執をなくす、ということが最初期の仏教で説かれるところの「無我」(非我)の根幹であると、私は思っている。

 『「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、ー かれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。』(『スッタ・ニパータ』Sn.951)

 要するに、苦を滅尽させるためにブッダがとった手法の根幹とは、アートマンに対する見解から離れること、そして、その存在を否定しないこと、具体的に言えば、「我論に対する執着」から離れること、これに尽きると言ってよいと思う。
ここで、話をさらに掘り下げてみよう。

 仏教で言う無我(非我)とは、「私」というものは、死から決して免れ得ないものであり、さらに、私が「私のもの」「私の所有物」と思っているものとは、すべて、いずれは消滅してしまい、私のものでは無くなってしまうものである、ということ、そして、釈迦仏教の根本である「我執を滅する」ということ、これらはすべて、人間の潜在意識の中に潜む現状維持機能なのであり、「ブッダの理法」の根幹とは、その人間の潜在意識の中に潜む現状維持機能を知り尽くして、それを自在に制御できることであると、私は捉えている。

 つまり、人間が生存を維持するために本来具わっている「現状維持機能」から、言い換えれば人間の「本能」からの反逆が、最初期の仏教が説く「心の平安」(ニルヴァーナ)に至るための極めて重要な根幹なのだと思う。


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