序章 ブッダは何を説いたのか?

 ゴータマ・ブッダは、人間として生まれてきた。そして、彼は、われわれと同じ人間として死んでいった。少なくとも、私はそのように理解している。

 仏教の開祖として祀り上げられ、超人としての様々なる属性を附与されるはるか以前の、歴史的人物としての、人間としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)は、一体何を説いたのか?そして、何を悟ったのか?

 最古層の仏教経典を基に、この難題を解き明かし、釈迦仏教の根幹を平たく解説することが本稿の最大の仕事である。

 *ここで言う仏教最古の経典とは、「アッタカ・ヴァッガ(篇)」と「パーラーヤナ・ヴァッガ(篇)」である。「アッタカ篇」は「スッタニパータ」の第4章として、「パーラーヤナ篇」は「スッタニパータ」第5章として、おそらくは後代の人の手によって、その中(スッタニパータ)に組み込まれたと思われる。元々これらの二つの経典は、単独に流布されていたらしい。ただ「パーラーヤナ篇」の第1経と第18経とは、様々な注釈書に引用されていないという理由で、後代の付加であると言われている。これらの重要である部分のすべては、散文(物語的な長文)ではなく韻文(短い詩句)(ガーター)によって構成されている。


 しかし、まず最初にはっきり言っておこう。

 何らかの特殊な既存の見解に固持・固着することによっては、本書の根幹は理解し難い、ということを。

 なぜなら、多くの先入見に依拠し、最初からこうであるという答えをあらかじめ決めつけてしまうことによっては、最初期の仏教で説かれている「ブッダの究極の理法(真理)」を見い出すことは困難であると思うからだ。

 さらに、多くの人間は、ものごとを無意識のうちに、自分が信じていること、あるいは、自分がそうあってほしい、または、そうなってほしい方向へと擦り合わせて考えようとするものである。

自分が「霊魂の存在」や「死後の輪廻の世界(存在)」を信じているから、ブッダもそれを信じ(説い)ていた(はずだ)、とか、自分がそういったものを信じていないから、ブッダはそれを信じ(説い)ていない(はずである)、とか、などといったものがそれである。

 多くの人間は、往々にして、独自の先入観をもって、「自分が信じているもの」を基準として、最初から、あらかじめ、答えを決めつけてしまおうとするものである。

 もちろん、最初から「決められた解答」を信じる人は、それはそれでいいと思う。

 私は、それを決して否定するものではない。

 ただ、本稿が意図する目的とは、このような自らの欲求や願望に基づいて導かれる見解だけではなく、既存の宗教や仏教宗派などによる先入観でさえも、ことごとく取り払ってしまうことによって、最古層の経典に説かれているブッダの言葉の真意(真相)を解き明かすことにある。

 そうであるからこそ、大乗仏教や後代の伝統的な仏教教学で当たり前のように説かれている大前提や先入見さえも、それを学びながらも一旦は排除する、ということが本書の基本的なスタンスなのである。

 そもそも、人間において、すでにどこかで得た(こり固まってしまっている頑強な)先入見を取り除いてしまうことは容易ではない。

 それがなぜかと言えば、それは、人間の本能(現状維持機能)が、あるいは自らの願望に基づく潜在意識が、そういった(どこかで得た情報にしがみつき、その先入見を解体し再構築しようとする)ことに対して強く抵抗しているからだと思う。

 しかしながら、これだけははっきりと断言しておこう。

 一切のしがらみに基づいた先入観を取り除き、ものごとをありのままに観察することが、釈迦仏教の基本的姿勢である、ということを。

 それは、仏教最古の経典を繰り返して何度も読んでいけば、そのことが、より明白になってくるだろうと思う。

 そして、本稿の結論の一つを先取りして言えば、ブッダの理法の根本とは、宗教や思想をはじめとする『一切の「見解」を捨て去る』ことにある。

 もちろん、私は、これ(ブッダの理法)のみが真理に到達する唯一の手法であると主張するものではない。

 さらに、ここで、一つのことを付言しておかなければならない。

 それは、本書は、仏教最古層の経典で説かれているブッダの究極の真理(ブッダの理法)を解き明かすものであり、もし何らかの特殊な信仰のみを信じて、仏教最古の経典など興味がないと言われる読者がいたとすれば、本書を読まれないことをお薦めする。

 なぜなら、古層の経典に登場するブッダが語るように「ブッダの絶妙なる真理を説くことは、世俗の信仰を信じる人々にとっては、有害となる場合がある」からである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第1篇〈サガータ篇〉=『悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫 P.87 、本稿 第4章 参照)

 それゆえに、信仰(信仰とは、ブッダの理法の別の側面から観た真理である)のみを重んずる(重視される)方は、ただちに本書を閉じられた方がいい。

 ただ、本書は、最初期の仏教で説かれていたゴータマ・ブッダの究極の真理を探し求めといる人にとっては、その門を開くための入り口の一つになるかもしれない。

 そして、特に仏教に関して、様々な疑問を抱いている方にとっては、おそらくは、数々の難題が解き明かされるための何らかの手助けとなれば幸いである。

 なお、本稿は、細心の注意をもって、できるだけ初心者にも分かりやすいように書いたつもりであるが、難しい箇所があれば、その部分は飛ばして読まれることをお薦めする。

 最古層の仏教経典に説かれているこれらの内容は、現代において説かれている仏教とはかなり違っている。

 ブッダの理法の核心とは、理解されることが難しく、時の経過とともに、経典の端々に追いやられ、曲解され、忘れ去られてしまったのである。

 ゴータマ・ブッダが説いた、仏教の核心とは、一体何なのか?

 仏教最古層の経典を基にそれを解き明かそうとする本書は、根本仏教(釈迦仏教)の根幹を容赦なく公開するものである。

 しかしながら、私は、ブッダの理法を、読者に、あなたもそうしなければならないと、押し付けるものではない。

 そうではなく、最初期の仏教の経典で説かれている「ブッダの究極の理法」をありのままに正しく解き明かすことが、本書の最大なる目的なのである。

 仏教を学んでいる一般の人々だけではなく、おそらくは仏教の僧侶でさえも、ほとんどと言っていいほど全く知られていないこれらの内容に、多くの読者は、驚かれるに違いない。

* 本稿では、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダを「釈尊」「釈迦」「ブッダ」「ゴータマ・ブッダ」と呼んでいるが、これらの呼称は、いずれも固有名詞としての同一の「ゴータマ・ブッダ」を意味している。ただ、「諸々のブッダ」という場合には、「悟った人」「目覚めた人」を総称している言葉である。元々「ブッダ」の語源は、目覚めた人、悟った人、という意味である。


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