第10章 この生涯の先にも後にも不死はない


 初期仏教の中でも、特に比較的新しい層の経典の中には、「三明」(宿命通・天眼通・漏尽通)というものが記されている。

 「三明」(三種の明知)とは、過去世を見通す能力を含めた超能力であり、少なくとも後代(ブッダ滅後)の仏教徒の中には、ゴータマ・ブッダ(釈尊)には、そういった能力が備わっていた、と考えていた人たちがいたのだろう。

 しかし、初期経典の中には、ブッタの悟りとは、前世や来世を見通すような超能力を得ることを目的とするものではない、と具体的に説かれている詩句(ガーター)が存在する。(その詩句の語り手は、最初期のジャイナ教徒たちから仏教の代表者と見做されていたサーリプッタである。)

 古い詩句を含むと言われている『テーラガーター』から、引用者(筆者)の主観が入らないように、その箇所をそっくりそのまま引用してみようと思う。(以下 『仏弟子の告白~テーラガーター』中村元訳 岩波書店 より引用)

 『〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッタは、他の一人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。

 私が聞いたことは空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためのものでもなく、死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。 』 (『テーラガーター』995~997)

 *中村元氏の以下の注釈を参照。「後代の体系化された述語である六通のうちで、宿命通、天眼通、他心通、天耳通が共通である。まだ六通の体系は成立していなかった。」(同 P.280)

 そして、先の詩句の後には、次のようにも語られている。

 『われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。この身体を捨てるであろう。ー 傭われた人が賃金をもらうのを待つように。

 二つの極端のどちらによっても、これは死のみである。(この生涯の)先にも後にも不死は無い。道を実践せよ。滅びるなかれ。瞬時も空しく過ごすな。』(同 1003~1004)

 「(この生涯の)先にも後にも不死は無い。」

 経典のこの言葉は、三通りの解釈が可能だと思う。

 一つは、ここで説かれる不死とは、ニルヴァーナを意味するものであり、ニルヴァーナとは、来世にも過去世にもない。つまり、仏教最古の経典パーラーヤナ篇に繰り返し説かれているように、ニルヴァーナとは、現世において、今こに体現すべきものである、ということ。

 二つ目の解釈は、「(この生涯の)先にも後にも不死は無い。」ということは、ニルヴァーナを体現した人は、二度と輪廻しない、という意味。

 そして、もう一つの解釈は、人は必ず死すものであり、ありのままの事実としての死を免れる者は誰もいない、人の道を実践せよ、瞬時も空しく過ごすな、ということ。

 本稿の最大の核心部でもある第3章「ブッダが観た自らの死後の行方」で詳しく述べたように、仏教最古の経典に登場するブッダの言葉によれば、ニルヴァーナとは、永久不滅なもの(常住)でもなく断滅でもなかった。

 そして、『テーラガーター』に登場するサーリプッタのこの「二つの極端のどちらによっても、これは死のみである。」という言葉は、正に、アッタカ篇とパーラーヤナ篇に登場するブッダが語っている「不死(=ニルヴァーナ)とは永久不滅(常住)でもなければ断滅でもない」という内容と同じ意味なのではないだろうか。

 いずれにしても、『テーラガーター』に登場するサーリプッタは、来世にも過去世にも不死(=ニルヴァーナ)はない、と言っている。

 さらに、本経典に語られているように、ブッタの悟りとは、前世や来世を見通すような超能力を得るためのものではない、ということであるのだろう。

 というよりは、『テーラガーター』に登場するサーリプッタは、そういったもの(超能力)に対する願いや願望から離れなければ悟ることはできない、と言っているのだと思う。

 実は、このことをさらに裏付ける詩句が、同経典の中に存在する。

 経典は、次のように語っている。(以下 『テーラガーター』714~716 より引用)

「ブッタによって説かれたようにそのことを理解する人は、いかなる迷いの生存をも受けない。ー ひとが灼熱した鉄丸をつかまえないようなものである。

 われには『われが、かつて存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるであろうか。

 諸事象の生起を純粋にありのままに見、(個体を構成する)諸形成力の連続を純粋にありのままに見る人には、もはや恐怖は存在しない。」

 「われには『われが、かつて存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない。」

 つまり、テーラガーターに登場するアディムッタ長老は、「私には過去世があったという思いもなければ、未来世があるだろうという思いもない。」というのである。

 そして、このことが説かれる「二十ずつの詩句の集成」の冒頭の箇所には、次のように語られている。

 「迷いの生存にみちびく妄想が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にたいする恐怖は存在しない。」(708)

 そこで語られている「迷いの生存にみちびく妄想」とは何か?

 そして、そこから離れることが、まさに「輪廻からの解脱」なのであると思う。

 さらに、『相応部経典』(サンユッタ・ニカーヤ)においては、悟った人は、前世や来世を見通すような超能力(神通力)などは全く保持しているものではない、ということが明確に語られているのである。

 その箇所を分かりやすく要約してみよう。

 遊行の修行者であるスシーマは、尊者アーナンダのもとへ行き、「友アーナンダよ、わたしはこの教えと規律とのもとで清らかな行いを実践したいと望んでいます」と言った。

 アーナンダはブッダにそのことを伝えたら、ブッダは快くそれを受け入れた。

 そのとき、多くの比丘がブッダの面前で「生は尽きました。清らかな行いは完成しました。行われるべきことは行われました。再びこの状態にもどることはない、と知りました」と、開悟したことを明言した。

 尊者スシーマは、比丘たちと挨拶を交わし、親愛と敬意に満ちた言葉を述べてから、比丘たちに質問した。

 「このように知り、このように見ているあなたたち尊者は神変を体得しましたか。あなたたちは、一〔身〕であったものが多〔身〕になり、多〔身〕であったものが一〔身〕になりますか。〔身を〕顕し、〔身を〕隠し、あたかも空中〔を行く〕ように、壁を横切り、堀を横切り、山を横切り、障害なく行きますか。あたかも水中に〔出没する〕ように、海中に出没しますか。あたかも地上〔を行く〕ように、水上を沈むことなく行きますか。あたかも翼のある鳥のように、空中を結跏趺坐して進みますか。あの大きな神力のある、大きな威力のある月と太陽とに、手で触れてなでますか。梵天界に至るまで身体で行きますか。」

 これに対して、比丘たちは、「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

 そして、スシーマは比丘たちに問うた。

 「では、このように知り、このように見ているあなたたち尊者は、清浄で、人〔の耳〕を超えている天の耳で、天の人との両方の声を、また遠くと近くとの声を聞きますか。」と。

 比丘たちは、答えた。

「友よ、そのようなことはありません。」

 さらに、スシーマは比丘たちに、あなたたち尊者は、「さまざまな種類の前世の生存を追憶するのか。」「天眼を持つのか。」「色〔界〕を超越して、寂静な無色〔界〕の解脱に身体をもって触れたのか。」という質問をする。

 しかし、比丘たちは、そのいずれの質問に対しても、

 「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

 さらに、スシーマは、ブッダのもとへ行き、ブッダはスシーマに、先にスシーマが比丘たちに聞いた同じ質問をし、スシーマは、そのすべての問いに対して、「世尊(ブッダ)よ、そのようなことはありません。」と答える。

 尊者スシーマは、ブッダと比丘たちの言葉に納得する。(『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典 相応部経典 第2巻 P.239~253 春秋社 参照)

 もちろん、何度も言うように、アートマン(霊魂)の不滅説や輪廻転生説(前世や来世の存在)を否定することは、ブッタの悟りではない。

 そういったものを否定するのではなく、そういったものに関する「想い」や「見解」から解き放たれた境地が、ブッタの悟りであり、輪廻からの解脱である、と私は理解している。

 もう一つ、誤解のないように、ここで付言しておかなければならないことがある。

 それは、経典に語られている「不死」とは「死んでも死なない」(=「永久不滅である」)という意味ではない。

 経典に語られている「不死」とは、究極の安らぎの境地を意味する「ニルヴァーナ」なのである。

 そして、再度繰り返すが、ニルヴァーナとは、永久不滅(常住)でもなければ断滅でもない、つまり、ブッダの理法とは、常見と断見とから離れてたものであり、見解そのものから解き放たれてしまった境地なのである。

 つまり、このことが、まさに「ブッダの理法」を具現させるための核心部の一つであると言ってよいと思う。


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