第4章 信仰を捨て去る


 最初期の仏教においては、すでに述べたように、「この世に対する願望」だけではなく「来世に対する願望」や「種々の生存(輪廻の生存)に対する願望」もまた捨て去られるべきものであると説かれていた。

 『想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行ない、この世もかの世も望まない。』 (Sn.779)

 『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 (Sn.801)

 それは、最古層の経典だけではなく、古層の経典にも、同様のことが語られている。

 『かれにとっては「彼岸(来世)もなく、此岸(現世)もなく、彼此両岸もない。」』 (Dhp.385)

 『かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世もかの世も望まない。』 (『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤ 中村元訳 岩波文庫 P.145)

 「来世に対する願望」は捨て去られるべきものである、と説かれていたのは、最初期の仏教だけではない。

 最初期のジャイナ教においても「来世に対しての願い」から離れることが説かれていたのである。

 ジャイナ教の最古の経典『アーヤーランガ』では、次のように語られている。

 『生を望まず、死も欲せず。』 (『アーヤーランガ』,8,8)

 『現世をも来世をも願うことがない。』 (『アーヤーランガ』,16,7)

 つまり、ジャイナ教の開祖であるマハーヴィーラも、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダも、その究極の境地においては、死後に対する「願い」や「願望」だけではなく、死んだらどうなるか、などといった「想い」からも離れることが説かれていたのである。

 ただ、そうであるからと言っても、寛容の精神に満ち溢れているゴータマ・ブッダは、「天生の思想」や何らかの「信仰」を持っている人たちに対しては、おそらくはそういったものを決して否定することはなく、むしろそれらをそのまま肯定さえもしていたであろうと私は思っている。(ブッダのこういった態度が、後の仏教に様々な拡大解釈の余地を残していったのかもしれない。)

 では、ゴータマ・ブッダは、修行者に対して「死後の世界の思想」や何らか特殊な「信仰」なるものが説かれることがあったのだろうか?

 このことについて、中村元氏は次のような興味深いことを言っている。

 【最初期の仏教についてみるに、『スッタニパータ』は在家者に天生を説いているだけである。しかし『スッタニパータ』よりも成立のおそい他の経典には在家者の天生とともに出家者の天生も説かれている。恐らく天生の教えは最初は在家者に対して説かれたのであったが、やがて出家した修行僧についても説かれるようになったのであろう。】 (『中村元選集・第13巻・P.387)

 仏教の原初において捨て去られたものは「来世に対する願望(「想い」や「見解」)」だけではない。

 最初期の仏教においては、「信仰」さえも捨て去ることが推奨されていたのである。

 『(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。」』 (『スッタニパータ』第5章<パーラーヤナ篇> Sn.1146)

 『見終わってから、<世界の主・梵天>に詩句をもって呼びかけられた。
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ。梵天よ。人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」』 (『サンユッタ・ニカーヤ』第1篇〈サガータ篇〉・第1集=『悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫 P.87)

 *この箇所を「古い信仰を捨て去れ」「軽い信を捨て去れ」などと翻訳する人もいるが、原文(muttasasaddho, pamuncassu saddham)には「古い」とか「軽い」などといった意味はない。

 さらに、中村氏は、次のように解説している。

 『最初期の仏教では智慧と戒行とを特に重んじていたのであるが、最初期の仏教においては何ものをも信じないというのが理想とされていた。成立当初の仏教は伝統の権威を否認していたのであるから、それは当然のことであろう。ところが、仏教が発展して宗教的性格をおびるようになってから、次第に<信>ということが強調されるようになった。やや後世になってから、或る場合には知見と戒行とのほかに信仰を修すべし、ということを説くようになった。』 (『中村元選集・第13巻』P.482)

 このように、最初期の仏教においては、「信仰を捨て去る」ことが説かれていただけではなく、「何も信じない」こと賞賛されていたのである。

何ものかを信ずることなく、作らざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、ー かれこそ実に最上の人である。」 (『ダンマパダ』第7章97)

 「Sn.853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。」

 * 「信じることなく」(信仰なく)Sn.853 の原意はナ・サッドー(na saddho)。ナは、否定の副詞。サッドーは、形容詞saddha(信ある・信仰ある)の複数・主格。ナ・サッドーを直訳すれば、信ある者ではない、となる。ここに、信仰なくという言葉が存することの意義は大きい。極端な話、ブッダは信仰を否定する者であり、宗教を否定する者であった、という言い方ができてしまうからだ。(『ブッダのまなさざしースッタニパータ第四章・第五章 和訳と解釈』正田大観 参照)

 それでは一体なぜ、言い換えれば何のために、最初期の仏教においては「信仰を捨て去り」「何も信じない」ことが賞賛され、さらには「死後の世界に関する議論」だけではなく、形而上学的な難題(=宗教的ドグマ)そのものに関する議論にさえも関わらないこと(Sn.1073~1076)が説かれていのだろうか?

 本稿第2章ですでに述べたように(Sn.824~834、878~894 参照)、ブッダの時代において、多くの宗教者や哲学者たちは、独自の見解をもって様々な議論を戦わせていたのである。

 そして、それらの激論による論点の大部分は、いくら論じても決着の着かない形而上学的な議論であった。

 つまり、当時の宗教者や哲学者たちの多くは、いくら論じても解決し得ない形而上学的問題について論争を行っていたために確執に陥り、執着に巻き込まれていたのである。

 さらには、形而上学的な難題に関する議論に関わることによって、あるいは、そういった主張を行うことによって、その結果として、人は、他者との「争い」や「摩擦」を引き起こすに至り、それは、究極の心の安らぎの境地には相容れないものであるから、ブッダは、このような論争は無意義であるとして、そういった論争に関わることを欲しなかったのである。

 ブッダが見い出した手法とは、経験に裏づけられるものだけを相手にし、人間の認識領域内の事実しか相手にしない、ということ、そしてさらに具体的に言えば、根拠薄弱・証拠不十分なものを真理として執着することを囚われの見地であると見做している、ということ、それがまさにゴータマ・ブッダの基本的な姿勢であった。

ニルヴァーナとは、一切の束縛から解き放たれることである。」(『悪魔との対話』サンユッタ・ニカーヤ 中村元訳 岩波文庫 P.234)

 そうであるからこそ、ゴータマ・ブッダは、「死後の世界」や「アートマン(霊魂)」の存在を始めとする形而上学的な問題については、それに関わることは、根源的な執着であり、苦の源泉であるとして、それらに関する問題に対して解答を与えることを拒否したのである。

 このことに関して、ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、次のように言っている。(それは、仏教最古の経典に登場するブッダの核心を述べた言葉であると思う。)
 『仏陀は、救いに必要でないような知識はしりぞける。仏陀が説明をあたえなかった命題、すなわち、かれがしりぞけた問題には、たとえば次のようなものがある。「世界は永遠である―世界は永遠ではない。」「完成せる者〔仏陀〕は死後存ずる―完成せる者は死後存しない。」

仏陀は、形而上学的な問題の理論的な根拠を、有害とさえみなしている。そのような処理はあたらしい束縛となる。なぜなら、形而上学的な思惟はある思惟形式に固着するが、まさにそのような思惟形式から解放されることが、救済への道にほかならないからである。

だが、形而上学的・理論的な問題にたいして解答をこばむ決定的な理由は、《それは涅槃への道に役立たない》ということである。これら の問題は道の途中でとどまり救済を逸せしめる。』 (ヤスパース全集『仏陀と龍樹』より引用)

 ここでもう一つ、中村元氏の解説を引用してみよう。

 『・・・・ゴータマ・ブッダは、当時の諸哲学説と対立する何らかの特殊な哲学説の立場に立って新たな宗教を創設したものでもなく、また新しい形而上学を唱導していたのではない。かれは二律背反に陥るような形而上学説を能う限り排除して、真実の実践的認識を教示したのである。それは「法を観る」立場である。それは人生の如実相を教えるとともに、人間の実践すべき真実の道であることを標榜している。』 (『中村元選集・第13巻・P.46)

 さらに、中村氏は、次のようにも言っている。

 『仏教以外の当時の諸哲学宗教は、精神・霊魂であるとか絶対者であるとか物質であるとか、その他何らかの実体的原理を認めて、その上に思想体系を構成していた。ところが仏教のみはいかなる実体的原理をも認めなかった。そもそも形而上学的企図を否認した。そうして実践的真理のみを問題としようとする。』 (『中村元選集・第14巻・P.38)

 つまり、人間の認識能力を超え出る(根拠や証拠のない)領域のものは一切相手にしない、というのが、ブッダの究極においての基本的姿勢だったのである。

 実は、そのことをかなり具体的に語っている経典があるので、その箇所を紹介してみようと思う。

  『比丘たちよ、わたしは「すべて」〔について〕、あなたたちに説こう。それを聞きなさい。「すべて」とは何であるか。眼と色、耳と声、舌と味、身と触、意と法、比丘たちよ、それを「すべて」というのである。
もし誰かが〔わたしが説く〕このような「すべて」を捨てて、他の「すべて」を説くというならば、それは単なる〔根拠のない〕言葉に過ぎない。また、〔彼は〕質問されたならばいい返せないであろう。それ以上に、困惑するらことになるであろう。どうしてか。比丘たちよ、それは、〔本来認識不可能であることを行おうとしている、つまり、彼の能力の範囲の〕領域にいるのではないからである」と。』 (『相応部経典』第4集・第1篇・第1部・第3章・第1節 =「原始仏典 相応部経典 第4巻 P.32 春秋社)

 このようにして、その経典のその箇所は、次の言葉で締め括られている。

 『・・・・・比丘たちよ、実に、これが、すべてを自ら知り、貪りを離れ、捨て去るのならば、苦しみを滅ぼすことは可能であるという〔そのすべて〕である。』(同 P.40)

 いずれにしても、最初期の仏教においては、諸々の無益な論争を離れることによって、「心の安らぎ」を得るべきことが説かれていたのである。

「Sn.803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということがない。かれらは、諸々の教義のいずれかも受け入れることもない。」

 ところで、ブッダの理法を理解する上で、もう一つ重要なことがある。

 それは、最初期の仏教においては、ニルヴァーナ(究極の安らぎ)は死後に得られるものではなく、今ここに、現世において、目のあたりに体現されるものである、ということである。(最古層の経典には、「今ここに」「現世において」という言葉が、何度も何度も繰り返し語られている。)

 誤解のないように、仏教最古の経典が説くニルヴァーナとは、場所ではない。ニルヴァーナとは、どこか特定の場所を指し示すものではなく、心の状態を言うのである。

 仏教最古の経典「パーラーヤナ篇」に登場するブッダは、次のように言っている。(再度、引用してみよう。)

『師が答えた
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたりに体得されるこの理法を、わたしはそなたに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行ない、世間の執著を乗り越えよ。」』 (Sn.1053)

『師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたりに体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行ない、世の中の執著を乗り越えよ。」』 (Sn.1066)

 これらの詩句を見ても分かるように、最初期の仏教においては、ニルヴァーナは、現世において眼のあたりに体現されるものであった。

 ところが、時代の経過とともに、ニルヴァーナは死後に起こるものだと考えられるようになり、その後、ニルヴァーナとは「聖者の死」を意味するようになったのである。(『中村元選集・第13巻・P.368 参照)

 次の章では、アートマン(霊魂)についてのゴータマ・ブッダ(釈尊)の基本的な捉え方を分かりやすく解説してみようと思う。


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