第11章 仏教用語の成立時期について


 一般的に、仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった仏教哲学用語は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダによって説かれたということになっている。

 ところが、中村元氏は、「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」の成立時期について興味深いことを言っている。

 それについて重要であると考えられる箇所を『中村元選集』から(四か所続けて)引用してみようと思う。(以下 引用)

 『パーリ文「アリヤ・パリエーサエ経」がつくられたときには、中道も八正道もまだまとめられていなかったか、少なくとも重要視されていなかった。相当漢訳の原本がつくられたときに、漸く中道と八正道とがベナレス・サルナートの説法と結びつけて考えられていたが、しかし四種の真理の説は編纂者の念頭にはなかった。サルナートの説法と四種の真理とが結びつけられて考えられたのは、かなり後世のことだと言わなければならない。詩句(ガーター)の中にもサルナートの説法と四種の真理・八正道・中道と結びつけたものは一つも存在しない。』(『中村元選集・第11巻・p239)

 「原始仏教の思想体系というと、人々は四種の真理(四諦)とか十二支による縁起(十二因縁)とかいうものをもち出して来る。しかしこれらの体系はかなり遅れて成立したものである。
まず古い詩句についてみるに、体系的な叙述はなされていない。興隆途上の初期の仏教徒は思想体系化への意欲をもっていなかったのであろう。仏教の勢威が或る程度確立してから体系化への動きが始まったらしい。最古の聖句には思想が極めて簡単なかかちでのべられている。」(『中村元選集・第14巻・P.3)

 「四つの真理(四諦)を示す句は、仏教がまだマガダ国中心の宗教であった時代にすでに成立していたと考えられる。しかし四諦の説は仏教の最初の時期よりはかなり遅れて成立したと考えられる。」(『中村元選集・第14巻・P.317)

 『ゴーダマ・ブッダが八正道を説いたかは疑問である。少なくともかれの活動の初期には説かなかったことである。(だからかれの最初の説法に八正道が述べられたという多くの経典の記載は、後世の虚構であり、後世になってかこつけたのである。)
八正道という定型句はかなり遅れて成立したものであるらしい。最古の詩句には、八正道はどこにも説かれていない。最も古い詩句や短い句においては、八正道にうちの一部だけを述べている。』(『中村元選集・第15巻・P.21)

 つまり、中村氏によれば、一般的に、仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった仏教哲学用語は、ゴータマ・ブッダの時代には無かったか、あるいは、それらがあったとしても、さほど重要視されてはいなかっただろう、ということである。

 さらに中村氏は、最古層(古い韻文)の経典に記されている原初の形の「縁起」というものに関して、次のように解説している。

 それについて重要であると考えられる箇所を、さらに『中村元選集』から(二か所続けて)引用してみようと思う。

 「縁起の観念は、古来仏教における中心観念の一つと考えられる。戒律の集成書のうちの叙述によると、世尊はウルヴェーラー村の、ネーランジャラー河の辺のぼだい樹の下にあって、足をくんで坐したまま、七日の間『解脱の楽しみを受けていた。』ところでそのときさとりを開くために観じたのが縁起の理法であるという。そのほか、縁起を観じてさとりを開いたという説明は聖典のうちの処々に散見する。この伝説が果たして歴史的事実を伝えているかどうかははなはだ疑問である。ブッダガヤーにおける釈尊のさとりの内容については聖典自体のうちに種々に異なって伝えられていて、必ずしも一定していない。以下において検討するように縁起説はかなり遅れて成立したものであるから、右の伝説はそのまま信用するわけにはゆかない。殊に十二の項目を立てる縁起説は最も遅れて成立したものであるから、後代の聖典作者が、縁起の思想を強調するあまり、釈尊のさとりの内容だとして、この場合に仮託してしまったのであろう。」(『中村元選集・第14巻・P41)

「原始仏教の縁起説といえば十二の項目を立てる縁起説(十二因縁)を以て説くことが従来一般に行われていた。十二の項目を立てる縁起説のほかに諸種の型式の縁起説が経典の中に説かれているが、それらの説は散文(長行)の部分にのみに出て来て、韻文の部分には出て来ないからどうしても遅れて成立した説だと言わねばならない。また散文の部分だけについて見ても、十二の項目を立てる縁起説以外の説がいろいろ説かれているが、散文の部分の諸説のうちでも、十二の項目の説は遅れて成立したと言わねばならない。十二の項目の説が遅く成立したことは、今日では原典批判をあまりやっていない学者の間でも常識として承認されている。まして原典批判を考慮する立場からは、当然さらに分析を進めて、その古いかたちを問題とせなばならない。
縁起というのは「甲に縁って乙が起ること」、すなわち甲が原因または条件となって乙が成立すること、という意味である。この概念を示す諸々の説が経典の中に説かれているので、それらを成立史的に研究するのが今の課題である。」(『中村元選集・第14巻・P.42)

 そして、中村氏は、次のようにも言っている。 

 「一般的にいうならば、形而上学的ないかなる立場に関しても沈黙を守るという立場に関しても沈黙を守るという立場から縁起説が導かれる。
縁起説が形而上学的見解に反対するものであることは、他の点からも確かめられる。

 釈尊がサーヴァッティ市の郊外の祇園にいたときに漁師の子であったサーティが釈尊から聞いた教えをこのように理解していた。ー『まさにこの識別作用が流転し輪廻する。他のものとなることはない。』と。つまり識別作用が輪廻の主体であり、自己同一性をたもっているというのである。ところでなかまの修行僧たちはこれを承認得ず、<悪しき見解>であるとして、釈尊のところへつれていった。

 釈尊がたずねた、『その識別作用とは何であるか?』サーティが答えた、『それはここかそこにおいて諸の善悪業の果報を受けるのである。』と。釈尊は批判した。愚かな人よ。わたしがこのように教えを説いたということを、汝はどうして知ったのか?わたしは種々のしかたで識別作用は縁生したものであると説いたではないか。ー縁によるのでなければ識別作用の生ずることはないと。』こういって、次に『何ものでもその縁によって識別作用が生じてその(縁となったもの)によって名づけられる。眼に縁って入りに関して識別作用が生じて眼の識別作用と名づけられる。』以下、鼻、舌、味、身、意に関してもそれぞれの識別作用が同様に述べられている。また後には十二の項目による縁起説も述べられてい
る。」(『中村元選集・第14巻・P.161~162)

 * これについて、より詳しく知りたい人は、『中村元選集』と併せて和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』参照

 こういったことを念頭において、以下の二つの結論が導かれる。

 (1)ゴータマ・ブッダの時代には、おそらく、一般的に仏教で説かれる「中道」や「八正道」、「四諦」、「十二支縁起説」などといった呼称(仏教哲学用語)及び、そういった体系的な術語は存在しなかった可能性が高い。

 (2)仏教の原初で説かれるところの「縁起」というものには、元々形而上学的な属性は含まれていなかった。というよりはむしろ、形而上学的ないかなる立場に関しても沈黙を守るという境地から縁起が説かれていた。

 いずれにしても、仏教においての古い韻文(ガーター)で説かれている内容は、とてもシンプルであり、さらにいくつもの複雑なカテゴリーに分類されて説かれるようになった仏教特有の術語は、ゴータマ・ブッダ(釈尊)の時代よりかなり遅れて成立した可能性が高いということなのである。

 つまり、複雑化する以前のブッダの時代、あるいはブッダに限りなく近い時代に説かれていた「ブッダの理法」とは、非常にシンプルなものであり、そこには後代の仏教で説かれるような特殊な教義や見解はなかったのである。

 仏教とは、曲解の歴史であると言っても過言ではない。

 つまり、複雑化する以前のブッダの時代、あるいはブッダに限りなく近い時代に説かれていた「ブッダの理法」とは、非常にシンプルなものであり、そこには後代の仏教で説かれるような特殊な教義や見解はなかったのである。


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