マイアーカーブス3 10円の重み
知り合いと飲んでいる時に、「幼稚園くらいの頃、ヨーグルトキャラメルを万引きしたこと があったんだけど、食べた時にすごく不味かったことを覚えている」という話からこんな出来 事を思い出した。
私も幼稚園くらいだっただろうか。当時は、いわゆる異年齢集団が健在で、休みの日など、 10人近い集まりで一緒に遊んだものだった。その日も、そんな集団で川原を何をすることも なく歩いていた。いわゆる探検みたいなものだろうか。
川原に、何重も積み上げられた土管の 上を歩いていた時だった。私は、土管と土管の間に10円玉が挟まっているのを見つけた。挟まり方が固くてとても子どもの力で取れる代物ではないように思われた。しかし、ぐちぐち動かしているとある瞬間、パカっとその10年玉が外れたのだった。
「あっ、10円ひろたあ。10円ひろたあ🎶」
と得意気に叫んだ自分の姿をくっきりと思い出すことができる。その「ひろたあ」のメロディラインを再現することもできるくらいだ。一緒に歩いていた連中は、何も言わず、無言でそんな私を眺めていた。「ええなあ」とか「ちょうだい」とか「俺によこせ」とか全く何の反応もない。私は、自分だけが持っているその10円でアイスキャンディーを買った。10円でそんな買 い物ができる時代だった。何を買ったののかも覚えている。棒が2本ついていて、真ん中で二つに割ることができるタイプの商品だ。なぜ、それを買ったのか。誰かに半分あげようと思ったのか、それとも、自分で2倍楽しもうと思ったのか。多分、後者だったのだと思う。なぜかというと、誰かにあげた覚えはなく、ダブルで楽しむはずの一人で食べたそのアイスキャンディーがちっとも美味しくなかったことを覚えているからだ。一緒にいた子らの羨ましそうな視線が刺さって痛かった。自分だけが美味しい思いをしようとすると苦い味がするということを子どもながらに味わった貴重な体験だったと思う。
真逆の体験もある。この苦いアイスの多分後だったと思うのだが、定かではない。でも、この「苦さ」を経験しているからこその出来事だったと思いたい。
小学校1年生の時だ。お休みの子がいた。特に親しくもなんともなかったが、私の帰宅途中 にその休んだクラスメイトの家があったので、連絡物と給食のパンを届けるように担任の先生 から頼まれた。別に断る理由はない。帰り道に寄って渡すだけのことだ。しかし、とてもラッキーなことが 起こった。玄関の風景も覚えている。薄暗い土間だった。土壁の臭いまで蘇ってくる。連絡物を母らし き人に渡すとその人は、何も言わずに家の奥に歩いて行った。私は子どもの勘で、この人はきっと私にお土産をくれるんだと察した。「ちょっと待っててね」ともなんとも言われなかったのにこんな勘だけは鋭い子だったのだろう。
ほんの短い時間だったが、妙な期待感で胸が高鳴っていた。当たりだった。
「はい。ありがとうね」
とその方から手渡されたものは......。お饅頭でもキャラメルでもなく、ゲンナマの10円硬貨2枚だった。私は、驚いたが、断るでもお礼を言うのでもなく黙ってそのゲンナマの20円を握りしめて 玄関を出た。
天にも上るような気持ちだった。 当時、私のお小遣いは一日10円。その10円で「安田」と言う駄菓子屋に行って一個1円 の飴や煎餅を買い、5円で「あてモン」と言うくじ引きのようなものをするのが日課だっ た。日によっては、10円の高級「あてもん」一発で終わることもあったが、とにかく10円はとても 大金で楽しませてくれる価値のあるものだったのだ。
それが、2倍だ。20円だ。私の頭に浮かんだのは、この20円のことを親に言うか言わないか。すぐに方針は確定した。言わない。
どうして使うか。ここで問題が発覚した。「安田」に行くのは、いつも友達のいさおちゃんと一緒だったのだ。いさおちゃんには言わないといけない。いさおちゃんに黙って一人で安田に行くと言う選択肢は持ってい なかった。
私は、決断した。
「そうだ、いさおちゃんに10円あげよう。いさおちゃんも小遣いは10円。二人でもらった10円と合 わせて20円ずつ楽しもう」
帰宅後、いつものようにいさおちゃんの家に行き、得意げにいさおちゃんに10円をあげた。でも功 ちゃんのリアクションが薄かった。何故だったのか、いまだにわからない。お金を人にもらってはいけないという躾を受けていた時代だったからか。おごるとか、おごられるとか言うのもとてもいけないことだいう教えがあったからか。いさおちゃんは、断るでもなく、喜ぶでもなく黙って私から10円を受け取り二人で安田に行 き、普段の倍の買い物を楽しんだ。
今になって思う。
もし、20円を独り占めしていたら30円の買い物ができたわけだ。 私にとって、30円はとてつもなく大金で一人で使う勇気がなかったこともあるが、いさおちゃ んの前で自分だけ「豪遊」する度胸もなかったし、それが気持ちのいいのものではないことも想像できたからだろう。
二人で20円をどう使ったのかは覚えていない。もちろん、親にも内緒である。そういうところの良心はあまり育っていなかったようであ る。かれこれ、60年ほど前の話である。私は、程なくして東大阪に引っ越しその後奈良へ転居した。ただ、父親の実家であったこの場所には、時々法事などで訪れることがあった。いつも「安田」はまだあるかなと車の窓越しに探していた。私が小学5年生のとき、父親の実母がなくなり、この地を訪れた。「安田」はなくなり、一 帯が大きな団地になっていた。「あの安田の優しいおっちゃんはどこへ行ったのかな。もう死 んだかな」とあまり関わりの無かった自分の祖父のことより気にしていたことを覚えている。
そして、あの時の安田のおっちゃんよりはるかに高齢になっている自分を思う。「金は天下 の周りもの」いい言葉だなあ。でも、いさおちゃんからは何も返してもらってないなあ。どこまで もせこい私である。
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