やっぱり常識とかセオリーって大事

周りの人がまた書き始めていたり友達が読んでくれたりとか、note関連のあれこれが起こっていて書きたくなってきたので書いてみようと思う。こういうときはノリが大事だ。矢印の向きが定まる気配を感じた瞬間、何も考えずその方向へ走り出す瞬発力。

4.5年前はノリではなく衝動であった。引きこもってくすぶりだけが募り、あるとき爆発する。そうして、友達がやっていた大学の部活に入って2か月で辞めたり、また別の友達とストイックな半共同生活をし始めたり。どちらもほぼ抑うつ状態のような感じで終了した。

そのときはただうまくいく方法がわかっていなかったのだ。衝動性にも使っていい分野とダメな分野がある。人とかかわらないといけないことだと続かなくなることが多い。反対に、自己完結するもの、例えば創作活動ならどこまでも衝動的になっていい。抑えるのではなくエネルギーの吐き出し口を変える、変換が大切。めざすべきは変換する方法を身につけることである。


飽きたので話は変わりまして…

最近は、やることが決まっておらず方向性があやふやな中にいた。なんとなく、うまくいかないなーと感じながら生活していた。ついこの前まではうまくいっていると感じて生活していたのに…。
うまくいっているときは何か方向性が見えている。それをやる意義が手に取るようにわかっていて、それは1週間後も1か月後も同じように感じれるだろうと確信している。しかし、ふと気が付くともう忘れているのだ。

新しく出会ってしまったからにはもう出会う前と後では見た目以上にとんでもなく違う。でもぼくはそれに気付けない。

そう、「見た目以上に出会う前と後ではとんでもなく違う」ということをよく感じるようになった。とてもハンバーグが食べたい、でもお寿司屋さんの看板が見えたとたんすでに寿司の舌になってしまっている、というように。

たかが食べたいものがハンバーグから寿司に変わったというだけの話なのだがここにはもう自分が別の人になったというほどの違いがあるんじゃないかということだ。と村上春樹先生は言いたいんじゃないかと僕は思っている。本当にそうなのかはわからないが僕がそう思ったからそうなのである。

人はちょっとのことで変化しちゃうから難しい。だいたい前の生活と同じなんだけど感覚が全然違う。そのせいで今はうまくいかないことが多いしどうしたらいいかわからない。つまり、ノリは大事なんだけどある程度の限定性うちでノリを発揮していかないとあやふやになってうまくいかなくなって鬱になっていくよということが言いたいのかもしれない。

ノリで言えば最近意識していたのは、そのときの雰囲気に合わせるといい感じになるんじゃないかということだ。んーあまりいい説明が思いつかない。そのときの空間のグルーヴにのっていくとか、セッション、即興のようにやるとか、そういうことが重要でうまくいく秘訣なんじゃないかということだ。だからそれを人との関わりの中で意識してやっていた。

複数回そんな風にやってみた結果、全部あまりうまくはいかなかった。そのときは僕は気持ちがいいのだがそのやり取りを振り返ってみたとき、良いとはいえないものになってしまっていたと思った。気持ちいい空間になることが重要という意味でそれはそれでいいのだが、もっと準備してやったほうがよくない?とフツーに思った。

即興的なものはやはりプロの業なのかも。

まだぼくは未熟者なのだから当たり前に準備が必要だしセオリー通りにやっていくべき。その先や隙間にグルーヴが隠れている。


これらの話は全部つながっているものだと思うのだが、どうやって今の自分の生活に活かしていけるだろうか。それをこの文章では考えたかった。回り道をしてたら一周してもとの場所に戻ってきていた。螺旋階段みたいに一周したら少し上に上がっているといいんだけど。

2024/06/17





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