日記 11月26日

今日は11時に起きた。昨日は調子が良くて今日はまあ悪くないという感じかな。ストレスや体のだるさはなくて、元気があるわけでもなく何かやろうともならない。朝はスマホを見てぼーっとしていた。

15時の今、カフェに来ることはできた。テスト勉強とかなんかしようと思っている。調子がいいときはその波に乗るのがうまかったと思うけど最近は波に乗れない。すぐにエネルギーがなくなってしまう。

前は生きるモチベーションをどこかから得ることができていて、その思想のようなものをもって生活していたような気がする。時間がたってそれがなくなってしまった。だから波に乗るのもうまくいかない。


最近人と会ってないな。しゃべるのは家族か元カノと電話をするくらい。家族と生活をするのも全然楽しんでいない。人とかかわる楽しさからどんどん離れていっているなと思う。


元カノのことで悩むことが多い。端的に言うと、僕は元カノが好きだけど相手は好きでも嫌いでもなくただ友達と思っていてつらいという話だ。

好きだとは言っても結構な遠距離だし、お金もないのであんまり会えない。また付き合ったとしても遠距離だというのは変わりない。

加えて、僕はまだ就職もしていないし卒業できるかもわからないし就活もしていないので将来に希望がなさすぎるというのもある。相手はそこを心配している。付き合ったとてまた遠距離だし将来性が見えなすぎるため同じことの繰り返しになるのではと言っていた。

特によく考えられているわけではないので、ただ好きだということがそこにあるだけだ。

別れた当時とは正反対の状況になっていて笑える。なぜ別れたのかとまで思う。


夕方ボールをけりたいと思い、近くの公園に行った。痩せたいとか体を動かしたいとの思いがあった。久しぶりにサッカーをした。

身体はもうだいぶ鈍っているが、サッカーの感覚は残っていた。小さいころからずっと続けているものは体に染みこんでいるようだ。家でダラダラしているときのだるさなんてちっぽけに思えるほど気持ちよく動ける。走れるし集中はするし頭はさえる。

筋トレするくらいならサッカーをしながら痩せれたらいいな。


僕は外見を気にしておしゃれをしたりダイエットをしたりすることに違和感をもっていた。その努力って承認欲求からきてるだけじゃん、よくみられたいから、目先の人にもてたいからってだけじゃないのかと思っていた。

Twitterの中でこういうものがあった。
「意識して魅力的な自分を創っていくためには、ものすごくハイレベルの知性が要求される。
まず、関係のなかで自分を俯瞰する支店の確かさが必要になるし、そのなかでどう振舞えばどう受け取られるかというデータ思考が必要になる。さらにわかったことを身体に落とし込む身体知がいる。」

「魅力ってね、”見た目”がすべてなんですよ。
”内面”も”見た目”なんだ。所作や表情や言葉として発露された”見た目”から漏れ出てくる、人の想像を誘発する余白が”内面”。
魅力的であることを選んで、そこで精進してきた人に、中途半端なインテリ如きが敵うはずないんです。」

「人は人の何に惹かれるか?まず顔の美しさですよね。
より正確に言えば「顔の美しさまで結実したその人の知性」に惹かれる。
からだの優美さに惹かれる。「優美な所作を実現するだけのその人の繊細さ」に惹かれる。
声のよさに惹かれる。「発声に感じとれるその人の余裕」に惹かれる。」


”見た目”のよさは知性のあらわれだという。
「その人の見た目」というのはひととなりのにじみだしなのである。見た目にその人の性格、癖があらわれる。
そう思うと外見なんか気にしないでいいという考えは正しくもないんだなと思った。まずは外見が良くないと好きにはならない。

どこか自分の根っこを考え直させてくれる素晴らしい文章だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?