見出し画像

  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(5)


 年初めの近江屋は、表通りに面した店舗から一番奥の米蔵まで、いたるところが正月飾りで彩られる。表には家紋の入った幕を張り、その上には“ゴンボ”と呼ばれる注連縄しめなわを飾る。別の出入り口や土蔵の入り口にも、大小さまざまな注連縄を飾って魔除けにする。年末の節季を終えたばかりの奉公人が、てんやわんやで汗したおかげだ。丁稚として四年九か月、駒蔵もそんな仕事に明け暮れたが、それも大晦日でついに最後となった。翌、明治九(1876)年正月、近江屋第十代、廣谷徳兵衛から、家督を継ぐことになったからである。
 徳兵衛が突然、隠居を決めたのだ。“商才”といわれる才覚をどうやら持ち合わせてなかったことが早い引退の理由だった。駒蔵は、手代の外商いについて回って商売の基本を学び、さらに哲学というべきものは、大番頭の佐助から直に教わった。その間、当主の非才に気づき始めてもいたようだ。徳兵衛の幸運は、そのことを自覚していたことであり、養子の跡継ぎに恵まれたことだった。
 大晦日も迫ったある夜、いつものように徳兵衛の寝所に呼ばれた駒蔵は、この年明けから、第十一代当主となることを告げられた。
「お前のことは、佐助からよお聞いとる。奉公人の修行はもう終わらせてええ。お前には商いの才がある。そう言いよる佐助をわては信じとる。梅田のステンショで陸蒸気おかじょうきを見たやろ。時代は動いとる。新しいもんの時代や。あと二年くらい、と思うとったが、それも時間の無駄や。お前に、はよ継がせたい。急な話やが、年が明けたら、お前がここの当主や。元旦にそのことをみなの前で伝える。ええな」
 青天の霹靂ではあったが、駒蔵はええな、と言われて、あきまへん、とは思わなかった。さよか、ほなやったるわ、との気分しか、湧き上がってこなかった。

 店も母屋も大掃除をすませ、正月の飾り付けが終わり、駒蔵も丁稚としての最後の務めをはたして、元日の朝が来る。正月ばかりは奉公人も、二つの座敷の襖を全部取っ払った、当主と同じ大広間に上がらせてもらえる。脚付きの膳を前にして、一人ずつ座布団に座る。やがて当主から呼ばれ、お年玉をもらい、そのまま一緒にお節をいただくのだ。
 駒蔵が、廣谷家の養子になってから毎年食べていたのは、次のようなお節料理である。

<一の重> 田作り、紅白かまぼこ、黒豆、白豆、厚焼き玉子
<二の重> ぶり照り焼き、結び昆布、新巻鮭の昆布〆め
<三の重> 栗きんとん、箱寿司
<煮しめ重(五段重ね)> 小いも、牛蒡ごぼう、人参、かしわ、蓮根、蒟蒻こんにゃく、絹さや、銀杏(このうち一段は、棒鱈だけの煮しめ)
 また、この正月用に当主が手に入れた、藍色と萌黄色もえぎいろでからす瓜が絵付けされた陶器の重箱(五段重ね)には、紅白なます、菊花かぶ、酢蓮根、たたき牛蒡と、数の子。

                 五段重ね、陶器の重箱(現存)

 床の間を背に、紋付羽織袴姿の当主・徳兵衛と、御寮人ごりょんさんのとみが並んで座り、その左右に、大番頭、番頭、手代、丁稚と、年長者から順番に、広間のずっと向こうまで、向かい合って座る。重箱が上座から回って来れば、奉公人も全種類を一つずつ、膳の上の大皿に載せていくのだ。雑煮は、元旦と三日は白味噌仕立てで、昆布出汁だし。大根、人参、小いも、くわいと、別の鍋で煮た丸餅が入る。二日だけがすまし。出汁は昆布と鰹でとり、中身は水菜に焼き餅。年の数だけ餅は食ってよし。もちろんそんなに食える強者はいないが、年に一人くらいは挑戦して腹を壊す。当主の背後の床の間には、二段重ねの鏡餅が鎮座している。

 その当主の隣に、座布団と膳が一つ用意されてあった。あれは誰が座るんかいなとひそひそ言い合う丁稚もいるが、まあ大半はそんなことより、立派なお座敷にいつもとは見違えるような“ええなり”をして、お客さんみたいにただ座っておれば、ご馳走は向こうからやってくることに興奮を抑えきれない。彼らがざわざわするなか、徳兵衛が居ずまいを正した。その当主から最も近い、列の一番前に座している佐助が、大きな声で言う。
「こら、静かにせんか」
 その一声に、いつもはなかなか静かにならない年少の子たちも静まりかえる。彼らも彼らなりに、緊張すべき時であることはわかっているのだ。それでも目は膳の上の、まだ何も乗っていない丸皿を食い入るように見つめている。と、そのうちの一人が、隣をつついて囁く。
「なあ、駒蔵はん、おりまっか?」
 一つ年かさの丁稚が、すばしっこく目を動かせて、手代と丁稚の間くらいの場所を探した。二十人を超える奉公人の中に、駒蔵が見つからない。
「あ、もしかして……」
 彼がようやく気づいたとき、佐助はまた声を張り上げた。
「旦那様から新年のお言葉がある。静かにして、よお聞け」
 いつもの「へえ」という返事も、緊張からか揃わない。
「おめでとうさん。今日は最初に知らせることがある。いま、このときを持って、わては家督を息子の駒蔵に譲る。駒蔵、入ってき」

 みなが驚いている間もなく、床の間のすぐ横の襖が開いて、黒羽二重はぶたえ、染め付き五紋付の着物に羽織袴姿の駒蔵が入って来た。特大の鏡餅を背にし、これまで一緒に枕を並べて寝ていた奉公人たちの方を向き、誰が座るのかと訝しがられていた特別誂えの座布団にどっしりと腰を下ろした。
 数えでわずか二十歳の、当主誕生であった。
(つづく・次回の掲載は12月15日の予定です)    

* 参考資料:山田庄一「上方の文化あれこれ(二)」歳時記(1)(国立劇場平成三十年十二月文楽公演パンフレットより)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?