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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(10)


 「はい、廣谷駒蔵はわたしですが。あんさんは?」
 言葉を返しながら、その娘のかすかな不安に彩られた顔を見て駒蔵が思ったことは、どこかで逢うたことがあるやろか、だった。色白で、形のいい額に切れ長の涼やかな目、誰が見ても別嬪さんやなあ、と言いそうだが、一度逢っただけならすぐに忘れてしまいそうな顔。なのにそんな気がしたのだった。しかしこの美しい娘が、自分目当てに正栄社を訪れているのは明らかなのだ。駒蔵は心の底から幸福な思いが滲み出てくるように感じた。そして次の瞬間、彼女こそが佐助の言っていた“大事なお客さん”だと察していた。
 その娘、美津はというと、
「へ」
 と言ったきり、目の前の男が訪ねるべき相手とわかりはしたものの、肝心のおつかいの内容を知らずに来て、困惑した子供のような顔になって黙ってしまった。その可憐さに駒蔵は思わず破顔し、
「ああ、佐助はんに言われたんですな。聞いとります。ちょっとその辺、歩きまひょか」
 と出まかせを言って、胸の前にふろしき包みを抱えた美津を店に入れることもせず、そのまま前の道を歩き始めた。美津は少し間を置いてから、駒蔵のあとを追って来る。
 並んで歩くと、子供のようにも見えた美津は意外に背が高かった。見下ろすほどでなく、ちょうどいい位置におっとりとした瓜実顔がある。背筋が伸びて、歩き方にも育ちの良さが伺えた。聡い駒蔵のことだから、佐助が何を企らんでいたかも徐々にわかってきて、まだ名乗ってもいない女を強引に連れ出して良かったと思った。仮にその見立てが間違っていたとしてもええがな。この出会いに優るもんはないやろ。
「大番頭、いや、副社長からあんさんのことは聞いてますけど、名前も知らへんねん。どちらにお住いのどなたはんでっしゃろか?」
 と、間の抜けた挨拶から始まって、駒蔵はすでに心奪われた女と、老松町界隈をそぞろ歩いた。まず自分の素性を簡単に述べたのち、彼女が森井美津という名前であること、ここから十町ほど先の履物屋の長女であること、弟と妹がいることをやっと聞き終えたところで、ちょうど曽根崎のお初天神の前に出た。
「ちょっとお参りしていきまひょか」
 と駒蔵が言うと、美津は、
「へ」
 と、もう何度目かになる短い相槌を打ち、無論初めてではないのだろう天神さんの石畳を、今度は駒蔵に先んじて歩いていくのだった。柏手を打つ美津の姿を見て、駒蔵はかつて、ここでまだ年端も行かないこの子を助けたことを、はっきりと思い出した。美津の背中に向かってそのことを口にしかけて、言葉を飲み込んだ。それを明らかにする日はいずれまた来るやろ、と思ったのである。
 今頃佐助は、わしがおらんようになったんで、やきもきしてるやろか、それにしても呼んだ女子もんなあ思てるやろな、と考えているうちに、天神さんのお参りも済み、駒蔵はそろそろ、美津が呼び出された理由が何かを話さなくてはならないだろうと思った。相手は一向に何も聞いてはこないのだったが。
「時に、お美津さん。あ、あんさんをそう呼んでもええでっか?」
「へ」
「さよか。ほな、お美津さん」
「へ」
「今日、佐助はんが、あんさんをうちに呼んだんはな」
「へ」
「お美津さんとこの私を添わせよう思てるんですわ」
「……へ?」
 美津は駒蔵の顔を正面からじっと見つめた。相槌の「へ」が、初めて語尾を上げた疑問形になり、みるみるうちに美津の白い頬は薄っすらと桜色に染まっていく。駒蔵はこの日二度目の幸福感に満たされた。自分も三十を過ぎた。佐助の思惑どおり、この辺で所帯を持ってもええかもしれん。そして相手が今、目の前にいる女であることは、以前から約束されていたことのように思われた。
 その瞬間には、すでに情を通じているもう一人の女のことは脳裏に浮かんではいなかった。だからまさか、そのもう一人とばったり会うとは思いもよらない。しかし考えてみれば、曽根崎新地のお茶屋「京縫」は、こことは目と鼻の先だ。特段珍しいことではない。
 しかも、先に彼女を見つけたのは美津だった。

「あら。こんにちは」
 天神さんの境内を出たところで、新地方面から歩いてくる笹部千鶴に、美津は自分から声をかけたのだ。
「あら。こんにちは」
 千鶴も同じ言葉を美津に返した。そしてその背後にいた駒蔵に気づいて、もう一度「あら」と言って目を見開いた。一方、美津と駒蔵は同時に口を開いた。
「へ?」「え?」
 こののち同じ家系図の根幹を作ることになる三人が、そのときはからずも、一堂に会したのだった。もちろん、このときの駒蔵の頭の中に、そんな家系図が描かれているわけはない。ただ駒蔵は、自分には心から愛しいと思える女がいて、そして今日もまた、別嬪で性格も良さそうで、嫁はんにしたいような女と出会い、自分はどれほど果報もんであることかと感嘆していた。
「それもわざわざ、拝みに行って逢うたお初天神でやで」と、その嬉しさは尋常ではなかった。
 いかにも暢気な駒蔵であった。
 (つづく・次回の掲載は3月1日の予定です)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。




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