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【kikcafeインタビュー企画】30代で大企業から未経験のフォトグラファーに転身、株式会社プライメリーの吉野正悟の半生を振り返る


誰しも一度は、有名大学への進学や名の知れた大企業への就職という、いわゆる世の中の一般的な成功に憧れを抱いたことはあるだろう。しかし、それはあくまで「一般的な」成功であってそうなれたからといって誰しもが幸せとは限らない。
そこで今一度「人生における成功」の意味を考えるきっかけを作るために、個性豊かな人生を送るkikcafeの人々にインタビューをすることになった。今回は、株式会社プライメリー代表取締役 吉野正悟さんにお話を伺った。この記事を読んで、他人軸ではなく、自分軸の人生を送るための1歩を踏み出すきっかけになれば嬉しい。


経歴

大学卒業後、セブン&アイで10年間、企画・コンサルティングなどの業務を行なった後、未経験のフォトグラファーの道へ進み、2020年に株式会社プライメリーを設立。2023年6月、秋葉原にスタジオをオープン。


プライメリー代表取締役 吉野正悟さん



自転車で旅をした高校時代、そこから学んだものとは


帰宅部だった高校時代、高校一年の夏休みに友達と旅行をすることに。お金はないがどこか遠くへ行きたいと思い、自転車で一ヶ月かけて東京から青森へ行くことにした。その日着いた場所で、電話ボックスにあった電話帳を頼りに近くの安いホテルに泊まるか、体力に余裕があるときは野宿をするか決めるようなざっくりした旅だった。
高校3年の時には、さらは遠い鹿児島まで自転車を漕いだ。

「今思えば、雨でも風でも前に進まなければゴールにつかないという状況を体を張って学べたのは大きかったと思う」

と振り返る。道中、台風による土砂崩れで小田原から先に進めなかったことがあった。でも、みんなに鹿児島まで行くといってしまった以上、小田原で引き返してきましたなんてカッコ悪くて言えない。ネットもスマホもない中で考えたのは、朝一の誰もいない始発電車に自転車を乗っけて通行止めを回避することだった。当時はただ楽しんでやっていたことだが、その経験が会社を経営する今に活きているという。

また、当時持っていた「楽な道よりワクワクする道を選ぶ」という姿勢は今の生き方に通じている。

「国道を走れば最短ルートだけど、それじゃあ単調でつまらないと思った。でも、一本横に入った県道に進むと、誰も見たことのない風景が見れるし、地方独特のジュースも見つかる。そっちの方が絶対楽しい。」
「大手にいた時の方が楽だったし、今の方が全然大変だけど、今の方が絶対楽しい。」


学生の頃の自転車旅行


レースでの怪我、そして就活


大学では自転車部へ入部し自転車漬けの大学生活を送っていた。しかし、最後のレース中に大怪我をし、そのまま就活を開始。自転車が好きだったこともあり、メカニック系の仕事に興味も持っていたが、ロードレースが盛んでなかったことや怪我のトラウマもあり断念。結局、物作りと接客に興味があったため、イトーヨーカドーに就職した。

絵を描くことや写真を見ることは当時から好きだったが、それを仕事にしようという発想にはならなかった。

「美大出身の父親は元々絵を描いていたが、結婚するときにそれでは食っていけないと出版社に勤め直していた。そういった姿を見ていたからなんとなく食えないイメージがあったのかもしれない。」



サラリーマンを経験してわかった自分の生き方


こうしてサラリーマンとして働き始めた。しかし、10年間サラリーマンとして働いて、サラリーマンとしてのゴールを目の当たりにした時に、自分のキャリアに違和感を感じた。

『「あ、自分のゴールはこれじゃないな。」と思った。』

「自分がワクワクするものを仕事にして、その結果お金を稼ぐようにしないと僕は楽しくないし、お金を稼ぐことにワクワクはしないことに気づいた。」

「じゃあワクワクするものは何か?と遡ってみた時に出てきたのが絵を描くことだった。絵を描くことは厳しいと感じたが、写真ならできるかもしれないと思った。」


イトーヨーカドー新入社員時代


半年に及ぶ転職期間


当時奥さんと子供がいたが、転職することは両親や奥さん含め誰にも相談をしなかった。
奥さんにはすごく怒られたという。

「諦めてはいたと思うけど、そりゃ怒るよね笑」

30代の未経験からの転職はそう簡単には進まなかった。最終的に内定をもらった会社の面接に行く時には、電車賃を親に借りなければならないほどギリギリだった。

先の見えないこの期間は一番きつかった時期の一つだったという。



会社の解散、コロナ禍での起業


放任的な社長のもとで12年働き、責任者まで担当した。転機は2019年のコロナウイルスの到来。世の中が完全にストップし、稼ぎ頭だった結婚式場が受け入れをやめたことの影響で、従業員全員が会社から解雇されることが、吉野さんのみに告げられた。
1週間悩んだ後、当時の従業員6人を集めてそのことを告げた。

「せっかくだから会社作ってやろうと思ってるんだけどどう?」

そう提案した吉野さんに6人全員が納得し、一緒に会社を設立。

「みんな行く先がなかったから選択肢はなかった。」

偶然にも、絵描きの副業に支払われたコロナの給付金が手付かずで100万円残っていたため、それを元手に会社を設立。1000万円を借り入れ会社をスタートした。

「アホみたいだよね笑 仕事ないのに毎月120万円出ていくんだよ笑」

勝算が立たない起業当初も転職期間に並んでしんどい時期だった。


フォトスタジオ勤め時代


Kikcafeでの出会い


会社を立ち上げるとともにオフィスも失い、行く宛もなかった吉野さんは、Kikcafeを訪れた。

「人の繋がりがあるのってメグさんくらいしかいないと思った。」

すると、偶然にもKikcafeを訪れていたWeb制作会社でアルバイトをする方が吉野さんの話を聞いて

「うちの事務所は今テレワークでみんないないから事務所は空っぽですよ。」

と教えてくれた。その場で事務所の社長さんにアポイントを取り、面談をしたところ、オフィスを格安で貸し出してくれることが決まった。



首の皮一枚で繋がった1年目


コロナに対する世の中の認識が少し軽くなって、結婚式が戻り始めた頃、多くのフォトスタジオは倒産し、人手不足になっていた。そんな中、早々に経営に見切りをつけて新しく組織を作っていたプライメリーは、某大手テーマパーク運営会社と契約をつけることに成功した。最終的に、初期機材購入額の赤字のみで1年目を終えた。


現スタジオとの出会い


現スタジオとの出会いはフォトスタジオに勤めていた頃に遡る。ある日、ヨガ教室を始めたサラリーマン時代の同僚からレッスン受けにきてよという誘いがあった。食うのに困っていなかった当時、ヨガには全く興味はなかったが、レッスン代が同僚の飯代になればいいかなくらいの気持ちで訪れたのが、今のスタジオになっている部屋だった。

その頃の部屋は、別のカメラマンがフォトスタジオとして使っていたが、コロナの影響からレンタルスペースとしても貸し出しを行っていたのだという。
カメラマンとはFacebookだけ交換してその日は解散した。

それから3年後のある日、夜風呂に入っているときにFacebookを眺めていると、

「スタジオを閉めることにしました。誰か代わりにやらないかな?」

という趣旨のカメラマンの投稿が目に飛び込んできた。

「なぜかわからないけど、これだと思った。」

すぐに連絡をし、会社のメンバー全員でスタジオを見に行った。

「金額が金額だから断る理由を探したけど、見つからなかった。やれってことなのかなと思った。」

こうして秋葉原に現在のスタジオを構えることになった。
後から聞いた話によると、最終的な譲り先の決定はタロット占いだったそうだ。

これまでのカメラマンとしての第2のキャリアを

「全て運。」

と振り返った。

秋葉原への引越し

後書き

吉野さんへインタビューをしてみて、運とは何か?を考えさせられた。確かに、自分ではどうにもできない部分で運というものはあるのかもしれない。しかし、吉野さんの場合、根底には全てそれまで築いていた人脈があったのだと気づいた。


吉野さんが代表をするフォトスタジオ↓↓↓


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