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動物と差別

まえがき

 
 このnote(?)を読むことで多少不快な思いをするひとが多いだろう。というのも、この文章の内容は、非人間動物に対する差別についてのもので、わたしたちのほとんどが日常的にしている行動や考え方を批判するものだからだ。

 わたしたちは物理学を専門的に学ぶことなしに、自分を物理学の天才だと思えない。しかしそれとは対照的に、正しいことに対する直感に関しては、倫理学を学んだことのないひとでも自分自身を天才的だと思っている(もしくは正しさのようなものは主観に過ぎないという素朴な相対主義をもっている)。そのため、誰にでも多少の自負というものがあり、それを否定されるのは不愉快だ。

近ごろは動物倫理に関する本も国内の出版が増えてきたので、興味と時間があるのであればこの記事よりも以下のような本を読んでもらったほうがよい。


そもそも差別って


 
差別というのはおおざっぱいうと、あるカテゴライズによって、される側が不利益を被る不合理な態度、行動、社会構造などのことだ。(というかこの記事ではそういうふうに説明する。)たとえば、有色人種や女性、非ヘテロな性的指向などは、すでに社会的に広く認知されている被差別属性といえる。女性が女性であるからという理由によって社会進出しづらくなっている現状は、社会の差別的な構造の結果として生じているものである。一方で、未成年者の喫煙や飲酒が法律によって制限されているのは、喫煙によって影響を受けやすい彼らの身体の健康被害をパターナリスティックに防ぐものだ。こちらに関しては合理的な理由があり、これを年齢による差別とはいえない。

 あらゆる差別について、差別をする側からも合理化が試みられてきた。しかし、それが成功していたかどうかとは別の話である。女性は男性に比べて知性的に劣っているとされ、選挙権をはじめ、さまざまな権利を奪われてきた。また、関東大震災のあと、韓国人や共産主義者が井戸に毒を入れた、というデマが流れ、”恐怖”を合理化の理由にされて、多くの人が殺されてしまった。
 自分の利益を他者の利益より高く見積もる傾向はだれでもあるものであるが、えてして、差別をする側は、自分達の利益を差別される側の利益よりも不当に高く見積もり、公正さに欠けた合理化を行う。

 こうした不当な見積もりから脱却し、できるだけ第三者の視点で双方の利益不利益を勘案することが、あらゆる差別や対立の問題について考える際に必要となる。そうしなければ、お互いがお互いの直感に則って差別する/されない権利を主張することになり、問題を先に進めることができなくなってしまう。

人間であることは特別なのか?


 人種や性別については、それらの属性によって人の優劣がつけられてはならないということについて、すでに同意が得られているという前提で話を進める。いまの時代では、*人間であるかぎり、みな等しく尊重されるべきで、肌の色や性別による理由で不当な扱いを受けてはいけない、ということを素朴に信じているひとがほとんどだろうし、これに反対するひとは少ない(ただし、そのようなアイディアに即した振る舞いを実際にしているかどうかは別問題である)。
 
 しかし、この*人間であるかぎり、という限定はどのようにして導かれるのだろう。人間が人間であるという理由で尊重されるべき、という説明は循環論法になっており、男性が男性であるから、日本人が日本人だから優れているといった理由づけととくに違わない。なので、なにか別の理由が必要になる。しかし、これが中々難しい。

 
たとえば、人間と非人間動物を大きく隔てているように思える、知的な能力を理由にしようとすると、その能力が一部の動物よりも劣る非典型的な人々(知的な障害をもつ人々や幼児)は、基準からこぼれ落ちてしまうし、発話能力のようなものを理由にしようとしても、生まれつき喋ることのできない人というのはごまんといる。

 このように、人間に特有のように思われるどのような能力にしても、すべての人間が、ほかの動物よりも秀でているというものはない。また、もしもそのような特別な能力が存在したとして、その能力をもつ存在になぜ特別な価値があるのかを説明する必要がある。(翼を使って自由に空を飛べる能力が、カラスを人間より価値のある存在にするだろうか?)

 個人のもつ能力に注目するのではなく、人間の社会に特有な人々のつながりが価値を生む、というアイデアはどうだろう。たとえば、一匹のライオンの死が彼らの形成する社会に悲しみをもたらすよりも、一人の人間の死は、多くの存在に悲しみをもたらし、より大規模な社会での不利益になるのではないか??

 さきほどと同様、この理論を採用すると、社会的なつながりの薄い人は、そうでない人よりも価値のないことになってしまう。さらには、地下室で他者とのつながりを持たないクローン人間を密かにつくり、個人の娯楽や医療目的に私用することを正当化できることになる。


 このようにしてひとつひとつ考えていくと、ホモサピエンスの一員である、ということに、非ホモサピエンス動物よりも尊重されるべき理由を探すのはどうやら難しいということがわかり、男性が男性だから女性よりも尊重されるべきといった程度の理屈と同程度に不合理なものとなる。

内在的価値の条件


 さて、ホモサピエンスの一員であることに価値を認めることを諦めたのであれば、どのような要素が存在にそれ自身の価値(内在的な価値)を与えるのだろうか。それは、快や不快を感じられる存在であることである。快や不快を感じられる、というと、なんだかこちらも恣意的に一部の特別な能力を取り出したに感じるかもしれないが、ようするに、そもそも利益不利益を享受できる主体がそもそもそこに存在するのか、もっと単純化すると、イヤな思いをする存在であるのか、ということだ。そして、そのような主体というのはもちろん、人間にかぎらない。

 牛や豚といった哺乳類が主観的な意識をもって喜びや苦しみを感じていることは、科学的に人間がそうであるのと同じようにあきらかである。犬や猫といった動物を飼ったことのある人は彼らの豊かな感情を経験的にも知っているだろう。つまり、彼らは利益不利益を感じる主体であり、彼らの利益は尊重されるべきである。鳥や魚もそのような存在であるが、昆虫に関してはまだ明らかではない(現時点では否定的な証拠を示すのほうが多いが)。二枚貝や植物はほぼ確実にそのような存在ではないので、彼ら自身にとっての(と主体としての意識をもたない存在を呼ぶのは不適切であるが)利益不利益を考えることに意味はない。
 いのちに特別な価値がある、という人間とアメーバの価値を一緒くたにする雑なスローガンとは真っ向から反対する考えだ。


種差別


 
世界では人口の何倍もの数の家畜が毎年繁殖させられており、その多くは檻の中で不快に塗れた短い一生を過ごし、彼らの苦しみを考慮しないローコストな手段方法で殺される。もしこれが人間の身におこっていたら、過去のあらゆるジェノサイドなどとも比較にならない規模の悲劇だと思われるだろう。しかし、彼らは人間ではないからそもそも問題とすらみなされない。

 初期胎児に対する中絶が、利益をもたない彼らの利益を理由にしてさかんに反対されるのに対し、確実に胎児よりも自身の利益不利益をもつ存在である成鳥が、日本だけで8億羽ほど食用に育てられたのち殺される。しかしこれもほとんどの人にとって問題ではない。なぜなら、彼らは人間ではないから。

しかし、人間/非人間であるという区別に価値の優劣を見出すことが難しいということはさきほど説明したとおりである。このように、人間が、たんに人間でないから、ということのみを理由にして、非人間動物の利益を低く見積もる態度を人種差別や性差別と同様、種差別という。

 畜産について触れたが、わたしたちの多くが、種差別に加担する一番身近な場面は食事だろう。*適切に用意されたビーガン食は幼児から老人にいたるまですべてのライフステージに適しているという発表がアメリカ栄養士会やカナダ栄養士会から発表されているので、動物性の食事が、栄養源として生きるのに必須である、という正当化は、食料へのアクセスが極端に限られている人をのぞき、できない。(*適切に、という部分が気になるかもしれないが、そこまで特別なものではない。また、これを読んでいるほとんどの人は不適切に用意された食事をする肉食(雑食)者だろう。)
 つまり、畜産業のように不当に非人間動物を苦しめる産業によって作られた製品を、わたしたちはふだん、味覚の喜びという利益を理由に購入し、消費する。そうして産業の需要を増加させ、家畜の苦痛に塗れた一生を際限なくつくりだす。彼らの受ける不利益と、わたしたちの受ける利益が見合っているとは思えず、これは種差別的な行動である。

  畜産以外でも、水族館や動物園、愛玩動物の強制繁殖や販売、動物実験など、彼ら自身の不利益を度外視した非人間動物の利用は多岐に渡る。わたしたちがこれらから受ける利益は彼らの苦しみに見合っているだろうか。ほとんどのものに関してはそうでないだろう。


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 この社会に生まれて種差別的な思考から完全に脱却するのは難しい。わたし自身、いまだに種差別的な傾向を強くもっているため、人間の見た目をしたものに対して強く感覚的な共感を覚えるケースが多いだろうし、人間側の利益を無意識的に不当に高く評価していることだろう。たとえば、仔牛が屠殺をされる映像と、人間の幼児が同じことをされる映像を見たとして、後者の方に強く不快や、怒りを感じるかもしれない。しかし、それと同時に、それぞれに与えられた害には実のところたいした違いがない考えており、どちらも同じようにとても悪いことであるとを知っている。

 なので、"友好的"なベジタリアンのように動物製品を消費することを個人の選択だと言うことはしない。被害者のいる問題でそれをいうのであれば、レイプ殺人もあらゆる差別的な振る舞いも個人の選択ということになる。わたしは暴力に反対だが、あなたが暴力をするのは気にしない、と口にするのは奇妙な態度だろう。


おわりに


 種差別の基本的な概要をてきとうに書き出してみたが、このnoteを読んでくれた人が、オラが悪かった。今日から動物製品の購入など控えよう、と思うことは正直期待していない(もちろん、そうしてくれたらたいへん喜ばしいが)。また、種差別に関して思い浮かぶであろう素朴な反論や疑問の数々についても、先回りして網羅はできていない。しかし、種差別についてなんとなく知ってもらえたり、考え方になにかしら影響を与えるきっかけになればうれしく思う。



あとがき?

 ビーガンという言葉が日本でも(本来の意味とはかけ離れて)広まりだしてから、SNS上で、ビーガンを馬鹿にしようという内容の投稿を頻繁に見かける。
種差別は、非人間動物 対 人間の問題なのだが、この構造はふつう見えづらく、エンターテイメント性も薄いので、メディアはビーガン 対 肉食者、という対立を煽る報道をしがちであるし、ビーガンという、独善的にみえる目障りな存在を馬鹿にしたり、面白がったりしてそうした情報を広める人も多い。


 もちろん、種差別のみが取り沙汰されない差別ではない。しかし、人種差別や性差別といった、すでに社会的に認められた類いの差別には積極的に反対を表明している人々が、こうしたコンテンツを面白がっているのは、一貫性のないことだ。そして、彼らの反差別的な表明に関しても、不正義に対する怒りというよりは、社会の雰囲気や自身の損得によってなんとなく形成された好き嫌いを、深く考えずに表明しているだけなのではないか、と邪推してしまう(わかりやすく差別的、露悪的な人々に対してはこのように思わないので全くフェアではないのだが)。 

 差別の問題について社会の構成員全員が興味をもち、道徳哲学を学んで自分で考えなさいなどというのは無理な話である。なので、社会的な雰囲気や同調圧力というのは社会正義運動を大きくして問題解決につなげるために必要なことだ。たとえば、100年前の人々と比べて、この社会においてわたしたちはとくに深く思考することなく、ベーシックな意味での男女平等に肯定的な気持ちを意図せず持つことが可能になっており、あからさまに女性差別的な視点から出発し、それを自らの強い意志によって修正していく必要はない。また、女性の地位向上を目指した運動を行なったとしても、社会全体からの反発を昔ほど強く受けることはないだろう。

 けれども、個人の肌感覚のようなものであらゆる差別に反対できたり、自分には偏見がないと思ったりするのは単純に間違いである。デフォルトとして差別しがちな性質を持っているわたしたちが差別について真面目に考え自分自身の差別心に向き合うためには、かなり意識的に自分から学んでいくことが必要だ。

 自分の差別心に向き合うプロセスには不快感を伴う。しかし、わたしたちが人種や性別に関する差別的な行為に対し、反射的に怒りという感情をもって反対できるのは、それらの差別が「差別」だと社会にみなされなかった時代や環境において、こうした努力を経て積極的に活動を行なった少数の人々の成果によるところが大きいのである。






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