言語の壁

1月20日金曜日。18:30。外堀校舎6階。秋学期最後の学校からの帰り道。さっきまで一緒に日本語で話していたロシア人の友達が、他のロシア人の友達と日本人のロシア語専攻の友達とロシア語で話し始めた。私は何を話しているのか全然分からないので何となく聞き流していた。1階に降りてきたところで、話していたロシア人のうちの一人と、一緒にいた(たしか)スペイン語専攻の日本人が、他の外国人の友達とばったり会って英語で話し始めた。これも全然分からないので聞き流した。あれは多分、だいぶ前に会ったイギリス人のナントカさんだったような気がするが、マスクをしていたのでよく分からなかった。そして飯田橋駅前の交差点の信号で別れる時、みんな日本語でさよならを言った後にロシア語でさよならを言っていた。

話す言語が変わると人が変わったように見える。それは多分、私がその言語を全然知らないということや、それぞれの言語特有の発音なんかが関係しているのだろう。それにしても、さっきまで日本語を話していた友達が急に母語で別の言語を話し始めた時のあの迫力には驚かされるし、そこから英語に変わった時のあの「theグローバル」みたいな雰囲気にも驚かされる。これは何語話者が何語を話し出した時も同じだ。

同じ日本語でも、いつも話さない方言や標準語が急に出てくると違う人みたいな感じがする。家族が急に仕事先の話し方になると人が変わったように見える。友達が先輩と話す時違う人に見える。違う人に見える時、ちょっと遠い存在になったような気がする。

日本は島国で英語を話せる人も少ないし、割と外国人を怖がる傾向があるように感じる。日本語ではない何語かを話していることで遠い存在に感じる人がいた時、その人を別の見方で見られるということを思い出してほしい。日本人同士だって、いつでも家族は家族だし、友達は友達で変わりはないが、自分から見れば時と場合によって近くなったり遠くなったりする。なんだか難しいという人は、目の前のその人が突然日本語で話し始めたらどんな感じかちょっと考えてみるだけでもいい。「あの」と言ったら「はい」と答えてくれるかもしれない。言語が違うだけだ。ちょっと近く感じられるだろうか。

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