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霧の宴  ミラノ Ⅴ          Al di Là (アル ディ ラ)                                      彼方に

 十二月三十一日、サン シルヴェストゥロのグラン チェ―ナとそれに続く夜明けまで踊り明かす馬鹿騒ぎを後眼にして、ジュリア―の公爵は南太平洋に旅立っていった。
 そして、新しい年を迎え、公爵邸でのコンサートが開かれた。
しかし、マリアムは新しい芝居の台本を渡されていたので、その下準備にかからなければならず、初日の華やかなレセプションが続く公爵邸を早々と退出しなければならなかった。
 中座するマリアムを、ジョルジョが家まで送ってくれたが、途中、車の中で彼はいつになく真剣な声で切り出した。
「アンドレアに気が付いたかい?ひどく疲れているとは思わないかい?」
一瞬、胸の鼓動が止まったような衝撃を受け、マリアムは深い闇の底に突き落とされてゆく感覚に襲われた。
 親しい友人達は、アンドレアが病身であることを十分に承知していながら、心の底でそれを無意識に追い払おうとしていたのではなかったか?
そして、以前のように陽気で華やかな雰囲気を振りまきながら人々の前に姿を見せるたびに、彼の病は過去のものなのだと、あえて信じ込もうとしていたのではなかったか?
「お医者の貴方がそう云うんだから、、、、確かに今夜は少し疲れている様子ではあったけれど、、、」
 頭の中が空っぽになって、マリアムには自分の声が遠く虚ろに聞こえていた。
「彼には、疲労は絶対に禁物なんだ、それと酒はね。勿論彼自身も十二分に承知している筈ではあるが、、、だが、ああ不摂生に酒を飲み殺人的なスケジュールをこなすんだから、自殺行為としか思えない。僕だって黙って見ているわけじゃないんだよ、随分小言を言っているんだが、そのたびに『ジョルジョ、僕のことを気遣ってくれてありがとう、でも僕は後どれくらい生きられるか分かっているんだ。だからその時が来るまでにしておきたいことは、出来得る限りやり遂げてしまわなければならない』と云うんだから始末に負えない。彼自身が医者なのだからね、自分が今どういう健康状態にいるか、誰よりも一番分かっている筈さ、、、だが、次の発作が起きれば、、」
「次の発作が起こったら?」
「希望は持てない」
 ジョルジョは怒ったように冷淡に言い放った。
 空っぽの頭の中に一瞬乾いた風が吹き抜けて行き、マリアムはただ言葉もなく前方の闇をぼんやり見詰めていた。
 沈黙の時が流れ、それが永遠に続くかのようであった。
 重い夜の霧がフロントガラスの視界を 白い闇で覆い始める。
マリアムは、ふと異常なほど口の中が渇いているのに気が付いた。
「ジョルジョ家に入ってお茶でも飲みましょう、わたし喉がカラカラなの。それに、この様子だと今夜は霧が濃くなりそうだし、夜も遅いし危険だから、もし貴方が嫌でなかったら、今夜は泊っていらっしゃい。ちょうど昨日エンリーカが客室を整えてくれたばかりだから、、」
 胃潰瘍を患っているジョルジョのためにカルカデを煎じながら、マリアムは誰に語りかけるでもなく、心ここにあらずという様子で
「人の命は、与えられた時間しかこの世に生きられないとしたら、自分の意思ではどうすることもできないのねえ、、、、」
 ソファーに深く埋まり込んでいるジョルジョの瘠せた横顔を眺め、独り言のように虚ろに呟いた。
すると、彼は素早く身を起こし、少し尖った眼差しで彼女を見ると
「だが、自らの命を放棄しようとする愚か者もいる。君は随分冷静にしているようだけれど、僕にはちょっと理解しがたい。だって僕たちの最も大切な友人のことなのだよ!」
「違う、違う、ジョルジョ、それはちがうわ!私だって同じ思いなのよ、でもどうしたらいいの? 私達に何ができるというの?わたしの力では、何もしてあげられることが見つからなくて、とても、とても苦しいのよ!」
「僕がねえ、今シーズンの彼たちのコンサートを手伝うと言い出したのも、少しでもアンドレアにかかる荷を肩代わりしてやりたかったからなのだ。
医者業も然ることながら、彼は昨年辺りから音楽活動に今迄なかったような力の入れ方をしているだろ?アンドレアは、時々自分の限界以上のことをしようとする、、、、、何かにとり憑かれた様に、最近は音楽に没頭し始めた。君やクレリア夫人と知り合ってからは、一層拍車が掛かったようだ」
「なんだか責任を感ずるわ、わたし、、、、」
「いいや、そんな意味で云っているつもりではないよ、何故なら、あんなに幸せそうにしているアンドレアを、今まで僕は見たことが無かったからね。
とても幸せなんだよ今、彼は、、、、」
ジョルジョは暫く頭の中で何かを思案している様子で口を閉ざしていた。が、暫くして意を決したようにひどく真面目なトーンで口を切った。
「マリアム、、、、立ち入った事を聴くが許してくれ、もし答えたくなかったらそれでも良い。君は、、、アンドレアとエリアの関係を、知っているのだろうか?」
「、、、、、、、、、、、、」
マリアムは黙ってジョルジョの視線を捕え胸の内で(勿論よ)と、確かな視線で真直ぐに彼を見据えた。
「うむ、、、、そうか、分かった、、、、君が知っていたのなら僕はほっとする。実は気になって仕方がなかったんだ、君はともかく、アンドレアがどんどん君に傾いているのをエリアが感じないわけはない筈だから、、、特に最近は、君を自分の分身だ、などと口外するようになったからね」
「それは、貴方が想像するような意味ではないと思うわ。何故なら、彼のような人が公然と口に出すということは、もし一人の人間として私的な何がしかの秘めた情感を持ったとしたら、あからさまに言ったりはしないでしょう?違うかしら?たまたま彼の人生の一角に、美に対して自分と類似した感覚を持った人間が現れて、その美の中でお互いに響き合える喜びを感じる、それだけのことではないかしら?そういう意味では、わたしにとってもアンドレアは、わたしの分身と言えるでしょうね。でもそれは、<美の饗宴>の中でその恍惚の喜びを分かち合える仲間として。アンドレアにとっても、同じことが言えるのではないかしら。時々、彼の親愛の情の表現の仕方が少し大げさ過ぎるので、それを知らない人は思い違いすることがあるのかも知れないけれど、、、、アンドレアという人は、そんな危険性を帯びた遊びを楽しむ傾向があるでしょ?子供みたいに、、、、。
彼の私生活がどんな風かなんて、わたしには全く興味のない領域なのよ」
「君は不思議な人だね、、、、それじゃあ情念とか、潜在する無意識の本能的な欲望を無視するのかい?」
「ジョルジョ、人間の意識は感覚に先行して作動することはないでしょ?
云ってってみれば、人間は感覚に支配されているということかしら、それをコントロール出来るか出来ないかは、全く別の問題になると思うの。感覚が反応したものが正しいかそうでないかは、人間には分からない、情熱と愛が異質のように、、。ストイックに聞こえるかも知れないけれど、アンドレアとわたしの間には、世間で言われる、所謂一人の人間ともう一人の人間の間に生まれる不確かな情感の交流というのとは違うものが存在している、少なくとも、わたしの感覚はそんな風に反応しているみたい。うまく説明できないけれど、無意識の領域で<美>を渇望する互いの魂が、たまたま照応し合う<美の饗宴>で共棲している、とでも言ったら分かるかしら?」
「いや、分からん、どうしても理解できない。しかし、唯一分かったのは、つまり君の中では、アンドレアという男は異性として存在していないということだ」
「そうねえ、もっと端的に言えば、わたしが彼と同性であっても同じことでしょう、ある種の美の感動を響き合える存在、それだけ、、、。同性であるとか異性であるとかは全く関係がない。
アンドレアにとってもわたしは、男でも女でもない存在な筈よ。だからお互いの領域を侵さない。彼がわたしを自分の分身だというのも、そんなところだからでしょう。でも、だからといって、彼の存在は重要でないというのではなく、わたしにとっては、最も大切な存在なのかもしれない、、、、
      つづく


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