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霧の宴  ミラノⅣ             うたげ La Bohème


 「 ともかく、ジョルジョは<ラ ボエーム>でさえコトゥルバスでは満足できないのだね」と、隣に座っていたアンドレアが話しを遮り、笑いながら彼の肩を軽く叩いた。するとジョルジョはにわかに表情をほぐして
「今夜は、始まる前にマエストロの開かれていたスコアの上に薔薇の花が三本置いてあったのを見たかい?」と、話題を変えた。
「最初は真ん中に縦に真直ぐ置いてあった。それをどうするかと思っていたら、指揮棒を手にする前に斜に置き換えたんだ。そして、最後までずーっとそのままになっていた。今夜は暗譜で振ったからね。で、四幕の最後の音を振り終わったところで、彼はそのバラを最初の位置に直してから指揮台を下りたよ」
「へー、君は妙な所にに気が付くんだねえ」と、エリアが云った。
「誰だい、そのバラを置いたのは?」
 一斉に皆の視線がマリアムに注がれる。
「いやあですね、わたしじゃありませんよ、そんなことするのは!」
と、マリアムは慌てて否定したが、そのバラの花には彼女も気づいていたのであった。
 スコアの古めかしさからすると、おそらくマエストロの父君の物だったのではないか?バラは、偉大な父エーリッヒ クライバーへの敬愛の印ではなかったか?とマリアムは想像した。
「ルチア ポップが素敵だったわねえ」とエミリアが言う。
「近年まれに観るムゼッタだなあ」
というジョルジヨの意見に皆が頷いた。すると彼は勢いを得て
「僕は数年前にウイーンでJ.シュトラウスⅡの<蝙蝠>のアデーレを観たんだが、これがまた飛び切り素晴らしかった。もう少し細身で、そりゃあ綺麗だった。インテリな歌手だし、感覚も声も申し分ない」
「録音してなかったかしらクライバーで、、、、」
「うむ、でも舞台で見ると数倍も素晴らしい。アクターとしても優れていると思うが、ねえミリアム?」
「そうねえ、役作りがしっかりしているわ。オペラ歌手とは思えない程演技が見事。この役は思いのほか難しいと思うの、人によってはかなり下品になってしまうけれど、彼女はそこを見事にセーヴしていて決して下品にはならない。かなり演劇の勉強をしているんじゃないかしら? という所でジョルジョ、コトゥルバスのミミはどう思う?」とマリアムは意地悪くジョルジョに水を向ける。
「まあ、可もなく不可もなく、というところかなあ」と余り気乗りしない口調で云った。
「<ラ ボエーム>はプリマドンナオペラじゃないから、彼女が特別な声の持ち主じゃないとしても、きめ細やかなあの表現は評価されてもいいんじゃないかな、僕は気に入ったよ」とアンドレアが言うと、エリアも賛成して
「実物はともかく、舞台上では美人に見えるしね。あの曖昧な役柄を、優しく憐れな女として演じていた。声だって悪くないし、ミミとしてはあのくらいがちょうど良いのではないかな、僕は好きだね」というと、そのあとを継いで、シャンパンを一気に飲み干してからジョルジョ
「うむ、ミミなんかわねそれで良しとしよう、しかし<ラ トゥラヴィアータ>はやってほしくない、ヴィオレッタは、、、」と言いかけると、間一髪
「マリア カッラス!」と皆がいっせいに斉唱したので、再度爆笑が巻き起こった。
「パヴァロッティだって良かったんじゃないない?」とマリアムが挑発すると、それを遮って、ジョルジョが皮肉たっぷりに
「ああ、あの体はなんとかならないかね!彼が未だ若かったころ、彼の声にほれ込んでデビューさせようと奔走していたマネいジャーが劇場に売り込みに行くと、”衣装ダンスはいらないよ”と断られたそうだ。昔はいざ知らず、最近はビジュアルも重視されるようになったからね。僕のマリーアだって、セラフィンが振ったイゾルデの頃は、樽の様な巨体だったらしい。それが、
あのヴィスコンティが、肺を患うヴィオレッタを演ずるのに不適正な身体だ、と言って痩せさせたんだが、功を奏したね。儚くきれいだったなあ、うん」と、ジョルジョは懐かしそうに視線を遠くした。
「パヴァロッティだけれど、彼のディツィオーネは見事だわねえ、一言も聴き取れない処がないでしょ?」と、マリアムが言うとすかさずジョルジョ
「僕の女友達に言わせると、彼の歌は何時も太陽がカンカン照っているようで、印刷物みたいだそうだ。つまり微妙な感情の陰りや襞みたいなところが、まるで表現されていない、と言いたかったんだろう。でも、最近はかなりその辺も考えているようにはなってきたとは思う。それにしても、マリアムがパヴァロッティに好意的だとは意外だなあ」
「だって仕方がないでしょう?今、他に誰がいる?ディ ステファノ、デル モナコの時代は終わったのよ、わたしだってパヴァロッティに満足しているわけじゃないのよ。彼以前のテノーレの<肉>の声ではないけれど、でも、一種の典型的なラテン系の声でしょう?どこかに難があっても、聴衆を文句なく生理的に満足させてくれる。其れもリリカ イタリアーナの持つ一つの魅力じゃないかしら?でもねえ、同じくラテン系であってもプラシド ドミンゴなんかは、確かにインテリな歌手であることは認めるけれど、声が劇場を走らないし彩がないので陰影もない、リズムの切れが鈍く、長く聞いているとこちらに欲求不満のストレスを起こさせる。わたしは、どうしても好きになれない。だいぶ前にスカラ座で<アイーダ>を観たけれど、一幕の例のアリア<清きアイーダ>で、ブーイングこそなかったけれど、パチリとも拍手が無かったのは、わたしが観てきた<アイーダ>の中で彼だけよ」
「うむ、あの種のヴェルディを歌える歌手ではないなぁドミンゴは。
アルフレッド クラウスにしても同じことが言える。僕は、クラウスの
<ウェルテル>は、彼の右に出る歌手はいないと確信しているけれど、彼の
<リゴレット>のマントヴァ公爵は、絶対にいただけない。声に切れ味がないのでヴェルディが必要とするリズムの明確な刻みが鈍い」
「ロドルフォは、パヴァロッティよりカッレーラスの方がわたしは好きよ」とエミリア。
「そうねえ、確かに役柄から言うとカッレーラスの方が適しているわねえ。あの甘い声と情熱的なテムぺラメント、たっぷりとした歌いっぷりなんかは、こちらをゾクッとさせてくれるでしょ?演技の勉強をしたようには思えないけれど、でも、パヴァロッティの無作為な動きほどじゃ無いし、、、、ねえジョルジョ、ジェイム アッラガルのロドルフォはどうだった、わたしは観てないけれど、良かったんじゃない?」と、マリアム
「ああ、彼のは素晴らしかった、何しろ声が飛び切り素晴らしい。デビューしたころは本当に凄かった。切れ味も申し分ないし、マスクもルックスも良く、男の魅力満点で、あの頃の女性ファンを夢中にさせたものさ」
「まだ十分に若いのに、どうしてキャリアがあんなに短かったのかしら?本当に残念だわ!スペイン人の友人がバルセローナのリセーオで録音したドニゼッティの<ラ ファヴォリータ>を聞かせてくれたけど、それは、それは素晴らしくて感動したわ、録音でも彼の声が劇場を走るのがこちらに伝わってくる。わたし、七十一年の暮れに、彼の<ウェルテル>をリセーオで二度見たのよ、イタリア語訳で歌ったけれど、初日は本当に素晴らしかったのに、調子が悪かったのか二日目は別人かと思うほどひどかった。でも、舞台上の立ち姿のなんと美しかったこと! といっても<ウェルテル>は、やっぱりクラウスのものでしょう、ね、ジョルジョ?」
「クラウスは<ウェルテル>だし<ウェルテル>はクラウスさ、ジョルジュ プレートゥルが断言したよ」
「パヴァロッティも以前に比べれば、だいぶ考えて歌うようになったけれど、ちょっと偶発的なところがないと思う。紋切型と云うか、効果を狙ってクールに計算されていると感じるのは僕だけだろうか?」と、アンドレアが言った。
「うむ、その偶発性というのは非常に大切だと僕は思うのだ。行き当たりばったりの成り行きでそうなった、というのとは全く違う。またか、と言うかも知れないが、これは真面目に聞いてくれ。マリア カッラスの<ルチア ディ ラムメルムーア>なんだが、例の<狂乱の場>の中で呟く恋人の名前
<エドゥガルド!>の歌い方が毎回異なっていたんだ。ある時は、あたかもその場にエドゥガルドの姿が見えるかのように優しく明るく呼びかける、同じフレーズを他の日には、狂気の合間に一瞬現実に戻ったように絶望的な暗いトーンで重苦しく、そして、他の日には何も見えない空間を虚ろに凝視して無表情に、と、僕がカッラスにぞっこん参ったのは、このオペラからなんだ。実に見事に、どんな演じ方歌い方をしても、毎回狂気と現実のはざまをさ迷うルチアがそこにいた。カッラスのことだからW.スコット原作を読んだだろうし、スコットがインスパイア―された実話も知っていただろうし、とにかく膨大な研究をした上で、その氷山の一角として必然的に現れる偶発的表現<エドゥガルド!>の一言となったいるんだね」
 マリアムには、ジョルジョが言わんとするところが、演技者であるが故に痛いほど分かる。
「残念ながらわたしは、全盛期のカッラスを観ることは出来なかったけれど、ライバルと言われたR.テバルディが類まれな美声を持つ所謂<歌手 Cantante>ならば、M.カッラスは、あの不思議ななんとも表現しようのない声で、演ずる人物に息吹を与え活き活きと再現して見せる。圧倒的な舞台芸術家だと思う。彼女の声は美しいとは言えないけれど、実に多種多様な表現の可能性を無限に秘めている。ジョルジョは知っているかしら、巷の噂話かも知れないけれど、カッラスがライバルのテバルディの声を「あの人の声はコカ コーラ、わたしの声はシャンパンよ」と、言ったとか言わなかったとか、、、。ともかく、芝居をするわたしにとっては、カッラスは大変興味のある人ね、あのテムペラメントはオリジンがギリシャ人であることの証じゃないかしら」
         つづく





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